放課後、玲と二人で学校を出た俺は、いつもの帰り道を並んで歩いていた。
日が暮れるのも早くなったけれど、校門を出てすぐの道には、部活帰りの生徒や自転車を押して歩く奴らの姿がちらほらと残っている。もう九月も終わりに近づいているというのに、残暑が厳しい。
暑い。
ただでさえ暑いのに、隣を歩いている玲のせいで余計に暑く感じる。
付き合う前だってたまに一緒に帰ったことくらいあるのに、恋人になった途端、玲が隣にいるというだけで変に緊張するようになった。
肩が触れそうになるだけで少し離れたくなるし、玲が俺の方を見るだけで何となく顔を逸らしてしまう。別に嫌なわけじゃない。
むしろ、その逆だから困っている。
玲は背が高いし、顔だっていいし、誰とでも話せるし、女子だけじゃなく男子からも好かれていて、学校の中を歩いていれば必ず誰かに声をかけられる。
そんな玲を俺はずっとすごいと思っていたし、たぶん憧れてもいた。だから、まさかそいつから好きだと言われるなんて思っていなかったし、ましてや付き合うことになるなんて想像したことすらなかった。
告白された時だって本当は死ぬほど嬉しかったくせに、素直に「俺も好き」なんて言える筈もなくて、「仕方ないから付き合ってやるよ」なんて可愛くもない返事をした。それでも玲は嬉しそうに笑ってくれたから、きっと俺たちはこれから少しずつ恋人らしくなっていくのだと思っていた。
──思っていたのだけれど、問題が一つあった。
「結弦、暑くない?」
「暑い」
「アイス食べて帰る?」
「昨日も食っただろ」
「いいじゃん。暑いんだし」
「お前、毎日食ってると太るぞ」
「俺、太らないから」
「うざッ」
「ひどくない?」
玲が笑う。その笑い声を聞くだけで、さっきまで何となく落ち着かなかった気持ちが少しだけ軽くなる。
こうして話しているだけなら平気なのだ。くだらない話をして、笑って、たまに玲を馬鹿にして、それで玲が笑ってくれる。それなら俺にもできる。
問題なのは、玲が突然「恋人」になる瞬間だった。
「じゃあさ」
「何」
「アイスいらないから、手繋ごうよ」
「……は?」
思わず玲を見ると、玲は何でもないことみたいに右手を俺の方へ差し出していた。
反射的に周囲を見回す。少し前を同じ学校の生徒が二人歩いているし、反対側から自転車に乗った高校生がやってくる。誰も俺たちのことなんて見ていない。それくらい分かっているのに、俺は玲の手を取ることができなかった。
「無理」
「また?」
「またって何だよ」
「昨日も無理って言ったじゃん」
「昨日は駅前だっただろ。人いっぱいいたし」
「じゃあ今日は?」
「今日だっているだろ」
「どこに?」
「いるじゃん、普通に」
「誰も俺たちのこと見てないって」
「見てなくても嫌なんだよ」
「じゃあ、人がいなかったらいい?」
「……知らねぇよ」
玲が小さく息を吐いた気がしたけれど、俺は気づかないふりで歩き続けた。やがて大通りと住宅街へ続く道の分かれ道が見えてくる。俺たちはいつも、人通りの少ない住宅街の方へ曲がる。
玲もそれ以上手を繋ごうとは言わなかったから、内心ほっとした。同時に少しだけ寂しくもなり、拒んでおいて勝手だと自分でも呆れた。
住宅街に入ると、さっきまで周囲にいた生徒の姿もほとんどなくなった。
鳥の声と、時々通り過ぎる車の音しか聞こえない。塀の向こうから夕飯の匂いが漂ってきて、どこかの家の庭ではホースで水を撒いている音がしている。俺と玲の影が夕方の日差しに照らされて、道路の上に長く伸びていた。
さっきまで普通に話していた玲が妙に静かになったことに気づいて、俺はちらりと隣を見る。
「……何だよ」
「何が?」
「静かじゃん」
「そう?」
「そうだよ」
「結弦が手繋いでくれないから落ち込んでる」
「知らねぇよ」
「冷たいなあ」
「男同士で手繋いで歩くとか恥ずかしいだろ」
「俺は別に恥ずかしくないけど」
「お前はそうだろうけど、俺は恥ずかしいんだよ」
「じゃあ、ここなら?」
「は?」
玲が突然立ち止まった。つられて俺も足を止める。
周囲を見れば、確かに誰もいない。俺たちの横には小さな公園があって、その先には住宅が並んでいるけれど、道を歩いている人の姿はなかった。
「誰もいないよ」
「だから何」
「手、繋ごう」
「……まだ言ってんの?」
「だって結弦、さっき人がいるから嫌だって言ったじゃん」
「だからって……」
玲が手を差し出す。さっきと同じ手なのに、誰もいない場所で改めて差し出されると余計に意識してしまう。
たかが手だ。握るだけだ。それくらいなら俺にだってできる。そう思って、恐る恐る手を伸ばした。指先が玲の手に触れた瞬間、玲が嬉しそうに笑う。その顔を見た途端、胸の奥がきゅっと苦しくなるくらい嬉しくなった。
「……笑うなよ」
「笑ってない」
「笑ってるじゃん」
「嬉しいだけ」
「それがキモい」
「またそういうこと言う」
玲の指が俺の指の間に入ってくる。ただ手のひらを合わせるだけだと思っていたのに、指を絡められた瞬間、身体中の血が一気に顔へ集まったような気がした。
「ちょ、待て!」
「何?」
「普通に繋げよ!」
「普通じゃん」
「これ恋人繋ぎだろ!」
「恋人なんだからいいじゃん」
「よくねぇ!」
慌てて手を離そうとしたけれど、玲は離してくれない。
「離せって!」
「やだ」
「玲!」
「結弦、顔真っ赤」
「暑いからだよ!」
「耳まで赤いけど」
「うるせぇ!」
死ぬほど恥ずかしい。それなのに、本気で嫌なら振り解けばいいだけなのに、それはできなかった。玲の手は俺より少し大きくて、指が触れているところから熱が伝わってくる。こんなことをしているのが玲にとっては当たり前なのかもしれないと思うと、悔しいような、嬉しいような、何とも言えない気持ちになる。
「……結弦」
「何だよ」
「こっち向いて」
「嫌だ」
「なんで」
「お前が変な顔してそうだから」
「変な顔って何」
「ニヤニヤしてそう」
「してないって」
「絶対してる」
「じゃあ確認してみれば?」
そう言われて、俺は仕方なく玲の方を向いた。
──近い。
いつの間にこんなに距離を詰められたのか分からない。すぐ目の前に玲の顔があって、思わず息を止める。
「……何」
「キスしていい?」
「は?」
心臓が大きく跳ねた。
「何言ってんだよ?」
「キス」
「聞こえてるよ!」
「じゃあ返事して」
「無理!」
ほとんど反射だった。
玲が少しだけ眉を下げる。
「また無理?」
「当たり前だろ!」
「なんで?」
「なんでって……」
「手は繋いでくれたじゃん」
「手とキスは違うだろ!」
「何が違うの?」
「全部だよ!」
「分かんない」
「分かれよ!」
玲は笑わなかった。ただ俺の顔をじっと見ていた。さっきまでなら、俺が慌てるのを面白がって笑っていた筈なのに、その時の玲は妙に真剣だった。
「俺さ、ずっと待ってるんだけど」
「……何を」
「結弦が慣れるの」
胸がざわついた。
「別に急がなくてもいいと思ってたし、結弦が恥ずかしいなら待とうって思ってた。だから手繋ぐの嫌って言われても、抱き締めようとして逃げられても、まあ、そのうち慣れるかなって」
「…………」
「でも、キスもずっと無理?」
「それは……」
「俺としたくない?」
「違う」
「じゃあ、したい?」
「…………」
そんなことを聞かれて答えられるわけがない。
したい。たぶん、ものすごくしたい。玲の唇が自分の唇に触れるところを想像しただけで、胸が苦しくなるくらいには。でも、したいと口にした瞬間、本当にされてしまいそうで怖かった。
「……知らない」
「知らないって何」
「知らないもんは知らないんだよ!」
「結弦」
「もう帰ろうぜ」
俺は玲から逃げるように歩き出そうとした。けれど、まだ繋いだままだった手を引かれて足が止まる。
「一回だけ」
「……何が」
「キス。一回だけでいいから」
「無理」
「すぐ終わるよ」
「そういう問題じゃない」
「目閉じてればいいから」
「嫌だって」
「結弦」
玲が俺の手を離し、その代わりに頬へ触れようとした。その瞬間、身体が勝手に後ろへ下がった。
「やめろよ!」
思っていたより大きな声が出た。
玲の手が止まる。
「……ごめん」
玲はすぐに手を下ろした。
その顔を見た瞬間、胸が痛くなった。違う。そんな顔をさせたかったわけじゃない。
玲に触られるのが嫌なわけじゃない。本当は嬉しい。手を繋いだだけでも嬉しかったし、玲がキスをしたいと思ってくれていることだって嬉しい。
でも、それ以上に恥ずかしい。どうすればいいのか分からない。キスをする時、どんな顔をすればいいのかも、どこを見ればいいのかも、目を閉じるタイミングすら分からない。
玲はきっと何でもないことみたいにできるのだろうけれど、俺にとっては何でもなくない。
「……そんなに嫌?」
「だから違うって」
「じゃあ何?」
「恥ずかしいんだよ」
「それは分かってる」
「だったら──」
「でも俺、いつまで待てばいいの?」
言葉が止まった。
玲は怒っていなかった。声を荒らげてもいない。ただ静かに俺を見ている。
「明日?」
「…………」
「来週?」
「……知らねぇよ」
「一か月後?」
「分かんないって」
「じゃあ、いつ?」
「分かんない!」
思わず声を荒らげると、玲が黙った。
まただ。
本当は俺が悪いのに、追い詰められるとすぐ怒る。玲は何も悪くない。
ただ好きな奴と手を繋ぎたいとか、キスをしたいとか、そんな普通のことを言っているだけなのに、俺はそれすらまともに受け止められない。
「……ごめん」
小さく呟くと、玲が少し驚いたように俺を見た。
「でも、本当に無理なんだよ。今は」
「……そっか」
「別に玲が嫌なわけじゃないから」
「うん」
「だから、その……」
「分かってるよ」
玲は笑った。
けれど、いつもの笑顔とは少し違った。
「帰ろうか」
「……うん」
再び歩き出す。でも今度は、玲は手を繋ごうとしなかった。さっきまであんなにしつこく手を差し出してきたのに、俺の隣をただ黙って歩いている。俺も何を話せばいいのか分からなくなって、二人の間には烏の鳴き声だけが響いていた。
それでも俺は、まだどこかで安心していた。
今日できなくても、また明日がある。明日が無理なら、その次の日がある。
玲は俺のことを好きだと言ってくれたし、俺たちは付き合っているのだから、いつか俺が恥ずかしくなくなるまで待っていてくれる。そう勝手に思っていた。
だから、その帰り道で玲が一度も俺に触れなかったことも、別れ際にいつものように笑ってくれなかったことも、俺はそれほど深く考えなかった。
玲がずっと待ってくれることを、当たり前だと思っていたから……。



