先輩、卒業までに俺とラーメン屋50軒制覇してください!

 約束の水曜日。四限が終わると、俺はテキストをリュックに突っ込んで、正門前に向かった。
 約束は五時。腕時計を見る。十五分前――完璧だ。門の前にはまだ誰もいない。
 走って来てしまったけど、変なとこ、ないよな。
 スマホのインカメを開いて、さっと確認する。少し跳ねた前髪を指で直して、シャツの襟も整えた。
 ……いや、ラーメン食べに行くだけなんだけど。
 もう一度腕時計を確認したとき、校舎のほうから見覚えのある黒いシャツが近づいてきた。
「……もう来てたのか」
「もちろんです! 四限終わって速攻きました」
「早すぎだろ」
「遅れるよりいいじゃないですか!」
 先輩が呆れたように息を吐いて、先に歩き出した。俺は慌ててその横に並ぶ。
「今日はどこ?」
「えっと、ここから歩いて十分くらいの店です!」
「ああ、鶏のとこ?」
「えっ、知ってるんですか」
 慣れた口ぶりに、思わず隣を見上げる。
「あの路地入ったとこだろ。行ったことないけど」
「あー、よかった……」
「何が」
「一軒目から食べたことある店だったら悔しいじゃないですか!」
「……ふーん」
「ここ、すっごい地味なんですよね。でもレビューの点が異常に高くて。ただ、その割に写真が少ないんですよ。つまり、写真撮る前に完食しちゃう味ってことです」
「どういう理屈だよ」
 言いながら、ふと先輩の歩く速度が少し落ちたのに気づいた。
 俺のほうが背が低い分、歩幅も狭い。さっきまでは一歩ぶん先を歩いていたのが、いつのまにか隣に並んでいる。
 ……やっぱり、先輩はこういう人なんだ。黙って百円を入れてくれたときと変わってない。
 俺は顔に出そうになるのを、必死でこらえた。
 
 店は、口コミにあったとおり本当に地味だった。
 白い暖簾に、筆で書いたような字で店の名前だけ。窓には簡素なメニュー。でも、引き戸を開けた瞬間に立ちのぼったスープの匂いで、俺は確信した。この店は間違いない。
 入り口脇の券売機の前で、俺は財布を取り出した。今日はちゃんと千円札が入っている。
「塩と醤油、あー、迷うな……」
「味玉は」
「え?」
 隣から、そんな声が飛んできた。
「つけるんだろ」
「……もちろんです!」
 先輩は先に自分の食券を買って、さっさと奥の席に座ってしまった。
 俺は少し悩んでから醤油を押した。もちろん、トッピングの味玉も。
 覚えてたんだ。
 なんでもない顔をしている先輩の横顔を見ながら、俺は口元が緩むのを必死に抑えて、その隣の席に座った。
 
 出てきた醤油ラーメンのスープは、驚くほど澄んでいた。
 琥珀色のスープの表面に、金色の油が薄く浮いてきらきらしている。
 まず、レンゲでスープを一口。
 鶏の甘み。そのあとから醤油の香りが追いかけてくる。塩気は強くないのに、ちゃんと舌に残る輪郭がある。
「……うっま」
 思わず声が出た。隣では、先輩が塩そばを黙々とすすっている。
「先輩、そっちどうですか」
「うまい」
「それだけですか?」
「他に何て言えばいいんだよ」
「もっとこう、あるじゃないですか! 香りとか舌触りとか!」
「……」
 先輩はメンマを一本つまんで、少し考えるように黙り込んだ。
「……昆布が強い」
「おお……!」
「以上」
「短い!」
 それからしばらくは、二人とも黙々と箸を動かした。
 麺をすすって、味玉を食べて、またスープを飲む。うまい。やっぱりうまい。
 ふと、視線を感じて顔を上げると、先輩と目が合った。
「お前、すげえ美味そうに食うな」
「だって美味しいじゃないですか!」
「そうだけど」
 先輩はそれ以上何も言わず、また自分の丼に戻った。
 気づけば、俺の丼も先輩の丼もきれいに空になっていた。
 店を出ると、外はまだ明るく、春の夕方の風が肌にやさしい。俺はぐっと伸びをした。
「一軒目、いいスタートでしたよね?」
「まあ」
 先輩が暖簾のほうを振り返って、ひとつまばたきをした。
「……当たりだった」
「ありがとうございます!」
「なんでお前が礼を言うんだよ」
 そう言われても、勝手に口元がゆるんでしまう。足まで浮ついているみたいで、気づけば俺はスキップするような勢いで先輩の半歩先を歩いていた。
 
 最寄り駅のコンコースの途中で、先輩が足を止めた。
「俺、こっちだから」
「はい! 今日はありがとうございました!」
「別に。俺も気になってた店だし」
「じゃあ――」
 俺がそう言いかけたところで、先輩がスマホを取り出しながら言った。
「次、どこ」
「……え?」
「来週の水曜」
 先輩は、特別な質問でもない、当然みたいな顔をして、俺を見ていた。
 頭の中が真っ白になって、返事がばらばらと散らかって、それから一気に沸騰する。
「えっと、候補が三つあって、一つは大学の裏の二郎系で、あそこは味が濃いんですけど夜しかやってなくて、あと環七沿いの家系が最近リニューアルしてて、それと隣駅の――」
「一個でいい」
「はい! あとで候補送ります!」
「一個に絞ってから送れよ」
 言いながら、先輩がふっと息を吐いた。笑ったのか、呆れただけなのか、わからない。
「はい!」
「じゃ、来週」
 先輩はそのまま改札のほうへ歩いていった。
 俺はその背中が見えなくなるまで、その場に突っ立っていた。
 
 ――次、どこ。
 ――じゃ、来週。
 会話と呼んでいいのかわからないくらい短いやりとりだったのに、顔がゆるんで戻らない。
「よーし!!」
 その日、俺はコンビニでノートを買って帰った。
 
 
【1軒目 4月某日 晴れ】
 先輩:塩、メンマ、麺硬め
 俺:醤油・味玉
 
 鶏の味がしっかりするのに重くない。最初は甘めで、あとから醤油がくる。細麺も合う。
 先輩「昆布が強い」
 先輩が俺の選んだ店を「当たり」って言った! 次も当てる!
 
 それから、水曜日が来るたび、ノートのページは少しずつ増えていった。
 
 +

「先輩、今十五分待ちだそうです」
「帰るわ」
「待ってください! ここ普段は二時間待ちなんですよ! 十五分くらい頑張りましょう!」

【3軒目 5月某日 くもり】
 先輩:煮干し塩・玉ねぎ
 俺:煮干し醤油・味玉
 
 煮干し強め。苦味は残らなくて、玉ねぎがちょうどいい。
 先輩、15分待ちで帰ろうとする。短気。
 
 +

「先輩、その厚切りチャーシュー一枚くれたり……」
「しねーよ」
「俺のメンマあげますから!」
「やだよ」
「チャーシューとメンマじゃレートが違うか……」
「そういう問題じゃねえ」

【5軒目 5月某日 晴れ】
 先輩:塩・厚切りチャーシュー・ねぎ
 俺:醤油・味玉・メンマ
 
 醤油は香り強めだけど、後味は軽い。
 先輩、スープ全部飲んだ。チャーシューはくれなかった。
 
 +
 
【7軒目 6月某日 小雨】
 先輩:塩・メンマ
 俺:生姜醤油・味玉
 
 早く終わったから、研究室まで迎えに行った。
 今日の発見:先輩、研究室では眼鏡!
 似合う。似合いすぎ。
 
 +
 
 八軒目を迎えるころには、道の脇の紫陽花が青く色づきはじめていた。
 昼すぎまで降っていた雨のせいで、アスファルトからはまだ濡れたにおいが立ちのぼっている。歩いているだけで、シャツがじっとりと背中に貼りついた。
 夕食の時間には少し早いせいか、店内は空いている。カウンターではなく、奥の小さな座敷席に通された。
 今日の一杯は、鶏と貝のだしを合わせたあっさり系。俺は塩、先輩はめずらしく醤油だった。
「俺、基本は醤油派なんですけど、今日の塩はかなりよかったな……」
 さっきのスープの味を思い返しながら、テーブルの向かいを見る。
 先輩は、追加で頼んだ杏仁豆腐を黙々と食べていた。
 俺は忘れないうちにノートを開いた。
 
『8軒目
 先輩、醤油。俺、塩。
 トッピング、それからデザートは――』
 
 ちら、と向かいを見ると、目が合った。
「それ、いつも何書いてんの」
「これですか? ラーメンの記録です」
「へえ。見せて」
「いいですよ」
 そう言ってノートを差し出しかけて、手が止まる。
「あっ、待ってください」
「何」
「今のページは駄目です!」
「なんでだよ」
「恥ずかしいからです!」
「ラーメンの記録なんだろ」
「ラーメン以外の情報も若干入ってるので!」
「はあ?」
 意味わかんねえ、という顔で言って、俺の手から取り上げたノートを開く。無情にも、今書いたばかりのページが先輩の目に晒される。
 
『デザート:杏仁豆腐。
 ラーメンの後は白米じゃなくて甘味なところもかわいい』

「なにが、『かわいい』だよ!」
「駄目って言ったのに読んで怒んないでください! 事実だし!」
「ラーメンの感想を書け、ラーメンの」
 そう言って、眉を寄せたままノートを雑に返してくる。
「かわいい」を全力で否定するかのような仏頂面で、残りをすくって一気に口に入れた。
「ごちそーさま」と小さく言って、伝票を持って立ち上がる。
「待ってください!」
 俺もノートをカバンに突っ込んで、慌てて靴を履く。
 さっさと会計を済ませて、店を出ていく先輩は振り返らない。
 ……もしかして、照れてる? そんなわけないか。
 でも、いつもより少し早足の背中を見ていると、なんでか胸のあたりがくすぐったくなる。
 これは俺の大事な記録だから、怒られても、やめないけど。