作画が良すぎるクラスメイトと、毎日BL漫画を読むことになりました

 日曜日の試着室での出来事から、俺の頭は完全におかしくなっていた。

『もう口止め料とか、どうでもいい』

『俺、お前と放課後会うの、漫画読むためだけじゃねぇよ』

 耳元で囁かれた低く熱い声。重なる額から伝わってきたあたたかい体温。
 自分の部屋のベッドの上で転がりながら、俺は買ってきたばかりの『影と光のジレンマ』特装版を胸に抱きしめ、何度も悶絶していた。

(落ち着け、俺……! 浮かれるな、浅香悠人! お前は筋金入りの腐男子だろ!? 騙されるな!!)

 脳内の腐男子データベースが、必死に警戒アラートを鳴らし続けている。
 二次元の男同士の恋愛は『至高の尊さ』だが、現実の三次元となれば話は別だ。現実の男子高校生──しかも学校で女子にモテまくっている一匹狼が、よりによって「擬態陽キャの隠れオタク」である俺に本気で好意を寄せるわけがないのだ。

(そうだよ……! あれは絶対、『影と光のジレンマ』の影山のセリフを真似して、俺をからかっただけだ! あいつ、最近BLの心理描写を面白がって分析してたし、俺が赤くなってパニくるのを見て楽しんでたんだ……間違いない!!)

 そう自分に言い聞かせると、なぜか胸の奥がキュッと痛んだ。
 ……分かっている。黒木がそんな意地の悪い嘘をつく奴じゃないことくらい。
 だけど、三次元の恋愛なんて、漫画みたいに上手くいくはずがない。もしあれが本気だったら、俺はこれから黒木とどう接すればいいんだろう。



 そんな葛藤を抱えたまま、月曜日の昼休みを迎えた。
 一軍グループの男子たちと机を囲み、「まじで?」「それな〜」と慣れた愛想笑いを浮かべながら、俺は机の下でスマホの画面を凝視し、顔面を蒼白にさせていた。
 画面に表示されているのは、『影と光のジレンマ』公式SNSの緊急告知。

『【特大ニュース!】完結記念! あまの宵先生のサイン会開催決定! 本日正午よりWeb先着予約スタート(限定50名様)』

(サ、サイン会……!? あまの先生が、リアルに目の前に……!?)

 ファンとして絶対に逃せない一生に一度のチャンス。
 俺は一軍グループの「今度の日曜カラオケ行こうぜ」という会話を聞くフリをして「行く行く〜!」と適当に相槌を打ちつつ、震える指先で予約ページを開き、12時になった瞬間にリロードボタンを連打した。

 ──アクセス集中。画面が真っ白になる。

(頼む……! 繋がってくれ……!)

 祈るような思いで指が千切れるほど再読み込みを繰り返したが、数十秒後、画面に表示されたのは無情な『予定数終了』の文字だった。

(終わった……。限定50名、秒で蒸発した……)

 あまりのショックに、その場で魂が口から抜け出しかけた。
 大好きな作品の、最初で最後のサイン会。オタクとして、これ以上の敗北はない。

「あれ、悠人? なんか顔色悪くない?」

「え? あ、ううん! なんでもない! ちょっと風邪っぽくて」

 武田に心配されて、俺は咄嗟に「陽キャの佐藤くん」の仮面を張り直し、ひきつった笑顔で誤魔化した。
 本当は今すぐ叫びだしたいほど悲しい。泣きたいほど悔しい。
 だけど俺は、学校ではこの悲しみを誰にも打ち明けることができないのだ。この陽キャの仮面を被っている限りは。

 二次元の推し活にも惨敗して、三次元のリアルな問題にも頭を悩ませ、俺の精神状態は完全に限界を迎えていた。



 放課後。
 俺はふらふらとした足取りでいつもの席に向かった。サイン会に落ちたショックと、黒木とどう接していいか分からない緊張感で、胃が痛い。

 黒木はすでに席に座っていた。夕日を浴びながら、文庫本を読んでいる。……相変わらず、絵画みたいに作画が良い。

「……遅い」

「ごめん……ちょっと用事があって……」

 俺が力なく向かいの席に座ると、黒木は本を閉じ、じっと俺の顔を覗き込んできた。

「……浅香。お前、なんかあった?」

「え? な、なんでもないよ! 元気元気!」

「嘘つけ。顔死んでる」

 見抜かれてしまった。黒木の前では、俺が必死に作り込んでいる仮面なんて何の意味もなさない。
 試着室でのこと、二次元と三次元の壁、そして今日のサイン会の惨敗。いろんなことが重なりすぎて、ついに目の奥が熱くなってきてしまった。

「……あのさ、黒木」

「ん?」

「俺って……本当にだめな奴だなと思って」

「は?」

 俯いたまま、ぽつりぽつりと吐き出す。

「学校では、周りに嫌われないように必死で嘘の笑顔作ってさ……大好きな漫画のサイン会も、先着漏れて行けなくて……。オタクとしても、人間としても、全部中途半端なんだよ、俺……」

 情けなくて、惨めで、ポロポロと涙がこぼれ落ちそうになった。
 すると、黒木は呆れたように大きなため息をついた。

「……お前、本当にバカだな」

「うっ……知ってるよ……」

 ストレートすぎる言い方に、さらに自己肯定感が削られていく。

 黒木は小さくため息をつくと、ポケットから自分のスマホを取り出した。
 そして、画面をこちらに向け、目の前の机の上にスッと滑らせてきた。

 画面に表示されていたのは、一通のメールだった。

『【重要】影と光のジレンマ 完結記念サイン会 参加確定のお知らせ(受付番号:04)』

「……え?」

 涙目で目を見開く俺に、黒木はいつもの無表情のまま、どこか照れくさそうにそっぽを向いて呟いた。

「昼休み、お前がスマホ見て青い顔してたから、嫌な予感がして俺もアクセスしてみたんだよ。……なんとか一般枠で取れた。メール、お前の宛名に転送しとく」

「え……えええええええっ!? く、黒木が一般枠の争奪戦を……!?」

 思わず大声を上げそうになり、慌てて両手で口を塞ぐ。
 あのアクセス集中で真っ白になっていた悪夢を思い出す。黒木もあの激戦の中、自分のスマホで何度もリロードを繰り返してくれていたのだ。

「うちの店でやるイベントだから、一般予約のシステムと繋がりやすいコツはなんとなく知ってただけ。……お前が、この漫画の話をしてる時の顔……すごく嬉しそうだから。行けなかったら泣くだろうなと思って」

 黒木はそう言うと、机越しに手を伸ばし、俺の頭を乱暴に、だけどとびきり優しく撫で回した。

「中途半端でもいいだろ。……俺は、一生懸命なお前を見てるのが好きなんだけど」

「っ……!!」

 さらりと吐き出された、本気すぎる言葉。
 目の前のメールと、頭に残る手から伝わる確かな体温。
 「からかわれている」なんて言い訳は、もう二度と使えなかった。

(だめだ……三次元のイケメンがスパダリすぎる! 心臓が爆発する……!!)

 ポロポロとこぼれ落ちる涙を手で拭う。

 俺の脳内腐男子フィルターは完全にキャパオーバーを起こし、真っ赤になった顔を隠すことで精一杯だった。