
午前七時四十分。
私は女子寮の机で、羽根ペンを握ったまま夜を明かしていた。
机の上には、削除領域から持ち帰った記憶を書き殴った紙が十七枚。
床にはさらに二十三枚。
『初期化処理は対象の座標を参照している』
『未登録の場所では、参照が切れる』
『警告ウィンドウは表示であって処理ではない――が、処理の目でもある』
『ノクスの魔力なら、その目を潰せる』
「……ちょっとだけ、見えてきたわ」
私は羽根ペンを置き、凝った肩を回した。
私たちへシナリオを強制する修正システムは、万能ではない。
全知全能の神様が、世界のすべてを自由に握っているわけではないのだ。
決められた条件を監視する。条件が成立すれば、決められたイベントを起動する。失敗すれば修正し、それも失敗すれば初期化する。
決められた手順を、決められた順番で、どこまでも律儀に実行しているだけ。
つまり。
「融通の利かない巨大自動処理……」
そういうものには、必ず穴がある。
穴があるなら、突ける。突いて広げて、最終的には修正システムごと粉砕できる。
それさえできれば、私も、ノクスも、あの六人も。
誰かに与えられた役ではなく、自分で選んだ人生を生きられる。
問題は一つ。
「情報が、圧倒的に足りない」
修正処理の全体像が、まだ見えない。
どんな条件でイベントが始まるのか。どの順番で世界へ干渉するのか。失敗した時、何を基準に復旧方法を選ぶのか。
しばらくは観察と記録へ徹する必要がある。
幸い、私には新しい共犯者がいる。
魔王の膨大な魔力を使って、あれもできる。これも試せる。下手をすれば、今まで構想だけで諦めてきた超大型術式まで――。
窓の外で、朝の鐘が鳴った。
窓の外では、東の空が完全に明るくなっていた。
朝の鐘が鳴る。
私は制服の襟を正し、記録用の白紙束を鞄へ詰め込んだ。
「行きましょうか。共犯者の様子も見ないと」
その共犯者が、今日から特別編入生として学園にいる。
昨日の朝までは、大陸中が名前を口にするのも恐れる終焉の魔王だった男が。
……制服姿で。
その光景を思い出しかけて、私は慌てて首を振った。
「彼は共犯者、共犯者」
自分へ言い聞かせて、部屋を出た。
* * *
教室に着いた瞬間、六人に取り囲まれた。
「フェリシアお姉さま! 昨日は本当にありがとうございました!」
「おかげで清々しい朝ですわ!」
「フラグのへし折り、最高に爽快でした」
リリ、ステラ、ミラをはじめとする六人が、満面の笑みで私を迎えてくれた。昨日、揃ってアレクの恋愛フラグを自力で叩き折った彼女たちは、なんだか晴れ晴れとした顔をしている。
「みんな、よくやったわね。でも、油断は禁物よ」
私はぐるりと六人を見回した。
「システムは諦めないわ。今日もまた、絶対に強制イベントは続くから」
「承知しておりますわ! 次も華麗に回避してみせます!」
「勇者を斬ってもいい?」
「その前に、まずは物理的に離れてね、ミラ」
六人が頷いた、その時、教室の扉が開いた。
空気が、変わった。
私語が止まる。誰かの筆記具が床へ落ちる。
女子生徒の一人が、小さく息を呑んだ。
黒い詰め襟の学生服。銀糸で縁取られた襟元。うなじで結わえられた、夜そのものの黒髪。血の色をした赤い瞳……。
特別編入生ノクスが、朝の教室へ入ってきた。
窓から差し込む朝日が、束ねた黒髪の輪郭を白く縁取っている。詰め襟の首元へ指をかけ、窮屈そうに少しだけ緩める仕草。誰とも目を合わせず、まっすぐ窓際の席へ向かう歩き方……。
教室のざわめきが、明らかに温度を上げた。
「……誰、あの人」
「編入生って聞いたけど」
「顔、すごくない?」
ざわつく教室。
私は、自分の心拍を確認した。
まずいな、少し速いではないか。
ノクスが私の横を通り過ぎる時、赤い瞳がちらりとこちらを向いた。
「……どうした、顔色が悪いぞ」
「徹夜よ。あなたのために仕様書を書いていたの」
「そうか」
それだけ言って、彼は窓際の一番後ろへ座った。
頬杖をついて、外を見る。
――絵になりすぎでしょう、その男。
私は白紙へ、力を込めて書きつけた。
『解析に集中せよ!』
* * *
午前十時三十分。渡り廊下。
最初のイベントは、予告なしで来た。
私は次の講義へ移る途中で、東棟と実習棟をつなぐ渡り廊下の真ん中にいた。白紙の束を小脇に抱え、手すりに寄って窓の外を眺めていた、そのときだ。
カラカラカラ、と軽快な音を立てて、四輪の運搬台が通りかかる。
押しているのは、ピンク髪の後輩――リリだった。
「実習器材、搬入します! 荷締め、ヨシ! 進路、ヨシ! ――『安全感知』、起動!」
荷は縦横に固定され、車輪は無音で回り、彼女の靴底には滑り止め。三日前まで一日三回転んでいた少女は、もはや安全管理の権化だった。
【SYSTEM】『Event:転倒する後輩の救出』
【SYSTEM】『勇者アレク、所定位置へ』
「やっぱり来たわね」
廊下の反対側を見る。
曲がり角の陰で、アレクが不自然なほど爽やかな笑顔を作り、両腕を広げて待機していた。
あれは確実に、転んで飛び込んでくるリリを抱き留める構えだ。
ただ立っているだけなのに、待ち伏せ感がすごい。
「リリ。システムがイベントを起動したわ。前を見て、慎重に進んで」
「大丈夫です!」
リリが得意げに胸を張る。
「今の私には安全対策があります! 二度と都合よく転んだりしません!」
「その意気よ。でも、よそ見は――」
「私には『安全感知』があ――」
リリが私へ笑顔を向けたまま、運搬台を押す。
その直進方向には、渡り廊下の曲がり角にある立派な石壁。
「だから前ぇぇぇっ!」
コツンーーと、運搬台が壁に当たった瞬間。
『――警告。正面衝突の危機。緊急防護を展開します』
「えっ?」
運搬台から無機質な音声が響く。運搬台の先端から巨大な術式エアバッグが爆発的に膨張した。
ドッガァァァァン!!
「きゃあああああっ!?」
もはや安全装置ではない。
攻城兵器である。
強烈な反動で運搬台が宙へ跳ね上がり、完璧に固定されていた荷締め紐が片端から引きちぎれた。
金属製の実験器材、魔力炉の部品、巨大な圧力容器。総重量、百キロ超……。それらが全部まとめて空中へ射出され――尻餅をついたリリの頭上へ降ってくる。
「リリ!」
私は術式を組もうとした。
しかしそれよりも速く、
黒い『何か』が、残像のように私のすぐ横をすり抜けた。
風圧すら置き去りにするほどの速度でソレは落下地点へ一直線に滑り込むと、尻餅をついて固まるリリの頭上へ。覆いかぶさるように大きく広がった。
翻った詰め襟の裾が、まるで漆黒の翼のように彼女の小さな身体を包み込む――。それは、ノクスだった。
ガァンッ!!
降り注いだ百キロの器材が、壁となってリリを覆うノクスの背中に直撃する。硬い岩盤にでもぶつかったかのように弾き返された器材が、無惨な音を立てて壁際へ転がっていく。
リリは目を丸くしたまま、至近距離にあるノクスの胸の中で完全に硬直していた。
「怪我はないか?」
「……あ」
「どこか痛むのか?」
「あ、ひゃいっ!」
「ひゃい?」
「怪我、ないでしゅ!」
噛んだ。
盛大に噛んだ。
ノクスはリリの身体を起こすと、制服についた埃を軽く払った。
「次からは、前を見ろ」
そう言って、ノクスは背を向けた。
――くっ、かっこいいじゃないか。
もし自分がリリの立場だったら、年甲斐もなく胸キュンしていたかもしれない。
現に――
「……今の」
リリが、自分の両腕を抱きしめるように触れていた。すっぽりと包み込まれていた熱を確かめるように。
「私の安全対策より、速いなんて……」
トキメキの方向性はおかしいが、その頬が真っ赤に染まっていく。
と、同時に、
「……なんだよ、今の」
近くで声がした。
アレクだった。
呆然と廊下に立ち尽くしている。走りだす前に、すべて終わっていたらしい。
「彼女を助けるのは、僕……だったはずなのに」
なぜかその時、私は猛烈にアレクに同情してしまった。
思わず彼に歩み寄り、その肩をポンと叩く。
「……ガンバ」
リリは、まだ自分の腕を抱きしめていた。
* * *
午後二時。訓練場。
【SYSTEM】『Event:高飛車令嬢との決闘』
【SYSTEM】『勇者アレク、所定位置へ』
「またこれですの……?」
訓練場の中央で、金髪縦ロールがぐったりと揺れた。
ステラ・ローゼンベルク公爵令嬢は、明らかに飽き飽きしていた。
「僕は何度でも受けて立つよ、ステラ!」
対するアレクは、なぜか気合十分である。
私は観客席の最前列で目を細めた。
昨日、アレクは場外まで吹き飛ばされて、訓練場の壁に勇者の形をした穴を開けた。でも今日は、昨日と同じようにはいかないぞ、という顔をしている。
「では、さっさと終わらせますわ」
ステラが構えた。
空気が薔薇色に染まる。
「必殺! ローズ・テンペストですわああああああああ!」
薔薇色の竜巻が、訓練場を縦断した。
「よし、見切った!」
――と、その時。
「よし、見切った!」
アレクが、横へ跳んだ。華麗に、鮮やかに、完璧な回避行動で。
彼がかわした直線上。
そこには、一般生徒で埋まる観客席があった。
「きゃあああっ!」
悲鳴が上がる。逃げる時間はない。薔薇色の暴風が、逃げ惑う生徒たちを呑み込もうとした瞬間。
黒が、割り込んだ。
生徒たちと竜巻の間に、詰め襟の背中が立ち塞がっていた。
ゴォォォォォッ!!
両腕を広げ、薔薇色の暴風を真正面からすべて受け止めるノクス。
束ねた黒髪がほどけ、詰め襟の袖が裂け、足元の石畳が削れる。
やがて竜巻が散り、薔薇の花びらが、訓練場いっぱいに舞い落ちる。
その中心に、ノクスが立っていた。袖が裂け、髪がほどけて、乱れた黒が風に流れている。
彼はゆっくりと腕を下ろし、ステラの方を振り返った。
「威力を上げすぎだ」
ステラは蒼白になった顔で、目を点にしていた。
自分の技が大勢の観客へ向かった反省、それを真正面から受け止められた驚愕……
だが、その感情が、みるみる別の色へ塗り替えられていく。
「……受け止めた。人を庇って、わたくしの秘剣を……」
カラン、と。
乾いた音を立てて、ステラの手から剣が滑り落ちた。その場に、へなへなと膝をつく。無数の薔薇の花びらの真ん中で。
熱を帯びた、潤んだ瞳で、遠ざかるノクスの背中を乙女の顔で見つめていた。
――ああ、これは。
私は観客席の端で遠い目をした。
うん。完全に落ちたわね。
「今の、見た?!」
訓練場の中央で、明るい声が上がった。
アレクだった。
聖剣を肩に担ぎ、得意げに胸を張っている。
「僕、避けたぞ! 君の必殺技を! どうだいステラ、僕の成長は――」
しかし、ステラは返事をすることなくいつまでも遠くへ熱い視線を向けていた。

