親しき仲に、礼儀なんかいらんじゃろ!

 すぐ帰って来るものだとばかり思ってたのに、圭吾は結局三十分近く戻ってこなかった。
(やっぱりアザラシ見に行ったんかな?)
 別に、全然一人で見に行ってくれても構わないのだが、それならそうと一報入れて欲しい。
 前に並んでいるカップルのキーホルダーをぼんやり見ながら待っていたら、ようやく圭吾が息を切らして戻って来た。
「な、なんとか手に入れてきました!」
 颯爽と飛び出して行った時より明らかにヨレヨレに見える圭吾に、俺は売店のパン争奪戦から戻った時の圭吾を思い出して目を丸くした。
「えっ? もしかしてめっちゃ戦ってきた?」
「朝より人が増えてて、売店までなかなか辿り着けんかったんです。しかもこのアザラシ、ちょうど店頭分が品切れしとって、店員さんが補充してくれるの待っとったらこんな時間に」
 空のキーホルダー入れの前でじっと待っている長身イケメンの姿を想像するとおかしくて、俺は堪え切れずにぷっと吹き出した。
 モヤッとしていた気分も、吹き出した息と一緒にどこかへ飛んでいった。
「ごめん。まさかそんな大変なことになっとるとは」
「いえ、すぐに買いに行って正解でした。最近は転売ヤーとかも多いんで、限定グッズは気をつけとかんと」
 圭吾ははぁっと大きく息を吐き出して一旦落ち着いてから、鞄を開けて戦利品を取り出した。
 少しくしゃっとなった紙袋の中に、小さな白いもふもふのキーホルダーが二つ、ぎゅっと収まっている。
 指先で取り出すと、ツヤッとしたつぶらな黒いビーズと目が合った。
「赤ちゃん!」
「可愛いでしょ?」
 確かにさっきアザラシコーナーで見た、赤ちゃんアザラシのミニチュアだ。
 チェーンのところに、水族館のロゴの彫られた金色の小さい金属板がぶら下がっていて、この水族館の限定商品であることをアピールしていた。
「あっ、お金」
「いりません。プレゼントさせて下さい」
「いや、最近色々買ってもらってばっかりじゃん。もうお前にいくら借金あるんかすら分からんのじゃけど」
「俺がしたくてやっとるだけなんで、気にせんとって下さい」
「そんなわけには……」
 圭吾は俺の顔をチラッと見てから、ふっと手元のキーホルダーに視線を落とした。
「……じゃあ、一個お願いしてもいいですか?」
「お願い?」
「それ、プレゼントするんで……後で手ぇ、繋いでもいいですか?」
 俺は思わずぽかんと口を開けて、目の前でもじもじしている圭吾の顔を眺めていた。
「……は?」
「あ、嫌なら別にいいんで。別にそれ返せとかは——」
 俺は赤ちゃんアザラシのキーホルダーをぎゅうっと握り込むと、アザラシパンチを圭吾のみぞおちにお見舞いした。
 赤ちゃんに罪はないから、めっちゃ優しいパンチになった。圭吾、命拾いしたな。
「嫌じゃないけど、嫌!」
「ええっ! どっち?」
 全く、こいつマジで何も分かっとらん。さっき手ぇ振り払われた時、俺がどんな気持ちだったと思っとるんだ。
「キーホルダーのお礼に手ぇ繋ぐって、おかしくないか?」
「すみません。なんかそういうの、マンガとかでよくあるシチュエーションな気がして。でも、達巳さんの手はそんな安くなんかありませんよね」
「そういう問題じゃねえよ!」
 俺は圭吾に対して怒りながらも、拳を開いて赤ちゃんアザラシキーホルダーの毛並みを整えてやった。ごめんな。せっかく俺のところに来てくれたのに、いきなり握りつぶされそうになって。
 黒いビーズの瞳が、心なしか悲しそうに潤んで見える。
「俺たち、付き合っとるんじゃろ? 何で手ぇ繋ぐだけでいちいちお伺い立てたり、プレゼント献上せんといけんの? 何で手汗とか気にせんといけんの!?」
「手汗は気にするでしょ!」
「俺は別に気にならんし! じゃあ圭吾は、俺が手汗びっしょりだったら手ぇ繋ぎたくないん?」
「そんなことありません!」
 圭吾は上擦った声で小さく叫んだ後、はっと片手を口に当てた。
「すみません。俺、つい大きな声——」
 前の仲良しカップルにチラッと見られて、俺も赤面しながら足元に視線を落とした。
「ごめん。俺も……」
「不快だと思われたくないんです」
 恐る恐る顔を上げると、圭吾はさっと俺から視線を逸らした。
「俺はずっと好きだったから、達巳さんの手汗とか全然気になりません。むしろちょっと興奮するっていうか」
「それはキモい」
「すみません。でも、達巳さんはそうじゃないでしょ? だから、色々気になってしょうがないんです。せっかく付き合えたのに、手汗がキモいから別れるとか言われたくないんですよ」
 視線が合わない圭吾の顔を、俺は今までにない不思議な気持ちで眺めていた。
 圭吾……そんなふうに不安に思っとったんか。
 確かに俺は告られた方で、圭吾は俺のことが好きなはずだって、無意識に心のどっかで安心しとった気がする。
 だから、圭吾が急に敬語になったり、行動が変によそよそしくなった時も、そこまで不安にはならなかった。ちょっと寂しいなとは思ったけど。
 でも圭吾の方は、知らんうちに俺の一挙一動に振り回されとったみたいだ。
「……そんなんで付き合っても、しんどいだけじゃね?」
「そんなことない」
 一切迷いのない返事に、俺は少し戸惑いながら圭吾の顔を見上げた。
「……正直、付き合えるなんて思っとりませんでした。指輪持っとったのだってただの自己満足じゃったし」
「え? でも、指輪はいいタイミングがあったら渡すために持ち歩いとったんじゃろ?」
「そんなタイミング来るなんて、本気で思っとったわけないじゃろ! 俺ら男同士じゃぞ!」
 圭吾は少し昂った気持ちを抑えるように、小さく深呼吸した。
「俺にとっては、付き合えただけでもう奇跡みたいなもんで——だから達巳さんには、俺と付き合って良かったって、心から思って欲しいんです」
 言葉の端々から、俺をまっすぐに見つめる真剣な眼差しから、圭吾の切実な思いが伝わってくる。
(付き合えただけで、奇跡……)
 確かに、好きな人と付き合えるって、それだけでもう奇跡だと思う。
 でも、じゃあそこで満足して終わりなんか? 付き合ってもらってるって事実だけあれば、もうそれでいいんか?
 付き合ったら、その先は——?
 アザラシコーナーで抱き上げられた腰の辺りの疼きを思い出して、俺ははっと口をつぐんだ。
 付き合っとるんじゃけぇ、ただ「好きです」「ありがとうございます」だけじゃ足りんじゃろ。
 俺はもっと圭吾に触りたいし、圭吾にも触ってほしい。
 俺は右手を少し上げかけてから、すぐに力無く下ろした。
 今ここで、俺から圭吾の手を握れたら、ちょっとは気持ちが伝わる気がした。
 でも、こんな明るい日の光の下じゃ無理だ。
 前に並んでる男女のカップルみたいに、堂々とはいかない。さすがにあまりにも恥ずかしい。
 圭吾は、自分の方が断然好きだと思っとるみたいじゃけど。そんな一方通行じゃないって、今すぐ伝えたいのに——
 ジリジリとした思いを抱えていたせいで、待ち時間が異常に長く感じられた。
 やっと開場して列が動き出した時、長く気を張ってたせいか、俺は既に疲れ切っていた。
「こっちです!」
 何で圭吾はこんなに元気なんじゃろ? 添乗員の鏡みたいなやつだな。
「ほら! この席が一番よく見えるらしいですよ」
 みんな水槽の真正面のその席を狙っているようで、俺たちの横には次々と観客が押しかけてきた。
「ちょっと詰めてもらってもいいですか?」
 隣に座ったおばさんに声をかけられて、俺はビクッと振り返った。
「あ、すみません」
 圭吾は律儀に、拳一個分ほどの空間を空けて俺の隣に座っていた。
 心臓が、急にドキドキとうるさく脈打ち始める。
 俺はゴクリと唾を飲み込むと、俺たちの間に空いた拳一個分の隙間を、自分からぎゅっと潰した。