俺は毎週水曜日、好きな人とラーメンを食べる。
ただし、デートではない。
+
「庄崎先輩、卒業までに、俺とラーメン屋50軒制覇してください!」
水曜日の昼休み。春の日差しが差し込む学食はいつも通りにぎやかだ。
窓際の席で、目の前のその人――庄崎基先輩は、箸を持つ手を止めた。
「……なんて?」
整った眉が、怪訝そうにひそめられる。
「ていうか、誰?」
「塩谷昴晴、社会学部二年です!」
「知らないんだけど」
「これから知ってもらえたらいいので!」
先輩が、表情を変えないまま黙って箸を置く。そして、少し長めの黒髪の下から覗く瞳が、まっすぐに俺を見た。
心臓がどくん、と大きく鳴る。
一年間、遠くから見ていた瞳が、今は俺だけを見ている。
――びびるな、俺。ここまで来たんだから。
「先輩、毎週水曜は学食で限定ラーメン食べてますよね」
「なんで知ってるんだよ」
「俺も毎週水曜はここでラーメンって決めてるんで」
膝の上でぎゅっと拳を握る。
「それに、先輩、去年ここで俺に百円出してくれたじゃないですか」
「百円?」
――あれは、一年前の四月だった。
+
大学に入学したばかりの俺は、曜日ごとに変わる学食の限定メニューを楽しみにしていた。
中でも一番は、水曜日のラーメン。普段は醤油と味噌の二択だけど、水曜日だけはスープも具も週替わりの限定仕様になる。ラーメン好きとしては見逃せない。
ようやく食べに来られたその日――
まず味玉。これは外せない。
先にトッピングの食券を買って、さて肝心の限定ラーメンを――とボタンに手を伸ばしたところで、俺は財布の中を見て固まった。
「げっ、百円玉! ない!」
小銭入れをひっくり返す。十円玉が数枚。慌てて札入れも開いたが、そっちは空だった。そうだ。昨日、本屋で『東京ラーメン完全ガイド』を買って――
席を取りに行った友達に借りに行くか? でも、限定ラーメンのボタンには『残り1』の表示。俺の後ろには長い列ができている。並び直したら、きっとなくなる。
――どうする。味玉だけ食べるのか、俺。
仕方ない。限定は諦めて、友達に金を借りて別のものを食べよう。
そう決めて列を抜けようとした、そのときだった。
後ろから、黒いシャツの腕が伸びてきて、長い指が、硬貨投入口に百円玉を入れた。
「えっ」
かしゃん、と硬貨が落ちる。
驚いて振り向くと、俺より少し高いところから、涼しげな目がこっちを見ていた。
「早く買えよ」
「え?」
「限定ラーメンだろ」
「はっ、はい!」
促されるままにボタンを押すと、『限定ラーメン』の横に『売切』の赤い文字が点灯する。すると、「あ、ラスいちだったのか」と、その人は平坦な声で言った。
「あの、もしかしてこれ買うつもりだったんじゃ」
俺は慌てて、出てきたばかりの食券を差し出した。
「俺、別のにするんで! これどうぞ!」
「いいよ別に」
そう言って、その人は財布から出した千円札を券売機に入れる。そして、こちらを見ることもなく『唐揚げ定食』のボタンを押した。
「え、でも」
「また水曜に来ればいいし。食いたかったんだろ」
「は、はい……」
俺は、小さな食券を握り締めたまま、その背中が定食のカウンターに並ぶまで、動けなかった。
席に戻って、さっそく味玉を割る。半熟の黄身を一口かじって、スープをすすった。
うまい。評判どおりだ。
「昴晴、そんなにうまいの、そのラーメン」
向かいに座った友人が、パンを齧りながら言った。
「え?」
「さっきからずっとにやけてる」
俺は慌てて口元を押さえた。
もちろん、ラーメンはうまい。でも、たぶんそれだけじゃない。
さっきの人が、俺たちのテーブルから少し離れた窓際の席にいるのが見える。
黒いシャツの袖を少しだけ捲って、黙々と箸を動かしている。
隣に座っていた男子学生が、肘で小突くようにして、
「庄崎ー、さっきの発表マジでよかったな。四年が真顔で拍手してたぞ」
「うるせえな。静かに飯食わせろ」
――庄崎。庄崎先輩。
心の中で、そっと繰り返す。名前を知っただけなのに、今すぐどこかへ走り出したい気分だ。体の中が落ち着かなくて、心臓がやたらとうるさい。
それから俺は、毎週水曜日は学食へ行くようになった。
+
「あのときの……味玉だけ買って金足りなくなってたやつ」
「う……はい」
改めて言われると恥ずかしい。
「とにかく、そのお礼と言ってはなんですが、ラーメン屋50軒を一緒に制覇したいんです!」
「礼か? それ」
どういう理屈だ、とでも言いたげに先輩が目を細める。
「50って、なんか理由あんの?」
「一年って、だいたい五十二週じゃないですか。毎週一軒行けば50軒いけます! 二回も休めます!」
「毎週行く前提なのかよ」
「はい!」
「卒業三月なんだけど」
「休んだ週は別日に振り替えればいけます!」
「もう計算破綻してんじゃねえか」
先輩が呆れたように俺を見た。
「そもそも、なんで俺なんだよ」
「え」
「ラーメン好きなやつなら他にもいるだろ」
「それは……先輩が、毎週ラーメン食べるくらいのラーメン狂だからです!」
「俺を狂人にするな」
「あと、前に百円出してくれましたし!」
「百円で一年拘束されんの?」
「拘束じゃないです! 一緒に制覇です!」
先輩の眉間の皺が深くなった……ような気がするけど、俺は構わず続ける。
「店ももう選んであります!」
そう言って、脇に抱えていたグルメ情報誌を差し出した。カラフルな表紙に大きな文字で『ラーメン』。ページの端から付箋がいくつも飛び出している。
「最新の『東京ラーメン完全ガイド』、この中から50軒選びました!」
「選んだって、どういう基準で?」
「あっさりからこってりまで、なるべく偏らないように。あと、大学からの距離と営業時間と定休日もチェックしました!」
「……本気だな」
先輩がようやく手を出して、雑誌を受け取ってくれた。ぱらぱらとページをめくる。
俺はなんだか、試験の答案を返されるのを待っているときみたいに、そわそわした。
「なんで一年なんだよ」
不意に向けられた当たり前の疑問に、俺は小さく息を飲む。
「あ、えっと……」
さっきまでぽんぽん出てきていた言葉が、そこで初めて止まってしまった。
卒業までの一年。理由はひとつだ。
でも、口に出した途端、本当に期限が決まってしまうような気がして、すぐには言葉が出なかった。
先輩は何も言わず、俺の返事を待っている。
「……先輩、卒業したら海外に行っちゃうんですよね」
庄崎先輩は来年、大学を卒業する。卒業後は、海外で研究を続けるらしい。春休み明けに、学食で研究室の人と話しているのがたまたま耳に入った。
「庄崎、向こう行ったら日本のラーメン恋しくなるんじゃね?」
「知らねえよ」
「ドイツ三年だろ? 絶対禁断症状出るって」
「向こうにもラーメン屋くらいあるだろ」
なんて、他愛のない日常会話みたいに交わされていたのを聞いてしまったとき。
俺は、箸で持ち上げていた味玉を、ぽちゃんとスープに落とした。
どのみち卒業すれば、学食では会えなくなる。そんなのわかっていた。でも。
――ドイツ。三年。
そんな具体的な言葉に、来年の水曜日にここへ来ても、もう先輩はいないんだということが、急に現実になった。
先輩が日本にいるのはあと一年。
恋人になれるなんて思ってない。好きだと伝えるつもりもない。
でも、一年ある。週に一回でだいたい50。50回、一緒に大好きなラーメンを食べたい。
「だから、それまでに50軒、です」
先輩は口をつぐんだまま、俺の顔と、『東京ラーメン完全ガイド』を交互に見た。
付箋だらけのページを二、三枚めくる。
眉間に少し皺が寄ったその表情は、呆れているようにも、何か難しいことを考えているようにも見える。
やがて先輩が、
「……しょうがねえな」
と、小さくため息をつきながら、頬杖をついた。
「日本にいるうちに行っときたい店、俺もあるし」
「えっ、じゃあ」
「水曜なら。他の日は無理」
「大丈夫です! 俺、今年のカレンダーの水曜、全部このために空けてあるんで!」
「……怖いな、お前」
「準備がいいって言ってください!」
呆れられているのに、頬が勝手にゆるむ。立ち上がって、その辺を走り回りたいくらいだった。
やった。来週も、その次の水曜日も、先輩とラーメンが食べられる。
――こうして、俺と庄崎先輩のラーメン屋めぐりが始まった。
ただし、デートではない。
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「庄崎先輩、卒業までに、俺とラーメン屋50軒制覇してください!」
水曜日の昼休み。春の日差しが差し込む学食はいつも通りにぎやかだ。
窓際の席で、目の前のその人――庄崎基先輩は、箸を持つ手を止めた。
「……なんて?」
整った眉が、怪訝そうにひそめられる。
「ていうか、誰?」
「塩谷昴晴、社会学部二年です!」
「知らないんだけど」
「これから知ってもらえたらいいので!」
先輩が、表情を変えないまま黙って箸を置く。そして、少し長めの黒髪の下から覗く瞳が、まっすぐに俺を見た。
心臓がどくん、と大きく鳴る。
一年間、遠くから見ていた瞳が、今は俺だけを見ている。
――びびるな、俺。ここまで来たんだから。
「先輩、毎週水曜は学食で限定ラーメン食べてますよね」
「なんで知ってるんだよ」
「俺も毎週水曜はここでラーメンって決めてるんで」
膝の上でぎゅっと拳を握る。
「それに、先輩、去年ここで俺に百円出してくれたじゃないですか」
「百円?」
――あれは、一年前の四月だった。
+
大学に入学したばかりの俺は、曜日ごとに変わる学食の限定メニューを楽しみにしていた。
中でも一番は、水曜日のラーメン。普段は醤油と味噌の二択だけど、水曜日だけはスープも具も週替わりの限定仕様になる。ラーメン好きとしては見逃せない。
ようやく食べに来られたその日――
まず味玉。これは外せない。
先にトッピングの食券を買って、さて肝心の限定ラーメンを――とボタンに手を伸ばしたところで、俺は財布の中を見て固まった。
「げっ、百円玉! ない!」
小銭入れをひっくり返す。十円玉が数枚。慌てて札入れも開いたが、そっちは空だった。そうだ。昨日、本屋で『東京ラーメン完全ガイド』を買って――
席を取りに行った友達に借りに行くか? でも、限定ラーメンのボタンには『残り1』の表示。俺の後ろには長い列ができている。並び直したら、きっとなくなる。
――どうする。味玉だけ食べるのか、俺。
仕方ない。限定は諦めて、友達に金を借りて別のものを食べよう。
そう決めて列を抜けようとした、そのときだった。
後ろから、黒いシャツの腕が伸びてきて、長い指が、硬貨投入口に百円玉を入れた。
「えっ」
かしゃん、と硬貨が落ちる。
驚いて振り向くと、俺より少し高いところから、涼しげな目がこっちを見ていた。
「早く買えよ」
「え?」
「限定ラーメンだろ」
「はっ、はい!」
促されるままにボタンを押すと、『限定ラーメン』の横に『売切』の赤い文字が点灯する。すると、「あ、ラスいちだったのか」と、その人は平坦な声で言った。
「あの、もしかしてこれ買うつもりだったんじゃ」
俺は慌てて、出てきたばかりの食券を差し出した。
「俺、別のにするんで! これどうぞ!」
「いいよ別に」
そう言って、その人は財布から出した千円札を券売機に入れる。そして、こちらを見ることもなく『唐揚げ定食』のボタンを押した。
「え、でも」
「また水曜に来ればいいし。食いたかったんだろ」
「は、はい……」
俺は、小さな食券を握り締めたまま、その背中が定食のカウンターに並ぶまで、動けなかった。
席に戻って、さっそく味玉を割る。半熟の黄身を一口かじって、スープをすすった。
うまい。評判どおりだ。
「昴晴、そんなにうまいの、そのラーメン」
向かいに座った友人が、パンを齧りながら言った。
「え?」
「さっきからずっとにやけてる」
俺は慌てて口元を押さえた。
もちろん、ラーメンはうまい。でも、たぶんそれだけじゃない。
さっきの人が、俺たちのテーブルから少し離れた窓際の席にいるのが見える。
黒いシャツの袖を少しだけ捲って、黙々と箸を動かしている。
隣に座っていた男子学生が、肘で小突くようにして、
「庄崎ー、さっきの発表マジでよかったな。四年が真顔で拍手してたぞ」
「うるせえな。静かに飯食わせろ」
――庄崎。庄崎先輩。
心の中で、そっと繰り返す。名前を知っただけなのに、今すぐどこかへ走り出したい気分だ。体の中が落ち着かなくて、心臓がやたらとうるさい。
それから俺は、毎週水曜日は学食へ行くようになった。
+
「あのときの……味玉だけ買って金足りなくなってたやつ」
「う……はい」
改めて言われると恥ずかしい。
「とにかく、そのお礼と言ってはなんですが、ラーメン屋50軒を一緒に制覇したいんです!」
「礼か? それ」
どういう理屈だ、とでも言いたげに先輩が目を細める。
「50って、なんか理由あんの?」
「一年って、だいたい五十二週じゃないですか。毎週一軒行けば50軒いけます! 二回も休めます!」
「毎週行く前提なのかよ」
「はい!」
「卒業三月なんだけど」
「休んだ週は別日に振り替えればいけます!」
「もう計算破綻してんじゃねえか」
先輩が呆れたように俺を見た。
「そもそも、なんで俺なんだよ」
「え」
「ラーメン好きなやつなら他にもいるだろ」
「それは……先輩が、毎週ラーメン食べるくらいのラーメン狂だからです!」
「俺を狂人にするな」
「あと、前に百円出してくれましたし!」
「百円で一年拘束されんの?」
「拘束じゃないです! 一緒に制覇です!」
先輩の眉間の皺が深くなった……ような気がするけど、俺は構わず続ける。
「店ももう選んであります!」
そう言って、脇に抱えていたグルメ情報誌を差し出した。カラフルな表紙に大きな文字で『ラーメン』。ページの端から付箋がいくつも飛び出している。
「最新の『東京ラーメン完全ガイド』、この中から50軒選びました!」
「選んだって、どういう基準で?」
「あっさりからこってりまで、なるべく偏らないように。あと、大学からの距離と営業時間と定休日もチェックしました!」
「……本気だな」
先輩がようやく手を出して、雑誌を受け取ってくれた。ぱらぱらとページをめくる。
俺はなんだか、試験の答案を返されるのを待っているときみたいに、そわそわした。
「なんで一年なんだよ」
不意に向けられた当たり前の疑問に、俺は小さく息を飲む。
「あ、えっと……」
さっきまでぽんぽん出てきていた言葉が、そこで初めて止まってしまった。
卒業までの一年。理由はひとつだ。
でも、口に出した途端、本当に期限が決まってしまうような気がして、すぐには言葉が出なかった。
先輩は何も言わず、俺の返事を待っている。
「……先輩、卒業したら海外に行っちゃうんですよね」
庄崎先輩は来年、大学を卒業する。卒業後は、海外で研究を続けるらしい。春休み明けに、学食で研究室の人と話しているのがたまたま耳に入った。
「庄崎、向こう行ったら日本のラーメン恋しくなるんじゃね?」
「知らねえよ」
「ドイツ三年だろ? 絶対禁断症状出るって」
「向こうにもラーメン屋くらいあるだろ」
なんて、他愛のない日常会話みたいに交わされていたのを聞いてしまったとき。
俺は、箸で持ち上げていた味玉を、ぽちゃんとスープに落とした。
どのみち卒業すれば、学食では会えなくなる。そんなのわかっていた。でも。
――ドイツ。三年。
そんな具体的な言葉に、来年の水曜日にここへ来ても、もう先輩はいないんだということが、急に現実になった。
先輩が日本にいるのはあと一年。
恋人になれるなんて思ってない。好きだと伝えるつもりもない。
でも、一年ある。週に一回でだいたい50。50回、一緒に大好きなラーメンを食べたい。
「だから、それまでに50軒、です」
先輩は口をつぐんだまま、俺の顔と、『東京ラーメン完全ガイド』を交互に見た。
付箋だらけのページを二、三枚めくる。
眉間に少し皺が寄ったその表情は、呆れているようにも、何か難しいことを考えているようにも見える。
やがて先輩が、
「……しょうがねえな」
と、小さくため息をつきながら、頬杖をついた。
「日本にいるうちに行っときたい店、俺もあるし」
「えっ、じゃあ」
「水曜なら。他の日は無理」
「大丈夫です! 俺、今年のカレンダーの水曜、全部このために空けてあるんで!」
「……怖いな、お前」
「準備がいいって言ってください!」
呆れられているのに、頬が勝手にゆるむ。立ち上がって、その辺を走り回りたいくらいだった。
やった。来週も、その次の水曜日も、先輩とラーメンが食べられる。
――こうして、俺と庄崎先輩のラーメン屋めぐりが始まった。

