好き過ぎて、キスなんてできない

 
 放課後を告げるチャイムが校舎中に鳴り響くと、それまで静かだった教室は一気に賑やかな空気へと変わっていった。
 椅子を引く音や笑い声があちこちから聞こえ、部活動へ向かう生徒たちは慌ただしく荷物をまとめ、帰宅部の連中は「今日どこ寄る?」なんて話しながら教室を出ていく。
 いつもと変わらない光景──。
 そんな騒がしい空間の中で、俺だけは窓際の席に座ったまま、ぼんやりと校庭を眺めていた。
 グラウンドではサッカー部が練習を始め、野球部の威勢のいい掛け声が風に乗って聞こえてくる。夕日に照らされた校舎はオレンジ色に染まり、窓から入り込む風は夏の終わりを告げるように少しだけ涼しかった。
 もう九月も終わりだな……。
 そんなことを考えながら頬杖をついていると、教室の後ろが急に騒がしくなった。

「白石、お前また朝倉と帰るの?」
「毎日飽きねぇな」
「最近、急に仲良くなったよなぁ」
 クラスメイトの笑い声が聞こえた瞬間、胸がどくりと跳ねる。
 見なくても分かる。
 玲が迎えに来たんだ。
 視線だけをそっと後ろへ向けると、教室の入口には長身の男子生徒が立っていた。少し伸びた黒髪を無造作に流し、穏やかな笑みを浮かべながら友人たちに囲まれている。
 隣のクラスで、俺の恋人。
 二週間前、玲から告白されて付き合い始めた。それからというもの、玲は毎日のように俺を迎えに来るようになった。

 最初は恥ずかしいからやめろと言った。
 何度も言った。
 でも玲は「結弦と一緒に帰りたいから」と笑うだけで、結局一度もやめてくれない。
 その笑顔を見る度に胸の奥がくすぐったくなるくせに、素直に嬉しいなんて言えたことは一度もない。

「結弦」
「名前で呼ぶな」
「いいじゃん。誰も聞いてないよ」
「でも駄目だ」
「ケチだなぁ」
 名前を呼ばれ、ようやく顔を上げる。
 玲は俺の机の前まで歩いてくると、当たり前のように鞄を肩へ掛け直した。
「帰ろう」
「……まだ帰らない」
「そうなの?」
「日誌書いてから」
 本当はもう書き終わっていて、後一分もあれば帰れる。それなのに、ついそんな嘘をついてしまった。
「じゃあ待ってるよ」
「だから待たなくていい」
「いいよ。急がなくて」
「……好きにすれば」
 自分でも呆れるくらい可愛くない返事だった。
 本当は『待ってて』と言いたい。一緒に帰りたい。
 校門を出て、駅まで歩きながら今日あったことを話して、コンビニでアイスでも買って、くだらないことで笑い合いたい。
 そんな普通の恋人みたいなことを、俺だってしてみたい。
 だけど、そんなことを口にした瞬間、玲に「結弦って意外と甘えん坊なんだな」なんて笑われる気がしてしまう。
 そう思うだけで恥ずかしくなって、結局いつも逆の言葉しか出てこない。
 玲はそんな俺を見ても怒ることはなく、小さく笑うだけだった。
「昇降口で待ってる」
「来なくても知らないから」
「うん」
「……本当に帰るかもしれないし」
「それでも待ってる」

 まったく……。
 人の話を聞いてるのか聞いてないのか分からない。
 穏やかそうに見えて案外強情。一度決めたら絶対に曲げない。
 頑固なくせに、怒ることもなく、無理に俺の気持ちを聞き出そうともしない。だから余計に困る。
 俺がどんなに冷たい言葉を投げても、玲は「結弦は照れてるだけだから」とでも思っているような顔で笑う。
 ……違う。
 照れているだけじゃない。
 好きすぎて、どう接したらいいのか分からないんだ。
 そんな本音、絶対に言えるわけがない。
「じゃあ、また後で」
 玲は軽く手を振ると、友人に呼ばれて教室を出て行った。
 その背中が見えなくなるまで目で追っていたことに気付いたのは、姿が完全に廊下の向こうへ消えてからだった。

「はぁ……」

 誰にも聞こえないくらい小さく息を吐く。
 俺は本当に馬鹿だ。
 あんな言い方しかできないくせに、玲が迎えに来なかった日は一日中落ち着かなくて、何度も廊下を見てしまう。
 スマホに返信が来るだけで嬉しくなって、寝る前には今日のメッセージを何度も読み返してしまう。
 玲の前では「別に」としか言えないのに、一人になると玲のことばかり考えている。
 こんな恋人、きっと面倒くさい。
 それでも玲は、今日も明日も、その次の日も変わらず迎えに来てくれる。
 ……ずっと、このままでいられる。
 この時の俺は、そんな都合のいいことを本気で信じていた。

「結局来てくれたんだね」
「うるさい。日誌が思ったより早く書き上がっただけだから」
「それでも俺は嬉しい」
「はぁ? 玲って本当に馬鹿なの?」
「なんでもいいよ。結弦と一緒にいられるならば」
 玲と付き合い始めてまだ二週間しか経っていないというのに、隣を歩くだけで緊張してしまう自分が情けない。

 付き合う前と何も変わらないように見える筈なのに、「恋人」という言葉が頭をよぎる度に玲をまともに見られなくなってしまうし、手が少し触れただけでも心臓が飛び跳ねそうになる。それなのに玲はいつも通りで、楽しそうに笑いながら今日学校であった出来事を話してくるから、俺だけが意識しすぎているみたいで何だか悔しい。
 そんな気持ちを悟られたくなくて、「ふーん」とか「へぇ」とか適当な返事ばかりしてしまうのに、玲はそれすら気にせず笑っているから、本当に敵わない。

 夕焼けに染まった帰り道を並んで歩き、いつもの交差点まで来ると、俺は何となく立ち止まって「じゃあ、また明日」と手を軽く上げた。玲も「うん」と笑ってくれたから、そのまま別れるものだと思っていたのに、玲は帰ろうとはせず、何かを言いたそうに俺の顔をじっと見つめてくる。
「……何だよ」
 そうぶっきらぼうに聞くと、玲は少しだけ照れ臭そうに笑って「結弦」と俺の名前を呼びながら一歩近づいてきた。
 その距離がさっきまでよりずっと近くなっただけで心臓がどくんと鳴り、思わず一歩下がりそうになるのを堪えていると、玲は何も言わないままさらに顔を近づけてきて、その瞬間ようやく何をしようとしているのか理解した。

 ……は? ちょっと待て。ここ駅前だぞ。周りには人がたくさん歩いてるし、誰かに見られるかもしれない。恋人同士なら普通なのかもしれないけど、俺には無理だ。恥ずかしすぎる。
 顔は熱いし心臓はうるさいし、どうすればいいのかわからない。そう思った次の瞬間には考えるより先に体が動いていて、俺は玲の肩を押し返しながら
「……近い! キモいんだけど!」
 と叫んでしまっていた。
 言った瞬間、時間が止まったような気がした。
 玲は驚いたように目を見開き、それから困ったように、小さく寂しそうに笑う。その笑顔を見た瞬間、俺の頭の中は真っ白になった。

 違う。違う違う違う!

 俺はそんなことを言いたかったわけじゃない。ただ恥ずかしかっただけだ。嫌だったわけでも、気持ち悪いなんて思ったわけでもない。それなのに、一番言っちゃいけない言葉だけが口から飛び出してしまった。

「ごめんね」
 玲は俺を責めることもせず、小さく笑ったままそう言った。
「俺が調子に乗りすぎた」
 その言葉が胸に刺さる。
「もうしないから安心して」
 そんな風に笑うなよ。
 怒れよ。
 呆れろよ。
 そんな優しい顔で自分が悪いみたいに言われたら、俺の方が苦しくなるだろ。
 何か言わなきゃいけないのに喉が動かない。「違う」と言えば済む話なのに、その一言すら出てこないまま、玲は「また明日」とだけ言って背中を向けた。いつもなら少しくらい振り返って笑ってくれるのに、今日は一度もこっちを見ない。
 その背中が少しずつ遠ざかっていく度に胸の奥が締めつけられて、このまま帰したら絶対に後悔するってわかっているのに、俺はその場から動けなかった。
 ……何やってんだよ、俺。
 まただ。
 昔からこうだ。照れたり嬉しかったりすると素直になれなくて、つい口の悪いことを言ってしまう。
 本当は嬉しいくせに「別に」とか「どうでもいい」とか、そんなことばかり言って、後になって一人で後悔する。せっかく玲が勇気を出してくれたのに、俺は最低だ。
「……くそっ」
 思わず悪態をついた瞬間、ようやく体が動いた。

「玲!」
 人混みをかき分けながら夢中で走ると、玲が驚いたように振り返る。
「結弦?」
 息が上がってうまく話せない。それでも俺は玲の前まで走っていき、肩で息をしながら何度も首を振った。
「だから……違うって」
 玲は黙って俺を見ている。
「勘違いすんな。別に嫌だったわけじゃねぇし」
「じゃあ、どうして?」
「……恥ずかしかったんだよ」
 その一言を言うだけで耳まで熱くなる。
「人があんなにいるところであんなことされたら、無理に決まってんだろ。頭真っ白になって、何言ってるかわかんなくなって……だから、あんなこと言った」
 俯いたまま絞り出した声は、自分でも情けないくらい小さかった。
「……悪かった」
 やっと言えた謝罪に、玲は少しだけ目を丸くした後、ふっと優しく笑った。
「本当に結弦らしいね」
「笑うな」
「だって、嫌だったら追いかけてきてくれないでしょ」
「うるさい」
「耳、真っ赤」
「見るなって」
 玲は声を立てて笑い、その笑顔を見た瞬間、ようやく胸につかえていたものが少しだけ軽くなった。
「じゃあ、次からは人がいないところでする」
 そう言われて俺はまた顔が熱くなり、「ば、馬鹿」としか返せなかったけれど、その言葉に玲は満足そうに笑って俺へ手を差し出してくる。俺は少しだけ迷った後、ぶっきらぼうにその手を握り返し、「……これくらいなら、別に」と小さく呟くと、玲は何も言わず嬉しそうに笑った。

 その笑顔を見ながら、次はもう少しだけ素直になれたらいいと思う自分がいて、そんなことを考えている自分がまた少しだけ悔しかった。