店は、口コミにあったとおり本当に地味だった。
白い暖簾に、筆で書いたような字で店の名前だけ。窓には簡素なメニュー。でも、引き戸を開けた瞬間に立ちのぼったスープの匂いで、俺は確信した。この店は間違いない。
カウンターだけの七席。入り口脇の券売機の前で、俺は財布を取り出した。今日はちゃんと、千円札が入っている。
「醤油と塩ですね。あー、迷うな……」
「味玉は」
「え?」
隣から、そんな声が飛んできた。
「つけるんだろ」
「……もちろんです!」
先輩は先に自分の食券を買って、さっさと奥の席に座ってしまった。
俺は少し悩んでから醤油を押した。もちろん、トッピングの味玉も。
……覚えてたんだ。
素知らぬ様子の先輩の横顔を見ながら、俺は口元が緩むのをこらえる。そのまま、隣の席に座った。
出てきた醤油ラーメンは、驚くほど澄んでいた。
琥珀色のスープの表面に、金色の油が薄く浮いてきらきらしている。
まず、レンゲでスープを一口。
鶏の甘み。そのあとから醤油の香りが追いかけてくる。塩気は強くないのに、ちゃんと舌に残る輪郭がある。
「……うっま」
思わず声が出た。隣では、先輩が塩そばを黙々とすすっている。
「先輩、そっちどうですか」
「うまい」
「それだけですか?」
「他に何て言えばいいんだよ」
「もっとこう、あるじゃないですか! 香りとか舌触りとか余韻とか!」
「……」
先輩はメンマを一本つまんで、少し考えるように黙り込んだ。
「……昆布が強い」
「おお……!」
「以上」
「短い!」
それからしばらくは、二人とも黙々と箸を動かした。
麺をすすって、味玉を食べて、またスープを飲む。うまい。やっぱりうまい。
「お前、ほんと美味そうに食うな」
不意に言われて、箸が止まる。
「だって美味しいじゃないですか!」
「そうだけど」
先輩はそれ以上何も言わず、また自分の丼に戻った。
気づけば、俺の丼も先輩の丼も、ほとんど空になっていた。
店を出ると、外はまだ明るく、春の夕方の風が肌にやさしい。俺はぐっと伸びをした。
「一軒目、いいスタートでしたよね?」
「まあ」
先輩が暖簾のほうを振り返って、ひとつまばたきをした。
「……当たりだった」
「ありがとうございます!」
「なんでお前が礼を言うんだよ」
そう言われても、勝手に口元が上がってしまう。足まで浮ついているみたいで、気づけば俺はスキップするような勢いで、半歩先を歩いていた。
* *
最寄り駅のコンコースの途中で、先輩が足を止めた。
「俺、こっちだから」
「あ、はい。今日はありがとうございました!」
「別に。俺も気になってた店だし」
「じゃあ――」
俺がそう言いかけたところで、先輩がスマホを取り出しながら言った。
「次、どこ」
「……え?」
「来週の水曜」
先輩は、特別なことを訊いたわけでもないという顔で俺を見ていた。
頭の中が真っ白になって、返事がばらばらと散らかって、それから、一気に沸騰する。
「あっ、はい! えっと、候補が三つあって、ひとつは大学の裏の二郎系で、あそこは味が濃いんですけど夜しかやってなくて、あと環七沿いの家系が最近リニューアルしてて、それと隣駅の――」
「一個でいい」
「はい! あとで候補送ります!」
「一個に絞ってから送れよ」
言いながら、先輩がふっと息を吐いた。笑ったのか、呆れただけなのか、分からない。
「はい!」
「じゃ、来週」
先輩はそのまま自分の路線のほうへ歩いていく。俺はその背中が見えなくなるまで、その場に突っ立っていた。
――次、どこ。
――じゃ、来週。
「よーし!!」
その日、俺はコンビニでノートを買って帰った。
=====
1軒目 4月XX日 晴れ
先輩:塩・メンマ・麺硬め
俺:醤油・味玉
鶏の味がしっかりするのに重くない。最初は甘めで、あとから醤油がくる。細麺も合う。
先輩「昆布が強い」
先輩が俺の選んだ店を「当たり」って言った! 次も当てる!
=====
それから、水曜日が来るたび、ノートのページは少しずつ増えていった。
* *
白い暖簾に、筆で書いたような字で店の名前だけ。窓には簡素なメニュー。でも、引き戸を開けた瞬間に立ちのぼったスープの匂いで、俺は確信した。この店は間違いない。
カウンターだけの七席。入り口脇の券売機の前で、俺は財布を取り出した。今日はちゃんと、千円札が入っている。
「醤油と塩ですね。あー、迷うな……」
「味玉は」
「え?」
隣から、そんな声が飛んできた。
「つけるんだろ」
「……もちろんです!」
先輩は先に自分の食券を買って、さっさと奥の席に座ってしまった。
俺は少し悩んでから醤油を押した。もちろん、トッピングの味玉も。
……覚えてたんだ。
素知らぬ様子の先輩の横顔を見ながら、俺は口元が緩むのをこらえる。そのまま、隣の席に座った。
出てきた醤油ラーメンは、驚くほど澄んでいた。
琥珀色のスープの表面に、金色の油が薄く浮いてきらきらしている。
まず、レンゲでスープを一口。
鶏の甘み。そのあとから醤油の香りが追いかけてくる。塩気は強くないのに、ちゃんと舌に残る輪郭がある。
「……うっま」
思わず声が出た。隣では、先輩が塩そばを黙々とすすっている。
「先輩、そっちどうですか」
「うまい」
「それだけですか?」
「他に何て言えばいいんだよ」
「もっとこう、あるじゃないですか! 香りとか舌触りとか余韻とか!」
「……」
先輩はメンマを一本つまんで、少し考えるように黙り込んだ。
「……昆布が強い」
「おお……!」
「以上」
「短い!」
それからしばらくは、二人とも黙々と箸を動かした。
麺をすすって、味玉を食べて、またスープを飲む。うまい。やっぱりうまい。
「お前、ほんと美味そうに食うな」
不意に言われて、箸が止まる。
「だって美味しいじゃないですか!」
「そうだけど」
先輩はそれ以上何も言わず、また自分の丼に戻った。
気づけば、俺の丼も先輩の丼も、ほとんど空になっていた。
店を出ると、外はまだ明るく、春の夕方の風が肌にやさしい。俺はぐっと伸びをした。
「一軒目、いいスタートでしたよね?」
「まあ」
先輩が暖簾のほうを振り返って、ひとつまばたきをした。
「……当たりだった」
「ありがとうございます!」
「なんでお前が礼を言うんだよ」
そう言われても、勝手に口元が上がってしまう。足まで浮ついているみたいで、気づけば俺はスキップするような勢いで、半歩先を歩いていた。
* *
最寄り駅のコンコースの途中で、先輩が足を止めた。
「俺、こっちだから」
「あ、はい。今日はありがとうございました!」
「別に。俺も気になってた店だし」
「じゃあ――」
俺がそう言いかけたところで、先輩がスマホを取り出しながら言った。
「次、どこ」
「……え?」
「来週の水曜」
先輩は、特別なことを訊いたわけでもないという顔で俺を見ていた。
頭の中が真っ白になって、返事がばらばらと散らかって、それから、一気に沸騰する。
「あっ、はい! えっと、候補が三つあって、ひとつは大学の裏の二郎系で、あそこは味が濃いんですけど夜しかやってなくて、あと環七沿いの家系が最近リニューアルしてて、それと隣駅の――」
「一個でいい」
「はい! あとで候補送ります!」
「一個に絞ってから送れよ」
言いながら、先輩がふっと息を吐いた。笑ったのか、呆れただけなのか、分からない。
「はい!」
「じゃ、来週」
先輩はそのまま自分の路線のほうへ歩いていく。俺はその背中が見えなくなるまで、その場に突っ立っていた。
――次、どこ。
――じゃ、来週。
「よーし!!」
その日、俺はコンビニでノートを買って帰った。
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1軒目 4月XX日 晴れ
先輩:塩・メンマ・麺硬め
俺:醤油・味玉
鶏の味がしっかりするのに重くない。最初は甘めで、あとから醤油がくる。細麺も合う。
先輩「昆布が強い」
先輩が俺の選んだ店を「当たり」って言った! 次も当てる!
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それから、水曜日が来るたび、ノートのページは少しずつ増えていった。
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