「――で。勇者が私たちに、何を助けてほしいわけ?」
数分後。
学園のカフェテリアの一角で、私たち四人はテーブルを囲んでいた。
向かいには、小麦粉とイチゴジャムまみれのアレク。その隣には、髪から小枝を生やしたカイル。
そして私の隣では、ノクスが先ほど命懸けで救出したクロワッサンを平然と食べている。
「……これを見て欲しい」
アレクがテーブルの上へ、三組の券を並べた。
どれも二枚一組。二組は真新しいままで、残る一組だけが、汗と握力でぐしゃぐしゃに潰れている。
「文化祭のペア入場券なんだ。相手を誘って一緒に校内を回って、日が沈んだあとは二人で後夜祭へ出られる」
「三組もあるの?」
「学園から、僕にだけ三組配られた」
カイルが、げっそりとした顔で説明を引き取った。
「勇者は文化祭で、選ばれた令嬢のうち三名を同伴します。王立魔法学園の伝統だそうです」
「三名。……ちょっと待って」
嫌な引っかかり方をした。
私は指先で小さく術式を走らせ、券の記録を照会する。
【SYSTEM】『Event(イベント):文化祭/勇者の同伴者選定』
【SYSTEM】『候補:正ヒロイン六名』
【SYSTEM】『必要人数:3』
【SYSTEM】『確保数:0』
三人。
昨夜、作戦会議でノクスが口にした数字と、ぴたりと同じだ。
――文化祭当日、地下へ侵入した魔王と、正ヒロイン三人を揃えた勇者の間で戦闘が発生する。
伝統でも、ロマンでもない。これは、地下へ潜らせるための編成だ。仲良くなったヒロインの内、一緒に冒険に行く三人を選ぶ仕様なのだろう。文化祭後、学園編が終わった後のパーティもそのメンバーが固定されるはずだわ。
思わずノクスを見た。
赤い瞳がこちらを見返し、小さく頷く。気づいたか、という顔だった。
「……で、その確保数がゼロなわけね」
「あと三日しかないのに、一人も誘えていないんだ!」
アレクががくりと項垂れた。
当然だわ。リリも、ステラも、ミラも、ナナも、イリスも、ソフィアも――強制恋愛イベントのフラグは、全て彼女たちによって叩き潰されたのだから。
「昨日、六人全員に声をかけたそうです」
カイルが指を折る。
「リリ嬢は『先輩、目が本気じゃないです』。ステラ嬢は『わたくしを三分の一として数えるおつもり?』。ミラ嬢は無言で剣の柄へ手をかけた」
「後半、断り方が物騒すぎない?」
「ナナ嬢は『三人という時点で論理が破綻しています』、イリス嬢は『実験中なので三日後に』、ソフィア様は『わたくし、体調が……』と咳をしながら全力で走り去った」
「六人とも自我がしっかりしてて、私は誇らしいわ」
「褒めている場合ではありません……」
「それで、三人揃わなかったらどうなるの?」
カイルが、すっと目を逸らした。
「……規定では、同伴者が不足した場合、副官がその枠を埋めることになっています」
「副官って、あなたよね」
「……そうなりますね」
「じゃあ、勇者と副官が二人きりで後夜祭を踊るってこと?」
「言うな! 俺だって嫌だ!」
アレクが叫ぶ。
「そういえば、そういうこともあったな」
ノクスがクロワッサンを飲み込み、しみじみと呟いた。
「ある周回では、勇者は最後まで一人も誘えず、副官と二人で男所帯のまま校内を回っていた。後夜祭のキャンプファイヤーでは、たいそう仲睦まじく手を取り合って踊っていたぞ」
「い、嫌だ……っ! カイルは親友だが、文化祭では女の子と踊りたい!」
「私としては、副官としてのアレクの希望をかなえてあげたいのです」
アレクとカイルは二人揃って頭を抱え込んだ。
「事情は分かったけれど、ヒロインズを文化祭に誘う方法を知りたいというなら、今の状況を見る限り、かなり難易度が高いと思うわよ?」
「ああ。彼女たちを誘うのが難しいことは、僕にも嫌というほど分かっている」
「じゃあ、誰を誘いたいの? まさか、私じゃないでしょうね?」
ぴたり。
隣でサクサクと心地よく響いていた咀嚼音が、不自然に止まった。
「……なぬ?」
クロワッサンを両手で持ったまま、ノクスの赤い瞳がスッと細められる。
「フェリシアは私の共犯者だ」
途端に、カフェテリアの気温が急激に下がった。
ノクスの足元から、どす黒いモヤのような殺気が陽炎のように立ち上り、周囲の空間をミシミシと軋ませ始める。
「ノ、ノクス殿! 威圧感を収めてくれ! また壁にアレク型の穴を開ける気か!」
カイルが叫ぶ。
「ちょっと、やめなさい! せっかくの朝ごはんなのに、カフェテリアが半壊しちゃうわよ!」
「ち、違うっ! フェリシアじゃないんだ!」
魔王の殺気に命の危機を感じたのか、アレクは両手を顔の前で激しく振った。
「じゃあ、誰?」
「……実は」
アレクが小さく言った。
その耳が、みるみる赤くなっていく。
「誰なの?!」
アレクの代わりにカイルが「実は……」と首を動かした。
彼の視線の先。カウンターの向こうで、一人の少女が焼きたてのパンを籠へ並べていた。
栗色の髪を白い三角巾の下へまとめ、頬には小さなそばかす。華やかなドレスも、特別な魔力もない。けれど客から声をかけられるたび、春の陽だまりのような笑顔を返している。
「給仕の子?」
アレクが、こくこくと何度も頷いた。
「エマっていうんだ。僕がヒロインたちにボコボコにされて、全校生徒からポンコツ勇者って指を差されて笑われた時も……彼女だけは、決して笑わなかったんだ」
「……うん」
「泥だらけになった僕と一緒に、落としたパンを拾ってくれて……『今日はちょっとうまくいかない日ですね』って、新しいパンをくれたんだよ!」
なんて健気ないい子なんだ。私自身が爪の垢を煎じて飲みたいくらいだわ。
……いや、ちょっと待って。
『笑わずにパンをくれた』って、それ単なる『まともな人間の善意』では……?
かつて全ヒロインの好意をほしいままにしていた男の恋愛ハードルが、今や地下深くまでめり込んでいる。不憫すぎてこっちまで泣けてきたわ。
「それで好きに?」
「最初は、ただ嬉しかった。でも、それから毎朝、彼女の笑顔を探すようになった。パンを受け取るときに一言話せただけで、一日中嬉しくて……」
そこまで言って、アレクは両手で顔を覆った。
「うわああああっ! 声に出すとものすごく恥ずかしい!」
「なんだ、ただの恋煩いか。取るに足らない話だな」
「僕よりクロワッサンを心配するような魔王に、僕の繊細な恋心が分かってたまるか!」
私は腕を組む。エマは学園のカフェテリアで給仕する少女。ゲームの知識をいくら探っても、あの少女には見覚えがない。立ち絵も、専用イベントも、おそらく公式には名前の設定すらなかった背景側の人物だ。
ということは、アレクの気持ちは、SYSTEMに植えつけられた感情ではない。
勇者アレクが、自分で彼女を見つけたってことだわ。
「それなら、普通に誘えばいいじゃない」
「「それが、できないんだ!」」
アレクとカイルの声が重なった。
「アレクが話しかけようとするたび、あり得ない事故が起きる! 植木鉢、噴水、ヤギ、そして今朝の暴走配膳台だ!」
「昨日から二十八回挑戦して、全敗なんだ……」
システムの仕業ね。確か、ここに来る時も変なアラートが出ていた。
テーブルの上に残った二組の入場券へ、私はこっそり検索術式を伸ばした。
【SYSTEM】『アイテム:文化祭ペア入場券』
【SYSTEM】『使用条件:対象へ手渡し、承諾を得ること』
【SYSTEM】『成立時:同行者登録(パーティ編成)』
【SYSTEM】『登録可能対象:正ヒロイン6名』
どうやら文化祭のカップル券は、ただのデートの約束券ではないらしい。
渡して、相手が頷いた瞬間に、その人物を勇者の同行者へ登録する――つまりフラグを立てるためのアイテムね。
そして登録可能対象は、はっきり六人と書いてある。エマは、そのリストに入っていない。リストにない女の子を連れていくという選択肢を、システムが黒塗りにしているのだ。
「だからフェリシアに助けてほしいんだよ!」
アレクが半泣きで訴える。
「いいけど。ちょっと試したいことがあるから、その券、一組貸して」
「え? フェリシア嬢が使うのか?」
「まさか。使うのはあなたよ。今すぐ、あの子に渡してきなさい」
私はエマの方を見やった。
「え? で、でも心の準備が!」
「二十八回も失敗して、まだ準備もなにもないでしょう!? ほら、行く!」
私はアレクの背中を押し、椅子から立たせた。
「まだ台詞を考えてないんだけどーー!」
情けない悲鳴を上げながらも、アレクはエマの方へフラフラと歩いていく。
私はノクスに目配せする。
「ノクス。クロワッサンを置いて、上を見ておいてくれる? 床と壁は私が見る。落ちてくる方は任せたわよ」
「何が起きるか、分かるのか?」
「分からない。でも、システムのパターンって、大体決まってるでしょ?」
「なるほど」
ノクスがそう言って、二つに割ったクロワッサンの片方を皿へ戻した。
そして、歩いて行ったアレクがあと数歩でエマの前までたどり着こうとした時、
赤いウィンドウが開いた。
【SYSTEM】『主人公による非正規恋愛行動を検出』
【SYSTEM】『対象:攻略設定のない背景NPC』
【SYSTEM】『逆フラグ処理――開始』
「逆フラグ?」
次の瞬間、
ごごごごごごっ!
「うわっ!?」
アレクの足元の石床が、突然、後ろへ高速で流れ始めた。
エマの身体がぐんぐん遠ざかっていく。
「なんでだああああっ!?」
抗うように、アレクは床の上を走り始める。
【SYSTEM】『逆フラグ:接触経路の遮断』
「やらせるもんですか!」
私は床へ停止コードを叩き込む。
「FLOOR_SCROLLを参照――velocity=0、overwrite!」
急停止する床。その反動で、走っていたアレクが勢いよくエマの前へ飛び出す。
「あ、あの!」
声に気づき、振り返るエマに、アレクは震える手で入場券を差し出す。
「よ、よかったら僕と――」
その瞬間――。
「メエエエエエエエッ!」
厨房の扉を蹴り破り、一頭の白ヤギが飛び込んできた。
【SYSTEM】『SUMMON:家畜/白ヤギ(個体番号3)』
【SYSTEM】『destination:厨房』
【SYSTEM】『target:贈答品』
「家畜を転送するなああああ!」
一瞬の意表を突かれた。
ヤギがアレクの手の入場券をもっしゃもっしゃと食べ始める。
「稀少な入場券がーーーー!!」
【SYSTEM】『逆フラグ:贈答品の破棄』
「チケットはまだある! ヤギは俺に任せて、アレクは行け!」
カイルが白ヤギへ飛びつく。騎士とヤギの壮絶な取っ組み合いを背に、アレクは少女へ手を伸ばした。
「わ、分かった!」
立ち直ったアレクが、もう一度、エマの方へ向き直る。
「エマ! よ、よかったら僕と――」
【SYSTEM】『逆フラグ:好感度低下イベントへ移行』
【SYSTEM】『DROP_OBJECT:小麦粉袋』
【SYSTEM】『spawn:天井中央』
【SYSTEM】『impact:勇者アレク』
今度はアレクの頭上に、巨大な小麦粉の袋が現れた。
「ノクス!」
「分かっている」
ノクスが片手を上げた。
黒い魔力が網のように広がり、落下する袋を宙で受け止める。
だが、すぐに二袋目、三袋目、四袋目が出現した。
【SYSTEM】『魔王の介入を検出。落下物を追加します』
「くだらん!」
ノクスが指を鳴らした。
漆黒の衝撃波が、すべての袋を空中で粉砕する。
ぼふんっ!
カフェテリア全体が真っ白になった。
「粉砕したら中身が全部降るでしょうがあああっ!」
「袋は止めたぞ」
「代わりに被害を最大化したら意味ないの!」
白い煙が晴れる。
そこには、頭からつま先まで小麦粉まみれになったアレクが立っていた。
【SYSTEM】『対象NPCの好感度低下判定を実行』
エマが、真っ白になったアレクへ近づいていく。そして彼の髪から小麦粉を払い、困ったように笑った。
「今日は、いつも以上にうまくいかない日ですね」
「……うん」
「でも、お怪我がなくてよかったです」
アレクの顔が、泣きそうに歪んだ。
「すみません。仕事へ戻らないと」
エマはアレクへもう一度微笑み、カウンターへ駆け戻っていった。
「フェリシア……」
トボトボと帰ってきたアレクが、情けない顔でこちらを見る。
「頑張ったわね、よくわかったわ」
私はアレクの頭の小麦粉を払いながら、
「あんたがあの子を文化祭へ誘えるよう、協力するわ」
「フェリシア……!」
「俺も手を貸そう。役から外れたというだけで、その想いまで殺される筋合いはない」
「ノクス……! 君までも!」
「もちろん、私も協力する!」
カフェテリアの壁一面へ、巨大な赤いウィンドウが展開された。
【SYSTEM】『Event(イベント):勇者アレクによる入場券の譲渡』
【SYSTEM】『対象:攻略設定のない背景NPC』
【SYSTEM】『Result(結果):失敗』
【SYSTEM】『同行者登録:不成立』
赤い文字が、勝ち誇るように明滅した。
不意打ちとはいえ、久しぶりの敗北。
だが、手の内は見えた。
私は赤いウィンドウへ拳を突きつける。
「上等よ。連敗はしない。次は――こっちが勝つわ!」
数分後。
学園のカフェテリアの一角で、私たち四人はテーブルを囲んでいた。
向かいには、小麦粉とイチゴジャムまみれのアレク。その隣には、髪から小枝を生やしたカイル。
そして私の隣では、ノクスが先ほど命懸けで救出したクロワッサンを平然と食べている。
「……これを見て欲しい」
アレクがテーブルの上へ、三組の券を並べた。
どれも二枚一組。二組は真新しいままで、残る一組だけが、汗と握力でぐしゃぐしゃに潰れている。
「文化祭のペア入場券なんだ。相手を誘って一緒に校内を回って、日が沈んだあとは二人で後夜祭へ出られる」
「三組もあるの?」
「学園から、僕にだけ三組配られた」
カイルが、げっそりとした顔で説明を引き取った。
「勇者は文化祭で、選ばれた令嬢のうち三名を同伴します。王立魔法学園の伝統だそうです」
「三名。……ちょっと待って」
嫌な引っかかり方をした。
私は指先で小さく術式を走らせ、券の記録を照会する。
【SYSTEM】『Event(イベント):文化祭/勇者の同伴者選定』
【SYSTEM】『候補:正ヒロイン六名』
【SYSTEM】『必要人数:3』
【SYSTEM】『確保数:0』
三人。
昨夜、作戦会議でノクスが口にした数字と、ぴたりと同じだ。
――文化祭当日、地下へ侵入した魔王と、正ヒロイン三人を揃えた勇者の間で戦闘が発生する。
伝統でも、ロマンでもない。これは、地下へ潜らせるための編成だ。仲良くなったヒロインの内、一緒に冒険に行く三人を選ぶ仕様なのだろう。文化祭後、学園編が終わった後のパーティもそのメンバーが固定されるはずだわ。
思わずノクスを見た。
赤い瞳がこちらを見返し、小さく頷く。気づいたか、という顔だった。
「……で、その確保数がゼロなわけね」
「あと三日しかないのに、一人も誘えていないんだ!」
アレクががくりと項垂れた。
当然だわ。リリも、ステラも、ミラも、ナナも、イリスも、ソフィアも――強制恋愛イベントのフラグは、全て彼女たちによって叩き潰されたのだから。
「昨日、六人全員に声をかけたそうです」
カイルが指を折る。
「リリ嬢は『先輩、目が本気じゃないです』。ステラ嬢は『わたくしを三分の一として数えるおつもり?』。ミラ嬢は無言で剣の柄へ手をかけた」
「後半、断り方が物騒すぎない?」
「ナナ嬢は『三人という時点で論理が破綻しています』、イリス嬢は『実験中なので三日後に』、ソフィア様は『わたくし、体調が……』と咳をしながら全力で走り去った」
「六人とも自我がしっかりしてて、私は誇らしいわ」
「褒めている場合ではありません……」
「それで、三人揃わなかったらどうなるの?」
カイルが、すっと目を逸らした。
「……規定では、同伴者が不足した場合、副官がその枠を埋めることになっています」
「副官って、あなたよね」
「……そうなりますね」
「じゃあ、勇者と副官が二人きりで後夜祭を踊るってこと?」
「言うな! 俺だって嫌だ!」
アレクが叫ぶ。
「そういえば、そういうこともあったな」
ノクスがクロワッサンを飲み込み、しみじみと呟いた。
「ある周回では、勇者は最後まで一人も誘えず、副官と二人で男所帯のまま校内を回っていた。後夜祭のキャンプファイヤーでは、たいそう仲睦まじく手を取り合って踊っていたぞ」
「い、嫌だ……っ! カイルは親友だが、文化祭では女の子と踊りたい!」
「私としては、副官としてのアレクの希望をかなえてあげたいのです」
アレクとカイルは二人揃って頭を抱え込んだ。
「事情は分かったけれど、ヒロインズを文化祭に誘う方法を知りたいというなら、今の状況を見る限り、かなり難易度が高いと思うわよ?」
「ああ。彼女たちを誘うのが難しいことは、僕にも嫌というほど分かっている」
「じゃあ、誰を誘いたいの? まさか、私じゃないでしょうね?」
ぴたり。
隣でサクサクと心地よく響いていた咀嚼音が、不自然に止まった。
「……なぬ?」
クロワッサンを両手で持ったまま、ノクスの赤い瞳がスッと細められる。
「フェリシアは私の共犯者だ」
途端に、カフェテリアの気温が急激に下がった。
ノクスの足元から、どす黒いモヤのような殺気が陽炎のように立ち上り、周囲の空間をミシミシと軋ませ始める。
「ノ、ノクス殿! 威圧感を収めてくれ! また壁にアレク型の穴を開ける気か!」
カイルが叫ぶ。
「ちょっと、やめなさい! せっかくの朝ごはんなのに、カフェテリアが半壊しちゃうわよ!」
「ち、違うっ! フェリシアじゃないんだ!」
魔王の殺気に命の危機を感じたのか、アレクは両手を顔の前で激しく振った。
「じゃあ、誰?」
「……実は」
アレクが小さく言った。
その耳が、みるみる赤くなっていく。
「誰なの?!」
アレクの代わりにカイルが「実は……」と首を動かした。
彼の視線の先。カウンターの向こうで、一人の少女が焼きたてのパンを籠へ並べていた。
栗色の髪を白い三角巾の下へまとめ、頬には小さなそばかす。華やかなドレスも、特別な魔力もない。けれど客から声をかけられるたび、春の陽だまりのような笑顔を返している。
「給仕の子?」
アレクが、こくこくと何度も頷いた。
「エマっていうんだ。僕がヒロインたちにボコボコにされて、全校生徒からポンコツ勇者って指を差されて笑われた時も……彼女だけは、決して笑わなかったんだ」
「……うん」
「泥だらけになった僕と一緒に、落としたパンを拾ってくれて……『今日はちょっとうまくいかない日ですね』って、新しいパンをくれたんだよ!」
なんて健気ないい子なんだ。私自身が爪の垢を煎じて飲みたいくらいだわ。
……いや、ちょっと待って。
『笑わずにパンをくれた』って、それ単なる『まともな人間の善意』では……?
かつて全ヒロインの好意をほしいままにしていた男の恋愛ハードルが、今や地下深くまでめり込んでいる。不憫すぎてこっちまで泣けてきたわ。
「それで好きに?」
「最初は、ただ嬉しかった。でも、それから毎朝、彼女の笑顔を探すようになった。パンを受け取るときに一言話せただけで、一日中嬉しくて……」
そこまで言って、アレクは両手で顔を覆った。
「うわああああっ! 声に出すとものすごく恥ずかしい!」
「なんだ、ただの恋煩いか。取るに足らない話だな」
「僕よりクロワッサンを心配するような魔王に、僕の繊細な恋心が分かってたまるか!」
私は腕を組む。エマは学園のカフェテリアで給仕する少女。ゲームの知識をいくら探っても、あの少女には見覚えがない。立ち絵も、専用イベントも、おそらく公式には名前の設定すらなかった背景側の人物だ。
ということは、アレクの気持ちは、SYSTEMに植えつけられた感情ではない。
勇者アレクが、自分で彼女を見つけたってことだわ。
「それなら、普通に誘えばいいじゃない」
「「それが、できないんだ!」」
アレクとカイルの声が重なった。
「アレクが話しかけようとするたび、あり得ない事故が起きる! 植木鉢、噴水、ヤギ、そして今朝の暴走配膳台だ!」
「昨日から二十八回挑戦して、全敗なんだ……」
システムの仕業ね。確か、ここに来る時も変なアラートが出ていた。
テーブルの上に残った二組の入場券へ、私はこっそり検索術式を伸ばした。
【SYSTEM】『アイテム:文化祭ペア入場券』
【SYSTEM】『使用条件:対象へ手渡し、承諾を得ること』
【SYSTEM】『成立時:同行者登録(パーティ編成)』
【SYSTEM】『登録可能対象:正ヒロイン6名』
どうやら文化祭のカップル券は、ただのデートの約束券ではないらしい。
渡して、相手が頷いた瞬間に、その人物を勇者の同行者へ登録する――つまりフラグを立てるためのアイテムね。
そして登録可能対象は、はっきり六人と書いてある。エマは、そのリストに入っていない。リストにない女の子を連れていくという選択肢を、システムが黒塗りにしているのだ。
「だからフェリシアに助けてほしいんだよ!」
アレクが半泣きで訴える。
「いいけど。ちょっと試したいことがあるから、その券、一組貸して」
「え? フェリシア嬢が使うのか?」
「まさか。使うのはあなたよ。今すぐ、あの子に渡してきなさい」
私はエマの方を見やった。
「え? で、でも心の準備が!」
「二十八回も失敗して、まだ準備もなにもないでしょう!? ほら、行く!」
私はアレクの背中を押し、椅子から立たせた。
「まだ台詞を考えてないんだけどーー!」
情けない悲鳴を上げながらも、アレクはエマの方へフラフラと歩いていく。
私はノクスに目配せする。
「ノクス。クロワッサンを置いて、上を見ておいてくれる? 床と壁は私が見る。落ちてくる方は任せたわよ」
「何が起きるか、分かるのか?」
「分からない。でも、システムのパターンって、大体決まってるでしょ?」
「なるほど」
ノクスがそう言って、二つに割ったクロワッサンの片方を皿へ戻した。
そして、歩いて行ったアレクがあと数歩でエマの前までたどり着こうとした時、
赤いウィンドウが開いた。
【SYSTEM】『主人公による非正規恋愛行動を検出』
【SYSTEM】『対象:攻略設定のない背景NPC』
【SYSTEM】『逆フラグ処理――開始』
「逆フラグ?」
次の瞬間、
ごごごごごごっ!
「うわっ!?」
アレクの足元の石床が、突然、後ろへ高速で流れ始めた。
エマの身体がぐんぐん遠ざかっていく。
「なんでだああああっ!?」
抗うように、アレクは床の上を走り始める。
【SYSTEM】『逆フラグ:接触経路の遮断』
「やらせるもんですか!」
私は床へ停止コードを叩き込む。
「FLOOR_SCROLLを参照――velocity=0、overwrite!」
急停止する床。その反動で、走っていたアレクが勢いよくエマの前へ飛び出す。
「あ、あの!」
声に気づき、振り返るエマに、アレクは震える手で入場券を差し出す。
「よ、よかったら僕と――」
その瞬間――。
「メエエエエエエエッ!」
厨房の扉を蹴り破り、一頭の白ヤギが飛び込んできた。
【SYSTEM】『SUMMON:家畜/白ヤギ(個体番号3)』
【SYSTEM】『destination:厨房』
【SYSTEM】『target:贈答品』
「家畜を転送するなああああ!」
一瞬の意表を突かれた。
ヤギがアレクの手の入場券をもっしゃもっしゃと食べ始める。
「稀少な入場券がーーーー!!」
【SYSTEM】『逆フラグ:贈答品の破棄』
「チケットはまだある! ヤギは俺に任せて、アレクは行け!」
カイルが白ヤギへ飛びつく。騎士とヤギの壮絶な取っ組み合いを背に、アレクは少女へ手を伸ばした。
「わ、分かった!」
立ち直ったアレクが、もう一度、エマの方へ向き直る。
「エマ! よ、よかったら僕と――」
【SYSTEM】『逆フラグ:好感度低下イベントへ移行』
【SYSTEM】『DROP_OBJECT:小麦粉袋』
【SYSTEM】『spawn:天井中央』
【SYSTEM】『impact:勇者アレク』
今度はアレクの頭上に、巨大な小麦粉の袋が現れた。
「ノクス!」
「分かっている」
ノクスが片手を上げた。
黒い魔力が網のように広がり、落下する袋を宙で受け止める。
だが、すぐに二袋目、三袋目、四袋目が出現した。
【SYSTEM】『魔王の介入を検出。落下物を追加します』
「くだらん!」
ノクスが指を鳴らした。
漆黒の衝撃波が、すべての袋を空中で粉砕する。
ぼふんっ!
カフェテリア全体が真っ白になった。
「粉砕したら中身が全部降るでしょうがあああっ!」
「袋は止めたぞ」
「代わりに被害を最大化したら意味ないの!」
白い煙が晴れる。
そこには、頭からつま先まで小麦粉まみれになったアレクが立っていた。
【SYSTEM】『対象NPCの好感度低下判定を実行』
エマが、真っ白になったアレクへ近づいていく。そして彼の髪から小麦粉を払い、困ったように笑った。
「今日は、いつも以上にうまくいかない日ですね」
「……うん」
「でも、お怪我がなくてよかったです」
アレクの顔が、泣きそうに歪んだ。
「すみません。仕事へ戻らないと」
エマはアレクへもう一度微笑み、カウンターへ駆け戻っていった。
「フェリシア……」
トボトボと帰ってきたアレクが、情けない顔でこちらを見る。
「頑張ったわね、よくわかったわ」
私はアレクの頭の小麦粉を払いながら、
「あんたがあの子を文化祭へ誘えるよう、協力するわ」
「フェリシア……!」
「俺も手を貸そう。役から外れたというだけで、その想いまで殺される筋合いはない」
「ノクス……! 君までも!」
「もちろん、私も協力する!」
カフェテリアの壁一面へ、巨大な赤いウィンドウが展開された。
【SYSTEM】『Event(イベント):勇者アレクによる入場券の譲渡』
【SYSTEM】『対象:攻略設定のない背景NPC』
【SYSTEM】『Result(結果):失敗』
【SYSTEM】『同行者登録:不成立』
赤い文字が、勝ち誇るように明滅した。
不意打ちとはいえ、久しぶりの敗北。
だが、手の内は見えた。
私は赤いウィンドウへ拳を突きつける。
「上等よ。連敗はしない。次は――こっちが勝つわ!」

