白石玲は、この学校で知らない奴はいないほどの人気者だ。
整った顔立ちをしているだけじゃなく、背も高くて、運動も勉強も人並み以上にできるくせに、それを鼻にかけることもなく、誰に対しても同じように笑いかける。
休み時間になれば玲の席の周りには自然と人が集まり、廊下を歩けば別のクラスの奴にまで呼び止められ、体育祭では競技に出る度にあちこちから名前を呼ばれていた。
告白されたという噂は何度も聞いた。相手は同学年だけでなく、先輩や後輩、男子の時もあったらしい。
それでも玲が誰かと付き合ったという話は一度も聞いたことがなくて、どうして断ったんだろう、玲の隣に立てるのはどんな奴なんだろうと考える度に、胸の奥が鈍く痛んだ。
そんな玲を、俺、朝倉結弦は一年生の頃からずっと目で追い続けていた。
最初はただ、すごい奴だと思っていただけなのに、校庭で笑う姿を見つければ目を離せず、廊下ですれ違って挨拶されただけで、帰宅後もその瞬間を何度も思い出した。
誰かと楽しそうに話している玲を見ると理由もなく胸がざわついて、告白されたという噂を聞けば、その相手と付き合うんじゃないかと勝手に落ち込んだ。
憧れではないと気づいた時には、もうどうしようもないほど好きになっていた。でも、玲とどうにかなれるなんて一度も思わなかった。
玲の周りには、俺より明るくて面白くて、格好いい奴がいくらでもいる。
それに比べて俺は、誰とでも簡単に仲良くなれるような性格じゃないし、愛想もよくない。
玲と同じ学年ではあってもクラスは違い、委員会の仕事で何度か言葉を交わしたことがある程度で、廊下ですれ違えば苗字を呼ばれて挨拶をされる、それだけの関係だった。
だから遠くから眺め、玲の視界の隅に少しでも入れれば、それだけで十分だと言い聞かせてきた。
その日も、いつもと何も変わらない一日で終わる筈だった。
放課後のチャイムが鳴ると、教室の中は一気に騒がしくなり、部活動へ向かう奴らや友達と寄り道をする相談を始める奴らが、次々と席を立っていく。
俺も机の中に入れていた教科書を鞄へ押し込み、誰かに声をかけられる前に帰ろうと立ち上がった。
帰りにコンビニへ寄ろう。それくらいしか考えていなかったのに、扉へ向かったところで不意に苗字を呼ばれた。
「朝倉」
聞き間違える筈のない声に、俺の足がぴたりと止まった。
名前ではなく苗字を呼ばれただけなのに、心臓が大きく跳ね、振り返るより先に指先まで熱くなる。
まさかと思いながら顔を向けると、教室の後ろの扉に玲が立っていた。
玲が姿を見せただけで、まだ教室に残っていた女子たちが小さくざわめき、誰かが玲の名前を囁く声が聞こえる。
けれど玲は周りから向けられる視線なんて慣れ切っているのか、少しも気にした様子を見せず、真っ直ぐ俺だけを見ていた。
そのことが信じられなくて、思わず背後を確認しそうになる。もしかしたら俺の後ろに別の朝倉がいるんじゃないかと、そんな馬鹿なことまで考えていると、玲は少し困ったように笑った。
「今、少しだけ時間ある?」
「……何で?」
「朝倉に話したいことがあるんだ」
「俺は別に話なんてないけど?」
「俺は朝倉に話があるんだ」
いつもと変わらない穏やかな声だったけれど、よく見れば玲の笑顔はどこか硬く、制服の裾を掴んでいる指先にも僅かに力が入っていた。
普段の玲なら、誰と話している時だってこんな表情はしない。
けれど、玲がわざわざ俺の教室まで来たというだけで頭がいっぱいになった。委員会の仕事か、誰かに伝言を頼まれたのか。玲本人が俺に用事があるとは思えなかった。
「別に、いいけど……」
本当は断る理由なんて一つもないくせに、すぐに頷いたら玲に呼ばれるのを待ち構えていたみたいで恥ずかしくて、わざと素っ気ない言い方になった。
玲はそんな俺の態度を気にする様子もなく、「ありがとう」と笑って先に廊下へ出ていく。俺も少し遅れてその背中を追いかけた。
玲と二人きりで廊下を歩いているだけなのに、すれ違う奴らが全員こちらを見ているような気がして落ち着かない。
普段なら誰といても楽しそうに話す玲が、その日は何度か唇を開いては黙り込んだ。
その横顔を盗み見る度に、俺の胸の鼓動は少しずつ速くなっていった。
何の話か聞けば済むのに、玲が隣にいるだけで頭が働かず、俺も黙って歩いた。
玲が足を止めたのは、特別教室が並ぶ校舎の端だった。
放課後も生徒がほとんど通らない場所で、夕日が廊下を赤く染めている。運動部の声や笛が遠くから聞こえるだけで、周囲には誰もいない。
わざわざこんな場所まで連れてこられたことで、余計に何を言われるのかわからなくなった。
玲は窓際で足を止め、外を見たまま黙った。いつも堂々としている玲の指先が、制服の裾を何度も握り直している。
俺と話すだけなのに、どうして玲がそんなに緊張しているのか理解できなくて、見ている俺の方まで息苦しくなってきた。
「話って何だよ?」
沈黙に耐えられなくなって俺から口を開くと、玲は僅かに肩を揺らした。それからゆっくり振り返り、真っ直ぐ俺の顔を見つめる。夕日に照らされた玲の頬は、いつもより少し赤く見えた。
「急に呼び出してごめん」
「別に。用があるなら早く言えよ」
「うん」
玲はそう言って頷いたものの、すぐには続きを口にしなかった。
大きく息を吸っても迷うように唇を結ぶ玲に、何か大変なことを頼まれるのかと身構えた。悪い想像ばかり浮かび、もう一度急かそうとした、その時だった。
「俺、朝倉のことが好きなんだ」
玲の声は、驚くほど真っ直ぐだった。
「……は?」
間の抜けた声が自分の口から零れた。何を言われたのか理解できず、玲の顔を呆然と見つめる。
好き──。
その言葉の意味は当然知っている筈なのに、玲の口から俺に向けて言われた途端、何を示しているのかわからなくなった。
俺の聞き間違いかもしれない。
玲は誰か別の奴のことを話していて、俺に相談しようとしているだけかもしれない。そう思おうとしたけれど、玲の視線は一度も俺から逸れず、俺の返事を待つようにじっとこちらを見つめていた。
「今、何て言った?」
「朝倉が好きだって言った」
今度はもっとはっきりと言われ、心臓が一度大きく跳ねた後、壊れたみたいに速く動き始める。顔が熱い。息の仕方までわからなくなり、何か言わなければと思っているのに、頭の中は真っ白でまともな言葉が浮かばない。
ずっと好きだった相手が、俺を好きだと言っている。
何度も夢に見た。けれど、そんな都合のいいことが現実に起きる筈がない。
「……冗談だろ」
やっとのことで出た言葉は、自分でも驚くほど掠れていた。
「冗談じゃない」
「じゃあ何だよ。罰ゲームか何か?」
「違うよ」
「ならドッキリだろ?」
「それも違う」
「誰かに言わされてんのか?」
「誰にも言わされてない。俺が自分で朝倉に伝えたくて来たんだ」
玲は少しも迷うことなく否定した。その目にはふざけている様子も、俺をからかって楽しんでいる様子もない。
本気なのだと伝わってくるほど、素直に信じるのが怖くなった。
学校中の誰からも好かれる玲が、どうして俺なんかを選ぶんだ。その気になれば、俺より優しくて格好よく、素直な奴と付き合える。
……それなのに、なぜ俺なんだ。
「……あり得ねぇだろ」
「どうして?」
「どうしてって、お前、自分がどれだけモテるかわかってんのかよ。もっといい奴、いくらでもいるだろ」
「俺にとっては朝倉がいいんだ」
「そういう適当なこと言うなよ」
「適当じゃない」
「じゃあ、俺のどこが好きなんだよ。俺たち、ほとんど話したこともねぇだろ」
声が少しずつ大きくなっていく。
玲に責められているわけでもないのに、なぜか追い詰められているような気持ちになった。
本当は嬉しかった。
ずっと憧れていた玲から好きだと言われて、夢なら一生覚めないでほしいと思うほど嬉しかった。
それでも、喜んで受け入れた後で「やっぱり間違いだった」と言われるのが怖かった。玲にとっては一時の気まぐれでも、俺にとってはずっと胸の奥へ隠してきた大切な想いだ。
もしこれが冗談なら、俺はきっと立ち直れない。
玲が本気だったとしても、付き合ってから俺のつまらなさに気づいて、すぐに飽きてしまうかもしれない。
それなら最初から何も始めない方がいい。遠くから憧れていた時の方が、傷つかずに済む。
玲は俺の問いにすぐ答えず、少しだけ目を伏せた。それから昔のことを思い出すように、僅かに表情を緩める。
「一年の頃、雨の日に廊下で転んだ一年生を助けたの、覚えてる?」
「……知らねぇよ」
「その子が持ってたプリント、全部床に散らばって濡れちゃってた。周りにいた奴らは面倒そうに見てるだけだったけど、朝倉だけ立ち止まって、一緒に拾ってた」
そんなことを言われても、すぐには思い出せなかった。
誰かが転んで、散らばった紙を拾ったような記憶は確かにある。けれど俺にとっては、わざわざ覚えておくほどの出来事ではなかった。
「近くにいたから拾っただけだろ」
「うん。朝倉はそう言うと思った」
「そんなことで好きになるわけねぇだろ」
「それだけじゃないよ」
玲はそう言うと、何か続きを話そうとして一度口を閉じた。それから少し困ったように笑い、首を横に振る。そんな煮え切らない態度の玲を見て、俺は一歩だけ彼に歩み寄った。
「なんで俺なんだ?」
思わず語気が強くなってしまい、玲は少しだけ目を丸くした。
「そんなに不思議?」
玲が小さく笑うと、廊下の窓にもたれかかる。夕焼けが横顔を赤く染め、風がさらりと前髪を揺らしていく。
「最初は朝倉のこと嫌な奴だと思ってた」
「何だよ、それ」
「俺が話しかけても素っ気ないし、目も合わせてくれない。皆は俺を見ると騒ぐのに、朝倉だけは全然違った」
ドキリと心臓が鳴る。
違う。そうじゃない。見たくなかったんじゃない。見られなかったんだ。
「それが悔しくてさ、なんとか朝倉を振り向かせたくて、気づいたら朝倉のことばかり見るようになってた。でも、本当に好きになったのは、それだけが理由じゃないよ」
「じゃあ、何だよ」
玲は少し考えこむように目を伏せた後、俺の反応を確かめるように、もう一度こちらを見つめた。
「委員会の仕事を皆が俺に押し付けて帰った時、朝倉だけが戻ってきたでしょう? 俺が一人でやった方が早いって言っても、皆でやる仕事を一人に押し付けるのが気に入らないって、最後まで手伝ってくれた」
言われて、そんなこともあったような気がしてくる。俺にとっては玲だから助けたわけではなく、他の奴らの態度が気に入らなかっただけだ。
「皆は俺なら何でもできると思って、平気で頼ってくる。でも朝倉だけは、俺ができるかどうかじゃなくて、一人で残されていることに気付いてくれた。あの日から、もっと朝倉のことを知りたいと思うようになったんだ」
俺が忘れていたことを、玲はずっと覚えていた。そのことが嬉しくてむず痒くなる。
「それから朝倉が誰と話しているのか気になって、笑っていると嬉しくなって、他の奴と親しくしていると面白くなくなった。朝倉の視界に入りたい、俺にだけ笑ってほしいって思うようになって、それでようやく気づいたんだ」
「何に?」
「朝倉を振り向かせたいんじゃなくて、朝倉に好きになってほしいんだって」
玲は照れ臭そうに笑った。
「男を好きになったことなんてなかったから、最初は自分でも認められなかったよ。ただ気になるだけだとか、友達になりたいだけだとか、何度もそう思おうとした。でも、朝倉が誰かを好きになるかもしれないって考えたら嫌だった。俺が朝倉の隣にいたいと思った。だから、もう誤魔化せなかった」
玲は真っ直ぐに俺を見つめる。
「気づいた時には、朝倉が男だからとか、そんなことは関係なくなってた。俺は朝倉だから好きになったんだよ。少なくとも、急に思いついて告白したわけじゃないってことだけ信じてほしい。俺はずっと朝倉を見てた。話すようになる前から、思ってるよりずっと長く」
ずっと見ていた──。その言葉が胸の奥へゆっくり沈んでいく。
俺が玲を遠くから見つめていたように、玲も俺を見ていたということなのか。
そんな都合のいいことが本当にあるのかと思う一方で、玲が俺さえ忘れていた出来事を覚えていたことが、何よりも本気の証明のように思えた。
嬉しい。嬉しくてたまらない。
「好きすぎて、白石の顔なんてまともに見られなかったんだよ」
それでも、その気持ちをそのまま口にする勇気はなかった。
「……俺なんかやめとけよ」
口から出た言葉は、玲を拒みたいからではなかった。むしろ好きだからこそ、玲の隣に立つことが怖かった。
「俺、愛想悪いし、性格も捻くれてる。お前みたいに誰とでも仲良くできねぇし、恋人らしいことだって何すればいいのかわかんねぇぞ。お前の周りにいる奴らみたいに面白い話もできないし、付き合ったって絶対すぐ後悔する」
「後悔するかどうかは、朝倉が決めることじゃないよ」
「でも、実際そうだろ。お前ならもっと──」
「もっといい人がいるって、さっきから何度も言うけど、その人たちを俺は好きにならなかった」
玲の声は穏やかだったけれど、それ以上俺に否定させない強さがあった。
「誰かに告白されても、その人と付き合いたいって思ったことは一度もない。俺が好きなのは朝倉だから、朝倉じゃなきゃ意味がないんだ」
「……そんなこと言われても」
「すぐに信じられないのはわかる。でも、俺が人気者だからとか、告白されるからとか、そんな理由で俺の気持ちまで決めつけないでほしい」
玲にそう言われ、俺は何も言い返せなくなった。
たしかに俺は、玲の気持ちを聞こうともせず、どうせもっといい相手がいると勝手に決めつけていた。
玲が俺を選ぶ筈がないという自分の不安を、まるで事実であるかのように玲へ押しつけていたのかもしれない。
それでも、長い間ずっと叶わないと思ってきた想いを、たった数分で現実として受け止めることはできなかった。
「返事は、今すぐじゃなくてもいいよ」
黙り込んでしまった俺を見て、玲は少しだけ寂しそうに笑った。
「急に言われても困るよね。俺も今日、絶対に返事をもらえるとは思ってない。気持ちだけでも知ってほしかったんだ」
「……断られるとは思わなかったのかよ」
「思ってたよ。俺たち同性だし……。だから今もすごく怖い」
玲は笑っていたけれど、その笑顔はいつものように余裕のあるものではなかった。
よく見ると唇は僅かに震えていて、握り締めた手にも力が入っている。
玲だって、平気な顔で告白していたわけじゃない。俺に断られるかもしれないと思いながら、それでも勇気を出してここまで来てくれたのだ。
そのことにようやく気づき、胸の奥が痛んだ。
「じゃあ、俺は帰るね。引き止めてごめん」
玲はそう言って背を向けようとした。その瞬間、胸の中に急な焦りが込み上げる。
返事は後でいいと言われたのに、ここで玲を帰したら、次に顔を合わせた時には今までと同じように話せなくなる気がした。
考える時間をもらったところで、答えなんて最初から決まっている。
俺だって玲が好きだ。ずっと好きだった。夢にまで見た相手から告白されて、本当なら今すぐ俺も好きだと伝えたいくらいなのに、恥ずかしさと不安が邪魔をして、それができないだけだった。
それに、もし今何も言わずに帰したら、玲は俺に脈がないと思って諦めるかもしれない。そうしている間に、別の誰かが玲へ告白して、今度こそ玲がその相手を選んだらどうする。そんなのは嫌だ。玲が誰かの恋人になるところなんて、絶対に見たくない。
「……待てよ」
背中へ向かって声をかけると、玲が足を止めた。
ゆっくりこちらを振り返り、少し驚いたように目を見開く。その顔に期待を浮かべられると、心臓がまた騒ぎ始める。
どう言えばいい。
俺も好きだと素直に伝えれば、それだけで済む話なのに、その一言がどうしても喉を通らない。
好きだと言った瞬間、玲を見つめていたことも、告白の噂を聞く度に勝手に落ち込んでいたことも、全部見透かされてしまいそうで怖かった。
「返事、考えなくていいの?」
「考えたって、どうせ変わらねぇし」
「それは、断るってこと?」
玲の顔から僅かに期待が消える。その表情を見た瞬間、胸が苦しくなった。
「違ぇよ」
「じゃあ……」
「だから、その……」
言葉が続かない。こんな時まで素直になれない自分が嫌になる。
玲は俺を急かさず、ただ黙って待ってくれていた。その優しさが余計に恥ずかしくて、俺は玲から視線を逸らし、わざと大きくため息をついた。
「……仕方ねぇな」
「え?」
「お前がそこまで俺のこと好きだって言うなら、断ったら可哀想だろ」
「朝倉?」
「だから……仕方ないから付き合ってやるよ」
言ってしまった瞬間、校舎の中がしんと静まり返ったような気がした。
玲は目を丸くしたまま何も言わず、俺の顔を見つめている。
もっと他に言い方があっただろうと、自分でもすぐに後悔した。これではまるで、玲に頼み込まれたから渋々受け入れたみたいじゃないか。
本当は玲に告白されて、嬉しくて飛び上がりたいくらいなのに……。
玲が何も言わないままだから不安になり、やっぱり偉そうにしすぎたかと視線を逸らした、その直後。玲が堪えきれないように笑い出した。
「何笑ってんだよ!」
「ごめん。嬉しくて」
「嬉しいなら笑うな。馬鹿にしてんのか?」
「してないよ。本当に嬉しい」
玲は笑いながらも、少しだけ目を潤ませているように見えた。その顔を見た瞬間、俺の胸もいっぱいになり、さっきまで抱えていた不安が少しずつ溶けていく。
「本当に、俺でいいの?」
「何度も言わせんな」
「でも、仕方なくなんだよね?」
「そうだよ。お前がどうしてもって言うから仕方なくだ」
「そっか」
絶対に信じていない顔で玲が笑う。その笑顔があまりにも嬉しそうで、俺まで口元が緩みそうになるのを必死で堪えた。
「これからよろしく、朝倉」
「……おう」
「あと、もう一つだけ聞いてもいい?」
「まだ何かあんのかよ」
玲は少し照れたように笑うと、ほんの僅かに俺との距離を縮めた。それだけで胸が大きく跳ね、反射的に一歩下がりそうになる。
「これからは、結弦って呼んでもいい?」
初めて玲の口から名前を呼ばれ、心臓が止まりそうになった。
今までは苗字を呼ばれるだけで嬉しかったのに、これから玲だけが俺を名前で呼ぶ。その意味を考えただけで、顔から火が出そうになる。
「……好きにすれば?」
できるだけ何でもないように答えたつもりだったけれど、声が僅かに裏返った。玲はそれに気づいたらしく、また楽しそうに目を細める。
「じゃあ、結弦」
「……何だよ」
「付き合ってくれてありがとう」
「だから、仕方なくだって言ってんだろ」
「うん。そういうことにしておくね」
「勝手にしろ」
そう言い返しながら顔を逸らすと、窓の外では夕日がすっかり傾き、校庭を長い影が覆っていた。
ほんの数分前まで、今日も玲を遠くから眺めるだけの一日で終わると思っていた。
それなのに今、ずっと憧れていた玲が俺の恋人になったのだ。その現実を考えただけで胸が熱くなり、どうしても口元が緩みそうになる。
「結弦、笑ってる?」
「笑ってねぇ!」
「そっか」
「見るなよ」
「これから恋人なんだから、今までよりたくさん見ると思う」
「うるせぇ」
玲に背を向けるようにして歩き出すと、すぐに足音が追いつき、玲が当たり前のように俺の隣へ並んだ。
ただ一緒に廊下を歩いているだけなのに、さっきまでとは何もかもが違って感じられる。
玲との距離が少し近いだけで胸が落ち着かなくなり、それでも離れたいとは思わなかった。
本当は俺もずっと好きだったことを、今すぐ伝えられたらいいのにと思う。
けれど今の俺には、仕方なく付き合ってやると言うことしかできなかった。
それでも玲は、俺の本心を少しだけ見抜いているような顔で、隣を歩きながら幸せそうに笑っていた。



