二の腕と太ももが触れた瞬間、圭吾の体がビクッと跳ねた。
「腕汗が——」
「腕汗って何?」
「俺、腕にも汗かいてて……気持ち悪くないですか?」
「全然」
本当だった。満員電車とかで知らない人の腕が当たるのは、正直いつもいい気はしなかった。
でも、圭吾のはちっとも気にならない。
「そう……ですか」
圭吾は俺の方は見ないで、でもだからといってイルカの水槽を見るわけでもなく、落ち着かなげに視線を斜め上に向けている。
触れている二の腕がじわりと熱い。心臓の鼓動が体全体に響いて、圭吾の体まで伝わってしまいそうだ。
わぁっ! という歓声が会場から上がって、俺ははっと正面の水槽に意識を向けた。
いつの間にかショーは始まっていて、黒いウェットスーツを着たトレーナーが三人、ステージの上から観客に向かって手を振っている。
トレーナーたちが合図すると、三頭のイルカがバシャンと水を跳ね上げて水槽から飛び出した。
「うわぁ!」
ピシッと揃った三頭の動きに、俺も思わず歓声を上げた。
圭吾の言った通りだ。本当にきちんと訓練されている。
芸が一つ終わるごとに、イルカたちはご褒美の魚をもらって、嬉しそうに水槽の中へと潜っていく。
でも、ピーッと合図の笛が鳴ったら、ちゃんと水面に戻ってきて観客を喜ばせてくれた。
「すごい! 上手!」
興奮しながら目の前のショーに釘付けになっていたら、横で圭吾が微かに身じろぎした。
移動したイルカをよく見ようとして、圭吾の方へ無意識に体を倒してしまっていたらしい。
「あ、ごめん」
「いいですよ」
圭吾の声が僅かに掠れている。顔は水槽の方を向いているのに、視線は彷徨っている。
「腕汗、気にならんのなら」
「じゃあもっと寄るわ」
つい楽しくなってわざと体をぐーっと倒したら、圭吾はぎこちなく反対方向を向いた。
あ、耳が赤くなっとる。やっぱり圭吾も意識しとるんかな。
俺もさっきまでちょっと緊張しとったけど、イルカのおかげでなんか吹っ切れたわ。ありがとう、賢いイルカさんたち。
◇
「あ〜、楽しかった!」
駅から家に向かって歩きながら、俺は上機嫌で圭吾に向かって話しかけていた。
圭吾の鞄にぶら下がったアザラシの赤ちゃんキーホルダーも、心なしか嬉しそうに見える。
俺のは通学鞄に付けるつもりだから、まだ紙袋に収まったままだ。
圭吾はタッちゃんに悪いから、通学鞄には付けんらしい。その方が俺としても都合がいい。いきなりお揃いってのもなんか気恥ずかしいし、同じキーホルダー付けとったらまた鞄取り違えるかもしれんし。
「良かったです。楽しんでもらえたみたいで」
圭吾があれこれ計画してくれたおかげで、ショーも全部見られたし、館内で迷うこともなかった。
いつもの俺たちなら、絶対どっかで「あれ見逃した!」とかブーブー言っとったはずだ。
圭吾、色々調べるの大変だったじゃろうな。
まだ日が長い季節で、時間の割には結構明るい。
手ぇ繋ぎたいけど……人もちらほら歩いとるし、ちょっとまだ早いかな。
でも、手汗なんか気にせんって話した後も、結局繋げじまいだったしなぁ。
「……達巳さん」
ぼーっと考え事をしながら歩いているところに声をかけられて、俺はビクッと体を硬直させた。
「えっ? な、何?」
「今日って、この後——」
しかし、圭吾の方を振り返った瞬間、ちょうど横を通っていたカフェの窓の奥に見慣れた顔を見つけて、俺は思わずそっちに気を取られてしまった。
「あっ、景子姉ちゃん」
姉ちゃんは今朝見かけた時と変わらず小綺麗にしてたけど、何でか一人でぼんやりと窓の外を見ている。
視線が一直線に繋がった瞬間、姉ちゃんは驚いたような表情をしてから、激しく俺に向かって手招きしてきた。
「圭吾、景子姉ちゃんがめっちゃ呼んどるんじゃけど」
「無視でいいですよ」
バッサリ即答した圭吾の唇の動きを読んだのか、景子姉ちゃんの表情が般若みたいに険しくなる。
「……いや、お前はいいかもしれんけど、俺はさすがに無視できんじゃろ」
景子姉ちゃんのことは本当の姉さんみたいに思っとるけど、手招きされてるのを無視できるほどの仲じゃない。
俺がカフェの扉を開けると、圭吾も渋々俺の後から付いてきた。
「ちょっとあんたら! 私が呼んどるの無視しようとしたじゃろ!」
景子姉ちゃんは怒ったようにそう言いながら、向かいの席をビシッと指差した。
「なんか奢っちゃるけぇ、とりあえずそこ座って!」
奢ってくれそうな人の口調じゃない。
俺は圭吾と顔を見合わせてから、恐る恐る言われた通りに姉ちゃんの前の席に腰掛けた。
「景子姉ちゃん、何でそんなにイラついとん?」
姉ちゃんが口を開く前に、圭吾がさらっと答えを言った。
「フラれたんじゃろ」
「うがーっ!」
姉ちゃんが机に身を乗り出して、圭吾のこめかみを人差し指の第二関節でグリグリ押した。
「痛い痛い! そんなんだからフラれるんじゃろうが!」
「貴様、それでも血の通った人間かぁ? 傷口にそんな塩塗ってくる? 普通」
この姉弟は大体いつもこんな感じなので、俺は被害を被らないように、水の入ったグラスを自分の手元にすっと引き寄せておいた。
「景子姉ちゃんがフラれるって意外なんじゃけど」
「達巳〜! やっぱり持つべきものは達巳だわ」
「持つべきものは俺って、文章おかしくない?」
呆れてそう言いつつも、俺の言葉に誇張や嘘はなかった。
圭吾もイケメンじゃけど、景子姉ちゃんもかなりの美人だ。性格はちょっとサバサバしとるけど、それだってどっちかっていうと魅力だと思う。
「てかフラれてないし! こっちから振ってやったんだし!」
「なんの強がりなん」
「黙れ圭吾」
ベシッと圭吾の頭を叩いてから、景子姉ちゃんははぁ〜っと大きなため息をついた。
「まぁ、もうちょっと引き止められるかな〜、とは期待しとったけど」
「円満破局ってわけか」
「もう圭吾帰ったら? 話すの達巳だけでいいんじゃけど」
「景子姉ちゃん、ほんまは別れたくなかったん?」
俺の質問に、圭吾と睨み合っていた景子姉ちゃんはピタッと動きを止めた。
「……別れたくなかったっていうか、納得いかんかったっていうか……」
「納得?」
「だって、告ってきたの向こうからなのに。デート中もずっとスマホゲームやっとるし。別にお姫様扱いされたいわけじゃないけど、あまりにも何もないっていうか……」
「景子、昔から男見る目ないんよ。歴代彼氏、釣った魚に餌やらんタイプばっかりじゃん。毎回愚痴聞かされる俺の身にもなって。もういい歳なんじゃし——」
「いい歳ってどういうこと? まだ初々しい女子大生ですけど!?」
そう言った後、景子姉ちゃんは自分の言葉に衝撃を受けたみたいに悲惨な顔をした。
「来週大学の学祭あるのに!」
「学祭?」
「やだー! おひとり様で行きたくないー! てか元カレに会いたくない!」
「じゃあ行かんかったらいいじゃん」
「無理〜! サークルで屋台出すから、行かんかったら後でぶち怒られる!」
「元カレ、同じサークルなんじゃろ?」
景子姉ちゃん、詰んでるな。
なんか力になれたらいいけど、俺らじゃどうにもできん問題じゃし。
——とか思ってたら、いきなり姉ちゃんにがしっと腕を掴まれた。
「達巳、一生のお願い!」
「えっ、一生?」
「学祭当日、私と一緒に来てくれん?」
「腕汗が——」
「腕汗って何?」
「俺、腕にも汗かいてて……気持ち悪くないですか?」
「全然」
本当だった。満員電車とかで知らない人の腕が当たるのは、正直いつもいい気はしなかった。
でも、圭吾のはちっとも気にならない。
「そう……ですか」
圭吾は俺の方は見ないで、でもだからといってイルカの水槽を見るわけでもなく、落ち着かなげに視線を斜め上に向けている。
触れている二の腕がじわりと熱い。心臓の鼓動が体全体に響いて、圭吾の体まで伝わってしまいそうだ。
わぁっ! という歓声が会場から上がって、俺ははっと正面の水槽に意識を向けた。
いつの間にかショーは始まっていて、黒いウェットスーツを着たトレーナーが三人、ステージの上から観客に向かって手を振っている。
トレーナーたちが合図すると、三頭のイルカがバシャンと水を跳ね上げて水槽から飛び出した。
「うわぁ!」
ピシッと揃った三頭の動きに、俺も思わず歓声を上げた。
圭吾の言った通りだ。本当にきちんと訓練されている。
芸が一つ終わるごとに、イルカたちはご褒美の魚をもらって、嬉しそうに水槽の中へと潜っていく。
でも、ピーッと合図の笛が鳴ったら、ちゃんと水面に戻ってきて観客を喜ばせてくれた。
「すごい! 上手!」
興奮しながら目の前のショーに釘付けになっていたら、横で圭吾が微かに身じろぎした。
移動したイルカをよく見ようとして、圭吾の方へ無意識に体を倒してしまっていたらしい。
「あ、ごめん」
「いいですよ」
圭吾の声が僅かに掠れている。顔は水槽の方を向いているのに、視線は彷徨っている。
「腕汗、気にならんのなら」
「じゃあもっと寄るわ」
つい楽しくなってわざと体をぐーっと倒したら、圭吾はぎこちなく反対方向を向いた。
あ、耳が赤くなっとる。やっぱり圭吾も意識しとるんかな。
俺もさっきまでちょっと緊張しとったけど、イルカのおかげでなんか吹っ切れたわ。ありがとう、賢いイルカさんたち。
◇
「あ〜、楽しかった!」
駅から家に向かって歩きながら、俺は上機嫌で圭吾に向かって話しかけていた。
圭吾の鞄にぶら下がったアザラシの赤ちゃんキーホルダーも、心なしか嬉しそうに見える。
俺のは通学鞄に付けるつもりだから、まだ紙袋に収まったままだ。
圭吾はタッちゃんに悪いから、通学鞄には付けんらしい。その方が俺としても都合がいい。いきなりお揃いってのもなんか気恥ずかしいし、同じキーホルダー付けとったらまた鞄取り違えるかもしれんし。
「良かったです。楽しんでもらえたみたいで」
圭吾があれこれ計画してくれたおかげで、ショーも全部見られたし、館内で迷うこともなかった。
いつもの俺たちなら、絶対どっかで「あれ見逃した!」とかブーブー言っとったはずだ。
圭吾、色々調べるの大変だったじゃろうな。
まだ日が長い季節で、時間の割には結構明るい。
手ぇ繋ぎたいけど……人もちらほら歩いとるし、ちょっとまだ早いかな。
でも、手汗なんか気にせんって話した後も、結局繋げじまいだったしなぁ。
「……達巳さん」
ぼーっと考え事をしながら歩いているところに声をかけられて、俺はビクッと体を硬直させた。
「えっ? な、何?」
「今日って、この後——」
しかし、圭吾の方を振り返った瞬間、ちょうど横を通っていたカフェの窓の奥に見慣れた顔を見つけて、俺は思わずそっちに気を取られてしまった。
「あっ、景子姉ちゃん」
姉ちゃんは今朝見かけた時と変わらず小綺麗にしてたけど、何でか一人でぼんやりと窓の外を見ている。
視線が一直線に繋がった瞬間、姉ちゃんは驚いたような表情をしてから、激しく俺に向かって手招きしてきた。
「圭吾、景子姉ちゃんがめっちゃ呼んどるんじゃけど」
「無視でいいですよ」
バッサリ即答した圭吾の唇の動きを読んだのか、景子姉ちゃんの表情が般若みたいに険しくなる。
「……いや、お前はいいかもしれんけど、俺はさすがに無視できんじゃろ」
景子姉ちゃんのことは本当の姉さんみたいに思っとるけど、手招きされてるのを無視できるほどの仲じゃない。
俺がカフェの扉を開けると、圭吾も渋々俺の後から付いてきた。
「ちょっとあんたら! 私が呼んどるの無視しようとしたじゃろ!」
景子姉ちゃんは怒ったようにそう言いながら、向かいの席をビシッと指差した。
「なんか奢っちゃるけぇ、とりあえずそこ座って!」
奢ってくれそうな人の口調じゃない。
俺は圭吾と顔を見合わせてから、恐る恐る言われた通りに姉ちゃんの前の席に腰掛けた。
「景子姉ちゃん、何でそんなにイラついとん?」
姉ちゃんが口を開く前に、圭吾がさらっと答えを言った。
「フラれたんじゃろ」
「うがーっ!」
姉ちゃんが机に身を乗り出して、圭吾のこめかみを人差し指の第二関節でグリグリ押した。
「痛い痛い! そんなんだからフラれるんじゃろうが!」
「貴様、それでも血の通った人間かぁ? 傷口にそんな塩塗ってくる? 普通」
この姉弟は大体いつもこんな感じなので、俺は被害を被らないように、水の入ったグラスを自分の手元にすっと引き寄せておいた。
「景子姉ちゃんがフラれるって意外なんじゃけど」
「達巳〜! やっぱり持つべきものは達巳だわ」
「持つべきものは俺って、文章おかしくない?」
呆れてそう言いつつも、俺の言葉に誇張や嘘はなかった。
圭吾もイケメンじゃけど、景子姉ちゃんもかなりの美人だ。性格はちょっとサバサバしとるけど、それだってどっちかっていうと魅力だと思う。
「てかフラれてないし! こっちから振ってやったんだし!」
「なんの強がりなん」
「黙れ圭吾」
ベシッと圭吾の頭を叩いてから、景子姉ちゃんははぁ〜っと大きなため息をついた。
「まぁ、もうちょっと引き止められるかな〜、とは期待しとったけど」
「円満破局ってわけか」
「もう圭吾帰ったら? 話すの達巳だけでいいんじゃけど」
「景子姉ちゃん、ほんまは別れたくなかったん?」
俺の質問に、圭吾と睨み合っていた景子姉ちゃんはピタッと動きを止めた。
「……別れたくなかったっていうか、納得いかんかったっていうか……」
「納得?」
「だって、告ってきたの向こうからなのに。デート中もずっとスマホゲームやっとるし。別にお姫様扱いされたいわけじゃないけど、あまりにも何もないっていうか……」
「景子、昔から男見る目ないんよ。歴代彼氏、釣った魚に餌やらんタイプばっかりじゃん。毎回愚痴聞かされる俺の身にもなって。もういい歳なんじゃし——」
「いい歳ってどういうこと? まだ初々しい女子大生ですけど!?」
そう言った後、景子姉ちゃんは自分の言葉に衝撃を受けたみたいに悲惨な顔をした。
「来週大学の学祭あるのに!」
「学祭?」
「やだー! おひとり様で行きたくないー! てか元カレに会いたくない!」
「じゃあ行かんかったらいいじゃん」
「無理〜! サークルで屋台出すから、行かんかったら後でぶち怒られる!」
「元カレ、同じサークルなんじゃろ?」
景子姉ちゃん、詰んでるな。
なんか力になれたらいいけど、俺らじゃどうにもできん問題じゃし。
——とか思ってたら、いきなり姉ちゃんにがしっと腕を掴まれた。
「達巳、一生のお願い!」
「えっ、一生?」
「学祭当日、私と一緒に来てくれん?」



