水族館は思いのほか広くて、しかも結構暗い。俺はすぐにどこから入ってきたのか分からなくなってしまった。
圭吾は最初に目に入った水槽に近づくと、自信満々な表情で説明を始めた。
「ここは熱帯魚のコーナーです。オーストラリアの海がテーマになっています」
添乗員か。
「あっ! あの魚、映画で見たことあるやつ!」
オレンジと白と黒の模様の可愛らしい魚を見つけて、俺はついはしゃいだ声を上げた。
「クマノミです。映画で一躍人気者になった魚ですね」
「色も派手だし、可愛らしいよな」
「クマノミって、みんな最初はオスなんですよ」
「えっ、そうなん?」
「集団の優位な個体がメスとなり、その変化は不可逆です」
「えっ、えっ、どういうこと?」
「一旦性転換したら、もうオスには戻らないということです」
俺は唖然としながら、ガラスの向こうの可愛らしい魚を見つめていた。
「初デート中に、いきなり性転換の話ぶっ込んで来る?」
「すみません。面白いかと思って」
「や、まぁ、確かに興味深い話ではあったけども」
と、ガラスに吸盤で器用にくっついている生き物を見つけて、俺はぱっと顔を輝かせた。
「あっ、タコ! タコおった!」
こうして見ると、圭吾にあげたタッちゃんはだいぶ可愛くデザインされたタコだったみたいだ。リアルタコってまあまあグロい。
「タッちゃんの方が断然可愛いですね」
圭吾も俺と同じ意見みたいだ。
「ちなみにタコって、心臓三つあるんですよ」
「えっ! マジで?」
「しかも脳はドーナツみたいな形で、吸盤でも味とか匂いを感じるらしくて」
「へえ〜」
「かなり賢くて——」
「ちょ、待って」
「はい?」
「お前、さっきからなんかやたら魚に詳しくない?」
「せっかく水族館行くんで、昨日のうちに主要展示生物は一通り予習しました」
うそ。水族館デートってそういう感じなん?
「マジで? 俺なんも予習とかしてきてないけど」
「いえ、達巳さんに楽しんでもらいたくて、俺が勝手にしたことですから」
その時、ふわっと香水の香りが鼻をついて、一組のカップルが俺たちの横を通り過ぎて行った。
「見てあの魚! ちょー可愛い」
「ほんまじゃ。あ、タコもおった」
「吸盤キモい!」
大学生くらいのその男女カップルは、楽しそうにクスクスと笑いながら別のコーナーへと歩いて行った。
そうそう。俺が想像しとった水族館デートって、こういう感じ。
まぁでも、デートに向けて張り切って準備してくれたのは、正直嬉しい。ちょっと方向性は間違っとったかもしれんけど。クマノミが生まれた時はみんなオスっていうのはびっくりした。
横に長い水槽に沿って進んで行くと、薄暗い洞穴のような場所から急に屋外に出た。
眩しい光に目を細めながら見渡すと、タコの前とは比べ物にならないほどの人だかりが水槽周辺にできていた。
「ちょ、なんでここだけこんなに人詰まっとるん?」
「ここはアザラシの水槽です。最近赤ちゃんが公開されたみたいですよ」
「えっ! それは見たい!」
俺が思わず目を輝かせると、圭吾は人だかりの後ろで眉をひそめた。
「ちょっと人が多すぎますね。前の客も動く気配がありません」
「待ってたらそのうち捌けるんじゃね?」
「でも、イルカショーの時間が……」
「ちょっとくらい平気じゃろ?」
白くてもふもふのアザラシの赤ちゃんにすっかり意識を持っていかれて、俺は圭吾が背後に回ったのにちっとも気づかなかった。
腰の辺りに腕を回してぐいっと持ち上げられた瞬間、人の後頭部しか見えていなかった視界が急に開けた。
「わわっ! ちょっと!」
「見えますか?」
後ろから持ち上げているせいで、圭吾の顔が俺の背中にかなり近い。
圭吾が喋ると熱い息が背中にかかって、一瞬なんだかゾクッとした。
「ちょ、いいって! 恥ずいんじゃけど」
「みんな赤ちゃんに夢中で、俺らなんか見てませんて」
「や、でも……」
と、視界の端に白い塊が見えて、俺は思わずそっちに首を回した。
「赤ちゃん!」
「見えたんですね」
「見えた! めっちゃ可愛い!」
圭吾が腕の力を緩めかけたため、俺は慌てて腰に回された腕を掴んだ。
「恥ずいんじゃなかったんですか?」
「いいから、もうちょっと見せて!」
圭吾がぷっと吹き出したから、また俺の背中に熱い息がかかった。
「次、圭吾も見る?」
「いや、俺はいいです」
「いいん? めっちゃ可愛いよ。見とかんとあとで後悔するかもよ?」
「もっと可愛いもん見れたんで、もう十分です」
もっと可愛いもん? さっきのクマノミのことか? まさかタコじゃないよな?
コロコロと可愛らしいアザラシの赤ちゃんをしっかり目に焼き付けてから、俺は掴んでいた圭吾の腕を離して地面に降りた。
「次はこっちです。深海コーナーを抜けたら、そのままイルカショーの会場に出られるんで」
深海コーナーは予想通り、しっかり海の底の雰囲気で、一段と照明が落とされていた。
「ちょ、待って! 暗すぎてはぐれそう」
圭吾はチラッと俺を振り返ると、おもむろにぬっと腕を伸ばしてきた。
(あっ……)
さっき圭吾の息が触れた背中が、再びじわりと熱を持った。
ここなら暗くて誰にも見えんし……手、繋げるんじゃね?
ちょい、っとTシャツの袖を引っ張られて、俺ははっと我に返った。
「子供じゃあるまいし、迷子にならんとって下さいよ」
圭吾は笑いながら俺の袖を掴むと、再び前を向いてぐいぐい進んで行く。
違う。掴むのはそこじゃない!
何なん、こないだから。鞄持ってくれたり、パン買ってきてくれたり、今日だって事前にめっちゃ調べて、予約までしてくれとったけどさぁ。なんか肝心なところで、恋人から絶妙に外してきとらんか?
深海コーナーはまだ続いている。人も多いし、抜けるのにはもうちょっと時間がかかりそうだ。
心臓が、急にドキドキと騒がしく脈打ち始めた。
告白してきたの、圭吾からだけど。別に俺から仕掛けたって、いいよね?
圭吾の後ろ姿は暗闇に溶けて、輪郭ぐらいしか分からない。けど、俺の袖を掴んでいる手だけは、はっきり分かった。
すうっと軽く息を吸い込んでから、俺は反対の手を伸ばし、袖を掴んでいる圭吾の手をぎゅっと握った。
(熱い……)
暗闇で神経が研ぎ澄まされて、握った圭吾の手が全身で感じられるみたいだ。
(あ、ちょっと湿って——)
ばっと勢いよく圭吾が手を引いたため、俺は思わずビクッと肩を硬直させた。
「……え?」
え、あれ? 今振り払われた? 何で?
彼氏の手ぇ握るの——なんかまずかったんか?
「え、ごめ——」
「俺、今、手汗マジでヤバいんで!」
焦ったような声でそう言うと、圭吾はもう一度俺のシャツの袖をぐいっと掴み直した。
圭吾の後頭部は相変わらず暗闇に溶けて見えない。袖の掴み方もさっきよりずっと浅くて、今にも離れて行ってしまいそうだ。
(いや、手汗って……そんな気にするもん?)
俺はそういうのに無頓着だけど、気にする人は気にするのかもしれん。
でも、確かに手を繋いだことはなかったけどさ。付き合う前は俺のこと、もっとベタベタ触っとったじゃんか。それこそ煎餅食べた手で頬とかつねってきて、カスがほっぺに刺さって「痛い! やめろ!」って喧嘩しとったじゃん。
だから手汗なんて、本当に今さらなんじゃけど。
圭吾は最初に目に入った水槽に近づくと、自信満々な表情で説明を始めた。
「ここは熱帯魚のコーナーです。オーストラリアの海がテーマになっています」
添乗員か。
「あっ! あの魚、映画で見たことあるやつ!」
オレンジと白と黒の模様の可愛らしい魚を見つけて、俺はついはしゃいだ声を上げた。
「クマノミです。映画で一躍人気者になった魚ですね」
「色も派手だし、可愛らしいよな」
「クマノミって、みんな最初はオスなんですよ」
「えっ、そうなん?」
「集団の優位な個体がメスとなり、その変化は不可逆です」
「えっ、えっ、どういうこと?」
「一旦性転換したら、もうオスには戻らないということです」
俺は唖然としながら、ガラスの向こうの可愛らしい魚を見つめていた。
「初デート中に、いきなり性転換の話ぶっ込んで来る?」
「すみません。面白いかと思って」
「や、まぁ、確かに興味深い話ではあったけども」
と、ガラスに吸盤で器用にくっついている生き物を見つけて、俺はぱっと顔を輝かせた。
「あっ、タコ! タコおった!」
こうして見ると、圭吾にあげたタッちゃんはだいぶ可愛くデザインされたタコだったみたいだ。リアルタコってまあまあグロい。
「タッちゃんの方が断然可愛いですね」
圭吾も俺と同じ意見みたいだ。
「ちなみにタコって、心臓三つあるんですよ」
「えっ! マジで?」
「しかも脳はドーナツみたいな形で、吸盤でも味とか匂いを感じるらしくて」
「へえ〜」
「かなり賢くて——」
「ちょ、待って」
「はい?」
「お前、さっきからなんかやたら魚に詳しくない?」
「せっかく水族館行くんで、昨日のうちに主要展示生物は一通り予習しました」
うそ。水族館デートってそういう感じなん?
「マジで? 俺なんも予習とかしてきてないけど」
「いえ、達巳さんに楽しんでもらいたくて、俺が勝手にしたことですから」
その時、ふわっと香水の香りが鼻をついて、一組のカップルが俺たちの横を通り過ぎて行った。
「見てあの魚! ちょー可愛い」
「ほんまじゃ。あ、タコもおった」
「吸盤キモい!」
大学生くらいのその男女カップルは、楽しそうにクスクスと笑いながら別のコーナーへと歩いて行った。
そうそう。俺が想像しとった水族館デートって、こういう感じ。
まぁでも、デートに向けて張り切って準備してくれたのは、正直嬉しい。ちょっと方向性は間違っとったかもしれんけど。クマノミが生まれた時はみんなオスっていうのはびっくりした。
横に長い水槽に沿って進んで行くと、薄暗い洞穴のような場所から急に屋外に出た。
眩しい光に目を細めながら見渡すと、タコの前とは比べ物にならないほどの人だかりが水槽周辺にできていた。
「ちょ、なんでここだけこんなに人詰まっとるん?」
「ここはアザラシの水槽です。最近赤ちゃんが公開されたみたいですよ」
「えっ! それは見たい!」
俺が思わず目を輝かせると、圭吾は人だかりの後ろで眉をひそめた。
「ちょっと人が多すぎますね。前の客も動く気配がありません」
「待ってたらそのうち捌けるんじゃね?」
「でも、イルカショーの時間が……」
「ちょっとくらい平気じゃろ?」
白くてもふもふのアザラシの赤ちゃんにすっかり意識を持っていかれて、俺は圭吾が背後に回ったのにちっとも気づかなかった。
腰の辺りに腕を回してぐいっと持ち上げられた瞬間、人の後頭部しか見えていなかった視界が急に開けた。
「わわっ! ちょっと!」
「見えますか?」
後ろから持ち上げているせいで、圭吾の顔が俺の背中にかなり近い。
圭吾が喋ると熱い息が背中にかかって、一瞬なんだかゾクッとした。
「ちょ、いいって! 恥ずいんじゃけど」
「みんな赤ちゃんに夢中で、俺らなんか見てませんて」
「や、でも……」
と、視界の端に白い塊が見えて、俺は思わずそっちに首を回した。
「赤ちゃん!」
「見えたんですね」
「見えた! めっちゃ可愛い!」
圭吾が腕の力を緩めかけたため、俺は慌てて腰に回された腕を掴んだ。
「恥ずいんじゃなかったんですか?」
「いいから、もうちょっと見せて!」
圭吾がぷっと吹き出したから、また俺の背中に熱い息がかかった。
「次、圭吾も見る?」
「いや、俺はいいです」
「いいん? めっちゃ可愛いよ。見とかんとあとで後悔するかもよ?」
「もっと可愛いもん見れたんで、もう十分です」
もっと可愛いもん? さっきのクマノミのことか? まさかタコじゃないよな?
コロコロと可愛らしいアザラシの赤ちゃんをしっかり目に焼き付けてから、俺は掴んでいた圭吾の腕を離して地面に降りた。
「次はこっちです。深海コーナーを抜けたら、そのままイルカショーの会場に出られるんで」
深海コーナーは予想通り、しっかり海の底の雰囲気で、一段と照明が落とされていた。
「ちょ、待って! 暗すぎてはぐれそう」
圭吾はチラッと俺を振り返ると、おもむろにぬっと腕を伸ばしてきた。
(あっ……)
さっき圭吾の息が触れた背中が、再びじわりと熱を持った。
ここなら暗くて誰にも見えんし……手、繋げるんじゃね?
ちょい、っとTシャツの袖を引っ張られて、俺ははっと我に返った。
「子供じゃあるまいし、迷子にならんとって下さいよ」
圭吾は笑いながら俺の袖を掴むと、再び前を向いてぐいぐい進んで行く。
違う。掴むのはそこじゃない!
何なん、こないだから。鞄持ってくれたり、パン買ってきてくれたり、今日だって事前にめっちゃ調べて、予約までしてくれとったけどさぁ。なんか肝心なところで、恋人から絶妙に外してきとらんか?
深海コーナーはまだ続いている。人も多いし、抜けるのにはもうちょっと時間がかかりそうだ。
心臓が、急にドキドキと騒がしく脈打ち始めた。
告白してきたの、圭吾からだけど。別に俺から仕掛けたって、いいよね?
圭吾の後ろ姿は暗闇に溶けて、輪郭ぐらいしか分からない。けど、俺の袖を掴んでいる手だけは、はっきり分かった。
すうっと軽く息を吸い込んでから、俺は反対の手を伸ばし、袖を掴んでいる圭吾の手をぎゅっと握った。
(熱い……)
暗闇で神経が研ぎ澄まされて、握った圭吾の手が全身で感じられるみたいだ。
(あ、ちょっと湿って——)
ばっと勢いよく圭吾が手を引いたため、俺は思わずビクッと肩を硬直させた。
「……え?」
え、あれ? 今振り払われた? 何で?
彼氏の手ぇ握るの——なんかまずかったんか?
「え、ごめ——」
「俺、今、手汗マジでヤバいんで!」
焦ったような声でそう言うと、圭吾はもう一度俺のシャツの袖をぐいっと掴み直した。
圭吾の後頭部は相変わらず暗闇に溶けて見えない。袖の掴み方もさっきよりずっと浅くて、今にも離れて行ってしまいそうだ。
(いや、手汗って……そんな気にするもん?)
俺はそういうのに無頓着だけど、気にする人は気にするのかもしれん。
でも、確かに手を繋いだことはなかったけどさ。付き合う前は俺のこと、もっとベタベタ触っとったじゃんか。それこそ煎餅食べた手で頬とかつねってきて、カスがほっぺに刺さって「痛い! やめろ!」って喧嘩しとったじゃん。
だから手汗なんて、本当に今さらなんじゃけど。



