先輩、卒業までに俺とラーメン屋50軒制覇してください!


 夜、風呂から上がってベッドに転がったところで、スマホが震えた。
『二十五日空いてる?』
 先輩からだった。
 たまに待ち合わせ場所や時間確認の連絡が来ることはあったけど、予定にない日を打診してくるのは珍しい。
『二十五日ですか? バイトです!』
『何時まで』
『10時までです。ケーキとチキン売りまくります!』
『そう』
 そこで返信が止まった。別の日の予定を変更したかったんだろうか。
『何かありましたか?』
 そう返信すると、しばらくしてから、
『別に』
 とだけ返ってきた。
 しばらくその続きを待ってみたけれど、それ以上先輩からのメッセージが届くことはなかった。
 俺は、おやすみなさいの代わりにいつものラーメンのスタンプをひとつ送って、スマホを置いた。
 
「ご予約のケーキですね。ありがとうございます!」
 二十五日の夜。サンタの赤いエプロンをつけて、予約のケーキを渡して、チキンを補充して、レジを打つ。
 夕方からはひっきりなしだった客足も、八時を過ぎるころには落ち着いてきた。
 売れ残ったクリスマス商品の棚を整えて、値引きのシールを貼る。最後のレジを交代するころには、もう足が棒のようだった。一緒に入っていたバイトの子と「お疲れ」と声を掛け合って、ようやく赤いエプロンを外した。
 22時過ぎ、店を出る。暖房の効いた店内から一歩外へ出た途端、冷たい空気が頬に刺さった。昼間よりずっと冷え込んでいて、吐いた息が白く浮かぶ。
「さむ……」
 襟元に首を埋めて歩き出したところで、少し離れた街灯の下に、見覚えのある茶色いコートの人影が目に入った。
「……えっ?」
 先輩だった。コートのポケットに手を突っ込んだまま、こっちを見ている。考えるより先に、足がそっちへ向かっていった。
「先輩! なんで、どうしたんですか?」
「……近く通ったから」
「こんな時間に?」
 思わず口から出た疑問に答えずに、先輩はいつもの調子で言った。
「飯は?」
「あー……食べてないです。夕方からずっとバタバタで」
「そこのラーメン屋、今通ったらまだやってた」
「えっ」
「行くぞ」
 有無を言わさぬ調子で言うと、先輩は歩き出した。
「え、あの、先輩」
 慌ててあとを追う。
 先輩も、こんな時間まで食べていなかったんだろうか。だとしたら、なんで。
 俺のバイトが十時までだって知ってたから? まさか、ずっと待ってた?
 訊きたいことはいくつも浮かぶのに、言葉にならない。先輩は何も言わず、少し先を歩いている。
 追いつこうと足を速めるたび、吐いた白い息が後ろへ流れていった。
 
 +
 
 店は、カウンター席が八つだけの小さなラーメン屋だった。並んで一番端の席に座る。
 注文してすぐに出てきたのは、透き通った醤油スープに、チャーシューとメンマとねぎ。ここ何軒かは変わった具やスープの店が続いていたから、昔ながらのラーメンがかえって新鮮に見える。
「うまい……!」
 疲れた体に熱いスープが染みて、思わず声が漏れる。隣で先輩がふっと笑う気配がした。
「だろ」
 なんだか先輩が満足そうなのがおかしい。まだ箸をつけずにこっちを見ている。
 この店は、バイト帰りに何度か来たことがあった。いつでも来られる店だから、五十軒の候補には入れていなかった。
 味は知っているはずなのに、なんで今日はこんなにうまいんだろう。まだ食べ終わりたくないな、そう思った。それは、単にこのラーメンがおいしいからじゃなかった。
「あとでノートに書いておかなきゃ」
「今日はいいだろ」
「でもラーメン食べたし」
「リストの店じゃない」
「……そうですけど」
「今日はいいよ」
 そう言った先輩の横顔がいつもよりずっと優しく見えて、胸がぎゅっと熱くなって――それはラーメンのせいだけじゃなくて、俺は小さく頷くことしかできなかった。
 
 店の外に出ると、頬に触れる空気がさっきより冷たく感じた。
 通り沿いの店先の飾りが、もう正月仕様に替わっているところもある。ああ、今年ももう終わるんだ。
 隣を歩く先輩は黙ったままだ。言葉が少ないのはいつものことだけど、今日はさらに静かな気がする。
 バイト先から家までは歩いて十分もかからない。アパートの手前の十字路で足を止める。先輩は駅に行くからここで曲がるだろう。
「俺、こっちなんで」
「ああ」
「じゃあ……お疲れさまでした」
 先輩は、コートのポケットに両手を入れたまま、小さく顎を引いた。
「今日、ラーメンの予定なかったのに先輩に会えて嬉しかったです」
 先輩は一瞬だけ目を丸くした。それから、ほんの少し口元を緩める。
「……ん」
 冷たい風にさらされた鼻の先が、少し赤い。
 こんな先輩を見るのも、あと少し。
 次の春を待たずに、先輩は行ってしまう。だから、それまでに少しでも多く、できるだけ長く、一緒にいたい。
 俺はポケットの中で、冷えた指先をそっと握った。