その日は四限が休講になった。
図書館で来週の授業の調べ物をして、それでもまだ時間が余っている。
久しぶりに、先輩の眼鏡姿でも見に行っちゃおうかな。そう思って研究棟まで来ると、自動販売機の並ぶ休憩スペースから聞き覚えのある声がした。俺は思わず足を止めた。
「卒論終わんねえよー! 助けて! 俺、夢の中でも論文書いてるんだけど!」
柱の向こうに、休憩スペースの椅子で項垂れている濱本先輩が見える。その横に、缶コーヒーを持った庄崎先輩が立っていた。
「夢で書いてもページは増えねえぞ」
「冷たっ! いーよなあ、お前は余裕そうで。そんで三月までシオとラーメンデートだろ」
急に登場した自分の名前にどきりとして肩が跳ねる。咄嗟に柱の影に隠れてしまった。
「デートじゃねえ」
「はいはい」
「あと、三月じゃないかも」
「へ?」
「一月末に来ないかって言われてる。プロジェクトの立ち上げが前倒しになって」
――一瞬、呼吸が止まったかと思った。
「えっ、マジ?」
濱本先輩の声が裏返る。庄崎先輩は、「ああ」と淡々と返してから続けた。
「正式に所属すんのは四月だけど。今の共同研究の延長で、早めに入れないかって話で」
「いや、行ったら三年は向こうなんだろ? 卒業まではこっちにいればいいじゃん。断れねえの、それ」
「別に、断る理由はないし」
「卒論は?」
「もうほぼ提出できる状態。口頭試問も前倒しでやってもらえることになった」
「卒業式は?」
「出なくてもいいだろ、式は」
「……シオは?」
それまで間を置かずに答えていた庄崎先輩が、その問いにだけ黙った。
手の中の缶を見下ろしたまま、動かない。ぺこ、と、缶が小さくへこむ音がした。
――俺は?
ほんの数秒の沈黙なのに、やけに長く感じた。
先輩がなんて答えるのか、聞きたい――いや、聞きたくない。
俺はそっと足を引いた。音を立てないように気をつけながら、それでも逃げるみたいに廊下を急ぐ。足元が妙に頼りなくて、握った指先が震えていた。
先輩が自分の口で俺に話していないことなら、これ以上は聞くべきじゃない。そう思った。
でも――
『一月末に来ないかって言われてる』
廊下を歩いているあいだも、その言葉が頭の中でぐわんぐわんと響く。
ノートを開かなくても覚えてる。リストの残りは、16軒。
水曜日、あと何回ある? 年末年始で店が休みの日だってある。週一じゃ当然間に合わない。
『行く店の順番、少し変えていいか?』
この前の夜の、先輩の言葉が頭によみがえる。
もしかして、あのときにはもう決まってた? 先輩が順番変えたいって言ったのはそういうこと?
「……なんで、言ってくれなかったんだよ」
濱本先輩には言うのに、俺には言わなかった? 黙って終わりにしようとしてた?
濱本先輩に「シオは?」って聞かれて、すぐに答えられなかったのはなんで?
先輩なりの理由があるんだ。きっと。
そう思おうとしても、うまくいかない。
この半年で、先輩が何でも言葉にする人じゃないことくらい、わかったつもりだ。
面倒そうな顔をしながら結局付き合ってくれることも、俺が気づかないところで勝手に気を回してくれていることも。
だから、たぶん今回もそうだ。残りの店を数えて、次はどこに行こうって浮かれている俺に、言い出せなかっただけ。
でも――
『……シオは?』
――先輩、あのあと、なんて答えたんですか?
+
その日の夜に訪れたのは、いつもよりずっと賑やかな雰囲気の店だった。
てきぱきと動き回る店員の威勢のいい声に、食器のぶつかる音、飛び交うお客さんの話し声。向かいにいる先輩と会話するにも、声を張らないと聞こえないくらいだ。
たまたまだけど、今日はこういう店でよかった。静かな店で向かい合って、ふと会話が途切れたりしたら、その沈黙に耐えられる気がしない。
何を話していても、頭の中にはさっき聞いたことが浮かんでしまいそうだし、「なんで言ってくれなかったんですか」なんて聞いてしまったら――
そんな空気を想像して、俺は小さく首を横に振った。
スープの味や麺の硬さを、いつもの調子でひとしきり喋ってから、俺はなるべく軽い口調で切り出した。
「先輩、冬休みって何か予定ありますか? 旅行とか、実家に帰ったりとか」
先輩が、顔を上げる。
いつもの雑談みたいに聞いたつもりなのに、先輩の視線は探るような色をしている。
「いや、別に……何で」
「冬休み入ったら、週三にしませんか? ラーメン屋」
「は?」
「月水金、みたいな感じで」
「部活かよ」
「じゃあ火木土でも」
「曜日の問題じゃねえ」
いつもの調子で突っ込んでから、先輩は箸を止めた。
「どうして急に」
さっきよりもまっすぐな視線が向けられる。胸の奥を見透かされそうで、俺は誤魔化すようにぐっと箸を持ち直した。
「最近寒いし、冬休みだし、どうかなって。バイトも一人増えたので、休みの調整もきくんです! それに、最近結構胃が強くなったので、なんだったら昼夜ハシゴもいけます!」
「いや、それは俺が無理だけど」
「じゃあ、週三……週二でもいいです」
かっこ悪いくらい必死だ。わかっているけど、止められなかった。
先輩はすぐには返事をしなかった。
手元の丼に視線を落として、眉を寄せる。見たことのない困った表情。そんな顔をさせたかったんじゃないのに。
「わかった。ただし、無理はなしで」
「……はい」
承諾してくれたのに、胸が苦しい。
それよりも、先輩、俺に言うことがあるんじゃないですか?
そんな言葉が口をついて出そうになって、飲み込む。代わりに、なんでもないみたいに口の端を上げた。
「冬休みに先輩にいっぱい会えるなんて、ラッキーです」
そう言って、丼を持ち上げる。少し多めにスープをすすると、ピリッとした味噌の辛みが鼻に抜けて、じわりと目が潤んだ。
ちょうどいい。これなら、先輩に見られても辛さのせいにできる。
【35軒目 12月某日 くもり】
先輩:塩・メンマ・九条ねぎ
俺:味噌・味玉 ※辛め
来週から週三! がんばれ、俺の胃
+
【37軒目 12月某日 くもり】
先輩:淡麗煮干し塩・メンマ
俺:濃厚煮干し醤油・味玉
鼻の汗拭かれた。恥ずかしすぎる
+
【38軒目 12月某日 小雨】
先輩:蛤の塩そば
俺:牡蠣と蛤の白湯そば ※限定メニュー
ドイツのラーメン屋、調べたら結構あった。
+
図書館で来週の授業の調べ物をして、それでもまだ時間が余っている。
久しぶりに、先輩の眼鏡姿でも見に行っちゃおうかな。そう思って研究棟まで来ると、自動販売機の並ぶ休憩スペースから聞き覚えのある声がした。俺は思わず足を止めた。
「卒論終わんねえよー! 助けて! 俺、夢の中でも論文書いてるんだけど!」
柱の向こうに、休憩スペースの椅子で項垂れている濱本先輩が見える。その横に、缶コーヒーを持った庄崎先輩が立っていた。
「夢で書いてもページは増えねえぞ」
「冷たっ! いーよなあ、お前は余裕そうで。そんで三月までシオとラーメンデートだろ」
急に登場した自分の名前にどきりとして肩が跳ねる。咄嗟に柱の影に隠れてしまった。
「デートじゃねえ」
「はいはい」
「あと、三月じゃないかも」
「へ?」
「一月末に来ないかって言われてる。プロジェクトの立ち上げが前倒しになって」
――一瞬、呼吸が止まったかと思った。
「えっ、マジ?」
濱本先輩の声が裏返る。庄崎先輩は、「ああ」と淡々と返してから続けた。
「正式に所属すんのは四月だけど。今の共同研究の延長で、早めに入れないかって話で」
「いや、行ったら三年は向こうなんだろ? 卒業まではこっちにいればいいじゃん。断れねえの、それ」
「別に、断る理由はないし」
「卒論は?」
「もうほぼ提出できる状態。口頭試問も前倒しでやってもらえることになった」
「卒業式は?」
「出なくてもいいだろ、式は」
「……シオは?」
それまで間を置かずに答えていた庄崎先輩が、その問いにだけ黙った。
手の中の缶を見下ろしたまま、動かない。ぺこ、と、缶が小さくへこむ音がした。
――俺は?
ほんの数秒の沈黙なのに、やけに長く感じた。
先輩がなんて答えるのか、聞きたい――いや、聞きたくない。
俺はそっと足を引いた。音を立てないように気をつけながら、それでも逃げるみたいに廊下を急ぐ。足元が妙に頼りなくて、握った指先が震えていた。
先輩が自分の口で俺に話していないことなら、これ以上は聞くべきじゃない。そう思った。
でも――
『一月末に来ないかって言われてる』
廊下を歩いているあいだも、その言葉が頭の中でぐわんぐわんと響く。
ノートを開かなくても覚えてる。リストの残りは、16軒。
水曜日、あと何回ある? 年末年始で店が休みの日だってある。週一じゃ当然間に合わない。
『行く店の順番、少し変えていいか?』
この前の夜の、先輩の言葉が頭によみがえる。
もしかして、あのときにはもう決まってた? 先輩が順番変えたいって言ったのはそういうこと?
「……なんで、言ってくれなかったんだよ」
濱本先輩には言うのに、俺には言わなかった? 黙って終わりにしようとしてた?
濱本先輩に「シオは?」って聞かれて、すぐに答えられなかったのはなんで?
先輩なりの理由があるんだ。きっと。
そう思おうとしても、うまくいかない。
この半年で、先輩が何でも言葉にする人じゃないことくらい、わかったつもりだ。
面倒そうな顔をしながら結局付き合ってくれることも、俺が気づかないところで勝手に気を回してくれていることも。
だから、たぶん今回もそうだ。残りの店を数えて、次はどこに行こうって浮かれている俺に、言い出せなかっただけ。
でも――
『……シオは?』
――先輩、あのあと、なんて答えたんですか?
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その日の夜に訪れたのは、いつもよりずっと賑やかな雰囲気の店だった。
てきぱきと動き回る店員の威勢のいい声に、食器のぶつかる音、飛び交うお客さんの話し声。向かいにいる先輩と会話するにも、声を張らないと聞こえないくらいだ。
たまたまだけど、今日はこういう店でよかった。静かな店で向かい合って、ふと会話が途切れたりしたら、その沈黙に耐えられる気がしない。
何を話していても、頭の中にはさっき聞いたことが浮かんでしまいそうだし、「なんで言ってくれなかったんですか」なんて聞いてしまったら――
そんな空気を想像して、俺は小さく首を横に振った。
スープの味や麺の硬さを、いつもの調子でひとしきり喋ってから、俺はなるべく軽い口調で切り出した。
「先輩、冬休みって何か予定ありますか? 旅行とか、実家に帰ったりとか」
先輩が、顔を上げる。
いつもの雑談みたいに聞いたつもりなのに、先輩の視線は探るような色をしている。
「いや、別に……何で」
「冬休み入ったら、週三にしませんか? ラーメン屋」
「は?」
「月水金、みたいな感じで」
「部活かよ」
「じゃあ火木土でも」
「曜日の問題じゃねえ」
いつもの調子で突っ込んでから、先輩は箸を止めた。
「どうして急に」
さっきよりもまっすぐな視線が向けられる。胸の奥を見透かされそうで、俺は誤魔化すようにぐっと箸を持ち直した。
「最近寒いし、冬休みだし、どうかなって。バイトも一人増えたので、休みの調整もきくんです! それに、最近結構胃が強くなったので、なんだったら昼夜ハシゴもいけます!」
「いや、それは俺が無理だけど」
「じゃあ、週三……週二でもいいです」
かっこ悪いくらい必死だ。わかっているけど、止められなかった。
先輩はすぐには返事をしなかった。
手元の丼に視線を落として、眉を寄せる。見たことのない困った表情。そんな顔をさせたかったんじゃないのに。
「わかった。ただし、無理はなしで」
「……はい」
承諾してくれたのに、胸が苦しい。
それよりも、先輩、俺に言うことがあるんじゃないですか?
そんな言葉が口をついて出そうになって、飲み込む。代わりに、なんでもないみたいに口の端を上げた。
「冬休みに先輩にいっぱい会えるなんて、ラッキーです」
そう言って、丼を持ち上げる。少し多めにスープをすすると、ピリッとした味噌の辛みが鼻に抜けて、じわりと目が潤んだ。
ちょうどいい。これなら、先輩に見られても辛さのせいにできる。
【35軒目 12月某日 くもり】
先輩:塩・メンマ・九条ねぎ
俺:味噌・味玉 ※辛め
来週から週三! がんばれ、俺の胃
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【37軒目 12月某日 くもり】
先輩:淡麗煮干し塩・メンマ
俺:濃厚煮干し醤油・味玉
鼻の汗拭かれた。恥ずかしすぎる
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【38軒目 12月某日 小雨】
先輩:蛤の塩そば
俺:牡蠣と蛤の白湯そば ※限定メニュー
ドイツのラーメン屋、調べたら結構あった。
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