【1月某日】
先輩:帆立バター・大盛
俺:帆立バター・味玉
先輩、久しぶりの大盛。引っ越し準備でお腹減ってたらしい。
手伝いましょうかって言ったら、自分のレポートやれって言われた。
+
【1月某日】
先輩:汁なし担々麺・温玉・ねぎ
俺:担々麺・辛さ控えめ・味玉
辛いの挑戦しようと思ったのに、先輩に勝手に注文された。
俺も今度勝手に先輩の注文しよう。
+
【1月某日】
先輩:塩・メンマ・麺硬め
俺:醤油・のり
先輩の出発まであと五日。
終わりたくないな。
+
レンゲを口に運ぶたび、あと何口で食べ終わるか、つい数えてしまう。
最後のスープを飲み干すと、丼の底に赤い雷紋が見えた。
いつもの癖で『来週の店は』と考えかけて、慌てて打ち消した。
来週は、もうない。
ガラガラと引き戸を閉めると、スープの匂いと熱気が、あっという間に夜気に冷やされていった。よく晴れた空は濃紺で、きれいな三日月が浮かんでいた。
「おいしかったですね! 予約、ありがとうございました」
――本当に、終わってしまった。
約一年間、当たり前のように繰り返してきた水曜日。いつもなら「次は味噌ですね!」なんて言って弾むはずの足取りが、今日は重い。アスファルトを踏みしめるたびに、先輩を見送る日に近づいていくみたいで。
「引っ越し準備とか忙しいですよね。時間作ってもらってすみません」
「いや、もう荷物はほとんど詰めてるから」
「先輩の部屋、見てみたかったなあ」
すごく片付いてて、物が少なそうなイメージだ。
何気なく言った一言に、先輩が少し間を置いてから、短く言った。
「来る?」
+
駅から十分ほど歩いたマンションの部屋。片付いているどころか、もうほとんど何も残っていなかった。
先輩がローテーブルの前に腰を下ろしたのを見て、俺は少し迷ってからその横に座った。
何度もこうやって肩を並べたけど、いつもは目の前にラーメンがあった。今は、何もない。
箸もレンゲもない手を、膝の上で握ったり開いたりする。手持ち無沙汰を誤魔化すように、部屋を見回した。
壁際に、引っ越し屋のロゴが入った箱が積まれている。その脇には、大きなスーツケースが出番を待つように置かれていた。
先輩がどんな本を読んでいたのか、とか、どんなマグカップを使っていたのか、とか。
知りたかったものは、もう全部、段ボールの中なんだろう。
壁に、白く残った四角い跡がある。ここにカレンダーを貼っていたのかもしれない。
それをぼんやり眺めていると、先輩がふっと口を開いた。
「今日のノート、俺が書く」
「え?」
「いつもの。お前が書いてる俺観察日記」
「かっ、観察日記じゃないですよ!」
「いいから。持ってきてんだろ」
そう促されて、俺はしぶしぶリュックを開いた。
毎週持ち歩いて、角が少し折れて、表紙もところどころ剥げたノート。
先輩はそれを受け取ると、最後のページを開いてペンを取った。
【1月某日】
昴晴:醤油・味玉
俺:塩・メンマ
「……先輩、意外と字へたくそですね」
「うるせえな」
不思議な感覚だった。
これまで49軒分、俺が書いてきた記録の最後に、先輩の文字。
先輩は簡単に感想を書きこむと、改めてノートをパラパラめくった。そして、ちょっと笑ったり、変な顔をしたりした。
「これ、俺が持って行っていい?」
「えっ」
思いもよらない言葉に、俺は声を上げる。
「嫌です! 恥ずかしい!」
「今更何言ってんだ」
「だって……店のことより、先輩のことばっかり書いてあるし」
「だからだろ」
そう言って見つめられたら、俺は何も言い返せなくなった。
恥ずかしい。それに、この一年分の思い出が詰まったものだから、本当は手放したくない。でも――先輩に持っていてもらえるなら、それもいいのかもしれない。俺がどれだけ先輩を見ていて、どれだけ楽しかったか。全部、そこに書いてある。
「なくさないでくださいね」
念を押すと、先輩は「わかってるよ」と、いつもの口調で答えた。
「それにしても、よくこれだけ通ったよな、俺たち」
先輩が書いた最後のページ。50軒目の下の空白。わかっていたのに、胸が痛い。
「――そうだ!」
気づいたら、声が出ていた。
「ラーメンを制覇したから、次はカレー屋ベスト50、とかどうですか? その次はピザ!」
思い付きで言ってしまったけど、俺の口は止まらない。
「また50なのかよ」
「30でもいいです! ピザの次は和食で、その次は……えーと」
「……蕎麦とか?」
先輩が、助け舟を出してくれた。
「蕎麦! いいですね! 俺、麺類の中でも蕎麦はまだ全然詳しくないですけど、でも、美味い飯は世界中にもっと――」
その先は、言えなかった。
伸びてきた先輩の腕に引き寄せられて、言いかけた言葉ごと胸に押しつけられたから。
「せ、せんぱ……」
先輩の鼓動が聞こえる。
「ドイツにもラーメン屋あるから来ればいいし。ていうか、もう50とかそんなのなくても」
先輩が、一度息を吸うのがわかった。
「普通にお前と一緒にメシ食う。それだけ」
背中に回っていた腕に、わずかに力がこもるのがわかった。
おそるおそる顔を上げる。
いつもの不機嫌そうな顔じゃない。からかう色も、呆れた色もない。初めて見る、真剣な表情の先輩。
その視線が、俺の目から離れて、静かに唇のあたりへ落ちていく。
心臓が、どくんと跳ねた。
そのまま先輩は目を細めて、少しだけ首を傾けた。
――あ。
これって、もしかして。
俺は反射的に、両腕を顔の前で交差させた。
「だ、駄目です、先輩!」
先輩が、ぴたりと止まる。
「……何が」
「俺、さっきのラーメンニンニク増しにしちゃいました!」
言ってから、しまったと思った。
恐る恐る腕の隙間から見ると、先輩は横を向いて口元を押さえていた。肩が小さく震えている。
めちゃくちゃ笑ってる。
「わ、笑わないでください!」
「ていうか、今日の流れでニンニク追加しないだろ、普通」
「今日の流れ?」
「……」
先輩が急に真顔に戻って、目を逸らした。
「意識されなさすぎてムカついたから、俺も増しにしといた」
「なんでですか!?」
「知らねえよ」
「何に対抗してるんですか!?」
「だからムカついたって言ってんだろ」
先輩の手が、そっと頬に触れた。そのまま両手で包まれて、俺は反射的に目を閉じる。
あたたかい気配が近づいてきて、鼻の先に先輩の呼吸が触れて――やがて、やわらかい熱が落ちてきたのは、額だった。
「へっ……」
思わず声を漏らしてしまう。うっすらと目を開けると、すぐ目の前に先輩の顔があった。
びっくりするくらい優しい目が、逸らされることなくまっすぐ俺を見ている。
頬に添えられた手の親指が、つつくように小さく動いた。
「不満そうだな」
「そ、そんなことな……」
ない、と言い返そうとした唇に、先輩の唇が重なった。
触れるだけの、やわらかいキスだった。
気づけば、俺は先輩のセーターをぎゅっと握っていた。
唇が離れると、息が触れそうな距離で目が合って――今度は堪えきれずに、俺のほうから顔を上げた。
もう一度、唇が重なる。
頬にあった先輩の手が髪の中に滑り込んで、ゆっくり撫でていく。
唇の熱も、髪に触れる指の感触も、はじめてのそれは甘くて、優しくて――
先輩のことが好きだ、って、声にならない言葉だけが、胸の中をいっぱいに満たしていく。
やがて、ゆっくりと唇が離れる。
目を開けても、どんな顔をすればいいのかわからない。セーターを握った手は、まだ離せずにいた。
先輩の指が、そっと俺の耳たぶをつまんだ。
「……真っ赤」
「っ、それは、だって」
口がうまく動かない。触れ合っていた熱がまだ残ってるみたいで。
「ラーメン屋でも、よくこうなってた」
「そ、それは、スープが辛かったからです!」
「辛くない店でも赤かった」
「……!」
逃げ道を塞がれて、俺は思わず先輩を睨み上げる。
「先輩の隣にいたんだから当たり前です! ていうか、そんなとこ見てたんですか!?」
半ばヤケクソでそう言うと、先輩は目を丸くして、それから吹き出した。
「そうだよ、悪いか」
そう言って声を上げて笑う先輩を、俺は初めて見た。つられて俺も笑ってしまった。
毎週水曜日、俺は好きな人とラーメンを食べていた。
もしかしたら――あれはいつからか、デートだったのかもしれない。
これからも、俺は好きな人とラーメンを食べる。今度はちゃんとデートとして、世界中のどこでだって。
<了>

