あっという間に、日曜日はやってきた。
俺は駅前の時計台の前で、落ち着かない心地のまま何度も足踏みを繰り返していた。
学校での制服姿とは違う、休日用の私服。一軍グループの男子たちと街を歩いても浮かないよう、流行りのブランドで固めた無難で「それっぽい」コーディネートだ。けれど、今日の俺にはどうにもその服が肌に馴染まず、そわそわと襟元を弄ってしまう。
(大丈夫……落ち着け俺。今日は単に、黒木のバイト先の社割を使って限定ペーパー付きのコミックスをゲットしに来ただけだ。オタク活動だ。け、決してデートとかそういうイベントではない……!)
自分に言い聞かせるように心の中で呟いた、その時だった。
「……何ひとりで挙動不審になってんだよ」
頭上から降ってきた低く落ち着いた声に、心臓が跳ね上がった。勢いよく振り向く。
そこに立っていたのは、黒のオーバーサイズシャツに細身のパンツを合わせた黒木だった。前髪を少しだけワックスで散らしており、ただでさえ良い作画が休日仕様で完全に上限突破している。待ち合わせ場所を行き交う女子高生たちが、チラチラと彼を振り返っていた。
「く、黒木……!
「知ってる。……私服、似合ってんじゃん」
さらりと吐き出された素直な褒め言葉に、熱が耳の先まで一気に駆け上がっていくのが分かった。
「お前もな……っていうか、格好良すぎて目立ちすぎなんだよ……」
「そう? 普通だろ。……ほら、早く行こう。フェア限定ペーパー、無くなったら困るんだろ」
「あ、待って!」
俺は慌てて黒木の少し後ろを追うようにして、隣町の大型書店へと向かった。
◇
目的のアニメ・コミックフロアは、人気レーベルのフェア初日ということもあって熱気に包まれていた。
しかし、そこはバイト店員である黒木の真骨頂だった。迷いのない足取りで俺を案内し、取り置き棚と社割カードをスムーズに駆使してくれたおかげで、俺は喉から手が出るほど欲しかった『影と光のジレンマ』の限定描き下ろしペーパー付き特装版コミックスを、無事に手に入れることができた。
「……見てくれ、黒木! この表紙の描き下ろしイラスト! 影山が光希の腰を引き寄せてるこの角度、本当に神がかってる……!」
「……街中で大声出すな。あと、表紙を俺の顔の前に急に突きつけるな」
呆れ顔を見せつつも、黒木は差し出されたコミックスの表紙をまじまじと見つめた。表紙に描かれた二人の距離感や繊細なタッチを確認するように視線を滑らせて、「……確かに、作画綺麗だな」とぽつりと呟く。
自分の大好きな作品、大好きな世界観を、隣の人間が一緒に尊重し、共感してくれる。ただそれだけのことが、胸の奥をじんわりと温かく満たしていくのが分かった。
会計を終えて、宝物の入った紙袋を大事に抱える俺に、黒木がふと視線を落とした。
「この後、服見に行きたいんだけど」
「え、もちろん! 買い物付き合う!」
◇
書店を出て、近くの大型ショッピングモールへ移動した。
照明の明るいおしゃれなアパレルショップに入り、黒木がいくつかジャケットやカーディガンを手に取って身体に合わせているのを、俺は少し離れた場所から眺めていた。……うん、何を着てもスタイルが良すぎて、まるで雑誌のモデルだ。
「浅香、これどう?」
黒木が鏡の前で自分の身体に当ててみせたのは、深みのあるグリーンのカーディガンだった。
「絶対似合う! 黒木の肌の白さに映えると思う!」
「そうか。じゃあ、これ一回着てみる」
黒木はそう言って、壁沿いにある試着室の厚手のカーテンを開けた。
その時だった。
「──あれ、浅香じゃね?」
店内を流れる洋楽のBGMを切り裂いて、聞き覚えのあるノリの軽い声が響いた。
一瞬で息が止まり、全身の血の気が引く音がした。恐る恐る振り返ると、ショップの入口付近に、クラスの一軍グループの武田と、その彼女らしき女子生徒が仲良く歩いてくるところだった。
(やばい……!! なんで武田がこんなところにいるんだよ!?)
頭の中が一瞬で真っ白になる。
もしここで、学校で「一匹狼」として周囲と距離を置いている黒木と、擬態陽キャとして上手く立ち回っているはずの俺が、二人きりで休日にショッピングを楽しんでいるところを見られたらどうなる?
「なんでお前ら二人で遊んでんの?」「へえ、何買ったの?」と追求されるだけじゃなくて、この大事な紙袋の中身──BL漫画の特装版──が見つかってしまったら。
俺の高校生活、完全終了!!
あまりの恐怖とパニックで足がすくみ、冷や汗が吹き出しかけた、その時だった。
ぐいっと腕を強い力で引き寄せられた。
「うわっ!?」
「声出すな、静かに」
視界がぐらりと揺れ、浮遊感に襲われる。
気がついた時には、俺は試着室の狭い個室の中に押し込まれ、背中を冷たい姿見の鏡に押し付けられていた。
カチャン、と静かに鍵が閉まる金属音が響く。
「……く、黒木……!?」
「しーっ。武田たち、すぐそこまで来てる」
狭い試着室の中。照明が届きにくい薄暗がりの中で、黒木が俺を見下ろしていた。
逃げ場をふさぐように、黒木の両腕が俺の頭の横の鏡に突かれている。完全な壁ドン状態だ。
互いのつま先が触れ合うほどの至近距離。黒木の吐息が俺の額や鼻先に当たり、全身の毛穴が開くような緊張感に襲われる。
重なり合った胸元を通して、自分のものではない、けれど規則正しく力強い心臓の鼓動がダイレクトに伝わってきた。
「っ……あ……」
「……あいつらが行くまで、ここでじっとしてろ」
耳元で囁かれた黒木の低い声。その振動すらも皮膚を伝わってくるようで、俺は言葉を失った。
カーテンの一筋の隙間から、試着室の外の会話が筒抜けに漏れ聞こえてくる。
『武田〜、この服かわいくない?』
『んー? いいんじゃね? てか、さっき浅香に似た奴がいたと思ったけど違ったか』
『浅香くん? 来週みんなでカラオケ行く約束してる子?』
『そうそう。あいつノリいいからさぁ』
外で繰り広げられる、俺の「擬態」の会話。
周りに嫌われないよう、必死に作ってきた笑顔とノリ。それを、俺の本当の姿を知っている黒木と一緒に、こんな至近距離で密着しながら聞いているという異常事態。
恥ずかしさと、焦りと、胸の奥から湧き上がる正体不明の熱さで、頭がおかしくなりそうだった。
(近い……! 近すぎる……! 黒木の身体の熱が、服越しに全部伝わってくる……!)
あまりの緊張に耐え切れず、俺はギュッと目を瞑り、黒木のシャツの裾を力任せに握りしめていた。
すると、上から静かな苦笑混じりの吐息が漏れた。
「……浅香」
「ひゃいっ!?」
「お前、すげぇドキドキしてるじゃん」
「だ、だって……っ! 見つかったらと思うと怖くて……!」
「……本当に、見つかるのが怖いから?」
「え……?」
恐る恐る目を開けると、薄暗がりの中で黒木の瞳が妖しく光っていた。
いつも学校で見せる冷めたポーカーフェイスではない。熱を帯び、どこかわずかに揺れている、見たこともない艶っぽい表情。
黒木の長い指先が、俺の強張った頬を優しく撫で、そのまま熱を持った耳たぶへと滑り落ちていく。
「っ……!」
「学校でのお前……あんな風に愛想振りまいてんの、やっぱり気に入らねぇ」
「く、黒木……?」
「今、お前を抱きしめてんの、俺だから」
(な、なにそれ……!! それ、完全に『影と光のジレンマ』の3巻で、影山が光希を狭い場所に閉じ込めた時のセリフじゃん……!?)
脳内のBLデータベースが激しく警報を鳴らす。
だけど、これは漫画の紙の上じゃない。目の前にいるのは二次元のキャラクターではなく、高鳴る鼓動とあたたかい体温を持った、現実の黒木だ。
「……武田たち、行ったみたい」
黒木が外の気配を感じ取り、低く呟いた。
けれど、彼は俺を閉じ込めている腕を退けようとはしなかった。
むしろ、さらに距離を縮めるようにして、俺の額に自分の額をこつんと優しく押し当ててきた。
「……浅香。もう口止め料とか、どうでもいい」
「え……?」
「俺、お前と放課後会うの、漫画読むためだけじゃねぇよ」
真っ直ぐで、逃げ場のない言葉が静かな試着室に落ちた。
重なる額から伝わる体温と、耳元に残る言葉の余韻。
俺の心臓は、もう二度と正常なリズムには戻れそうになかった。
俺は駅前の時計台の前で、落ち着かない心地のまま何度も足踏みを繰り返していた。
学校での制服姿とは違う、休日用の私服。一軍グループの男子たちと街を歩いても浮かないよう、流行りのブランドで固めた無難で「それっぽい」コーディネートだ。けれど、今日の俺にはどうにもその服が肌に馴染まず、そわそわと襟元を弄ってしまう。
(大丈夫……落ち着け俺。今日は単に、黒木のバイト先の社割を使って限定ペーパー付きのコミックスをゲットしに来ただけだ。オタク活動だ。け、決してデートとかそういうイベントではない……!)
自分に言い聞かせるように心の中で呟いた、その時だった。
「……何ひとりで挙動不審になってんだよ」
頭上から降ってきた低く落ち着いた声に、心臓が跳ね上がった。勢いよく振り向く。
そこに立っていたのは、黒のオーバーサイズシャツに細身のパンツを合わせた黒木だった。前髪を少しだけワックスで散らしており、ただでさえ良い作画が休日仕様で完全に上限突破している。待ち合わせ場所を行き交う女子高生たちが、チラチラと彼を振り返っていた。
「く、黒木……!
「知ってる。……私服、似合ってんじゃん」
さらりと吐き出された素直な褒め言葉に、熱が耳の先まで一気に駆け上がっていくのが分かった。
「お前もな……っていうか、格好良すぎて目立ちすぎなんだよ……」
「そう? 普通だろ。……ほら、早く行こう。フェア限定ペーパー、無くなったら困るんだろ」
「あ、待って!」
俺は慌てて黒木の少し後ろを追うようにして、隣町の大型書店へと向かった。
◇
目的のアニメ・コミックフロアは、人気レーベルのフェア初日ということもあって熱気に包まれていた。
しかし、そこはバイト店員である黒木の真骨頂だった。迷いのない足取りで俺を案内し、取り置き棚と社割カードをスムーズに駆使してくれたおかげで、俺は喉から手が出るほど欲しかった『影と光のジレンマ』の限定描き下ろしペーパー付き特装版コミックスを、無事に手に入れることができた。
「……見てくれ、黒木! この表紙の描き下ろしイラスト! 影山が光希の腰を引き寄せてるこの角度、本当に神がかってる……!」
「……街中で大声出すな。あと、表紙を俺の顔の前に急に突きつけるな」
呆れ顔を見せつつも、黒木は差し出されたコミックスの表紙をまじまじと見つめた。表紙に描かれた二人の距離感や繊細なタッチを確認するように視線を滑らせて、「……確かに、作画綺麗だな」とぽつりと呟く。
自分の大好きな作品、大好きな世界観を、隣の人間が一緒に尊重し、共感してくれる。ただそれだけのことが、胸の奥をじんわりと温かく満たしていくのが分かった。
会計を終えて、宝物の入った紙袋を大事に抱える俺に、黒木がふと視線を落とした。
「この後、服見に行きたいんだけど」
「え、もちろん! 買い物付き合う!」
◇
書店を出て、近くの大型ショッピングモールへ移動した。
照明の明るいおしゃれなアパレルショップに入り、黒木がいくつかジャケットやカーディガンを手に取って身体に合わせているのを、俺は少し離れた場所から眺めていた。……うん、何を着てもスタイルが良すぎて、まるで雑誌のモデルだ。
「浅香、これどう?」
黒木が鏡の前で自分の身体に当ててみせたのは、深みのあるグリーンのカーディガンだった。
「絶対似合う! 黒木の肌の白さに映えると思う!」
「そうか。じゃあ、これ一回着てみる」
黒木はそう言って、壁沿いにある試着室の厚手のカーテンを開けた。
その時だった。
「──あれ、浅香じゃね?」
店内を流れる洋楽のBGMを切り裂いて、聞き覚えのあるノリの軽い声が響いた。
一瞬で息が止まり、全身の血の気が引く音がした。恐る恐る振り返ると、ショップの入口付近に、クラスの一軍グループの武田と、その彼女らしき女子生徒が仲良く歩いてくるところだった。
(やばい……!! なんで武田がこんなところにいるんだよ!?)
頭の中が一瞬で真っ白になる。
もしここで、学校で「一匹狼」として周囲と距離を置いている黒木と、擬態陽キャとして上手く立ち回っているはずの俺が、二人きりで休日にショッピングを楽しんでいるところを見られたらどうなる?
「なんでお前ら二人で遊んでんの?」「へえ、何買ったの?」と追求されるだけじゃなくて、この大事な紙袋の中身──BL漫画の特装版──が見つかってしまったら。
俺の高校生活、完全終了!!
あまりの恐怖とパニックで足がすくみ、冷や汗が吹き出しかけた、その時だった。
ぐいっと腕を強い力で引き寄せられた。
「うわっ!?」
「声出すな、静かに」
視界がぐらりと揺れ、浮遊感に襲われる。
気がついた時には、俺は試着室の狭い個室の中に押し込まれ、背中を冷たい姿見の鏡に押し付けられていた。
カチャン、と静かに鍵が閉まる金属音が響く。
「……く、黒木……!?」
「しーっ。武田たち、すぐそこまで来てる」
狭い試着室の中。照明が届きにくい薄暗がりの中で、黒木が俺を見下ろしていた。
逃げ場をふさぐように、黒木の両腕が俺の頭の横の鏡に突かれている。完全な壁ドン状態だ。
互いのつま先が触れ合うほどの至近距離。黒木の吐息が俺の額や鼻先に当たり、全身の毛穴が開くような緊張感に襲われる。
重なり合った胸元を通して、自分のものではない、けれど規則正しく力強い心臓の鼓動がダイレクトに伝わってきた。
「っ……あ……」
「……あいつらが行くまで、ここでじっとしてろ」
耳元で囁かれた黒木の低い声。その振動すらも皮膚を伝わってくるようで、俺は言葉を失った。
カーテンの一筋の隙間から、試着室の外の会話が筒抜けに漏れ聞こえてくる。
『武田〜、この服かわいくない?』
『んー? いいんじゃね? てか、さっき浅香に似た奴がいたと思ったけど違ったか』
『浅香くん? 来週みんなでカラオケ行く約束してる子?』
『そうそう。あいつノリいいからさぁ』
外で繰り広げられる、俺の「擬態」の会話。
周りに嫌われないよう、必死に作ってきた笑顔とノリ。それを、俺の本当の姿を知っている黒木と一緒に、こんな至近距離で密着しながら聞いているという異常事態。
恥ずかしさと、焦りと、胸の奥から湧き上がる正体不明の熱さで、頭がおかしくなりそうだった。
(近い……! 近すぎる……! 黒木の身体の熱が、服越しに全部伝わってくる……!)
あまりの緊張に耐え切れず、俺はギュッと目を瞑り、黒木のシャツの裾を力任せに握りしめていた。
すると、上から静かな苦笑混じりの吐息が漏れた。
「……浅香」
「ひゃいっ!?」
「お前、すげぇドキドキしてるじゃん」
「だ、だって……っ! 見つかったらと思うと怖くて……!」
「……本当に、見つかるのが怖いから?」
「え……?」
恐る恐る目を開けると、薄暗がりの中で黒木の瞳が妖しく光っていた。
いつも学校で見せる冷めたポーカーフェイスではない。熱を帯び、どこかわずかに揺れている、見たこともない艶っぽい表情。
黒木の長い指先が、俺の強張った頬を優しく撫で、そのまま熱を持った耳たぶへと滑り落ちていく。
「っ……!」
「学校でのお前……あんな風に愛想振りまいてんの、やっぱり気に入らねぇ」
「く、黒木……?」
「今、お前を抱きしめてんの、俺だから」
(な、なにそれ……!! それ、完全に『影と光のジレンマ』の3巻で、影山が光希を狭い場所に閉じ込めた時のセリフじゃん……!?)
脳内のBLデータベースが激しく警報を鳴らす。
だけど、これは漫画の紙の上じゃない。目の前にいるのは二次元のキャラクターではなく、高鳴る鼓動とあたたかい体温を持った、現実の黒木だ。
「……武田たち、行ったみたい」
黒木が外の気配を感じ取り、低く呟いた。
けれど、彼は俺を閉じ込めている腕を退けようとはしなかった。
むしろ、さらに距離を縮めるようにして、俺の額に自分の額をこつんと優しく押し当ててきた。
「……浅香。もう口止め料とか、どうでもいい」
「え……?」
「俺、お前と放課後会うの、漫画読むためだけじゃねぇよ」
真っ直ぐで、逃げ場のない言葉が静かな試着室に落ちた。
重なる額から伝わる体温と、耳元に残る言葉の余韻。
俺の心臓は、もう二度と正常なリズムには戻れそうになかった。


