そして、その日の放課後。
私は中庭の噴水のそばで、ノクスを待っていた。
約束の時間は、午後四時。
場所は図書館。
本日の議題は、『修正システムへの対抗方法についての整理』。
要するに、今まで私がどうやって戦ってきたかをまとめて、次にどんな実験をするか決める予定だった。
私の鞄には、昼休み返上でまとめた記録用紙が三十二枚。
やる気は十分。準備は万端。あとは、共犯者の到着を待つだけだった。
「そろそろ来る頃ね」
校舎の大扉が開いた。
黒い詰め襟の学生服が見える。
ノクスだ。
よし。時間ぴったり。さっそく図書館へ――。
「ノクス様ーっ! これ、購買のパンです! 全種類買ってきました!」
ピンク色の影が、右から飛びついた。
「リリ、量が非常識ですわ! ノクス様、こちらは『紳士のための正しい紅茶入門』ですの。まずはこちらをお読みくださいませ!」
金髪縦ロールが、左から分厚い本を差し出した。
「明日、手合わせして」
青髪の剣士が、背後から制服の裾を掴んだ。
「ノクスさんの空き時間を整理しました。明日の面会希望は、こちらの用紙へ記入してください」
眼鏡の秀才が、なぜか受付を始めた。
「先ほどの術式破壊について、原理の説明をお願いします。三時間で構いません」
黒髪の天才魔術師が、すでに記録用の魔石を起動している。
「皆さん、まずはお食事です。空腹は孤独を三割増しにしますから」
白髪の聖女が、さらに大きなパン籠を抱えて微笑んでいた。
六人。全員集合。黒い詰め襟の背中が、美少女六人によってみっしりと包囲されている。私の位置から見えるのは、ノクスの肩から上だけだった。
「…………」
――何、あれ。
朝、教室へ入ってきた時は、誰も近づこうとしなかった。
それが半日後には、この状態である。
右にパン、左に紅茶、背後に剣、前方に予定表、頭上に計測魔石、退路は聖女が笑顔で封鎖……。世界を滅ぼせる魔王が、わずか六時間で美少女包囲陣の中心へ追い込まれている。
【SYSTEM】『特別編入生ノクスへの自発的関心を複数検出』
【SYSTEM】『勇者アレクを介さない感情変動です』
【SYSTEM】『既存の恋愛モデルと一致しません』
「でしょうね」
システムは、何もしていない。
ノクスをモテさせる強制イベントなど存在しない。だから、六人がノクスへ近づいているのは、本人たちの意思だ。
全員が、自分の意思でノクスに興味を持ち、自分の足で近づいている。
それは、とてもいいことだ。
システムの強制イベントで恋を押しつけられていた少女たちが、自分で相手を選んでいる。
健全で、私が目指していたもの、そのもの。
「うん。素晴らしい」
実に素晴らしい。
素晴らしいので。
私は、くるりと噴水へ背を向けた。
「フェリシアお姉さまーっ!」
即座に見つかった。
リリがノクスの横から顔を出し、ぶんぶんと手を振る。
「お姉さまもパンをいかがですか! ノクス様と一緒に食べましょう!」
「……いらないわ」
自分でも驚くほど低い声が出た。地下迷宮の最深部から響く亡霊のような声だった。
「フェリシアお姉さま?」
「い、いえ」
私は意識して口角を上げた。
笑顔、笑顔だ。
メインヒロインらしい、慈愛に満ちた完璧な微笑を作る。
「いらないわ。ありがとう」
ノクスが、人垣の隙間から私を見た。
赤い瞳と、視線が合う。口は動いていない。だが、その目には大きく、はっきりと書いてあった。
助けろ。
「…………」
世界を滅ぼせる魔王が、美少女六人を前にして救助を求めている。
助けるべきだろう。共犯者なのだから、当然だ。
だがなぜか、少しくらい困ればいいと思った。
私は、これ以上ないほどにっこりと笑った。
「――ノクス。今日の会議は中止します」
「なぜだ?」
「なんだか、お忙しそうですし」
「忙しくはない」
「ずいぶん人気じゃない。よかったわね、編入初日から」
「よくない」
「皆さん、あなたとお話ししたいようですから」
「いや、俺は話したいわけでは――」
「ノクス様!」
リリが、パンを一つ掲げた。
「こちら、限定十個の『初恋イチゴパン』です!」
「名前が不穏だ。いらん」
「では、わたくしの紅茶と合わせましょう!」
「なぜそうなる」
「その前に手合わせ」
「ミラさん、列へ並んでください」
「ノクス様。パンは逃げませんが、焼きたては逃げます」
「パンを生き物のように言うな!」
ノクスの姿が、再び六人の中へ沈んでいく。
伸ばされた右手だけが、人混みの上からこちらへ見えた。
「今日は、私一人で整理しておきますわ。どうぞ、ごゆっくり」
私は完璧な笑顔で、軽く手を振った。
ノクスの右手が、力なく下がる。
【SYSTEM】『対象個体フェリシアの感情変動を検出』
「検出しなくていい」
【SYSTEM】『推定感情――』
「言わなくていい!」
ウィンドウを裏拳で叩き飛ばす。
画面はくるくると回転しながら、噴水の中へ落ちた。
私は踵を返し、回廊へ向かう。
別に怒ってなんかいない。
作戦会議が中止になったから、少し予定が狂っただけ。
せっかく昼休みを潰して、三十二枚も資料を作ったのに、羽根ペンだって五本持ってきたのに……。
それを全部持って、一人で帰ることになっただけだ。
ノクスは、やろうと思えば誰にも気づかれず、六人を振り払うことくらい造作もないはずだ。
世界を滅ぼせる魔王なのだから。それをしないのは、あの子たちへ悪意がないと分かっているからだ。
「それに……」
ノクスが、あんな風に純粋な好意を向けられるのは、たぶん初めてなのだろう。
今まで何度も、偽物の友情を与えられ、最後には自分の手で裏切らされてきた。
だから、誰かが自分の意思で近づいてきてくれることは、彼にとってきっと悪いことではない。
「……でも次からは、会議のない日にしてほしいけど」
私は小さく呟いた。
石畳を踏む足音が、いつもよりほんの少しだけ速い。
「フェリシア!」
背後からノクスの声が飛んできた。
「明日は必ず時間を空ける!」
六人の声の向こうから、ノクスが叫んだ。
「そう」
思わず、口元が緩んだ。
「最初からそうしなさいよ、馬鹿」
聞こえないくらいの声で答えた。
結局、私は振り返らず、一人で女子寮へ帰っていく。
ノクスを、美少女六人の包囲網の中心へ置き去りにして。
* * *
その一部始終を。
中庭の噴水の陰から、じっと見つめている男がいた。
「……僕のイベントで」
勇者アレク。
手には、渡す相手を失った巨大な花束。
「僕がリリを助けるはずだったのに、魔王が助けて」
花束を握る指へ、少しずつ力が込められる。
「僕がステラの必殺技を華麗に避けたのに、魔王が観客を守って」
それは、避けた方向が悪かっただけである。
「気づけば、僕のヒロインたちが全員、魔王を囲んでいる……?」
金色の瞳から、光が消えていく。
アレクの手の中で、花束がぎしりと軋んだ。
「僕が主人公だ」
低い声が落ちる。
「勇者も、ヒロインも、恋愛イベントも――全部、僕のためにあるはずなのに」
【SYSTEM】『主人公アレクの感情値が限界を突破しました』
【SYSTEM】『推定感情:嫉妬』
「……あいつさえ」
アレクの口元が、歪んだ。
「あいつさえいなければ、全部元に戻る」
ぐしゃり。
花束の茎が、まとめて潰れた。
折れた花が一輪、噴水の水面へ、音もなく落ちた。
私は中庭の噴水のそばで、ノクスを待っていた。
約束の時間は、午後四時。
場所は図書館。
本日の議題は、『修正システムへの対抗方法についての整理』。
要するに、今まで私がどうやって戦ってきたかをまとめて、次にどんな実験をするか決める予定だった。
私の鞄には、昼休み返上でまとめた記録用紙が三十二枚。
やる気は十分。準備は万端。あとは、共犯者の到着を待つだけだった。
「そろそろ来る頃ね」
校舎の大扉が開いた。
黒い詰め襟の学生服が見える。
ノクスだ。
よし。時間ぴったり。さっそく図書館へ――。
「ノクス様ーっ! これ、購買のパンです! 全種類買ってきました!」
ピンク色の影が、右から飛びついた。
「リリ、量が非常識ですわ! ノクス様、こちらは『紳士のための正しい紅茶入門』ですの。まずはこちらをお読みくださいませ!」
金髪縦ロールが、左から分厚い本を差し出した。
「明日、手合わせして」
青髪の剣士が、背後から制服の裾を掴んだ。
「ノクスさんの空き時間を整理しました。明日の面会希望は、こちらの用紙へ記入してください」
眼鏡の秀才が、なぜか受付を始めた。
「先ほどの術式破壊について、原理の説明をお願いします。三時間で構いません」
黒髪の天才魔術師が、すでに記録用の魔石を起動している。
「皆さん、まずはお食事です。空腹は孤独を三割増しにしますから」
白髪の聖女が、さらに大きなパン籠を抱えて微笑んでいた。
六人。全員集合。黒い詰め襟の背中が、美少女六人によってみっしりと包囲されている。私の位置から見えるのは、ノクスの肩から上だけだった。
「…………」
――何、あれ。
朝、教室へ入ってきた時は、誰も近づこうとしなかった。
それが半日後には、この状態である。
右にパン、左に紅茶、背後に剣、前方に予定表、頭上に計測魔石、退路は聖女が笑顔で封鎖……。世界を滅ぼせる魔王が、わずか六時間で美少女包囲陣の中心へ追い込まれている。
【SYSTEM】『特別編入生ノクスへの自発的関心を複数検出』
【SYSTEM】『勇者アレクを介さない感情変動です』
【SYSTEM】『既存の恋愛モデルと一致しません』
「でしょうね」
システムは、何もしていない。
ノクスをモテさせる強制イベントなど存在しない。だから、六人がノクスへ近づいているのは、本人たちの意思だ。
全員が、自分の意思でノクスに興味を持ち、自分の足で近づいている。
それは、とてもいいことだ。
システムの強制イベントで恋を押しつけられていた少女たちが、自分で相手を選んでいる。
健全で、私が目指していたもの、そのもの。
「うん。素晴らしい」
実に素晴らしい。
素晴らしいので。
私は、くるりと噴水へ背を向けた。
「フェリシアお姉さまーっ!」
即座に見つかった。
リリがノクスの横から顔を出し、ぶんぶんと手を振る。
「お姉さまもパンをいかがですか! ノクス様と一緒に食べましょう!」
「……いらないわ」
自分でも驚くほど低い声が出た。地下迷宮の最深部から響く亡霊のような声だった。
「フェリシアお姉さま?」
「い、いえ」
私は意識して口角を上げた。
笑顔、笑顔だ。
メインヒロインらしい、慈愛に満ちた完璧な微笑を作る。
「いらないわ。ありがとう」
ノクスが、人垣の隙間から私を見た。
赤い瞳と、視線が合う。口は動いていない。だが、その目には大きく、はっきりと書いてあった。
助けろ。
「…………」
世界を滅ぼせる魔王が、美少女六人を前にして救助を求めている。
助けるべきだろう。共犯者なのだから、当然だ。
だがなぜか、少しくらい困ればいいと思った。
私は、これ以上ないほどにっこりと笑った。
「――ノクス。今日の会議は中止します」
「なぜだ?」
「なんだか、お忙しそうですし」
「忙しくはない」
「ずいぶん人気じゃない。よかったわね、編入初日から」
「よくない」
「皆さん、あなたとお話ししたいようですから」
「いや、俺は話したいわけでは――」
「ノクス様!」
リリが、パンを一つ掲げた。
「こちら、限定十個の『初恋イチゴパン』です!」
「名前が不穏だ。いらん」
「では、わたくしの紅茶と合わせましょう!」
「なぜそうなる」
「その前に手合わせ」
「ミラさん、列へ並んでください」
「ノクス様。パンは逃げませんが、焼きたては逃げます」
「パンを生き物のように言うな!」
ノクスの姿が、再び六人の中へ沈んでいく。
伸ばされた右手だけが、人混みの上からこちらへ見えた。
「今日は、私一人で整理しておきますわ。どうぞ、ごゆっくり」
私は完璧な笑顔で、軽く手を振った。
ノクスの右手が、力なく下がる。
【SYSTEM】『対象個体フェリシアの感情変動を検出』
「検出しなくていい」
【SYSTEM】『推定感情――』
「言わなくていい!」
ウィンドウを裏拳で叩き飛ばす。
画面はくるくると回転しながら、噴水の中へ落ちた。
私は踵を返し、回廊へ向かう。
別に怒ってなんかいない。
作戦会議が中止になったから、少し予定が狂っただけ。
せっかく昼休みを潰して、三十二枚も資料を作ったのに、羽根ペンだって五本持ってきたのに……。
それを全部持って、一人で帰ることになっただけだ。
ノクスは、やろうと思えば誰にも気づかれず、六人を振り払うことくらい造作もないはずだ。
世界を滅ぼせる魔王なのだから。それをしないのは、あの子たちへ悪意がないと分かっているからだ。
「それに……」
ノクスが、あんな風に純粋な好意を向けられるのは、たぶん初めてなのだろう。
今まで何度も、偽物の友情を与えられ、最後には自分の手で裏切らされてきた。
だから、誰かが自分の意思で近づいてきてくれることは、彼にとってきっと悪いことではない。
「……でも次からは、会議のない日にしてほしいけど」
私は小さく呟いた。
石畳を踏む足音が、いつもよりほんの少しだけ速い。
「フェリシア!」
背後からノクスの声が飛んできた。
「明日は必ず時間を空ける!」
六人の声の向こうから、ノクスが叫んだ。
「そう」
思わず、口元が緩んだ。
「最初からそうしなさいよ、馬鹿」
聞こえないくらいの声で答えた。
結局、私は振り返らず、一人で女子寮へ帰っていく。
ノクスを、美少女六人の包囲網の中心へ置き去りにして。
* * *
その一部始終を。
中庭の噴水の陰から、じっと見つめている男がいた。
「……僕のイベントで」
勇者アレク。
手には、渡す相手を失った巨大な花束。
「僕がリリを助けるはずだったのに、魔王が助けて」
花束を握る指へ、少しずつ力が込められる。
「僕がステラの必殺技を華麗に避けたのに、魔王が観客を守って」
それは、避けた方向が悪かっただけである。
「気づけば、僕のヒロインたちが全員、魔王を囲んでいる……?」
金色の瞳から、光が消えていく。
アレクの手の中で、花束がぎしりと軋んだ。
「僕が主人公だ」
低い声が落ちる。
「勇者も、ヒロインも、恋愛イベントも――全部、僕のためにあるはずなのに」
【SYSTEM】『主人公アレクの感情値が限界を突破しました』
【SYSTEM】『推定感情:嫉妬』
「……あいつさえ」
アレクの口元が、歪んだ。
「あいつさえいなければ、全部元に戻る」
ぐしゃり。
花束の茎が、まとめて潰れた。
折れた花が一輪、噴水の水面へ、音もなく落ちた。

