奪われた未来が救った未来

4

 泰志が目を覚ましたとき、九條があからさまに狼狽えていた。あれほど脱がされるのを躊躇っていた軍服を自ら脱ぎ、裏返して、その懐を何度も何度も確認していた。
冷凍庫から出した氷嚢は、タオルに包まれたまま床の脇に転がっていた。九條の額に当てていたはずのそれは、いつの間にか外されている。
 九條は、泰志が起きたことに気づいていなかった。気づく余裕がないように見えた。
 包帯を巻いた胸元に、濃い赤が滲んでいる。それでも九條は、自分の傷などまるで存在しないかのように、飛行服の内側を探っていた。胸元。脇。内ポケット。縫い目の奥。布を裏返し、押し広げ、指先でなぞり、また最初から確かめる。
「おい」
 泰志が声をかけると、九條の肩が跳ねた。
 反射的にこちらを振り向いた目つきは、鋭さを失っていた。敵を見る目ではなかった。隠していたものを見られた子供のような、剥き出しの動揺がそこにあった。
 だが、それも一瞬だった。すぐに九條は目を細め、飛行服を胸元へ引き寄せた。
「何してんだよ。傷、開くぞ」
「構うな」
九條はそう言いながら、また服の懐を探った。泰志はそこで、ようやく気づいた。こいつはなにかを探している。
 飛行帽ではない。靴でもない。もっと小さなものだ。服の内側に入るほどの、薄くて、軽いなにか。
「何を探してるんだ」
 九條の手が止まった。部屋の空気が、そこで急に固くなった。九條は飛行服を抱え込むようにして、泰志から身体を背けた。だが、背けた拍子に傷に響いたのか、肩が大きく震える。息が詰まり、喉の奥でかすかな音がした。
 九條は答えなかった。肩が呼吸に合わせて上下している。あらわになった素肌に汗をかいている。軍人としての矜恃を持ち合わせ、隙を見せようとしなかった彼の心が大きく揺れているのは、泰志の目から見ても容易く分かった。
「貴様か」
 そして向けられたのは、新たな敵意だった。「貴様が私を捕らえたときに、所持品を検覈し、そして廃棄したのか」
「なんだよ『ケンカク』って。そんな難しい言葉を使うなよ」
「……貴様が私を捕まえたときに、持っているものを調べ、そして不要なものを捨てたのか」
「なにも捨ててねえよ。あ、刀は危ないから預かってるけどな」
「後生の頼みだ。私をどうしてくれようと構わない。だが、隠したものがあるなら、それを返してくれないか」
 後生の頼み。
 そんな言葉を、現実に人の口から聞くことがあるとは思わなかった。しかも、それを言ったのは、昨夜からずっと泰志を敵のように睨み、触るな、命令するな、放っておけと吐き捨てていた少年だった。
「本当に知らねえ。俺は何もとっていないぞ」
「ならばなぜ、見当たらない……」
 九條の声が震えた。責めている声の奥に、もっと幼いものが混じっている。迷子になった子供が、自分の行方を大人に問うような響きだった。
「何が無いのか、言わなきゃ探せねえだろ」
 九條は唇を噛みしめた。飛行服の胸元を握りしめる指が白くなる。彼は服の内側へ視線を落としていた。
「……手紙だ」
 九條は、飛行服を抱えたまま、さらに小さく言った。
「母の手紙が、無い」
 ——母。
 その一語だけが、部屋の中で妙に生々しく響いた。
 軍服。特攻。九條伍長。昨夜から九條の周りにまとわりついていた言葉は、どれも泰志の生活から遠すぎた。だが、母という言葉だけは違った。あまりにも普通で、あまりにも近くて、だからこそ泰志は一瞬、何も言えなくなった。
 九條にも母親がいる。そんな当たり前のことを、泰志は今になって初めて突きつけられた気がした。
「出撃のときはあった。確かに、ここに入れていた」
 九條は包帯の上から、心臓のあたりを押さえた。指先が震えている。飛行服の布ではなく、自分の胸そのものを探るような仕草だった。
「操縦席に乗る前にも、確かめた。ここに……ここにあった」
 泰志は、玄関の隅に置いたビニール袋を見た。
 昨夜、血のついたガーゼやタオルを押し込んだ袋だ。汚れたTシャツも、使い捨て手袋も、全部そこへまとめた。もし、その中に混じっていたら。もし、自分が気づかずに捨てていたら。
 泰志はビニール袋の口を解いた。
 くしゃくしゃに丸めたガーゼを一枚ずつどかす。タオルを広げる。切った包帯の端を確認する。血で固まった手袋を裏返す。汚れたTシャツも、念のため振った。
 そこに紙はなかった。畳まれた手紙など、どこにもなかった。
 泰志は床を見た。玄関の隅、靴箱の下、壁際、ペットボトルの影。昨夜脱がせた半長靴の中にも手を入れた。古い革と血の臭いが指に移る。それでも、紙の感触はなかった。
「……ないのか」
 泰志は答えられなかった。九條は、その沈黙だけで理解したようだった。
 飛行服を握っていた手から、力が抜ける。布が、膝の上から床へ滑り落ちた。九條はしばらくそれを見ていた。自分が何を落としたのかも分からないような顔だった。

「お前は本当に、特攻隊員なんだな」
 今更。ほんとうに今更なにを問うているのだと言いたげに、九條は目を見開いた。
「聞いたことがあるんだ。特攻隊員が最後に飛び立つとき、自分の大切なものを一緒に持って行くって。家族からの手紙だったり、大切な人からもらった物だったり、写真だったり、そういう想い出とともに、空へ飛び立つんだよな」
 それは、映画や小説で美化されるようなお涙頂戴の道具ではない、日常の断片。今より少し前の時代に生きた男たちの、銘々の想いが込められた数々の品物。九條もまた、自分の母親からの手紙を、そんなふうに大切に持っていたのだ。
「私は、自分の命を投ずることによって、国を、家族を護れるのならそれで良いと思って飛んだ。だが結果はこうだ。私の覚悟をあざ笑うかのように、得体の知れぬ状況へとこの身は投じられたのだ」
 それからぽつぽつと、九條は言葉を落とした。まるで独り言のように。しかし、そばにいる泰志に聞かせるように、彼は自分が空に飛び立ち、敵艦諸共散ろうとしたその瞬間までを、語った。
「私はあのとき、たしかに炎に包まれた。肉体の隅々までを消し飛ばすような衝撃に襲われ、藻屑にもならぬはずだった。だから胸にしのばせた手紙は、そこで消失してしまったのかもしれない。そう納得しようとすればするほど、ではなぜ私はここに存在しているのか、分からなくなるのだ」
「いますぐに分かる必要あるのか、それ」
「なっ……」
 九條は絶句した。
「生きる意味とか、死ぬ必要があったとか、そんなこと、今ここで考え切れるわけねえだろ。だいたい、お前が俺の部屋にいること自体、意味分かんねえんだよ。意味分かんねえことの答えを、熱出して血を流してる奴が、今すぐ出そうとすんな」
 泰志は、床に落ちた飛行服をちらりと見た。
「それに、この時代はさ、少なくとも、四六時中、死ぬ場所を探してなくても生きていけるんだよ」
「……死ぬ場所を」
「そうだよ。お前、さっきからずっとそればっかじゃねえか。なんで生きてるのか。なんで死ねなかったのか。何を失ったのか。そりゃ考えるなとは言わねえけど、今そればっか考えてたら、先に心が駄目になるだろ」
「私は……」
「分かんねえなら、分かんねえままでいろよ。分かるまで死ぬな。それでいいだろ」
 泰志は、強引に九條の言葉の紡ぎを奪った。
「今はちょっとでも身体を回復させることに専念しろ。……でもお前、なんだか最初より傷がマシになってねえか?」
泰志の言葉に、九條は怪訝そうに眉をひそめた。
 泰志は九條のそばにしゃがみ込み、胸元の包帯へ手を伸ばした。九條が一瞬身体を強張らせて身構えるのが分かったが、泰志は構わず、緩んでいた包帯の端を少しだけめくった。
「おい、これ……」
 泰志の喉から、間の抜けた声が漏れた。
 昨夜、泰志は自分の手でこの傷を拭ったのだ。皮膚が裂け、肉がえぐれ、生々しい赤が覗いていたはずの箇所が、今は薄い膜を張ったように塞がりかけていた。完全に治っているわけではない。赤黒い血の塊が張り付き、周囲の皮膚は炎症を起こしたように腫れている。だが、数時間前に負った重傷の経過としては、明らかに常軌を逸していた。
 足のほうもそうだ。あれほどおびただしい血を流していたはずの半長靴の傷口も、包帯の赤みはすでに乾き、新たな出血は止まっているように見える。
「……どうなってんだよ。俺の手当てが完璧だったとか、そういうレベルじゃねえぞ」
 泰志は思わず後ずさった。九條は泰志の反応を見て、自ら包帯を元に戻した。はだけた飛行服の襟をゆっくりと合わせる。
「……化物だと思うか。あの閃光の中で、私は一度粉々に砕け散り、そしてこの世界で無理やりに繋ぎ合わされたのかもしれん。だから手紙は失われ、ただこの空っぽの肉体だけが、気味の悪い治癒を……」
「ストップ。それ以上言うな」
 泰志は両手で制して、九條の言葉を強引に遮った。
 これ以上、非現実的な仮説を聞かされたら、頭がパンクしてしまう。化け物だとか、砕け散って繋ぎ合わされたとか、そんなオカルトじみた話を真顔でされても処理しきれない。
「治りが早いなら、それに越したことはねえよ。化け物でも何でもいい。血が止まってるなら、俺もこれ以上焦らなくて済む」
 泰志は立ち上がり、頭をガシガシと掻いた。
「……俺、ちょっと外出てくる」
「どこへ行く」
 九條が鋭く反応した。
「買い出しだよ。メシと、あとお前の服だ。そんな血と油まみれの軍服でいられたら、ここが俺の部屋だってこと以外、何もかも狂っちまう。それに、もし外に出るにしても、そんな格好じゃ一発で通報されるぞ。適当な服を買ってくる」
泰志は財布とスマートフォンをポケットに突っ込み、玄関の靴を突っかけた。
「大人しく寝てろよ。勝手に動いてまた傷開かせたら、今度こそ容赦しねえからな」
 九條は不服そうに唇を曲げたが、もう反論する気力もないのか、黙って目を伏せた。ガチャリと鍵を開けて外に出ると、初夏の空気が、泰志の肺に生ぬるく流れ込んできた。太陽はすでに高く上がり、アスファルトをじりじりと灼いている。
 泰志はアパートの外階段を下りながら、無意識に自分の右手を握り、そして開いた。
「……とりあえず、服と、あと……カロリー高えもんだな」
 泰志は、まだ人通りの少ない住宅街の路地を、大通りへと向かって歩き出した。

 部屋に戻った泰志がレジ袋から取り出した弁当は、全部で三つだった。
 自分のための特大デミグラスハンバーグ弁当がひとつ。そして九條の前には、おかずがぎっしり詰まった幕の内弁当と、タレの絡んだ肉が敷き詰められた重たい豚焼肉弁当の二つを並べて置いた。泰志が引っ越しの現場帰りによく世話になっている、安くて盛りの良さが売りのお気に入りの手作り弁当屋で買ってきたものだ。
目の前に広げられた弁当を見て、九條は大きく目を見開いた。
「なんだよ、その目は」
 泰志が言うと、九條はおそるおそる、二つの弁当を覆っている透明なプラスチックの蓋を指差した。
「この、透き通った箱はなんだ……。硝子か? いや、それにしては薄すぎるし、これほど精巧な型抜きなど見たことがない。なぜ中身が透けて見えているのだ」
「プラスチックだよ。中身が見えたほうが美味そうに見えるし、買う前に何が入ってるか分かるだろ」
「ぷらす、ちっく……」
 九條は聞き慣れない単語を口の中で反芻しながら、今度はその透明な蓋の向こう側にある中身を凝視した。
 幕の内弁当には、白く光る白米がぎっしりと詰められ、焼き鮭、卵焼き、鶏の唐揚げ、ちくわの天ぷら、煮物が所狭しと並べられている。もうひとつの豚焼肉弁当は、飯が見えないほど分厚い肉で覆われていた。
「これを……私が二つとも食ってもよいのか?」
 九條の声が震えている。
「将官の食事でも、ここまでの贅沢な品数はあり得ん……いや、そもそも米がこれほど純白なはずが……」
 信じられないものを見るような九條の顔つきに、泰志は思わず息を吐き出した。
 泰志にとっては、肉体労働で腹を空かせたときにワンコインちょっとで買ってくる、ただの安くてガッツリした弁当だ。味の濃い、日常の妥協と栄養補給の産物でしかない。それが、八十年前から来た十七歳の目には、上級の身分の者ですら口に出来ない、豪華な晩餐に見えるらしい。
「一つ五百円ちょいの弁当だよ。毒なんか入ってねえし、お前のために二つ買ってきたんだ。さっさと食え」
「私のために、二つ……?」
「異常な治り方をしてるとはいえ、昨日の夜、あれだけ血を流したんだぞ。身体の中で肉作って血ぃ増やしてんのに、カロリーが足りるわけねえだろ」
 泰志は九條の弁当の蓋を二つとも外し、透明なフィルムに包まれた割り箸と、小さな袋に入ったおしぼりを横に置いた。
「あ、それとお前、服も買ってきたから。食い終わったら着替えろ」
 泰志は、弁当屋の帰りに寄ったディスカウントストアの袋から、適当に見繕って買ってきた無地のTシャツと短パンの上下を取り出して床に投げた。
九條は床に落ちた衣類を一瞥したが、すぐに視線を弁当に戻した。理屈はどうあれ、空腹には抗えないらしい。だが、割り箸の袋を開けようとして、透明なビニールの破り方が分からないのか、不器用に指先を滑らせていた。
 泰志は無言で九條から割り箸を奪い取り、袋を破って中身の木片を割り、再び九條の手に押し付けた。
「ほらよ」
「……恩に着る」
 九條は小さく頭を下げ、箸を握った。
 そして、まるで神聖な儀式でもおこなうかのように背筋を正し、幕の内弁当の唐揚げを一口かじり、そして白米を口に運んだ。
 ゆっくりと咀嚼する九條の目が、再び大きく見開かれる。
 朝の冷凍うどんのときと同じように、弁当屋特有の濃い味付けと肉の油、そして精米された現代の白米の甘さが、彼の味覚を強烈に殴りつけているのが泰志にも分かった。九條の喉がごくりと鳴り、箸の動きが目に見えて早くなる。
「ゆっくり食えよ。誰も取らねえから」
 泰志は自分のハンバーグ弁当をかき込みながら、呆れたように言った。
 大義だの、死に場所だの、特攻だのと重苦しい言葉を背負っていても、目の前の二つの弁当に食らいつく姿は、部活終わりにメシをかき込む高校生と同じだ。
 化け物じみた回復力を見せようが、過去から来ようが、こいつは腹が減れば飯を食う人間なのだと、泰志はハンバーグを噛みちぎりながら、改めて自分に言い聞かせていた。
九條の二つの弁当箱が、あっという間に空になった。
 泰志は黙ったままその様子を見ていた。幕の内と豚焼肉。あれだけの重たい量を、負傷した身体で一気に平らげたのだ。九條の身体が今、どれほどのエネルギーを修復のために要求しているのかが窺えた。
「……食ったな」
 ペットボトルの茶を差し出すと、九條は無言でそれを受け取り、喉を鳴らして飲んだ。
泰志は空になったプラスチックの容器を乱暴に重ね、袋に突っ込んだ。
「それで、今後のことだけどよ」
 泰志が低い声で切り出すと、九條はピクリと肩を揺らし、お茶を握ったまま再び警戒の眼差しを向けた。
「警察や病院に突き出すつもりはねえよ。そんなことしたって、お前も俺も面倒なことになるだけだからな」
「……では、どうするつもりだ」
「お前、なんで自分がこの時代に飛ばされてきたのか、分かるか?」
「分かるはずがない」
 九條は即答し、自嘲するように唇を歪めた。
「私はあの海で死ぬべきだった。それなのに生き恥を晒す私にはもう、何の意味も……」
「だから、それを探すんだよ」
 泰志は、九條の自虐を強引に断ち切った。
「は……?」
「死ぬ場所だの大義だのって、お前はそればっかだけどよ。もし、お前があの海で死なずに、わざわざこの俺のところに降ってきたことに、何かの『意味』があるとしたらどうする」
九條は息を呑んだ。
「意味、だと……」
「ああ。ただの偶然で時を超えたりするかよ。お前が一緒に飛んでたっていう、うちのひいじいちゃん……宗一は、死ぬ直前までお前のことを気にかけてた。俺に『お前のその身体は何のためにある』なんて意味深なことまで言ってな」
 泰志は胡坐をかいた膝に肘をつき、九條を真っ直ぐに見据えた。
「お前は任務を全うできなかったって悔やんでるかもしれないけどな、もしかしたら、お前の『本当の任務』はこれからなんじゃねえの」
「本当の、任務……」
九條がその言葉を口の中で転がす。軍人である九條にとって『任務』という言葉がどれほど重い意味を持つか、泰志にも想像がついた。彼のような意地っ張りの思考を動かすには、現代の平和な理屈ではなく、彼自身のルールに則った言葉が必要なのだと、あえてその言葉を使った。
「手紙を失くしたんなら、それも含めて探せばいい。お前がなぜここで生きてるのか。何を見届けるためにこの時代に来たのか。……それを見つけるまで、死ぬな。探すのには、俺も付き合ってやるから」
 それは泰志にとっても、空っぽだった自分の日常に初めて打ち込んだ『楔』のような宣言だった。他人の人生を右から左へ運ぶだけだった自分が、初めて誰かの人生を一緒に背負い込もうとしている。
九條は黙り込んだ。伏せられた瞳の奥で、激しい葛藤が渦巻いているのが分かった。死に損なった敗残兵として自決を選ぶべきか、それとも、泰志の言う『新たな任務』を受け入れるべきか。
「……貴様の言う通り、この状況が私に新たに課せられた任務であると言うのなら……」
 九條はゆっくりと顔を上げ、泰志を真っ直ぐに見返した。その目には、それまで見せていた絶望の濁りはなく、静かで硬い光が宿っていた。
「この時代に私が流れ着いた意味。それを見届けるまでは、この命、みだりに捨てることはせん。……貴様の提案、承知した」
「……そうかよ。まあ、気長にやろうぜ」
泰志は照れ隠しのように頭を掻き、床に転がっていた着替えを足で九條のほうへ押しやった。
「とりあえず、話がまとまったならさっさと着替えろ。傷に障らないようにゆっくりでいいから」
九條は押し付けられた現代の衣類を渋々といった顔で見つめたが、今度は反論することなく、無言でそれに手を伸ばした。痛みに顔をしかめながらも、泰志が手伝おうとするのを手で制し、自力で飛行服を脱ぎ始めた。
 血と油と泥で強張った茶褐色のツナギが、重い音を立てて床に落ちる。
 無数の傷と真新しい包帯が痛々しい素肌の上に、泰志が買ってきたTシャツを被る。だぼついた現代の柔らかい布地に包まれた九條は、先ほどまでの鋭利な殺気をすっかり失い、どこにでもいるただの華奢な少年にしか見えなくなっていた。
着替えを終えた九條は、不覚にもその柔らかい布の感触に戸惑っているようだった。自分の腕をさすり、そして、静まり返った部屋の中をぐるりと見渡した。
 テレビの電源は切れており、冷蔵庫の低いモーター音と、窓の隙間から入り込む初夏の風の音だけが、十畳の空間に満ちている。
「……伊吹」
 ふいに、九條が心細げな声を張った。
「あ?」
「私は……次は、何をすればいい」
「何って……」
「日課の訓練か、それとも待機か。次の命令を下してくれ」
 九條の目は真剣だった。
 こいつは、待っているのだ。
 自分が次にどう動くべきか、何のために時間を使うべきか、それを他人に『命令』されることを。
 十七年という人生のすべてを軍の規律の中に置き、上官の命令ひとつで死ぬことすら受け入れていた少年。彼にとって、自分の行動を自分で決めるという概念そのものが、すっぽりと抜け落ちているのだ。
「……何もしなくていい」
 泰志は、ゴミ袋を縛りながら、努めて平坦な声で言った。
「は?」
「だから、何もしなくていいんだよ。眠けりゃ寝ろ。起きていたけりゃ起きてろ。喉が渇いたらそこにある茶を飲め。……好きにしろ」
「好きにしろ、とは……なんだ。それでは、まるで……」
「ここは軍隊じゃねえんだよ」
 泰志は立ち上がり、散らかったままの自分の部屋を見回した。読みかけの漫画雑誌。脱ぎ捨てた服。安っぽいローテーブル。なんの変哲もない一人暮らしの部屋。
ここには、起床の喇叭を吹く者もいなければ、点呼をとる上官の怒声もない。
 命の使い道を説く大義もなければ、訓練の時刻を報せる黒板もない。あるのは、誰に指示されるわけでもなく、自分で今日一日をどう生きるかを選ばなければならない、途方もなく自由で、退屈な時間だ。
「ここには、お前を縛る命令はひとつもねえよ」
泰志がそう告げると、九條は床に落ちた自分の軍服と、薄いシャツに包まれた自分を交互に見つめ、微かに肩を震わせた。
 すべてを規律と命令に委ねてきた少年兵にとって、何をして生きてもいいという泰志の言葉は、もしかすると、弾幕の張られた戦場よりも恐ろしいものなのかもしれなかった。