好き過ぎて、キスなんてできない


 西日が差し込む教室は、昼間よりもずっと広く感じられた。
 机や椅子から伸びた影が床の上で斜めに重なり、開け放たれた窓の向こうからは、グラウンドを走る運動部の掛け声や、どこかの部室で鳴らしているらしい楽器の音が途切れ途切れに聞こえてくる。
 帰り支度はとっくに済んでいるのに、俺は自分の席に座ったまま、机の上に置いたスマートフォンを何度も裏返していた。
 画面を点けたところで、新しいメッセージが届いていないことは分かっている。それでも数分おきに確認してしまうのは、二十分ほど前に玲から送られてきた『先生に呼ばれた。少し待ってて』という短い文章が、それきりになっているからだった。
 先生の話が長引いているだけだろうし、別に心配するようなことではない。先に昇降口へ行って待っていてもよかったのだが、今日はどういうわけか、誰もいなくなった教室から動く気になれなかった。

 玲と一緒に帰ること自体は、付き合う前から珍しくなかった。俺たちは隣のクラスで、家の方向も同じ。たまに帰る時間が一緒になることがあった。でも特に互いに話すことはなく、ただそれぞれ帰るだけだった。
 だから二人で並んで校門を出たところで、周りの連中は何とも思わない筈だ。
 それなのに、玲と恋人になった途端、今までなら気にも留めなかった視線がやけに気になるようになった。
 廊下で目が合えば、それだけで何かを悟られてしまう気がするし、玲が俺に笑いかければ、その笑い方が他の奴に向けるものとは違うと気づかれるのではないかと思ってしまう。実際には、そんなに分かりやすいことはしていない。
 学校では今まで通り、玲は俺を朝倉と呼び、俺も白石と呼んでいる。休み時間にわざわざ隣へ行くこともなければ、人のいるところで触れたりもしない。二人きりになったときだけ名前で呼び合い、誰も来ない場所を確かめてから、ほんの少し手を繋ぐ。それが今の俺たちにできる精一杯だった。

 付き合い始めたばかりの頃、学校では今まで通りにしようと言ったのは玲だった。最初にそう言われた時は少し寂しく、告白してきたのは玲なのに、どうして恋人になったことを隠すのかと不満にも思った。
 けれど、玲が自分のためではなく、俺のためにそう言っているのだとすぐに分かった。男同士で付き合っていると知られたら、周囲がどんな反応をするか分からない。面白がって騒ぐ奴もいるだろうし、気持ち悪いと言う奴だっているかもしれない。
 玲は学校中で知られているほど目立つ存在だから、噂が立てば俺たちのクラスだけでは収まらないだろう。玲は自分が何を言われるかではなく、俺まで好奇の目で見られることを心配していた。
 そのことに気づいてからは、秘密にするのが嫌だとは思わなくなった。それでも、時々不安になることはある。玲は誰にでも優しくて、誰とでも自然に話せる。そんな玲が、どうして俺を選んだのか分からなくなることがあった。

 俺は誰かに注目されるのが苦手だし、思っていることを素直に言えない。玲に好きだと告白された時だって、嬉しくて仕方がなかったくせに、「仕方ないから付き合ってやる」と、まるで俺の方が譲ってやるような言い方しかできなかった。
 玲の隣には、もっと明るくて、もっと素直で、玲に似合う奴がいるのではないか。考えたって仕方がないのに、玲が女子と楽しそうに話している姿を見る度、胸の奥に小さな棘が刺さったような痛みが残る。

「あー! なんなんだよ、この気持ちは! 俺らしくねぇ!」

 ガシガシと頭を掻きむしる。それでも……。
 それなのに、俺はもう一度スマートフォンの画面を確認した。やはり玲からの連絡はない。
 先生に呼ばれてから二十分以上経っている。さすがに遅いと思い、俺は鞄を持って席を立った。
 先生との話がまだ終わっていないとしても、廊下を歩いていれば会えるかもしれない。玲の方から教室へ戻ってくる可能性もあったが、何もせずに座っているよりはましだった。

 教室を出て扉を閉めたところで、廊下の向こうから女子生徒が一人、小走りで近づいてくるのが見えた。胸元のリボンの色を見る限り、一年生だ。
 どこかで見たことはあるが、話した記憶はない。俺が廊下の端へ避けようとすると、その女子生徒は俺の前で足を止めた。
「あ、あの……」
「……何? 俺に何か用?」
「白石先輩を見ませんでしたか?」
 玲の名前を出された瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。けれど、そんなことを顔に出すわけにはいかず、俺はできるだけ何でもないことのように答えた。
「先生に呼ばれてたみたいだけど……」
「そうなんですね。ありがとうございます」
 女子生徒は丁寧に頭を下げたものの、すぐには立ち去らなかった。何か言いたそうに俺の顔を見ている。その視線が居心地悪くて、俺は鞄の持ち手を握り直した。
「まだ何かある?」
「あの……朝倉先輩って、白石先輩と仲がいいですよね」
「そうか?」
「最近、いつも一緒に帰ってますよね」
 心臓が一度、大きく鳴った。付き合っていることを疑われているのかと思ったが、女子生徒の顔に探るような色はなかった。ただ純粋に、玲について聞きたがっているように見える。
「家の方向が同じなだけ」
「あ、そうなんですね」
 女子生徒は目に見えて安心したように笑った。その反応を見た瞬間、俺は何となく察してしまった。この子は、玲に何かを伝えるつもりなのだ。
 わざわざ放課後に玲を探し、俺たちが一緒に帰る理由まで確認して、俺の答えを聞いてほっとした。玲に告白するのだろう。
「じゃあ、失礼します」
 女子生徒はもう一度頭を下げると、廊下の向こうへ走っていった。俺はしばらくその背中を見つめていたが、すぐに反対側へ向き直った。

 教室へ戻ろう。玲に告白するつもりだとしても、俺には関係ない。玲ならきちんと断る筈だし、その場面を聞きに行くなんて趣味が悪い。そう思っているのに、足はなかなか動いてくれなかった。
 玲が告白されること自体は、今に始まったことではない。
 付き合う前から何度もあったし、付き合い始めてからも、俺の知らないところで何度かあった筈だ。
 玲は自分から報告しない。俺が気にするのを知っているからだろう。けれど、同じクラスの女子の話や噂を耳にして、完全に知らずにいることはできなかった。
 その度に玲は断っている。
 そして、俺には何度も好きだと言ってくれている。それでも、実際に玲へ告白しようとしている女子を見てしまうと、胸の奥が落ち着かなかった。
 もしかしたら、玲は相手を傷つけないように曖昧な断り方をするかもしれない。優しいから、今すぐには答えられないなんて言って、期待を持たせてしまうかもしれない。そんなことはないと思いながらも、不安だけが勝手に膨らんでいく。

 俺は小さく息を吐き、女子生徒が消えた方向へゆっくり歩き始めた。
 玲を迎えに行くだけだ。告白を聞きに行くわけではない。玲を見つけたら、離れたところで待っていればいい。そう自分に言い聞かせながら階段を下り、二階の渡り廊下へ向かうと、空き教室の方から人の声が聞こえてくる。
 閉じられたドアの向こうに玲の姿が見えた。
 玲の正面には、さっきの女子生徒が立っている。胸元で両手を握り締め、俯きながら何かを話していた。
 玲の表情まではよく見えない。俺はすぐに引き返そうとした。ここにいるべきではない。そう思った瞬間、風に乗って女子生徒の声が届いた。

「ずっと、白石先輩のことが好きでした」
 足が止まった。
「入学式の日、場所が分からなくて困っていた私に声をかけてくれましたよね。白石先輩は覚えていないと思いますけど、私はあの時からずっと……」
 玲は何も言わなかった。女子生徒の声は震えている。きっと、ここまで言うために何度も練習してきたのだろう。
「迷惑かもしれないけど、どうしても伝えたくて。私と付き合ってください」
 俺は渡り廊下の角に身を隠した。今すぐ離れるべきだと思うのに、体が動かない。
 玲を信じていないわけではない。ただ、玲がどんな言葉で断るのか知りたかった。心臓の音が耳の奥で大きく響き、玲の返事を待つ数秒が、ひどく長く感じられた。
「ごめん」
 玲の声は静かだった。
 その一言を聞いただけで、肩から少し力が抜けた。けれど女子生徒はすぐには諦めなかった。
「やっぱり、他に好きな人がいるんですか?」
 俺は思わず息を止めた。学校では、恋人がいること自体を隠している。玲が正直に恋人がいると言えば、それが誰なのか探られるかもしれない。玲ほど目立つ生徒なら、好きな相手がいると知られただけでも噂になるだろう。
「いるよ」
 玲は、躊躇わずに答えた。
 胸の奥が強く締めつけられた。女子生徒も驚いたらしく、しばらく声が聞こえなかった。
「その人とは……付き合っているんですか?」
 短い沈黙が落ちた。玲が何と答えても、責めるつもりはなかった。秘密を守るためなら、付き合っていないと言ってもいい。片思いだと嘘をついても仕方がない。そう思っているのに、俺との関係をなかったことにされるのは、少し怖かった。
「それは言えない」
 やがて玲が答えた。
「ごめん。相手のこともあるから」
 俺はゆっくり顔を上げた。玲は嘘をつかなかった。付き合っていないとは言わず、けれど俺の存在を明かすようなこともしなかった。自分が噂されることだけでなく、俺のことまで考えて答えてくれている。そのことが嬉しくて、胸の奥に広がっていた不安が少しずつ解けていった。
「でも、好きな人がいるのは本当なんですね」
「うん」
「どんな人ですか」
 女子生徒の声には、まだわずかに期待が残っていた。もしかしたら自分にも可能性があるのではないかと、確認したいのかもしれない。玲はすぐには答えず、少しだけ間を置いてから、小さく笑った。
「素直じゃない人」
 俺は思わず眉を寄せた。

「すぐ強がるし、恥ずかしいとひどいこと言うし、俺が何かすると嫌そうな顔する」
 どう考えても俺のことだった。他に言い方があるだろう。告白してきた相手に、わざわざ俺の悪いところを並べなくてもいい筈だ。
「でも、本当はすごく優しい。誰かが困っていても、自分が助けたなんて絶対に言わないし、頑張っているところも人に見せたがらない。自信がないくせに、変なところだけ意地っ張りで、何でも一人で抱え込もうとする」
 俺は何も考えられなくなった。玲が自分をそんな風に見ているとは知らなかった。俺は玲に与えられているばかりだと思っていた。玲の方が何でもできて、誰からも好かれて、俺が隣にいなくても何も困らないと思っていた。
「その人といると、俺は無理して格好つけなくていいんだ。他の奴には言えないことも言えるし、黙っていても苦しくない。だから俺は、その人がいい」
 胸の奥が熱くなる。泣くような場面ではないのに、目の奥まで熱くなってきて、俺は慌てて俯いた。
「その人のこと、そんなに好きなんですね」
「好きだよ」
 玲は、迷いのない声で答えた。
「たぶん、自分で思っているよりずっと」
 その言葉が、胸の奥へまっすぐ落ちてきた。
 俺は鞄の持ち手を強く握り締める。嬉しいのに、まともに立っていられないほど苦しかった。
 俺はずっと、玲の気持ちを疑っていたわけではない。ただ、自分よりも玲に似合う相手がいると思い込んでいただけだ。けれど玲は、誰に向かっても同じように、俺がいいと言ってくれた。俺の名前を出せなくても、俺との関係は隠しても、その気持ちだけは一度も隠そうとしなかった。

「そうですか……」
 女子生徒は小さく息を吐いた。
「それなら、仕方ないですね」
「本当にごめん」
「謝らないでください。曖昧にされるより、ちゃんと断ってもらえてよかったです」
 無理に笑おうとしているのが声だけでも分かった。俺は少しだけ胸が痛んだ。この子がどれだけ玲を好きだったのか、俺には分からない。けれど玲を譲りたいとは、どうしても思えなかった。

 ──あぁ、俺はこんなにも玲のことが好きなんだ……。

 まるでパズルのピースがパチンと音をたててはまった時のように、納得することしかできなかった。
 すぐにこちらへ向かって女子生徒の足音が近づいてくる。俺は慌ててその場を離れようとしたが、曲がり角を出た瞬間、女子生徒と鉢合わせになった。
「あ……朝倉先輩」
 体が固まった。どこから聞いていたのかと疑われるかもしれない。けれど女子生徒は驚いた顔をした後、すぐに目を伏せた。
「失礼します」
 それだけ言って、俺の横を通り過ぎていった。俺はしばらく動けなかった。振り返らなくても、玲がこちらを見ているのが分かる。
「朝倉」
 その声に、俺は仕方なく振り返った。玲は空き教室から渡り廊下へ出て、ゆっくりこちらへ歩いてくる。怒ってはいないようだった。ただ、少し困ったように笑っている。

「どこからいた?」
「今来た」
「嘘つけ」
 玲は俺の前で立ち止まると、顔を覗き込んできた。
「顔、真っ赤だけど」
「暑いだけ」
「今日、そんなに暑くないだろ」
「走ったから」
「足音しなかったけど」
 何を言っても逃げられそうにない。俺は視線を逸らし、鞄を胸元へ引き寄せるように持ち直した。
「盗み聞きするつもりじゃなかった」
「怒ってないよ」
「白石を探してたら声が聞こえて、それで……途中で帰ろうとは思ったんだけど」
「最後まで聞いた?」
 俺は答えなかった。それだけで十分伝わったらしく、玲が小さく笑った。
「ならよかった」
「何が」
「ちゃんと聞いてくれて」
 俺が顔を上げると、玲は廊下の奥を確認し、誰もいないことを確かめてから、俺の鞄を軽く引いた。
「場所変えよう」
「何で」
「ここじゃ誰か来るかもしれないから」

 玲に連れられるまま、俺たちは使われていない階段を上った。最上階の踊り場はほとんど人が来ない。屋上へ続く扉には鍵がかかっていて、窓から差し込む夕日の光だけが、薄暗い階段を赤く照らしている。
 玲はもう一度周囲を確かめると、階段へ腰を下ろした。俺も少し離れたところに座ったが、玲はすぐにその距離を詰めてきた。

「近い」
「二人しかいないだろ」
「だからって近づくなよ」
「さっきの聞いても、まだ避けるんだ」
「避けてない」
 玲の肩が俺の肩に触れる。その程度のことなのに、さっきの言葉を思い出してしまい、まともに玲の顔を見られなかった。
「怒った?」
「何で俺が怒るんだよ」
「素直じゃないとか、強がるとか言ったから」
「本当のことみたいに言うな」
「違うの?」
「違う」
「じゃあ、俺がキスしたそうにすると嫌そうな顔するのは?」
「学校でしようとするからだろ」
「二人きりの時でも駄目なの?」
「だって恥ずかしいだろう!」
 言ってから、しまったと思った。玲が黙る。恐る恐る隣を見ると、玲は驚いたように目を見開いた後、ゆっくりと口元を緩めた。
「今、ちゃんと言った」
「何を」
「嫌なんじゃなくて、恥ずかしいだけって」
「忘れろ」
「無理」
 玲は嬉しそうに笑いながら、俺の手へ自分の指先を触れさせた。
 いきなり握るのではなく、俺が拒まないか確かめるように、少しずつ指を重ねてくる。学校の中で手を繋ぐのは初めてではない。それでも、誰にも見つからない場所でしかできないことだと思うと、いつも以上に胸が高鳴った。

「告白されてること、黙っててごめん」
「別に、全部報告しろなんて言ってない」
「でも朝倉、気にするだろ」
「気にしない。ってか、気にならない」
「また嘘」
 玲の指が俺の手を包む。
「さっき、あの子に付き合ってるかって聞かれた時、言わなかったの、嫌だった?」
 俺は少し考えてから首を横に振った。
「言われた方が困る」
「だよな」
「でも、付き合ってないって言わなかったのは、ちょっと嬉しかった」
 玲の表情が柔らかくなる。
「言えるわけないだろ」
「秘密にするなら、片思いだって言った方が簡単だったじゃん」
「それは嫌だった」
 玲は迷わず答えた。
「朝倉と付き合ってるのに、付き合ってないみたいに言いたくなかった。誰にも言えないことと、いないことにするのは違うから」
 俺は玲の横顔を見つめた。窓から差し込む夕日が、玲の髪を少しだけ赤く染めている。
「別に俺は、そんなこと気にしない」
「俺が気にする」
「白石って、変なところ真面目だよな」
「朝倉のことだから」
 玲は俺の手を握ったまま、少しだけ顔を寄せた。
「不安だった?」
 すぐに否定しようとしたが、玲の目を見たら嘘がつけなかった。
「少しだけ」
「俺があの子のことを好きになるかもって?」
「そういうんじゃない」
「じゃあ何?」
「お前はモテるから」
「知ってる」
「自分で言うなよ」
「事実だし」
 腹が立って手を離そうとすると、玲が慌てて握る力を強めた。

「冗談。ごめん」
「離せ」
「嫌だ」
「見つかったらどうするんだよ」
「誰も来ない」
「分からないだろ?」
「じゃあ、もう少しだけ」
 玲の声が急に弱くなり、俺は手を振り解けなくなった。
「朝倉が不安になるの、分かってるつもりなんだけど」
 玲は繋いだ手を見つめながら続けた。
「俺も、たまに不安になる」
「白石が?」
「朝倉は本当に俺のこと好きなのかなって」
 俺は目を見開いた。玲は告白したときからずっと自信があるように見えた。俺が何を言っても余裕そうに笑い、恥ずかしがって逃げれば楽しそうに追いかけてくる。そんな玲が、俺の気持ちを疑っているとは思わなかった。
「だって朝倉、好きって言わないし」
「言っただろ」
「言われたことないけど?」
「じゃあ、心の中で言ってる」
「それは言ったって言わないでしょ」
「面倒くさい」
「ひどいなぁ。俺は直に朝倉の言葉で聞きたいのに……」
 玲は冗談を言っている顔ではなかった。俺は視線を落とした。自分ばかりが不安なのだと思っていた。けれど玲も同じように、言葉にしなければ不安になるのだ。

「さっき」
「うん」
「白石が俺のこと話してるって、すぐ分かった」
「やっぱり?」
「悪口ばっかりだったけど」
「途中から褒めただろ」
「素直じゃないとか、強がるとか、恥ずかしいとひどいこと言うとか」
「全部本当だろ」
「もういい」
 俺が顔を背けると、玲が少し笑った。
「でも、嬉しかった?」
「……少し」
「少しだけ?」
「かなりだよ。うるさいな!」
 玲の指先がぴくりと動いた。
「もう一回言って」
「嫌だ」
「かなり嬉しかったって」
「しつこいぞ」
「朝倉がそんな素直なこと言うの、珍しいから」
 俺は玲の肩を軽く押した。けれど玲は離れず、むしろその手を取って、自分の胸元へ引き寄せた。
「俺が好きなのは結弦だけだよ」
「学校で名前呼ぶな」
「今は二人しかいない」
「誰か来るかもしれない」
「結弦」
 呼び捨てにされた瞬間、心臓が大きく跳ねた。付き合い始めてから、二人きりの時だけ名前で呼ばれるようになったが、未だに慣れない。玲はそれを知っていて、わざと俺の反応を見ている。

「俺は結弦がいい」
 俺は何も言えなかった。
「誰に告白されても変わらない。もっと可愛い子がいても、もっと素直な子がいても、俺が好きなのは結弦だけ」
「比べるなよ」
「比べてない。最初から結弦しか見てない」
 玲の言葉はいつも真っすぐすぎる。俺はその度に逃げたくなる。嬉しいのに、どう受け取ればいいのか分からなくなって、つい嫌そうな顔をしたり、ひどいことを言ったりしてしまう。さっき玲が話していた通りだ。
「……俺も」
 玲が黙った。
「何?」
 俺は顔を上げられないまま、玲の手を握り返した。
「俺も、お前が嫌いじゃない……」
 声が震えた。けれど玲にはちゃんと届いたらしい。隣で息をのむ気配がした。
「他の奴に告白されてるのを見たら、やっぱり嫌だったし、白石なら俺よりもっといい相手がいるんじゃないかって思った。でも、あの子に断ってるのを聞いて、嬉しかった」
「うん」
「白石が俺のことを、あんな風に思ってるのも知らなかった」
「言ってなかったから」
「言えよ」
「恥ずかしい」
「俺には言わせるくせに」
「好き、とは言ってくれてないじゃん」
「うるさい」
 玲が笑う。その笑い声が近くて、胸の奥まで響いた。
「じゃあ、今度からちゃんと言う」
「毎日は言わなくていい」
「俺は毎日聞きたいけど」
「面倒くさいから言わない」
「それでも付き合ってくれる?」
 俺は少しだけ迷うふりをしてから、玲の肩へ頭を預けた。自分から触れることはほとんどない。玲の体が一瞬固まったのが分かり、少しだけおかしくなった。
「仕方ないから付き合ってはやる」
「またそれ」
「嫌なら別にいい」
「嫌じゃない」
 玲は繋いだ手を離すと、今度は俺の肩を抱いた。誰かに見つかるかもしれないという不安は、まだ消えない。それでも、ほんの少しだけならいいと思った。
 玲の体温が近くにあるだけで、さっきまで胸に残っていた重さが消えていく。

「結弦」
「何」
「キスしていい?」
「駄目」
「何で?」
「学校だから」
「誰も来ない」
「そういう問題じゃない」
「さっき、嫌なんじゃなくて恥ずかしいだけって言ったよな」
「言ってない」
「言った」
「忘れろって言っただろ」
 玲が楽しそうに笑いながら顔を近づけてくる。俺は反射的に玲の口元を手で押さえた。
「近い」
 玲は俺の手のひらに唇を押しつけるようにして笑った。その感触に驚き、俺はすぐに手を離した。
「変なことするなよ」
「結弦が邪魔するから」
「当たり前だろ」
「じゃあ頬でいい」
「よくない」
「一瞬だけ」
「嫌だ」
「ねぇ、本当に恥ずかしいだけ?」
「もう、マジでうるさい」
 俺が立ち上がろうとすると、玲に手を引かれ、再び階段へ座らされた。勢いで玲の肩にぶつかり、そのまま顔が近づく。玲の瞳がすぐ目の前にあった。
「離れろ」
「結弦が来たんだろ」
「引っ張ったのは白石だ」
「じゃあ責任取る」
「意味分かんない」
 玲の顔がゆっくり近づいてくる。俺は逃げようとしたが、背中は壁に当たっていた。階段の下から誰かの足音が聞こえたような気がして、慌てて玲の胸を押す。
「誰か来る」
 二人で同時に動きを止めた。しばらく耳を澄ませたが、聞こえてきたのは外の部活動の声だけだった。玲が小さく息を吐く。
「びっくりした」
「だから学校では駄目だって言ってるだろ」
「分かった」
「本当に?」
「今日は諦める」
 玲は残念そうに言いながら立ち上がり、俺に手を差し出した。俺はその手を取って立ち上がる。すぐに離そうとしたが、玲はなかなか放してくれなかった。
「もう帰ろう」
「うん」
「昇降口までは別々に行くぞ」
「何で」
「一緒に出たら怪しいだろ」
「いつも一緒に帰ってるじゃん」
「さっき、あの子にも言われた」
「何て?」
「いつも一緒に帰ってますよねって」
 玲は少し考えた後、嬉しそうに笑った。
「見られてるんだな」
「喜ぶところじゃない」
「だって、結弦と一緒に帰ってるって思われてるんだろ」
「家の方向が同じだって言っておいた」
「冷たい」
「本当のこと言えるわけないだろ」
「分かってる」
 玲は俺の手を一度だけ強く握り、それからゆっくり離した。
「学校では言えないけど」
 俺は玲を見る。
「俺はちゃんと、結弦の恋人だから」
 また顔が熱くなる。玲は満足そうに笑い、先に階段を下り始めた。俺は少し遅れて、その背中を追う。踊り場を離れる直前、玲が振り返った。
「帰り道、誰もいないところ通ろう」
「何で」
「今日の分のキスするから」
「しない」
「頬だけ」
「絶対嫌だ」
「恥ずかしいだけだろ?」
「それもあるし、キスなんてキモイだけだろう?」
 俺は階段を駆け下り、玲の背中を強く押した。玲は笑いながら逃げるように階段を下りていく。誰かに聞かれないよう声を抑えているのに、その笑い声はひどく楽しそうだった。

 男同士で付き合っていることは、誰にも言えない。
 教室では今まで通りの同級生で、廊下ですれ違っても特別な顔はできない。好きだと伝えることも、手を繋ぐことも、誰かがいる場所では許されない。それは少し寂しくて、時々不安になる。
 それでも、玲が誰かの前で俺の名前を口にしなくても、俺との関係を明かさなくても、もう分かっていた。玲が隠しているのは、恥ずかしいからでも、俺との関係をなかったことにしたいからでもない。
 俺との時間を守るためだ。そして、誰にも言えないその気持ちを、玲は誰よりも大切にしてくれている。

 昇降口へ向かう玲の後ろ姿を見つめながら、俺は周囲に誰もいないことを確かめ、ほんの一瞬だけ制服の袖を掴んだ。玲が驚いて振り返る。
「何?」
「別に」
「今、制服掴んだよね?」
「気のせい」
「結弦」
「学校で名前呼ぶな」
 そう言いながらも、俺はすぐには手を離さなかった。玲も何も言わず、歩く速度を少しだけ落とした。肩が触れない程度の距離を保ちながら、誰にも知られてはいけない俺たちは、夕日の残る廊下を並んで歩いていった。