好き過ぎて、キスなんてできない


 玲と付き合い始めて三週間が経った──。
 季節は秋なのに、まだまだ残暑は続いている。
 そんなある日、いつも教室に俺を迎えに来る玲が、今日は来ない。
 先生に呼び出されたのか、何かクラスの用事があるのか……。俺の心の中にじんわりと不安が広がっていく。

 俺たちの交際は順調とは言えなかった。
 付き合って三週間経つというのに、まだ手しか握っていない。
 俺の頭の中に昨日の出来事が呼び起こされた。

「ねぇ、結弦。結弦は俺のこと好き?」
「はぁ?」
 並んで下校している時、ふと玲が口を開いた。
 だからその時も、「お前、しつこいぞ」と軽く流そうとした。
 でも玲の表情はいつも以上に真剣で、俺は口を噤む。
 今にも泣き出しそうな顔で、「俺のこと好き?」と聞かれ、俺は何も言えなかった。
 だから黙って俯いて「しつこいな……」と呟く。その瞬間、玲が大きな溜息をついたのがわかった。
 それから困ったような顔で笑う。
「ごめん。しつこかったよね」
 その笑顔を見たら、胸がぎゅっと締め付けられた。
「好きだよ」って言ったら、玲はきっと笑ってくれる筈なのに。
「キスも駄目だよね?」
 その言葉に心臓が跳ね上がる。
 好きとも言えない自分が、キスなんてできる筈なんてない。
「キスはキモイから嫌だ」
「そっか……」
「今のままじゃ駄目なのか?」
「今のままって?」
「こうやって一緒に帰ったり、手を繋いだり……。それじゃあ、満足できないの?」
「……俺はできない」
 今にも玲が泣き出しそうな顔で俺を見つめた。
「俺は結弦に『好き』って言ってほしいし、キスだってしたい。この気持ちは変わらないよ」
「そっか……」 
 玲と別れるまで続いた沈黙が、棘のように俺の心に突き刺さった。

 そんなことがあったから、嫌気がさしてしまったのだろうか。でなければ、玲が俺を迎えに来ない筈なんてない。
 俺は校舎中を、玲を探して走り回る。運動不足の俺はすぐ息があがってしまい、肩で息をする。それでも、玲に会いたかった。
「あいつ、どこに行ったんだよ……」
 校舎内の階段を上ったり下がったり。俺の体力が底をつこうとした時──。
「いた……」
 玲がいたのは特別教室が並ぶ校舎の端。そう、俺が玲に告白された場所だ。
 開け放たれた窓から吹き込む残暑の温い風が、玲の柔らかな髪をサラサラと揺らしている。
 夕焼けに染まる廊下から橙色の光が差し込み、その横顔を照らしている。それでも玲は何も映していないような虚ろな瞳で、ただ窓の向こうの空を静かに見つめ続けていた。
 その光景があまりにも綺麗で、俺の中の時が止まる。
 あぁ、俺はこんなにも玲が好きなんだ……と感じた瞬間。

「こんなに玲が好きなのに……」

 涙で目の前が滲む。俺は慌てて手の甲で拭った。
 その時、玲が俺に気付いたのか、こちらに向かって笑いかける。その笑顔が痛々しく感じて、俺は制服の胸の辺りをギュッと掴んだ。

「ごめん、ぼーっとしてた。帰ろう、朝倉」
「あ、うん……」
 ──朝倉。
 学校にいる時は名前で呼ぶなと言ったのは自分だ。それなのに、『結弦』といつものように呼んでもらえなかったことが寂しく感じられる。
「夏も終わって、もう秋だね」
 玲の言葉が胸に突き刺さる。
 まるで、夏が終われば自分たちの関係も終わってしまうように感じられたから……。
「帰ろう」
「うん」
 玲が差し出してくれた手を振り払わずに、勇気をもって握り締める。
 ごめん。これが今の俺の精一杯の愛情表現だから。

 ──お願い、俺を嫌いにならないで。

 そう心の中で呟いた。
 さっきまで笑っていた筈なのに、玲はまた寂しそうな、何か覚悟を決めたような顔で俺を見つめている。
「……玲?」
 名前を呼ぶと、夕日に照らされたその瞳が優しく細められ、静かに距離を縮めてきた。
「結弦……」
 いつもより甘い声で名前を呼ばれ、俺は壁に体を押し付けられる。もう逃げ道なんてない。
 玲がゆっくりと瞳を閉じて、俺に少しずつ顔を近づけてきた。
(キス、されちゃう……)
 俺はギュッと目を閉じる。
 心臓が皮膚を引き裂いて出て来てしまうのではないかというくらいドキドキして、呼吸も上手くできない。
 本当は俺だって玲に触れたい。キスだってしたい。
 でも、恥ずかしくてどうしても素直になれないんだ──。

「ヤダ! やめろって!」

 気がついた時には両手で玲の体を押し退けていた。

「……もう限界だ」
「は?」
「結弦、俺はもう限界だよ」

 俺が咄嗟に顔を上げると、今にも泣き出しそうな玲が俺のことを見つめている。
 その顔はとても辛そうで、俺の心まで張り裂けそうに痛む。
「こんなの付き合ってるって言えない」
「ちょっと待って」
「俺とキスをするのがそんなに嫌なら、無理しなくていい」
 玲が無理して笑う。それでも堪え切れなかった涙が幾筋も頬を伝っていた。
「別れよう、結弦」
「……え?」
「俺はこれ以上耐えられない。ごめん」

 そう言うと、俺に背を向け歩き出す玲。
 俺はその後ろ姿を呆然と見つめた。
『別れよう』
 その一言は驚くほど静かだった。 
 怒鳴られたわけでも責められたわけでもない。
 ただ諦めたように笑って言われた言葉が、胸の奥へゆっくりと沈んでいく。
『別れよう』
 その言葉だけが頭の中で何度も繰り返される。
 玲はもう振り返らなかった。ゆっくりと歩き出した背中はどこか寂しそうで、それなのに俺は何も言えずに立ち尽くしてしまう。

 ……なんだよ、それ。勝手に決めんなよ。
 俺は別れたいなんて一言も言ってねぇだろう?

 それなのに足は動かない。
 今まで散々玲を拒んできたのは俺なんだから、こんなことを言われても仕方ない。そう思う自分がいる一方で、このまま玲がいなくなることだけは嫌だという気持ちが胸の中で暴れ始める。
 玲がいない毎日なんて想像もできない。
 隣で笑ってくれる玲も、俺のくだらない言葉に困ったように笑う玲も、全部なくなる。 

 何やってんだ俺……。
 玲が行っちゃうぞ?
 俺は玲の為に素直になりたい。可愛くなりたい。

 ずっとそう思ってきた。
 今ここで玲を失ったら、俺はきっと一生後悔する──。
 そう思った瞬間、体が勝手に動いていた。
 そんなの……嫌だ!

「玲‼」

 気づけば俺は走り出していた。
 周りのなんて目にも入らない。ただ玲の背中だけを必死に追いかけて、ようやく腕を掴むことができた。
 玲がゆっくり振り返る。
「結弦……」
 その顔を見た瞬間、胸が締めつけられる。
 こんな顔をさせたのは俺だ。
 俺が意地ばかり張って、素直になれなかったせいだ。
 何か言わなきゃ。
 引き止めなきゃ。
 でも、口を開いても言葉にならない。
「結弦、放して」
 玲は小さく笑った。
「もう十分だから」
「嫌だ」
 思わず口をついて出た言葉に、自分でも驚く。
「……放さねぇ」
 玲は困ったように笑うだけだった。
「結弦」
「嫌だって言ってんだろ!」
 俺は玲の背中にしがみつくように抱きついたまま首を横に振る。
「別れねぇ」
 震えた声が情けない。
「俺は……別れたくねぇ!」
 玲は何も言わなかった。
 だから余計に怖くなった。
 このまま本当にいなくなってしまうんじゃないか。
 そう思った瞬間、俺は玲の服をぎゅっと掴んだまま前へ回り込む。
 玲は少しだけ俺より背が高い。だから自然と見上げる形になる。
「結弦……?」
 その優しい声を聞いた途端、胸がいっぱいになった。
 言葉じゃもう伝わらない気がした。
 いや、本当は言葉にする勇気がなかっただけだ。

 俺はぎゅっと目を閉じ、一度だけ小さく息を吸うと、震える足でそっと背伸びをした。
 玲の驚いた息遣いが聞こえる。
 逃げられたらどうしよう。
 嫌がられたらどうしよう。
 そんな不安で胸がいっぱいだったけれど、それでももう逃げたくなかった。
 そっと唇が触れる。
 本当に一瞬だけ。
 触れたと言えるかどうかもわからないくらい、不器用でぎこちないキスだった。
 すぐに離れようとした俺の腕を、今度は玲がそっと掴んだ。

「……結弦」
 その声が少し震えていて、俺は恥ずかしくなって思わず顔を逸らす。
「勘違いすんな」
 耳まで熱くなりながら、ぶっきらぼうに言い捨てる。
「別に……キスが嫌だったわけじゃねぇ。ただ、お前のことが好き過ぎて……恥ずかしくて……頭がおかしくなりそうで……。だから……お前とするのが嫌なわけじゃねぇ」
 そう言うだけで精一杯だった。
 もう顔なんて上げられない。
 すると次の瞬間、玲がくすりと笑った。

「結弦」
「……何だよ」
「今のキス、すごく可愛かった」
「はぁ!?」
 勢いよく顔を上げると、玲は目尻を下げて嬉しそうに笑っていた。
「だから可愛いって言うな!」
「ごめん。でも、すごく嬉しかった」
 そう言って優しく笑う玲を見ていると、さっきまで胸を締めつけていた苦しさが少しずつ解けていく。
 今ならちゃんと伝えられる。格好悪くても、不器用でも、この気持ちだけはもう誤魔化したくない。
「……だから」
 俺は照れ隠しに玲の服を軽く引っ張る。
「別れるなんて、二度と言うな」
 その一言に玲は驚いたように目を見開き、それから何度も頷きながら「うん」と優しく笑った。

 玲は俺の手を握り返すと、絡めた指に少しだけ力を込めた。その温もりに、ようやく玲がまだ隣にいてくれるのだと実感する。
「行こう」
「うん」
 並んで歩き出した俺たちの影が、夕暮れの廊下に長く伸びている。もう玲の手を離したくなかった。
 校門から離れた頃、玲が小さな声で俺の名前を呼んだ。
「結弦」
 学校では名前で呼ぶなと言ったのは俺なのに、その呼び方がどうしようもなく嬉しくて、胸の奥が熱くなる。
「もう一回呼んで」
「何回呼ばせるんだよ」
 呆れたように言いながらも、玲は笑っていた。玲が隣で笑ってくれている。それだけで、抱えていた不安が消えていく。
 俺は足を止めると、玲の手を引いた。
「玲」
「ん?」
 振り向いた玲の制服を掴み、今度は逃げずに目を閉じる。触れるだけの短いキスだったけれど、自分からできたことが嬉しくて、離れた後も玲の顔を見られなかった。
「またしてくれた」
「うるさい。今のは忘れろ」
「絶対に忘れない」
 玲は嬉しそうに笑い、俺の手を強く握り直した。
「またしてくれる?」
「……気が向いたらな」
「本当に?」
「玲が嫌じゃなければ」
「嫌なわけないだろ」
 好きすぎて、キスなんてできないと思っていた。触れた瞬間、玲への気持ちが全部伝わってしまいそうで怖かった。
 けれど、隠していたせいで玲を傷つけ、失いかけてようやく分かった。不器用でも、好きだという気持ちは伝えなければ届かない。
 繋いだ手の温もりを確かめながら、俺は玲と並んで歩き出した。
 
 好きすぎて、キスなんてできないと思っていた。
 けれど、これからは好きだからこそ、何度だって玲にキスをする。
 そう、何度でも──。

【END】