図書室の奥──一番日当たりの悪い閲覧席が、俺と黒木の『秘密基地』になってから、一週間が経過していた。
「……なぁ、浅香。この『受け』のキャラ、なんで自分の気持ちを素直に言わないんだよ。攻めに『好きだ』って一言言えば、このトラブルの八割は解決するだろ」
「甘い! 甘すぎるよ、黒木! その『素直になれずにすれ違う時間』こそが尊いんだよ。 お互いに思い合ってるのにすれ違って葛藤するからこそ、最後に結ばれたときの爆発力が生まれるんだって」
「……ハラハラして面倒くさいだけだろ。俺なら一言『俺を頼れ』って言って終わりにする」
「それが出来たら苦労しないの! 影山みたいなスパダリ攻めだからそれが言えるんだよ!」
沈黙がルールのはずの図書室で、俺たちは本棚の影に隠れてひそひそと議論を戦わせていた。
最初こそ「口止め料」として強引に始まったこの放課後の読書会だったが、蓋を開けてみれば、黒木の読書スピードは異常に早かった。俺が貸した『影と光のジレンマ』全巻を二日で踏破し、今や俺が持参した別の王道スパダリBL漫画を真剣に読み進めている。
しかも驚くべきことに、黒木は作品の構造やキャラクターの心理描写を恐ろしい精度で分析してくるのだ。
「……お前、本当にBL読むの初めて? 飲み込みが早すぎるんだけど」
「お前が毎日、目をキラキラさせながら熱弁してくるからだろ。嫌でも覚える」
黒木は呆れたように言いながら、長い指で文庫本のページをめくった。
夕暮れ時の橙色の光が、黒木の綺麗な横顔を美しく染め上げている。さらりとした黒髪、高い鼻梁、少し長めのまつ毛。……相変わらず、無駄に作画が良い。絵画かよ。
「……なに見てんだよ」
「うわっ!? あ、いや、別に! 黒木って本当作画いいなと思って!」
「作画……?」
黒木が不審そうに眉を上げる。口を滑らせた俺は、焦って手元の本で顔を隠した。
「なんでもない! ほら、早く続き読んで!」
「誤魔化すな。……ほら、顔見せろ」
ガサッと音を立てて、黒木の手が俺の文庫本を上から掴み、ゆっくりと引き下げてくる。
本の後ろから現れた黒木の顔は、目と鼻の先だった。黒い瞳が俺の顔を逃がさないように捉えている。
(近……っ!! 近い近い近い!!)
「っ……あ、あの、黒木さん……?」
「お前、俺の顔見て『作画が良い』ってよく言ってるけど、それ褒めてんの?」
「ほ、褒めてる! めちゃくちゃ褒めてる! 顔面国宝って意味!!」
「……そうか」
黒木は満足したようにフッと口角を上げた。その距離、わずか十センチ。
ふわりと漂う、いつもの清潔な香水の匂い。黒木の息遣いまで伝わってきそうで、漫画の世界に入ったかのように錯覚してしまいそうになる。
(落ち着け、俺! これは単なるイケメンの無自覚な距離の詰め方であって! BL漫画の『攻めが受けを追い詰めるシチュ』に似てるのは単なる偶然で──!!)
「浅香」
「ひゃい!?」
「お前、心臓うるさい」
「なっ……!」
真っ赤になって耳を塞ぐ俺を見て、黒木は楽しそうに笑った。
学校では誰とも群れず、冷めた顔しか見せないあの一匹狼の黒木が、俺の前ではこんな風に笑う。
その事実が、なんだか胸の奥をキュッと甘く締め付けた。
……だめだ。最初は「BLのシチュエーションみたいで緊張する」だけだったはずなのに。最近は、黒木に触れられたり、近くで見つめられたりするだけで、オタクとしての興奮とは違う、もっと根本的な『恋心』みたいなものが暴れ出しそうになるのだ。
(危険だ……! リアルな胸キュン、刺激が強すぎる……!)
俺が一人で頭を抱えていると、黒木はスマホを取り出し、画面をトントンと操作し始めた。
「そういえば、浅香」
「な、なに……?」
「今週の日曜、バイト休みなんだ」
「え? あ、そうなんだ。いつもシフト入ってるのに珍しいね」
「だから、お前付き合え」
「……は?」
唐突な指名に、俺は目を丸くした。
「付き合えって……どこに?」
「俺のバイト先。隣町の大型書店」
黒木はスマホの画面を俺に向けて見せた。そこには、バイト先のアニメ・コミックフロアの公式告知ページが表示されていた。
『今週末限定! 人気BLレーベルフェア開催! 購入者特典フェア&限定ペーパー配布』
「え……っ!! これ、俺がずっと狙ってたけど行けないって諦めてたフェアじゃん!?」
「バイトの社割使うし、特典も取り置きしてやる」
「まじで……!?」
思わず大声を出しそうになり、慌てて口を両手で塞ぐ。
目を輝かせる俺を見て、黒木はふっと柔らかい目を握りしめた。
「どうする? 来る?」
「行く!! 行きます!! 黒木様、一生ついていきます!!」
「様はよせ。……じゃあ、日曜の午前十時、駅前の時計台の下で集合な」
「うん! 了解!」
即答する俺を見て、黒木は満足そうに頷くと、文庫本を閉じてリュックに仕舞い始めた。
「じゃあ、今日はもう帰ろう。そろそろ閉館だし」
「あ、うん!」
立ち上がろうとした俺の手首を、黒木が不意にぐっと掴んだ。
強く握られたわけじゃない。けれど、拒否できない熱と確かさをもって、俺の手首が黒木の大きな手に包まれていた。
「……黒木?」
「……日曜日、楽しみだな」
「え……?」
黒木は掴んだ俺の手首を、ゆっくりと自分の引き寄せるように少しだけ引いた。
見上げる俺の目をじっと見つめて、黒木は低い声で囁いた。
「お前と、ちゃんと学校の外で会うの……初めてだから」
「っ……!!」
夕闇が深まる図書室で、俺の顔は再び熟したトマトのように真っ赤に染まった。
手首に残る黒木の体温。直視できないほどの美しい顔。そして、思わせぶりすぎる言葉。
(これって……これって……!!)
脳内のBL知識を総動員してこのシチュエーションを解析しようとしたけれど、高鳴る胸の鼓動のせいで思考は完全に停止してしまった。
ただの「口止め料」だったはずの放課後が、少しずつ、確実に違う色に染まり始めていた。
「……なぁ、浅香。この『受け』のキャラ、なんで自分の気持ちを素直に言わないんだよ。攻めに『好きだ』って一言言えば、このトラブルの八割は解決するだろ」
「甘い! 甘すぎるよ、黒木! その『素直になれずにすれ違う時間』こそが尊いんだよ。 お互いに思い合ってるのにすれ違って葛藤するからこそ、最後に結ばれたときの爆発力が生まれるんだって」
「……ハラハラして面倒くさいだけだろ。俺なら一言『俺を頼れ』って言って終わりにする」
「それが出来たら苦労しないの! 影山みたいなスパダリ攻めだからそれが言えるんだよ!」
沈黙がルールのはずの図書室で、俺たちは本棚の影に隠れてひそひそと議論を戦わせていた。
最初こそ「口止め料」として強引に始まったこの放課後の読書会だったが、蓋を開けてみれば、黒木の読書スピードは異常に早かった。俺が貸した『影と光のジレンマ』全巻を二日で踏破し、今や俺が持参した別の王道スパダリBL漫画を真剣に読み進めている。
しかも驚くべきことに、黒木は作品の構造やキャラクターの心理描写を恐ろしい精度で分析してくるのだ。
「……お前、本当にBL読むの初めて? 飲み込みが早すぎるんだけど」
「お前が毎日、目をキラキラさせながら熱弁してくるからだろ。嫌でも覚える」
黒木は呆れたように言いながら、長い指で文庫本のページをめくった。
夕暮れ時の橙色の光が、黒木の綺麗な横顔を美しく染め上げている。さらりとした黒髪、高い鼻梁、少し長めのまつ毛。……相変わらず、無駄に作画が良い。絵画かよ。
「……なに見てんだよ」
「うわっ!? あ、いや、別に! 黒木って本当作画いいなと思って!」
「作画……?」
黒木が不審そうに眉を上げる。口を滑らせた俺は、焦って手元の本で顔を隠した。
「なんでもない! ほら、早く続き読んで!」
「誤魔化すな。……ほら、顔見せろ」
ガサッと音を立てて、黒木の手が俺の文庫本を上から掴み、ゆっくりと引き下げてくる。
本の後ろから現れた黒木の顔は、目と鼻の先だった。黒い瞳が俺の顔を逃がさないように捉えている。
(近……っ!! 近い近い近い!!)
「っ……あ、あの、黒木さん……?」
「お前、俺の顔見て『作画が良い』ってよく言ってるけど、それ褒めてんの?」
「ほ、褒めてる! めちゃくちゃ褒めてる! 顔面国宝って意味!!」
「……そうか」
黒木は満足したようにフッと口角を上げた。その距離、わずか十センチ。
ふわりと漂う、いつもの清潔な香水の匂い。黒木の息遣いまで伝わってきそうで、漫画の世界に入ったかのように錯覚してしまいそうになる。
(落ち着け、俺! これは単なるイケメンの無自覚な距離の詰め方であって! BL漫画の『攻めが受けを追い詰めるシチュ』に似てるのは単なる偶然で──!!)
「浅香」
「ひゃい!?」
「お前、心臓うるさい」
「なっ……!」
真っ赤になって耳を塞ぐ俺を見て、黒木は楽しそうに笑った。
学校では誰とも群れず、冷めた顔しか見せないあの一匹狼の黒木が、俺の前ではこんな風に笑う。
その事実が、なんだか胸の奥をキュッと甘く締め付けた。
……だめだ。最初は「BLのシチュエーションみたいで緊張する」だけだったはずなのに。最近は、黒木に触れられたり、近くで見つめられたりするだけで、オタクとしての興奮とは違う、もっと根本的な『恋心』みたいなものが暴れ出しそうになるのだ。
(危険だ……! リアルな胸キュン、刺激が強すぎる……!)
俺が一人で頭を抱えていると、黒木はスマホを取り出し、画面をトントンと操作し始めた。
「そういえば、浅香」
「な、なに……?」
「今週の日曜、バイト休みなんだ」
「え? あ、そうなんだ。いつもシフト入ってるのに珍しいね」
「だから、お前付き合え」
「……は?」
唐突な指名に、俺は目を丸くした。
「付き合えって……どこに?」
「俺のバイト先。隣町の大型書店」
黒木はスマホの画面を俺に向けて見せた。そこには、バイト先のアニメ・コミックフロアの公式告知ページが表示されていた。
『今週末限定! 人気BLレーベルフェア開催! 購入者特典フェア&限定ペーパー配布』
「え……っ!! これ、俺がずっと狙ってたけど行けないって諦めてたフェアじゃん!?」
「バイトの社割使うし、特典も取り置きしてやる」
「まじで……!?」
思わず大声を出しそうになり、慌てて口を両手で塞ぐ。
目を輝かせる俺を見て、黒木はふっと柔らかい目を握りしめた。
「どうする? 来る?」
「行く!! 行きます!! 黒木様、一生ついていきます!!」
「様はよせ。……じゃあ、日曜の午前十時、駅前の時計台の下で集合な」
「うん! 了解!」
即答する俺を見て、黒木は満足そうに頷くと、文庫本を閉じてリュックに仕舞い始めた。
「じゃあ、今日はもう帰ろう。そろそろ閉館だし」
「あ、うん!」
立ち上がろうとした俺の手首を、黒木が不意にぐっと掴んだ。
強く握られたわけじゃない。けれど、拒否できない熱と確かさをもって、俺の手首が黒木の大きな手に包まれていた。
「……黒木?」
「……日曜日、楽しみだな」
「え……?」
黒木は掴んだ俺の手首を、ゆっくりと自分の引き寄せるように少しだけ引いた。
見上げる俺の目をじっと見つめて、黒木は低い声で囁いた。
「お前と、ちゃんと学校の外で会うの……初めてだから」
「っ……!!」
夕闇が深まる図書室で、俺の顔は再び熟したトマトのように真っ赤に染まった。
手首に残る黒木の体温。直視できないほどの美しい顔。そして、思わせぶりすぎる言葉。
(これって……これって……!!)
脳内のBL知識を総動員してこのシチュエーションを解析しようとしたけれど、高鳴る胸の鼓動のせいで思考は完全に停止してしまった。
ただの「口止め料」だったはずの放課後が、少しずつ、確実に違う色に染まり始めていた。


