昨夜の出来事は、夢だったのかもしれない。
そう思い込もうとした俺の淡い期待は、昼休みの直前にスマホが短く震えたことで一瞬にして打ち砕かれた。
ポケットからこっそり取り出した画面には、緑色の通知。
『放課後、図書室。来なかったら、昨日言ったデマ流す』
『脅迫やめて! 行きます!!』
文字通りの秒速レスをしてしまい、俺はがっくりと机に突っ伏した。
「悠人? どしたん、体調悪い?」
隣の席で一軍グループの男子・武田が声をかけてくる。俺は一瞬で「陽キャの浅香くん」の仮面を貼り直し、へらりと笑ってみせた。
「あー、いや! ちょっと今日、委員会の仕事あったの忘れててさ。放課後、一緒に帰れねぇわ」
「なんだよ、まじかー。じゃあまた明日な!」
「ごめんな! 明日は絶対!」
なんとか円滑に会話を終わらせる。
ちらりと視線を教室の窓際に向けると、黒木は相変わらずヘッドホンをつけて文庫本を読んでいた。スマホを弄っていた素振りすら見せない完璧な一匹狼ぶりだ。
(あいつ、なんであんなにポーカーフェイスが得意なんだよ……! こっちは心臓バクバクなのに!)
放課後。夕日が差し込む図書室は、利用する生徒もまばらで静まり返っていた。
指定された一番奥の閲覧席──本棚に囲まれた死角になっている席──に向かうと、すでに黒木が待っていた。
制服の第一ボタンを外して、腕まくりをした黒木が夕日を浴びて座っている。……はい、作画が良い。美術のデッサンモデルか何かになってほしいレベルで絵になりすぎている。
「……遅い」
「図書委員のふりして、クラスの奴ら撒いてきたんだよ! それより、これ」
リュックの中から『影と光のジレンマ』最終巻と、これまでの1〜3巻を取り出す。
まさか、学校にBL漫画を持ってくる日が来るなんて。
黒木は慣れた手つきで第1巻を手に取ると、パラパラとページをめくり始めた。
「ほんとに読むの……? 男同士の恋愛ものだけど」
「お前が『魂の救済』とか言ってたから気になったんだよ。……静かにしろ。集中できない」
黒木はそう言うと、顎を引いて本格的に小説を読み始めた。
(本当に読み始めた……! クラスの一匹狼イケメンが、俺の横でBL小説を真剣に読んでる……この状況、何!?)
あまりのシュールさに、脳内が大パニックを起こす。
俺も落ち着こうと最終巻を開いたが、隣から漂う黒木の香水らしき匂いと、ページがめくられる音に意識がいってしまい、まったく文字が頭に入ってこない。
十五分ほど経った頃だろうか。
黙々とページをめくっていた黒木が、ふと足を組み替えてボソッと呟いた。
「……この攻め、器用に見えて相当余裕ねぇな」
「えっ!?」
不意を突かれて声を上げてしまった。慌てて口を押さえ、周囲を見回す。誰もいないことを確認してから、俺は身を乗り出して黒木に囁いた。
「わ、分かる!? そうなんだよ! 影山は完璧に見えて、光希のことになると途端にIQ下がって嫉妬深くなるんだよ! そこが最高に尊いっていうか」
「……お前、さっきから『尊い』しか言ってねぇな」
黒木は呆れた顔をしながらも、ページから目を離さない。
「でも、光希の気持ちも分からなくはないでしょ? 影山が凄すぎるから、自分みたいな奴が隣にいたら迷惑なんじゃないかって、無理して笑って合わせちゃうんだよ」
俺が何気なくそう言うと、黒木はぴたりとページをめくる手を止めた。
ゆっくりと顔を上げた黒木の瞳が、夕日を反射して橙色に光る。
「……無理して合わせる、か」
「え?」
「お前みたいだな」
低く静かな声が、静寂の図書室に落ちた。
「っ……!」
「クラスでいつもへらへら笑って、周りに合わせてるお前とそっくりだ。……見ててイライラするのも、納得できる」
黒木は淡々とそう言い放つと、俺の至近距離まで顔を寄せてきた。
机を挟んで、鼻先が触れそうな距離。黒木の綺麗な瞳に、驚きで目を見開いた自分の顔がはっきりと映っている。
「影山が光希にイラついてる理由、分かったわ。好きな奴が自分の前で嘘ついて笑ってたら、そりゃおもしろくねぇよ」
「す、好きな……っ!?」
(ちょっと待って!! 今、黒木なんて言った!? 『好きな奴』!? いや、それは影山の気持ちの解説であって、俺たちの話じゃないよね!?)
BL知識が豊富なはずの俺の脳内が、完全にフリーズを起こして暴走を始める。
顔が熱い。耳の奥が熱い。心臓がうるさすぎて、図書室全体に響いてしまいそうなほどだった。
「……な、なに言ってんだよ、黒木! これはフィクションだから! 現実の男子高校生はそんなこと──」
「お前、顔真っ赤」
黒木はふっと口角を上げると、細い指先で俺の熱くなった耳たぶをちょんと突いてきた。
「ひゃっ!?」
変な声が出た。慌てて両手で耳を覆い、椅子を引いて後退る。
「あ、遊ばないでよ、黒木! 俺は真面目に漫画の話をしてるのに……!」
「遊んでねぇよ。……ほら、続き読むぞ。座れ」
黒木は自分の隣の席をポンポンと叩いた。
その仕草があまりにも自然で、そしてあまりにも作中の影山そのもので、俺は引き寄せられるようにして彼の隣に戻るしかなかった。
(助けて……BL漫画の知識じゃ、現実のイケメンに距離を詰められたときの対処法なんて載ってないよ……!!)
西日が差し込む図書室の奥で、俺の心臓は鳴り止んでくれなかった。
そう思い込もうとした俺の淡い期待は、昼休みの直前にスマホが短く震えたことで一瞬にして打ち砕かれた。
ポケットからこっそり取り出した画面には、緑色の通知。
『放課後、図書室。来なかったら、昨日言ったデマ流す』
『脅迫やめて! 行きます!!』
文字通りの秒速レスをしてしまい、俺はがっくりと机に突っ伏した。
「悠人? どしたん、体調悪い?」
隣の席で一軍グループの男子・武田が声をかけてくる。俺は一瞬で「陽キャの浅香くん」の仮面を貼り直し、へらりと笑ってみせた。
「あー、いや! ちょっと今日、委員会の仕事あったの忘れててさ。放課後、一緒に帰れねぇわ」
「なんだよ、まじかー。じゃあまた明日な!」
「ごめんな! 明日は絶対!」
なんとか円滑に会話を終わらせる。
ちらりと視線を教室の窓際に向けると、黒木は相変わらずヘッドホンをつけて文庫本を読んでいた。スマホを弄っていた素振りすら見せない完璧な一匹狼ぶりだ。
(あいつ、なんであんなにポーカーフェイスが得意なんだよ……! こっちは心臓バクバクなのに!)
放課後。夕日が差し込む図書室は、利用する生徒もまばらで静まり返っていた。
指定された一番奥の閲覧席──本棚に囲まれた死角になっている席──に向かうと、すでに黒木が待っていた。
制服の第一ボタンを外して、腕まくりをした黒木が夕日を浴びて座っている。……はい、作画が良い。美術のデッサンモデルか何かになってほしいレベルで絵になりすぎている。
「……遅い」
「図書委員のふりして、クラスの奴ら撒いてきたんだよ! それより、これ」
リュックの中から『影と光のジレンマ』最終巻と、これまでの1〜3巻を取り出す。
まさか、学校にBL漫画を持ってくる日が来るなんて。
黒木は慣れた手つきで第1巻を手に取ると、パラパラとページをめくり始めた。
「ほんとに読むの……? 男同士の恋愛ものだけど」
「お前が『魂の救済』とか言ってたから気になったんだよ。……静かにしろ。集中できない」
黒木はそう言うと、顎を引いて本格的に小説を読み始めた。
(本当に読み始めた……! クラスの一匹狼イケメンが、俺の横でBL小説を真剣に読んでる……この状況、何!?)
あまりのシュールさに、脳内が大パニックを起こす。
俺も落ち着こうと最終巻を開いたが、隣から漂う黒木の香水らしき匂いと、ページがめくられる音に意識がいってしまい、まったく文字が頭に入ってこない。
十五分ほど経った頃だろうか。
黙々とページをめくっていた黒木が、ふと足を組み替えてボソッと呟いた。
「……この攻め、器用に見えて相当余裕ねぇな」
「えっ!?」
不意を突かれて声を上げてしまった。慌てて口を押さえ、周囲を見回す。誰もいないことを確認してから、俺は身を乗り出して黒木に囁いた。
「わ、分かる!? そうなんだよ! 影山は完璧に見えて、光希のことになると途端にIQ下がって嫉妬深くなるんだよ! そこが最高に尊いっていうか」
「……お前、さっきから『尊い』しか言ってねぇな」
黒木は呆れた顔をしながらも、ページから目を離さない。
「でも、光希の気持ちも分からなくはないでしょ? 影山が凄すぎるから、自分みたいな奴が隣にいたら迷惑なんじゃないかって、無理して笑って合わせちゃうんだよ」
俺が何気なくそう言うと、黒木はぴたりとページをめくる手を止めた。
ゆっくりと顔を上げた黒木の瞳が、夕日を反射して橙色に光る。
「……無理して合わせる、か」
「え?」
「お前みたいだな」
低く静かな声が、静寂の図書室に落ちた。
「っ……!」
「クラスでいつもへらへら笑って、周りに合わせてるお前とそっくりだ。……見ててイライラするのも、納得できる」
黒木は淡々とそう言い放つと、俺の至近距離まで顔を寄せてきた。
机を挟んで、鼻先が触れそうな距離。黒木の綺麗な瞳に、驚きで目を見開いた自分の顔がはっきりと映っている。
「影山が光希にイラついてる理由、分かったわ。好きな奴が自分の前で嘘ついて笑ってたら、そりゃおもしろくねぇよ」
「す、好きな……っ!?」
(ちょっと待って!! 今、黒木なんて言った!? 『好きな奴』!? いや、それは影山の気持ちの解説であって、俺たちの話じゃないよね!?)
BL知識が豊富なはずの俺の脳内が、完全にフリーズを起こして暴走を始める。
顔が熱い。耳の奥が熱い。心臓がうるさすぎて、図書室全体に響いてしまいそうなほどだった。
「……な、なに言ってんだよ、黒木! これはフィクションだから! 現実の男子高校生はそんなこと──」
「お前、顔真っ赤」
黒木はふっと口角を上げると、細い指先で俺の熱くなった耳たぶをちょんと突いてきた。
「ひゃっ!?」
変な声が出た。慌てて両手で耳を覆い、椅子を引いて後退る。
「あ、遊ばないでよ、黒木! 俺は真面目に漫画の話をしてるのに……!」
「遊んでねぇよ。……ほら、続き読むぞ。座れ」
黒木は自分の隣の席をポンポンと叩いた。
その仕草があまりにも自然で、そしてあまりにも作中の影山そのもので、俺は引き寄せられるようにして彼の隣に戻るしかなかった。
(助けて……BL漫画の知識じゃ、現実のイケメンに距離を詰められたときの対処法なんて載ってないよ……!!)
西日が差し込む図書室の奥で、俺の心臓は鳴り止んでくれなかった。


