先輩、卒業までに俺とラーメン屋50軒制覇してください!


 土曜の朝、スマホが震えてメッセージの着信を知らせた。
『体調戻ったなら、今日行けるか。予定してた店』
『行けるなら迎えに行く』
「えっ」
 思わず声が出てしまった。待ち合わせはいつも大学の正門か最寄り駅だった。わざわざ迎えなんて、なんで。
 理由はわからない。でも、今日は先輩に言わなきゃいけないことがある。ラーメン屋のカウンターじゃ、たぶん言えないことだ。
 俺は、『わかりました』と返信した。
 
 夕方、インターホンが鳴った。
 スニーカーに足を突っ込みながらドアを開けると、先輩が立っていた。
「あ、あの、先週はすみませんでした」
「そんなのは気にしなくていい。それより」
 先輩は一歩、玄関に入った。その後ろで、ドアが閉まる。狭い玄関が、急に息苦しくなった。
 中にどうぞ、と言うべきか。店に行きましょう、と言うべきか。
 いや、俺だって、今日は言わなきゃいけないことがある。
 口を開きかけた、そのとき。
「この前の話」
 先輩が低い声で切り出した。
「そういう話が来てる時点で、お前にもちゃんと言うべきだった。結果的に、変な無茶させたのは、悪かった」
 先輩が、わずかに目を伏せた。
 見たことのない神妙な様子に、俺は慌てて手を振った。
「なんで先輩が謝るんですか。早く来てほしいって言われたんでしょ。すごいじゃないですか」
 その言葉に、先輩の顔がさっと曇った。
「お前は、それでいいのか」
「いいも何も……先輩が目指してたところだから」
「そういうことじゃねえんだけど」
「え?」
「あのノートを読めば、お前が俺のこと見てるのは嫌ってほどわかった。なのに、この先どうしたいかは一行も書いてなかった」
「だって、あれは……」
 あれは、「記録」だから。未来のことを書くものじゃないから。
 書いてしまったら、俺が未来を求めていると認めてしまうことになるから――
「俺が向こうの話しても、いいですね、とか、将来ちゃんと考えます、とか言うし。クリスマスだって――」
「……え」
「だから、平気なんだと思った。お前と五十軒から先のこと考えてるのは、俺だけなんだと思ってた」
 ――平気。
 その言葉で、何かがぷつんと切れた。
「平気なわけないじゃないですか!」
 自分でも驚くくらいの声が出た。
 先輩が目を見開いて、「昴晴」と小さく呼ぶのが聞こえた。
 でも、止まれなかった。
「ほんとはいやだった! 昔彼女さんと行った店の話聞くのも、俺がいない日に濱本先輩と一緒に食べに行くのも! この先も俺と一緒にいて欲しい! でも行かないでいてほしいわけじゃないから言えなかった!」
 握った拳が震える。
「最初はただのひとめぼれだった! 百円入れてくれた、それだけで! だけど、一緒に過ごせば過ごすほど好きになって、ほんとはすっごく優しいのも、俺だけにだったらいいのにって思ってた!」
 券売機の前で、後ろから伸びてきた手。振り向いた先にあった、全然親切そうじゃない不愛想な顔。でも、今はもうその顔が笑ったり怒ったりするのを知ってる。
「50軒ぶん一緒に過ごしたら諦められると思ってたけど、ぜんぜん無理だった!」
 頬を、冷たいものが伝うのがわかった。かっこ悪すぎる。でも、もう取り繕うことなんてできない。
「平気なわけないです!もっと、一緒にいたいです」
 まるで百メートル走を全力疾走したみたいに、息が切れていた。
 玄関が、しんと静かになる。
「……ごめん、なさい」
 袖で乱暴に顔を拭う。
「今の、全部忘れてください」
「忘れられるか」
 背を向けようとした俺の手首を、先輩が掴んだ。
「さっきも言ったけど、俺はお前と50軒で終わる気ないから」
「な、なんで……」
 そう言うと、先輩が息を吐いた。
「……ここまで言って、まだわかんねえのかよ」
 掴んだ指先に、わずかに力がこもった。
「お前のことが好きだから」
 ――好き、というその音が頭の中で響いて、その意味が追いつかない。本当に、先輩が言った?
「そうじゃなきゃ、こんな面倒なこと考えねえよ」
 いつもの、ちょっとめんどくさそうな、なんでわかんねえんだよお前、っていう先輩の声。
 それで、やっと――先輩の言葉なんだとわかった。
 喉の奥が詰まって、息がうまくできない。でも、伝えなきゃ、と思った。
「俺も、50軒のあとがほしいです」
 掴まれていた手を、ぎゅっと握り返す。
「もっと一緒にいたいです。ドイツに行っても、帰ってきたときも、その先も」
 握った手に強い力が返ってきて、先輩の視線がまっすぐに俺の目を見つめた。
「待てるか」
「え?」
「……三年、離れるけど。待っててほしい」
 三年。
 水曜日にしたら、百五十六回。
 その間に俺は大学を卒業して、どこかで働き始めてるはず。
 うまく、想像できなかった。
 でも――待っててほしい、なんて。先輩が、俺に。
 気づいたら、顔は勝手に笑っていた。目の奥はまだ熱いままなのに。
「俺、人気のラーメン屋に三時間並べるんですよ。大好きな先輩を三年待つくらい余裕――」
 いつもの調子で言いかけて、俺は言葉を飲み込んだ。先輩が怪訝そうな顔をする。
「――無理かもしれません。だからたまには帰ってきてください」
 掴まれていた腕を引かれて、気づいたら先輩の胸の中にいた。
 セーター越しに、心臓の音が聞こえる。
 速い。俺と同じくらい。
「当たり前だ」
 耳のすぐ近くで、先輩の声が響く。
「先輩こそ、十五分並ぶのも無理なのに、三年も大丈夫ですか?」
 そう言って顔を上げると、びっくりするくらい近くに先輩の顔があった。困ったように笑っている。初めて見る顔だった。
「……無理かもな」
 そう言って、背中に回った腕に、ぎゅっと力がこめられるのがわかった。
 
 
【1月某日 晴れ】
 先輩:塩・メンマ・九条ねぎ
 俺:塩・味玉
 
 閉店ギリで間に合った!
 今日もうまかった! 先輩と食べるラーメンはいつもうまい!