作画が良すぎるクラスメイトと、毎日BL漫画を読むことになりました

 迎えた日曜日。サイン会当日。
 会場である大型書店のイベントスペース前で、俺は緊張のあまり生まれたての小鹿のように膝をガクガクと震わせていた。

(あ、あ、先生が……このパーティションの向こうに実在している……!!)

 手に握りしめた『影と光のジレンマ』完結巻と、参加確定のメール。
 隣には、休日仕様の私服──黒のタートルネックにロングコートという、これまた無駄に作画が良いスタイル──で静かに佇む黒木の姿があった。

「浅香。息してる?」

「してる! 待って、黒木。俺、ほんとに先生の前に立ったら『尊い』しか言えなくなる。語彙力が崩壊するかもしれない……!」

「大丈夫だ。お前がパニックになったら、俺が横から説明してやる」

 さらりと、そう言ってのける黒木。……かっこよすぎるだろ、何なんだよ。三次元のスパダリ属性高すぎないか!?

 そして、ついに俺の順番がやってきた。

「受付番号4番のお客様、どうぞ──」

 パーテーションの奥に座っていたのは、品のある淡い藤色の着物に身を包んだ、和風で落ち着いた雰囲気の女性だった。眼鏡の奥から、柔らかな眼差しがこちらに向けられる。あの重厚で繊細な『影と光のジレンマ』を描いているとは思えないほど、温かく穏やかなオーラを纏った人。
 先生は優しく微笑みながら、俺が差し出したコミックスの扉ページに、スラスラと神がかったサインを描いていく。

「……あのっ! 先生っ!!」

 溢れ出す情熱を抑えきれず、俺は前のめりで捲し立てた。

「『影と光のジレンマ』、本当に最高の作品をありがとうございました! 影山と光希がお互いの欠落を埋め合って最後に結ばれるシーン、作画も心理描写も神すぎて百回は読み返しました! 二人が生きてる世界を生み出してくれて、本当に感謝しかないです……っ!!」

 限界オタク特有の早口と熱量。
 一軍の男子たちの前なら「引かれる」と絶対に出せない本当の自分。

 先生は目を見開き、それからすごく嬉しそうに目を細めてくれた。

「ありがとうございます! そんなに熱く読んでもらえて、作家冥利に尽きます。……あ、もしかして隣の方はお友達ですか?」

「え?」

 振り向くと、黒木が少し離れた位置から、どこか誇らしげで、とびきり優しい眼差しで俺のことを見つめていた。
 先生は微笑みながら、サインの横に小さなイラストを描き加えてくれた。

「なんだか、お二人を見ていると……影山と光希みたいで素敵ですね。影山みたいに、あなたを優しく見守ってくれる人を、これからも大事にしてくださいね」

「へ……っ!?」

 先生から告げられた衝撃の言葉に、俺の顔は一瞬で熱くなった。

 夢のようなサイン会を終えて、イベントスペースを出た頃には、俺の足元は完全にふわふわと浮いていた。



「……浅香。お前、ずっと顔赤いけど」

 書店を出て、近くの公園のベンチ。
 自販機で買ってきた温かいココアを俺の頬にポンと当てながら、黒木が隣に腰掛けた。

「ひゃいっ!? あ、ありがとう……」

 缶ココアを受け取り、両手で抱える。
 秋の涼しい風が吹く中、ココアの温もりと、手元にある神先生のサイン本。そして隣にいる黒木。
 夢みたいな時間のはずなのに、先生の言葉が頭の中でグルグルとリフレインしていた。

『あなたを優しく見守ってくれる大切な人』

(違う……。黒木と俺は、ただのBL漫画の貸し借りをするクラスメイトで、口止め料の付き合いで……)

 必死に言い訳を探そうとする俺の脳内コンピュータに、ふと一つの問いが浮かぶ。

 ――本当に、ただの口止め料か?

 ただの口止め料で、毎日放課後図書室につき合ってくれるか?
 ただのクラスメイトのために、昼休みに争奪戦のサイン会チケットを取ってくれるか?
 こんなに優しく髪を撫でて、真剣な目で「お前が好きだ」なんて言ってくれるか?

(二次元のBLは、紙の上だから尊いと思ってた。現実の男同士なんて、有り得ないと思ってた……)

 だけど、目の前にいる黒木蓮という三次元の男は。
俺が「擬態陽キャ」として隠し通してきた嘘の仮面をあっさり剥ぎ取って、情けなくてキモいオタクの俺を丸ごと受け止めてくれたのだ。

 二次元の萌えでも、フィクションの胸キュンでもない。
 黒木に触れられるたび、見つめられるたびに暴走していたこの心臓のバクバクは――間違いなく、三次元のリアルな『恋』だった。

「……黒木」

「ん?」

「なんで……俺なんだよ」

 ココアの缶をギュッと握りしめ、俯いたまま絞り出すように尋ねた。

「学校には可愛い女子もたくさんいるし、黒木なら誰とでも付き合えるだろ? 俺はオタクだし、クラスでは嘘の笑顔作ってる情けない奴だし……二次元に逃げてばっかりの三次元じゃだめだめな奴なのに……」

 ずっと胸の奥に引っかかっていた、引け目と問いかけ。
 隣で、黒木が小さく息を吐く音がした。
 その瞬間、俺の手からココアの缶が奪われ、代わりに黒木の大きくて温かい手が俺の手を包み込んだ。
 指と指がすり抜け、しっかりと噛み合わさる恋人繋ぎだった。

「っ……黒木!?」

 跳ね上がる俺の顔を、黒木は逃がさないようにまっすぐに見つめていた。
 夕日を浴びた瞳が、驚くほど真摯に揺れている。

「学校でへらへら笑ってるお前を見てた時、ずっと胸がもやもやしてた」

「え……?」

「でも、あの駐輪場で、目を輝かせて漫画の話をしてくれた時……初めてお前の『本当の顔』を見た気がした」

 黒木は、手にぎゅっと力を込めた。

「必死で、不器用で、大好きなもののために一生懸命な浅香悠人が、俺はめちゃくちゃ愛おしいと思ったんだよ。……周りに合わせて作ってる仮面なんかより、俺の前で見せるお前の方が、何百倍も可愛い」

「なっ……!」

 三次元のイケメンから投げかけられた、あまりにも重く、あまりにもストレートな本気の求愛。

「二次元の漫画の中の男じゃねぇ。……俺を見ろ、悠人」

 初めて、下の名前で呼ばれた。
 その低くて熱い声が耳から脳へと伝わり、全身の血が一気に沸騰する。

(だめだ……もう「からかわれてる」なんて逃げ道、どこにもない……!!)

 俺は赤面で爆発しそうな顔を必死に黒木の胸元に押し付け、弱々しく彼の服を掴んだ。

「……ずるい……ずるすぎるだろ、黒木……っ!!」

「ずるくねぇよ。……で、お前の返事は?」

 頭の上から降ってくる、どこか意地悪で、けれど愛おしさに満ちた黒木の声。
 紙の上の二次元しか愛せなかったはずの俺の恋の方程式が、いま完全に解かれようとしていた──。