文化祭前日の朝。
カフェテリアの裏手にある搬入路で、私たち四人は膝を突き合わせていた。
地面には、私が魔力で描いた学園の略図。東棟の渡り廊下から中央広場の搬入口まで、一本の線が引かれている。
「エマの動線はこれ。毎朝この時間、空箱を抱えてこの道を歩く。距離にして二百歩」
私は線の途中を指で叩いた。
「アレクはこの道中で、券を渡す。それだけ」
「それだけ、か……」
アレクが唾を飲む。
昨日、二十九回目の失敗をした男の顔だ。
「一つ、提案が……。エマ嬢がつまずいたところを、アレクが支えるというのはどうでしょう。距離が一気に縮まりますし、感謝もされます」
カイルが手を挙げた。
「却下」
私は略図の上へ手のひらを叩きつけた。
「転ばせるのも、閉じ込めるのも、都合よく距離を詰めるのも、全部SYSTEMが今までやってきたことよ」
スライムに襲わせ、階段から落とし、膝枕まで強制する。
私が壊してきたのは、そういう恋愛イベントだ。
「エマの足も気持ちも動かさない。動かした瞬間、私たちがSYSTEMになる」
一瞬の沈黙。
「……なるほどな」
ノクスが真面目な顔で頷く。
「では、俺たちにできることは?」
「敵が繰り出してくる邪魔を、全部どかす」
エマに触れないし、アレクも運ばない。手は縛られるけれど、これだけは譲れない。
「私は解析と書き換え。ノクスは物理迎撃。カイルは生き物系」
「はっ! 具体的には?」
「ヤギ」
「……ヤギ、ですか」
「そしてアレク。あんたの担当は一つだけ」
私は勇者を正面から見た。
「走る。それだけ」
「そ、それだけでいいの?」
「それだけが、一番難しいのよ」
* * *
午前八時十二分。
搬入口の扉が開き、空箱を抱えたエマが出てきた。
白い三角巾。栗色の髪。いつもと変わらない、ただの朝の風景。
二百歩の、カウントダウンが始まる。
「行きなさい、アレク」
「――っ!」
勇者が走り出す。
ピコン。
【SYSTEM】『非正規恋愛行動を検出』
【SYSTEM】『対象:攻略設定のない背景NPC』
【SYSTEM】『逆フラグ処理――開始』
「来た!」
渡り廊下の梁の上、植木鉢が三つ、同時に傾く。
【SYSTEM】『DROP_OBJECT:陶器×3』
【SYSTEM】『impact:勇者アレク』
「着弾点を参照――overwrite。座標、null」
指を走らせる。
落下先を失った植木鉢が、空中で行き場をなくしてぴたりと止まった。
その真下をアレクが駆け抜ける。
「百八十歩!」
次は横風。
廊下の窓が一斉に開き、突風がアレクの足を払う。
「くだらん」
ノクスが片手を上げた。
黒い魔力が壁のように広がり、風をまとめて呑み込む。
続いて床の凍結。温度指定を書き換えで対応。階段の段数増加。私が階層参照を元に戻す。落下する看板……ノクスが握り潰す。
処理する、処理する、処理ーーーーー!
「これ、昨日と似たような術式を使い回してるだけだな」
「拍子抜けだ。魔王として侮辱されている気分になる」
ノクスが欠伸まじりに看板の破片を払う。
「百二十歩!」
アレクの背中が遠ざかっていく。
その走り方が、少しずつ変わっていた。腰が引けていない。前を向いている。
――行ける。
そう思った、瞬間だった。
【SYSTEM】『妨害成功率:低下』
【SYSTEM】『通常補正によるイベント阻止は困難と判定』
ブツンッ。
異音がした。半透明だったウィンドウが、内側から墨を流し込まれたように黒く染まる。
縁を、赤い光が一周した。
【SYSTEM】『上位運用モードへ移行します』
表示が、切り替わる。
【SYSTEM-O】『処理を継続します』
「……なに、それ」
末尾に、見覚えのない一文字が加わっていた。
声も違う。
機械的であることは変わらないが、これまでのSYSTEMが決められた台詞を読み上げているだけだったのに対し、今の声には意志を持つような間が加わった。
「そのOは何だ。何が変わった」
ノクスが問う。当然、返答はない。いつもなら頼んでもいない説明まで垂れ流す奴が、完全に沈黙している。
そして。
渡り廊下の梁の上で、看板が傾いた。
着弾点の指定が、視界に浮かぶ。
【SYSTEM-O】『impact:勇者アレク』
【SYSTEM-O】『override:適用』
その術式の組み方に、私は息を呑んだ。
――私の書き方だわ。
落下座標の参照を三重に入れ子にして、外側から触れないようにする。癖のような書き癖まで、そっくりそのまま。
たった今、私が使ったものを、そのままなぞって返してきた。
「私の手を、コピーした……!?」
間に合わない。
看板がアレクの頭上へ落ちる。
「アレク!」
ノクスが跳んだ。
黒い炎が斜めに走り、看板を空中で両断する。
だが、ノクスの体が着地するより早く。
【SYSTEM-O】『魔王の介入を確認』
【SYSTEM-O】『障害個体を追加』
厨房の扉が、内側から吹き飛んだ。
「メエエエエエエエッ!」
「――ヤギ!」
白い塊が飛び出す。
カイルが横から体当たりで組み伏せた。
「任せろ! こいつは俺の担当だ!」
【SYSTEM-O】『追加』
二頭目。三頭目。四頭目。
次々と扉から飛び出してくる。カイルが必死に押さえ込む。
「多い! 多いぞ!」
【SYSTEM-O】『追加』
渡り廊下の奥。
その暗がりの向こうから、白い濁流が押し寄せてきた。
メエエエエエエエエエエエエエエエエエ!!
数十ではない。数百だ。
角と蹄と鳴き声が、廊下という廊下を埋め尽くして雪崩れ込んでくる。
「量が理不尽なんだよ!」
「アレクが潰される!」
私は両手を突き出した。
「群体をまとめて掴む――coordinate一括参照、destination=校庭!」
白い濁流が、瞬きの間に消えた。
次の瞬間、窓の外の空が、ヤギで埋まった。
数百頭の白い塊が、朝の青空を背景に、悠々と滞空している。あまりに現実感のない光景に、走っていたアレクまで振り返った。
「フェリシア嬢、空が!」
「見なくていいから走って!」
【SYSTEM-O】『転送先を再指定』
【SYSTEM-O】『destination:渡り廊下(上空)』
「――返してきた!?」
空に浮かんでいたヤギの群れが、一斉に向きを変える。
そして、廊下の天井を突き破って落ちてきた。
メエエエエエエエエエエエエエエエエエ!!!
「転送先の書き換え合戦って何!?」
「くだらん。だが、負ければ勇者が潰れるぞ」
ノクスが両腕を交差させ、そして、大きく開いた。
「――黒天蓋」
漆黒の炎が、傘のように廊下いっぱいへ広がった。
落下してきた数百頭が、その黒い膜へ次々と受け止められる。
燃えない。焦げない。ヤギたちは炎の上で一度弾み、ゆっくりと、一頭ずつ床へ降ろされていった。
一頭も、傷ついていない。
「……殺さないのね」
「ヤギに罪はない」
ノクスが群れの向こうを睨む。
「あと、六十歩! カイル、道を開けてあげて!」
「うおおおおおおっ!」
ヤギの海の中で、カイルが両腕を広げた。
白い波を押し分け、アレクが走る一本の隙間だけを、全身でこじ開ける。
「行け、アレク! 俺のことは気にするな!」
「カイルーーっ!」
「あと、これ終わったら風呂に入りたい!」
「切実すぎる!」
アレクが隙間を駆け抜けた。
残り、四十歩。
――そこで、世界が巻き戻った。
カフェテリアの裏手にある搬入路で、私たち四人は膝を突き合わせていた。
地面には、私が魔力で描いた学園の略図。東棟の渡り廊下から中央広場の搬入口まで、一本の線が引かれている。
「エマの動線はこれ。毎朝この時間、空箱を抱えてこの道を歩く。距離にして二百歩」
私は線の途中を指で叩いた。
「アレクはこの道中で、券を渡す。それだけ」
「それだけ、か……」
アレクが唾を飲む。
昨日、二十九回目の失敗をした男の顔だ。
「一つ、提案が……。エマ嬢がつまずいたところを、アレクが支えるというのはどうでしょう。距離が一気に縮まりますし、感謝もされます」
カイルが手を挙げた。
「却下」
私は略図の上へ手のひらを叩きつけた。
「転ばせるのも、閉じ込めるのも、都合よく距離を詰めるのも、全部SYSTEMが今までやってきたことよ」
スライムに襲わせ、階段から落とし、膝枕まで強制する。
私が壊してきたのは、そういう恋愛イベントだ。
「エマの足も気持ちも動かさない。動かした瞬間、私たちがSYSTEMになる」
一瞬の沈黙。
「……なるほどな」
ノクスが真面目な顔で頷く。
「では、俺たちにできることは?」
「敵が繰り出してくる邪魔を、全部どかす」
エマに触れないし、アレクも運ばない。手は縛られるけれど、これだけは譲れない。
「私は解析と書き換え。ノクスは物理迎撃。カイルは生き物系」
「はっ! 具体的には?」
「ヤギ」
「……ヤギ、ですか」
「そしてアレク。あんたの担当は一つだけ」
私は勇者を正面から見た。
「走る。それだけ」
「そ、それだけでいいの?」
「それだけが、一番難しいのよ」
* * *
午前八時十二分。
搬入口の扉が開き、空箱を抱えたエマが出てきた。
白い三角巾。栗色の髪。いつもと変わらない、ただの朝の風景。
二百歩の、カウントダウンが始まる。
「行きなさい、アレク」
「――っ!」
勇者が走り出す。
ピコン。
【SYSTEM】『非正規恋愛行動を検出』
【SYSTEM】『対象:攻略設定のない背景NPC』
【SYSTEM】『逆フラグ処理――開始』
「来た!」
渡り廊下の梁の上、植木鉢が三つ、同時に傾く。
【SYSTEM】『DROP_OBJECT:陶器×3』
【SYSTEM】『impact:勇者アレク』
「着弾点を参照――overwrite。座標、null」
指を走らせる。
落下先を失った植木鉢が、空中で行き場をなくしてぴたりと止まった。
その真下をアレクが駆け抜ける。
「百八十歩!」
次は横風。
廊下の窓が一斉に開き、突風がアレクの足を払う。
「くだらん」
ノクスが片手を上げた。
黒い魔力が壁のように広がり、風をまとめて呑み込む。
続いて床の凍結。温度指定を書き換えで対応。階段の段数増加。私が階層参照を元に戻す。落下する看板……ノクスが握り潰す。
処理する、処理する、処理ーーーーー!
「これ、昨日と似たような術式を使い回してるだけだな」
「拍子抜けだ。魔王として侮辱されている気分になる」
ノクスが欠伸まじりに看板の破片を払う。
「百二十歩!」
アレクの背中が遠ざかっていく。
その走り方が、少しずつ変わっていた。腰が引けていない。前を向いている。
――行ける。
そう思った、瞬間だった。
【SYSTEM】『妨害成功率:低下』
【SYSTEM】『通常補正によるイベント阻止は困難と判定』
ブツンッ。
異音がした。半透明だったウィンドウが、内側から墨を流し込まれたように黒く染まる。
縁を、赤い光が一周した。
【SYSTEM】『上位運用モードへ移行します』
表示が、切り替わる。
【SYSTEM-O】『処理を継続します』
「……なに、それ」
末尾に、見覚えのない一文字が加わっていた。
声も違う。
機械的であることは変わらないが、これまでのSYSTEMが決められた台詞を読み上げているだけだったのに対し、今の声には意志を持つような間が加わった。
「そのOは何だ。何が変わった」
ノクスが問う。当然、返答はない。いつもなら頼んでもいない説明まで垂れ流す奴が、完全に沈黙している。
そして。
渡り廊下の梁の上で、看板が傾いた。
着弾点の指定が、視界に浮かぶ。
【SYSTEM-O】『impact:勇者アレク』
【SYSTEM-O】『override:適用』
その術式の組み方に、私は息を呑んだ。
――私の書き方だわ。
落下座標の参照を三重に入れ子にして、外側から触れないようにする。癖のような書き癖まで、そっくりそのまま。
たった今、私が使ったものを、そのままなぞって返してきた。
「私の手を、コピーした……!?」
間に合わない。
看板がアレクの頭上へ落ちる。
「アレク!」
ノクスが跳んだ。
黒い炎が斜めに走り、看板を空中で両断する。
だが、ノクスの体が着地するより早く。
【SYSTEM-O】『魔王の介入を確認』
【SYSTEM-O】『障害個体を追加』
厨房の扉が、内側から吹き飛んだ。
「メエエエエエエエッ!」
「――ヤギ!」
白い塊が飛び出す。
カイルが横から体当たりで組み伏せた。
「任せろ! こいつは俺の担当だ!」
【SYSTEM-O】『追加』
二頭目。三頭目。四頭目。
次々と扉から飛び出してくる。カイルが必死に押さえ込む。
「多い! 多いぞ!」
【SYSTEM-O】『追加』
渡り廊下の奥。
その暗がりの向こうから、白い濁流が押し寄せてきた。
メエエエエエエエエエエエエエエエエエ!!
数十ではない。数百だ。
角と蹄と鳴き声が、廊下という廊下を埋め尽くして雪崩れ込んでくる。
「量が理不尽なんだよ!」
「アレクが潰される!」
私は両手を突き出した。
「群体をまとめて掴む――coordinate一括参照、destination=校庭!」
白い濁流が、瞬きの間に消えた。
次の瞬間、窓の外の空が、ヤギで埋まった。
数百頭の白い塊が、朝の青空を背景に、悠々と滞空している。あまりに現実感のない光景に、走っていたアレクまで振り返った。
「フェリシア嬢、空が!」
「見なくていいから走って!」
【SYSTEM-O】『転送先を再指定』
【SYSTEM-O】『destination:渡り廊下(上空)』
「――返してきた!?」
空に浮かんでいたヤギの群れが、一斉に向きを変える。
そして、廊下の天井を突き破って落ちてきた。
メエエエエエエエエエエエエエエエエエ!!!
「転送先の書き換え合戦って何!?」
「くだらん。だが、負ければ勇者が潰れるぞ」
ノクスが両腕を交差させ、そして、大きく開いた。
「――黒天蓋」
漆黒の炎が、傘のように廊下いっぱいへ広がった。
落下してきた数百頭が、その黒い膜へ次々と受け止められる。
燃えない。焦げない。ヤギたちは炎の上で一度弾み、ゆっくりと、一頭ずつ床へ降ろされていった。
一頭も、傷ついていない。
「……殺さないのね」
「ヤギに罪はない」
ノクスが群れの向こうを睨む。
「あと、六十歩! カイル、道を開けてあげて!」
「うおおおおおおっ!」
ヤギの海の中で、カイルが両腕を広げた。
白い波を押し分け、アレクが走る一本の隙間だけを、全身でこじ開ける。
「行け、アレク! 俺のことは気にするな!」
「カイルーーっ!」
「あと、これ終わったら風呂に入りたい!」
「切実すぎる!」
アレクが隙間を駆け抜けた。
残り、四十歩。
――そこで、世界が巻き戻った。

