親しき仲に、礼儀なんかいらんじゃろ!

 手のひらに残った汗が冷えて、少し寒くなった気がした。
 握った瞬間は、あんなに熱く感じられたのに。
 手汗気になるのは仕方ないけど……何も振り払うことなかったじゃん。
 俺、これでも結構勇気出して手ぇ伸ばしたってのに。
 俺は別に、圭吾の手汗なんか全然気にならんのに。
 ぼんやりと上の空で歩いていた俺は、急に目の前が明るくなって、ようやく現実に引き戻された。
 深海コーナーを抜けて、イルカショーの観覧場所にたどり着いたのだ。
 入場口には短い列ができていたけど、前に進んでいる気配はなかった。どうやら開場前らしい。
「ここの水族館のイルカショーはとても有名なんですよ」
「え? イルカショーなんて、どこも同じじゃないん?」
「それが水族館によって色々なんです。イルカが全然言うことを聞かない水族館もあって、それはそれで面白いから人気なんですけど。ここのイルカたちはよく訓練されていて、整然とした動きが見ものなんだそうです」
 壁に貼られたポスターには、三頭のイルカがピシッと同じ高さまで飛び上がって輪くぐりをしている写真が使われている。
 賢そうなイルカたちの写真を見ているうちに、俺はちょっと傷ついてたのも忘れてワクワクしてきた。
「言うこと聞かんイルカも面白そうじゃけど、ビシッと決まった演技って興奮しそうじゃね」
「なので、ここのショーはすごい人気で、正面席は争奪戦になるみたいです」
「そうなん? あんまり並んでる感じせんけど」
「はい、まだ開場まで一時間以上あるんで」
「マジで? 結構待つなぁ」
「本当は深海コーナーをもう少しゆっくり……」
 圭吾は途中までそう言いかけてから、俺の顔をチラッと見て口をつぐんだ。
「えっ? ゆっくり見たかったんなら、そうすれば良かったのに」
「いえ、なんでもありません」
「え〜、気になるんじゃけど」
「もう少しゆっくり来ても全然間に合ったんですが、せっかく来てしまったんで並んでおきたいなと」
「うん、それでいんじゃね? 見て回る時間はまだまだたくさんあるし」
 圭吾はもう一度スマホで時間を確かめてから、急に俺の方へと真っ直ぐ向き直った。
「開場は一時間十五分後ですが、ショーが始まるのはさらにその十五分後です」
「ほい、分かりました」
「なので、ショーの五分前くらいに戻ってこられれば、それまでは好きな水槽を見て回れますよ」
「……え? でも今、せっかく早く着いたから並んどきたいって——」
 そこで圭吾は満面の笑みを浮かべると、まるで最高のアイディアだとでも言わんばかりの自信たっぷりな様子で大きく頷いた。
「俺が並んで席取っときますんで、達巳さんは魚見てきて下さい」
 ……え? ちょっと待って。これってあれじゃん。ほらあの……遊園地で子供の順番待ちさせられとるお父さん!
「え〜っ! 一緒に来たのに、別行動するん?」
「一時間以上も並んどるの、時間の無駄じゃないですか。もう一回クマノミとかアザラシの赤ちゃんとか見に行けますよ」
 ぷちっ、と俺の中で何かが切れたような気がした。
 確かにクマノミもアザラシの赤ちゃんももう一度見たいけど……でも、そうじゃない。
 可愛い生き物も珍しい生き物も、別に一人で見に行きたいわけじゃない。
 こいつ、めっちゃ先回りして色々準備してくれとるくせに、何でもっと大事なことは疎かにするん!?
「嫌だ」
 俺がむすっと腕組みをしながらはっきりとそう宣言したため、圭吾は驚いて微かに目を見開いた。
「え? 嫌って、何が?」
「俺がここにおるから、魚見たいなら圭吾が行ってきいや。圭吾、さっきアザラシ見れとらんし」
「いや、俺はいいです」
「何で? アザラシ興味ないん?」
「そんなことないですけど……今日は達巳さんに楽しんでもらいたくて——」
「一人で見に行ったって、何も楽しくないじゃろ」
 俺の言葉に、圭吾は一瞬言葉を失ったように見えた。
「……でもさっき、赤ちゃん可愛いってめっちゃはしゃいどったじゃないですか」
「そりゃ可愛かったよ。でも別に俺、アザラシの推し活とかやっとるわけじゃないからな。海の生き物が見たいがために、必死で水族館にやってきたんじゃないから」
 俺はさっき振り払われた手をぐっと握って、圭吾の胸を軽くパンチした。
 俺の拳が触れた瞬間、圭吾の胸が一瞬ビクッと跳ねる。
「俺ら、水族館にデートに来たんじゃろうが」
 圭吾はもう一段階目を丸くすると、おもむろにふっと視線を下げた。
「すみません」
「分かったんならよし」
「俺も本当は……もっと可愛いところ、ずっと見とりたかったんです」
「じゃあ、アザラシ行ってくれば?」
「そうじゃなくて……」
 圭吾は小さく首を振ると、鞄から水族館のパンフレットを取り出した。
「じゃあ、イルカショーが終わったら、次はどこを回りたいですか? 続けてアシカショーに行ってもいいですが、ちょっとバタバタするのでそっちは午後に回って、先にランチに行くか……」
「ちょっと! まだイルカショーも始まってないのに、もう次のショーの予定見とるん?」
「人が多いので、効率的に回らんと楽しんでもらえんと思いますよ」
「そんなことないって」
「……でも達巳さん、アトラクションの待ち時間長いと、いっつもブーブー文句言っとったじゃないですか」
 うっ! それは確かに否定できない。
「そ、そんなん、圭吾だって同じだったじゃろうが!」
「だからデートでは失敗しないように、きちっと計画立てとるんです」
 小さい頃からずっと一緒の幼馴染だから、過去の黒歴史が全部今に繋がってしまっている。
 恋人になったからってカッコつけたくても、ごまかせないのが悩みどころだ。
 でも……そんな黒歴史を知った上で、それでも圭吾は俺のことを好きになってくれたってことなんよね。
 さっき圭吾にパンチした拳が、じわりと熱を持った気がした。
 アザラシの水槽の前で圭吾が触れた腰の辺りも、急にぞわぞわと疼きだす。
 触れたっていうより……あれもう、ぎゅうって抱きしめとったようなもんじゃね?
(やばっ!)
 さっきは子供みたいに持ち上げられるのがカッコ悪くて、恥ずかしいと思っただけ……だったはず。
 でも今は、確実に別の意味で恥ずかしくなってきた。
 しかも圭吾の息が、シャツ越しの背中にしっかりとかかっていた。
「達巳さん、大丈夫ですか?」
「えっ?」
「顔赤いですよ。立っとるのしんどいんじゃないですか?」
「そんなことない」
 即座に否定したものの、圭吾は「折りたたみ椅子持ってくるんだった」と呟きながら、何か使えそうなものでも探すようにゴソゴソと鞄の中を探っている。
 ああもう、何なんこいつ! 俺のこと好きで、気配りだってすごいできるくせに、なんでこういうところは壊滅的に鈍感なん?
 なんかもう、色んな意味で頭に血が上ってきた気がする。
 恥ずかしいやら腹が立つやらで熱くなった顔を手でパタパタと扇いでいると、前に並んでいるカップルが鞄に付けているキーホルダーが目に入った。
 白くてもふもふの、綿毛みたいな赤ちゃんアザラシのキーホルダーだ。
「あ、あれ可愛くね?」
 俺が指差しながらそう言うと、圭吾は漁っていた鞄からふっと顔を上げた。
「あ、あれ、ここの水族館の新しいグッズですよ。途中の売店でも売っとりました」
「新しいグッズなん?」
「アザラシの赤ちゃん公開と同時に販売開始したみたいです。赤ちゃんの毛皮が生え変わるまでの、期間限定グッズらしいですよ」
 ここの水族館のマーケティング担当者、なかなかのやり手らしい。
 あの可愛らしい実物を見た後に、期間限定グッズって——
「なぁ、あれお揃いで買わん?」
「えっ? タコグッズじゃなくていいんですか? まぁ別にどっちも買ったっていいですけど」
「いや、タコはいらん。てかここでもタコ買ったら、タッちゃんと被るじゃろうが」
「まぁ、それはそうですが」
 別にタッちゃんに配慮したとかそういうわけじゃないけど。てかタッちゃんはネタでやっただけだって言ったのに、もう忘れとるんじゃろうか?
「俺の心はもう、あの赤ちゃんアザラシに持ってかれとるんよ。じゃけえ帰りに一緒に買おうや」
 圭吾は一度頷きかけてから、ふと表情を引き締めた。
「……期間限定」
「そうなんじゃろ?」
「売り切れたら困る。達巳さんはここで順番待ちしといてもらえますか?」
「……え?」
 俺が一瞬何を言われたのか分からず戸惑っている間に、圭吾は鞄のジッパーをシャッと閉めて、颯爽と列から離れて駆け出した。
「必ず二体死守してきますんで!」
 変な使命感を背負った背中が人混みの中に消えていくのを、俺はぽかんとその場に突っ立ったまま眺めているしかできなかった。
(……いや、そこは一緒に選びに行こうや!)