冬休みに入ると、水曜日だけだった約束は週に二回になり、三回になった。しるしが増えたカレンダーを、俺はじっと見つめる。
休みの調整もきくから――先輩にはそう言ったけれど、本当のところ、少しだけ無理をしている。
早朝シフトに入ったり、前日の胃もたれを引きずって朝食を抜いたり。
それでも、行った日のしるしをひとつ塗りつぶすたびに、ほっとした。
あと一回。もう一回。
断られる日もあるだろうと思っていたのに、先輩は一度も「今日は無理」と言わなかった。
【42軒目 1月某日】
先輩:塩・メンマ
俺:醤油・味玉
今年最初の一杯。残り8軒。
+
【43軒目 1月某日】
先輩:味噌、替え玉
俺:醤油
残り7軒。
+
年が明けて、残りはもう指を折って数えられる数になった。
今日は、大学から少し離れたところにある有名老舗店だ。昼の開店前なのに行列ができている。冷たい風が首筋に入り込んで、俺はぎゅっとマフラーを引き上げた。
「……おい。今日は帰るぞ」
開店まで十五分を切ったころ、先輩が急に言った。
「えっ、なんでですか!?」
「雪降ってきた」
見上げると、さっきまでどんよりと曇っていた空から、白いものがひらひらと落ちてくる。
「これくらい大丈夫ですよ!」
「お前、さっき咳してただろ」
「咳じゃないです。なんかちょっと喉に引っかかって」
「……」
先輩が眉を寄せて怖い顔をする。
「帰るぞ」
「でも、ここ予約できない店だし、せっかく来たのに」
「また来ればいいだろ」
また。
その一言に、胸の奥がちくりとした。
また、があと何回あるのか――いや、もうほとんどないことを俺は知っている。先輩だってわかってるくせに。
「大丈夫ですって。俺、今日めちゃくちゃ元気です!」
そう言って両手で拳を作って見せると、先輩はしばらく俺の顔を見ていた。
「……無理だと思ったらすぐ帰るからな」
「はい!」
もともと先輩は、行列で暇だからといっておしゃべりをするような人じゃない。それでも今日は、いつも以上に口数が少なかった。
ときどき俺のほうを見て、頬に当たる雪が少し強くなるたびに眉間の皺を深くする。
そのあとも何度か、やっぱり帰るぞと言われた。そのたびに俺が「大丈夫です」と返すと、先輩は何か言いたそうな顔をして、結局黙った。
店に入れたのは並び始めてから一時間近くあとだった。
【44軒目 1月某日 雪】
先輩:塩・メンマ
俺:塩・味玉
一時間待ち。何回も帰るぞって言われた。
今日のスープ、なんかしょっぱく感じた。体調のせいかも。
残り6軒。次は三日後。
+
その朝は、目が覚めたときから身体が重かった。
毛布を押しのけてどうにか上半身を起こしたものの、数秒もしないうちに力が抜けてふとんに倒れ込む。
「……だる」
額に手を当てると、少し熱い気もする。いや、ちょっと疲れがたまってるだけだ、きっと。
とりあえず昼まで寝よう。
目覚ましをかけ直して、毛布を顎まで引き上げる。先輩との約束は夜六時。昼間のバイトもないし、少し寝ればましになるはずだ。
けれど、次に目を開けたときも身体の重さは変わらなかった。むしろ朝よりひどい。
それでも、もう起きないと待ち合わせに間に合わない。
のろのろとシャワーを浴びて着替え、厚いコートを羽織る。玄関で靴を履こうとしたところで、視界がふっと暗くなった。
「……あ、あれ」
その場にしゃがみ込む。足に力が入らない。頭もぐらぐらする。
さすがに、これは無理かもしれない。
俺はスマホを取り出した。先輩は、コール数回で出てくれた。
『もしもし』
「先輩……すみません」
『何――ていうか、声どうした』
「今日、行けなくなっちゃいました。ごめんなさい」
そう言うと、少し間があった。
『具合悪いのか』
「ちょっとだけ……でも、寝てれば治ると思うんで。また次――」
『部屋番号』
「へ?」
『何号室か送っとけ』
その言葉の意味を理解するまでに、数秒かかった。部屋番号――そうだ、この前一度アパートの前まで送ってくれたから、この場所は知ってるから――
「い、いえ! 来なくて大丈夫です!」
『どうせ今から出るところだった。とりあえず寝てろ』
「いや、でも――」
言い終わる前に、電話が切れた。
俺はスマホを耳に当てたまま、しばらく固まっていた。
先輩、なんでそこまでしてくれるんだろう。そんな迷惑かけたくない。
かけ直さなきゃ。そう思うのに、指が動かない。
今日くらい、先輩の言葉に甘えちゃ駄目かな。だって、あと何回会えるかわからない。少しでもいいから会いたい。そんな気持ちに抗えない。
言われたとおり部屋番号だけ送って、俺はのろのろとベッドに戻った。
眠れないままぼんやりしているうちに、ピンポン、と、間の抜けた音がした。
マスクを着けてからドアを開けると、コンビニの袋を手に提げた庄崎先輩が、怒ったような顔をして立っていた。
「何食えるかわかんなかったから、適当に買ってきた」
差し出してくれた袋の中には、スポーツドリンク、ゼリー飲料、カップのスープ、パウチのおかゆ。それから、冷却シートが見える。
「こんなに……あ、とりあえず、中どうぞ」
「冷蔵庫開けていいか、これ入れとくから。お前は寝てろ」
「は、はい」
俺は言われるままに、ふらふらとベッドに横たわった。台所のほうで、冷蔵庫を開ける音がする。
俺の部屋に、先輩がいる。熱で夢を見てるんじゃないかって思うくらい、現実味がない。
「熱は」
「……38度ちょっとでした」
「水飲める?」
「はい」
「吐き気は」
「ないです」
「明日もこの調子なら病院行け」
「……はい」
先輩は小さくため息をつくと、スポーツドリンクの蓋を開けて差し出してくれた。
マスクをずらして一口飲むと、冷たさが喉を落ちていって、少しだけ息がしやすくなった。
「一気に飲むな、少しずつ飲め」
「……先輩、こういうときまで先輩ですね」
「何だそれ」
少し笑ったら、喉がひりついて咳が出た。先輩の眉間の皺が深くなる。
「ほら」
「だ、大丈夫ですって」
「その大丈夫、この前から何回聞いたと思ってんだよ」
先輩は俺の手からペットボトルを取り上げて枕元に置いた。
「雪の日もそうだったし。この前二日連続で行ったときもほとんど食えてなかっただろ」
「あれは……ちょっと胃が重かっただけで」
「その前も胃薬飲んでた」
「先輩、記憶力いいですね!?」
そう言って、笑ってごまかそうとした。でも、先輩は笑わなかった。
「なんでそこまでしてんだよ」
低い声だった。目を合わせていられなくて、俺は枕元のペットボトルに視線を落とした。
「……何がですか」
「店回るの。無理することじゃないだろ。もともと週一って話で、行けねえときは無理しなかっただろ」
「そうでしたけど……でも、早く回らないと」
「なんで」
言葉に詰まった。
いつもみたいに、軽く何か言えばいい。ラーメンが好きだから、とか。冬は寒いから、とか。
でも、今は言い訳なんてひとつも出てこない。
――だって、と口が勝手に動いた。
「だって、先輩、もう行っちゃうんでしょ」
袋から冷却シートを取り出そうとした先輩の手が止まった。
「ごめんなさい。濱本先輩と話してるの、聞いちゃいました」
先輩はしばらく何も言わなかった。
壁の時計が、やけに大きな音で秒を刻んでいるように聞こえる。
先輩は、シートを持った手を膝の上に置いたまま、口を開いた。
「本決まりになってから言うつもりだった」
「決まったんですか」
「ああ。今週、正式に」
「……」
毛布の端をぎゅっと握った。
「……そういう話が出てたなら、俺にも言ってほしかったです」
そう口にしてから、自分でも驚いた。
「あ、あの、責めたいわけじゃなくて」
先輩は何か言いかけて、ぐっと口元を結んだ。
「……だからって、体壊してまでやることじゃないだろ」
「でも、間に合わなくなるじゃないですか」
「何が」
「50軒、俺と先輩の約束だったから」
先輩が一瞬何かを言いかけて、口を閉じる。その手の中で、冷却シートのフィルムがくしゃりと潰れる音がした。
「それ、そんなに大事か?」
「え?」
「50軒埋めることが、そんなに大事なのかよ」
「だって……約束したじゃないですか」
先輩の眉間に、深く皺が寄った。
「だったら俺じゃなくてもいいだろ。リスト埋めたいだけなら、俺がいなくてもハマと行けばいい」
「……!」
この前は、駄目だって言ったのに。濱本先輩が「俺と行こうか」って言ったとき、先輩は、すぐに。
――なんで今、そんなこと言うんですか。
そんな、自分のほうが傷ついたみたいな顔して。
「先輩とじゃないと意味ないです!」
気づいたら、大きな声が出ていた。
「俺は、最初から――」
その先を言おうとして、息が詰まった。咳が出て、止まらなくなる。
視界がぐらりと傾いて、気づいたときには枕に顔を埋めていた。
「おい、大丈夫か――」
先輩の手が肩に触れた。何か言った気がしたけれど、うまく聞き取れない。
「とりあえず、寝ろ」
毛布が肩まで引き上げられる。それから、先輩がベッドの脇に座り直す気配がした。
卒論の仕上げに渡航の準備、忙しいだろうし、風邪をうつしてしまったらいけない。早く帰ってください。そう言いたいのに、言葉が出てこない。
瞼が重くて、目の前がゆらゆらしている。眠っているのか、夢を見ているのか、よくわからなかった、
しばらくして、紙をめくる音がした。
……あ。ノート。
先輩、勝手に見てる。やだな、また言われる。「これ、ラーメンの記録じゃねえ」って。
返してください、と言いたかったけれど、声を出したら涙声がばれてしまいそうで、俺は寝たふりを続けることしかできなかった。
+
目が覚めたとき、先輩はもういなかった。冷蔵庫にはスポーツドリンクが並んでいて、ノートは机の上に置いてあった。
ぬるくなった冷却シートを額から剥がした拍子に、さっきのことがまざまざと蘇って、頭を抱えたくなった。
先輩とじゃないと意味ない、なんて。泣いたところも見られたし、先輩たちの話を盗み聞きしたことまで白状した。
謝らなきゃ。
そう思って、スマホを開いては、閉じる。
『この前はごめんなさい』
打ちかけて、消した。その先に何を書けばいいのか、わからない。
――もう三週間もないのに、何やってるんだろう、俺。
+
休みの調整もきくから――先輩にはそう言ったけれど、本当のところ、少しだけ無理をしている。
早朝シフトに入ったり、前日の胃もたれを引きずって朝食を抜いたり。
それでも、行った日のしるしをひとつ塗りつぶすたびに、ほっとした。
あと一回。もう一回。
断られる日もあるだろうと思っていたのに、先輩は一度も「今日は無理」と言わなかった。
【42軒目 1月某日】
先輩:塩・メンマ
俺:醤油・味玉
今年最初の一杯。残り8軒。
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【43軒目 1月某日】
先輩:味噌、替え玉
俺:醤油
残り7軒。
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年が明けて、残りはもう指を折って数えられる数になった。
今日は、大学から少し離れたところにある有名老舗店だ。昼の開店前なのに行列ができている。冷たい風が首筋に入り込んで、俺はぎゅっとマフラーを引き上げた。
「……おい。今日は帰るぞ」
開店まで十五分を切ったころ、先輩が急に言った。
「えっ、なんでですか!?」
「雪降ってきた」
見上げると、さっきまでどんよりと曇っていた空から、白いものがひらひらと落ちてくる。
「これくらい大丈夫ですよ!」
「お前、さっき咳してただろ」
「咳じゃないです。なんかちょっと喉に引っかかって」
「……」
先輩が眉を寄せて怖い顔をする。
「帰るぞ」
「でも、ここ予約できない店だし、せっかく来たのに」
「また来ればいいだろ」
また。
その一言に、胸の奥がちくりとした。
また、があと何回あるのか――いや、もうほとんどないことを俺は知っている。先輩だってわかってるくせに。
「大丈夫ですって。俺、今日めちゃくちゃ元気です!」
そう言って両手で拳を作って見せると、先輩はしばらく俺の顔を見ていた。
「……無理だと思ったらすぐ帰るからな」
「はい!」
もともと先輩は、行列で暇だからといっておしゃべりをするような人じゃない。それでも今日は、いつも以上に口数が少なかった。
ときどき俺のほうを見て、頬に当たる雪が少し強くなるたびに眉間の皺を深くする。
そのあとも何度か、やっぱり帰るぞと言われた。そのたびに俺が「大丈夫です」と返すと、先輩は何か言いたそうな顔をして、結局黙った。
店に入れたのは並び始めてから一時間近くあとだった。
【44軒目 1月某日 雪】
先輩:塩・メンマ
俺:塩・味玉
一時間待ち。何回も帰るぞって言われた。
今日のスープ、なんかしょっぱく感じた。体調のせいかも。
残り6軒。次は三日後。
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その朝は、目が覚めたときから身体が重かった。
毛布を押しのけてどうにか上半身を起こしたものの、数秒もしないうちに力が抜けてふとんに倒れ込む。
「……だる」
額に手を当てると、少し熱い気もする。いや、ちょっと疲れがたまってるだけだ、きっと。
とりあえず昼まで寝よう。
目覚ましをかけ直して、毛布を顎まで引き上げる。先輩との約束は夜六時。昼間のバイトもないし、少し寝ればましになるはずだ。
けれど、次に目を開けたときも身体の重さは変わらなかった。むしろ朝よりひどい。
それでも、もう起きないと待ち合わせに間に合わない。
のろのろとシャワーを浴びて着替え、厚いコートを羽織る。玄関で靴を履こうとしたところで、視界がふっと暗くなった。
「……あ、あれ」
その場にしゃがみ込む。足に力が入らない。頭もぐらぐらする。
さすがに、これは無理かもしれない。
俺はスマホを取り出した。先輩は、コール数回で出てくれた。
『もしもし』
「先輩……すみません」
『何――ていうか、声どうした』
「今日、行けなくなっちゃいました。ごめんなさい」
そう言うと、少し間があった。
『具合悪いのか』
「ちょっとだけ……でも、寝てれば治ると思うんで。また次――」
『部屋番号』
「へ?」
『何号室か送っとけ』
その言葉の意味を理解するまでに、数秒かかった。部屋番号――そうだ、この前一度アパートの前まで送ってくれたから、この場所は知ってるから――
「い、いえ! 来なくて大丈夫です!」
『どうせ今から出るところだった。とりあえず寝てろ』
「いや、でも――」
言い終わる前に、電話が切れた。
俺はスマホを耳に当てたまま、しばらく固まっていた。
先輩、なんでそこまでしてくれるんだろう。そんな迷惑かけたくない。
かけ直さなきゃ。そう思うのに、指が動かない。
今日くらい、先輩の言葉に甘えちゃ駄目かな。だって、あと何回会えるかわからない。少しでもいいから会いたい。そんな気持ちに抗えない。
言われたとおり部屋番号だけ送って、俺はのろのろとベッドに戻った。
眠れないままぼんやりしているうちに、ピンポン、と、間の抜けた音がした。
マスクを着けてからドアを開けると、コンビニの袋を手に提げた庄崎先輩が、怒ったような顔をして立っていた。
「何食えるかわかんなかったから、適当に買ってきた」
差し出してくれた袋の中には、スポーツドリンク、ゼリー飲料、カップのスープ、パウチのおかゆ。それから、冷却シートが見える。
「こんなに……あ、とりあえず、中どうぞ」
「冷蔵庫開けていいか、これ入れとくから。お前は寝てろ」
「は、はい」
俺は言われるままに、ふらふらとベッドに横たわった。台所のほうで、冷蔵庫を開ける音がする。
俺の部屋に、先輩がいる。熱で夢を見てるんじゃないかって思うくらい、現実味がない。
「熱は」
「……38度ちょっとでした」
「水飲める?」
「はい」
「吐き気は」
「ないです」
「明日もこの調子なら病院行け」
「……はい」
先輩は小さくため息をつくと、スポーツドリンクの蓋を開けて差し出してくれた。
マスクをずらして一口飲むと、冷たさが喉を落ちていって、少しだけ息がしやすくなった。
「一気に飲むな、少しずつ飲め」
「……先輩、こういうときまで先輩ですね」
「何だそれ」
少し笑ったら、喉がひりついて咳が出た。先輩の眉間の皺が深くなる。
「ほら」
「だ、大丈夫ですって」
「その大丈夫、この前から何回聞いたと思ってんだよ」
先輩は俺の手からペットボトルを取り上げて枕元に置いた。
「雪の日もそうだったし。この前二日連続で行ったときもほとんど食えてなかっただろ」
「あれは……ちょっと胃が重かっただけで」
「その前も胃薬飲んでた」
「先輩、記憶力いいですね!?」
そう言って、笑ってごまかそうとした。でも、先輩は笑わなかった。
「なんでそこまでしてんだよ」
低い声だった。目を合わせていられなくて、俺は枕元のペットボトルに視線を落とした。
「……何がですか」
「店回るの。無理することじゃないだろ。もともと週一って話で、行けねえときは無理しなかっただろ」
「そうでしたけど……でも、早く回らないと」
「なんで」
言葉に詰まった。
いつもみたいに、軽く何か言えばいい。ラーメンが好きだから、とか。冬は寒いから、とか。
でも、今は言い訳なんてひとつも出てこない。
――だって、と口が勝手に動いた。
「だって、先輩、もう行っちゃうんでしょ」
袋から冷却シートを取り出そうとした先輩の手が止まった。
「ごめんなさい。濱本先輩と話してるの、聞いちゃいました」
先輩はしばらく何も言わなかった。
壁の時計が、やけに大きな音で秒を刻んでいるように聞こえる。
先輩は、シートを持った手を膝の上に置いたまま、口を開いた。
「本決まりになってから言うつもりだった」
「決まったんですか」
「ああ。今週、正式に」
「……」
毛布の端をぎゅっと握った。
「……そういう話が出てたなら、俺にも言ってほしかったです」
そう口にしてから、自分でも驚いた。
「あ、あの、責めたいわけじゃなくて」
先輩は何か言いかけて、ぐっと口元を結んだ。
「……だからって、体壊してまでやることじゃないだろ」
「でも、間に合わなくなるじゃないですか」
「何が」
「50軒、俺と先輩の約束だったから」
先輩が一瞬何かを言いかけて、口を閉じる。その手の中で、冷却シートのフィルムがくしゃりと潰れる音がした。
「それ、そんなに大事か?」
「え?」
「50軒埋めることが、そんなに大事なのかよ」
「だって……約束したじゃないですか」
先輩の眉間に、深く皺が寄った。
「だったら俺じゃなくてもいいだろ。リスト埋めたいだけなら、俺がいなくてもハマと行けばいい」
「……!」
この前は、駄目だって言ったのに。濱本先輩が「俺と行こうか」って言ったとき、先輩は、すぐに。
――なんで今、そんなこと言うんですか。
そんな、自分のほうが傷ついたみたいな顔して。
「先輩とじゃないと意味ないです!」
気づいたら、大きな声が出ていた。
「俺は、最初から――」
その先を言おうとして、息が詰まった。咳が出て、止まらなくなる。
視界がぐらりと傾いて、気づいたときには枕に顔を埋めていた。
「おい、大丈夫か――」
先輩の手が肩に触れた。何か言った気がしたけれど、うまく聞き取れない。
「とりあえず、寝ろ」
毛布が肩まで引き上げられる。それから、先輩がベッドの脇に座り直す気配がした。
卒論の仕上げに渡航の準備、忙しいだろうし、風邪をうつしてしまったらいけない。早く帰ってください。そう言いたいのに、言葉が出てこない。
瞼が重くて、目の前がゆらゆらしている。眠っているのか、夢を見ているのか、よくわからなかった、
しばらくして、紙をめくる音がした。
……あ。ノート。
先輩、勝手に見てる。やだな、また言われる。「これ、ラーメンの記録じゃねえ」って。
返してください、と言いたかったけれど、声を出したら涙声がばれてしまいそうで、俺は寝たふりを続けることしかできなかった。
+
目が覚めたとき、先輩はもういなかった。冷蔵庫にはスポーツドリンクが並んでいて、ノートは机の上に置いてあった。
ぬるくなった冷却シートを額から剥がした拍子に、さっきのことがまざまざと蘇って、頭を抱えたくなった。
先輩とじゃないと意味ない、なんて。泣いたところも見られたし、先輩たちの話を盗み聞きしたことまで白状した。
謝らなきゃ。
そう思って、スマホを開いては、閉じる。
『この前はごめんなさい』
打ちかけて、消した。その先に何を書けばいいのか、わからない。
――もう三週間もないのに、何やってるんだろう、俺。
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