奪われた未来が救った未来

3

 饂飩、という言葉が、九條の耳の奥で弾けた。
(この期に及んで、食を勧めるのか。この男は)
「……必要ない」
 九條は、熱の籠もった息と共に、辛うじてそれだけを絞り出した。喉の奥が砂漠のように干からび、胃の腑が絞られるような強烈な空腹を覚えているのは確かだった。ちぎれかけた肉体を維持するために、細胞のひとつひとつが、悲鳴を上げて栄養を求めている。だが、それを認めてしまえば、自分がこの世界に生き永らえ、誰かの情けに縋って生を繋ごうとしていることを完全に受け入れることになってしまう。
 泰志は、その九條の頑なな拒絶を、怒るでもなく、ただ呆れたような、どこか痛々しいものを見るような目で見下ろしていた。
「必要ないわけねえだろ。お前、さっきから腹の虫がうるせえんだよ。我慢すんのが軍人の仕事か知らねえけど、いまのその身体じゃ、戦うことも、死ぬこともできねえぞ」
 先程から泰志は、よく分からない装置の前に立ってなにかをしている。
 九條は、痛む身体をかろうじて壁に預けたまま、その男の背中と、彼が操る『よく分からない装置』を凝視していた。そこがどうやら炊事をする場所らしいことは推測できたが、九條の知る土間や竃とは似ても似つかない。
 先程から泰志は、その装置の前で、九條の常識を根底から覆すような挙動を繰り返している。
 銀色の筒から突き出た小さな突起を指先で軽く押し上げると、ただそれだけの動作で、先端から勢いよく透き通った水が迸ったのだ。井戸水を汲む労力も要らず、指先ひとつで、水が尽きることなく湧き出し、また突起を下ろせば、魔法のように瞬時に止まる。
 さらに九條の目を疑わせたのは火の扱いだった。
 泰志は、薪も、炭も、擦り燐寸すら手にしていない。だというのに、台の端にあるつまみを軽く押し込んだ瞬間、カチカチという短い音の直後、ボッと唐突に炎が噴き上がったのだ。 しかもその炎は、木が爆ぜるような赤色ではない。青白く、不気味なほど安定した、見たこともない均一な火の冠だった。煙も立たず、匂いもない。
(……なんだ、あれは)
 九條の息が詰まる。これは、米軍の最新鋭の設備なのだろうか。それとも、極秘の科学施設か。
 さらに泰志は、先ほど冷気を吐き出していた白い箱から取り出した四角い塊を手に取った。それは、光を反射して不自然にテラテラと光る、透明な薄い皮に包まれている。紙でも、布でも、藁でもない。カサカサと異質な音を立てるその薄皮を、男は容易く引き裂き、中から氷のように硬い白い塊を取り出して、青い炎にかかった鍋の湯へと放り込んだ。
水と火。人間が生きる上で最も労力を要するはずの二つの根源を、この男は呼吸をするのとおなじくらい無造作に、ただ指先を数センチ動かすだけで操っていた。

 やがて、部屋の中に、出汁の匂いが立ち込め始めた。醤油と昆布の、驚くほど甘やかで、濃厚な匂い。
 戦渦では嗅ぐことが希少な贅沢品の香りが、九條の鼻腔を容赦なく突いた。
 この香り。遥か昔に嗅いだことがある。それは九條がもっと幼かった頃。まだ戦争の只中に身を投じてなかった時分。家で、母がこしらえてくれた汁物の香りにそっくりだった。
(……なんたる醜態だ。私は軍人だぞ。死ぬために飛んだ身が、いまさら生きるための匂いに縋ってどうする)
 九條は心の中で激しく毒づき、己の脆弱な肉体を呪った。どれだけ精神を兵器へと鍛え上げたつもりでも、十七歳の生身の胃袋は、一杯の汁物の匂いに、これほどまでに簡単に屈しようとしている。その事実が、なによりも屈辱的で、恐ろしかった。
 泰志が、湯気の立ち上る小鍋を片手に、こちらへと戻ってきた。座卓の上置かれた器に、うどんと琥珀色の汁が注がれる。
「正しい作り方なんか知らねえから、味は保証しねえけどな」
 泰志は九條のすぐそばに座卓を移動させて、割り箸をパチンと割って添えた。立ち上る熱い湯気が、九條の煤けた鼻先を濡らした。
「……食え。それとも、俺が口に突っ込んでやらなきゃ、大日本帝国の軍人さんはなんもできねえのか?」
その挑発的な泰志の言葉に、九條の瞳に再びぎらりとした戦意が灯った。
「……貴様に、そのような無礼を許すと思うか」
「だったら、自分で箸を持てよ」
 九條は拒もうと指を強張らせたが、泰志の分厚い掌が、その細い指を優しく、しかし絶対に逃がさない力で包み込み、箸を握らせた。
 九條は右腕を辛うじて持ち上げ、器の中の白い塊を箸の先で捉えた。一本のうどんを口へと運び、乾いた唇のあいだに滑り込ませる。
 咀嚼した瞬間。熱い出汁の旨味と小麦の甘みが、九條の味覚を突き抜けた。
喉が、胃が、歓喜の悲鳴を上げるように収縮する。それは、使命を全うするために命を繋ぐための燃料ではなかった。生きていることを、五感のすべてで強制的に自覚させるための、温かい食べものだった。
 九條の目尻から、再び一筋の涙が頬を伝って流れ落ちた。それが、熱のせいなのか、それとも、己の欲望に敗北してしまった弱さへの絶望なのか、九條自身にも分からなかった。
「美味いか?」
 泰志は、九條が涙を汁の中に落としながら、一心不乱に麺を啜る姿を、ただ黙って、じっと見つめていた。
 九條は差し出された食に抗えぬ心情を憎んだ。
 泰志の問いかけに答えるつもりなどなかった。
 もう一度、麺を啜る。熱い汁が舌を焼き、喉を通り、空洞のようになっていた胃へ落ちていく。そのたびに、身体の奥でなにかがほどけていった。飢えが満たされる。熱が戻る。指先に、わずかな力が戻る。
食欲はもう、九條自身の命令を聞かなかった。頭の中では、大日本帝国陸軍の下士官としての矜持が激しく警鐘を鳴らし続けている。  しかし右腕は、命令を無視した機械のように、正確に器と口のあいだを往復した。 熱い汁が食道を通って胃に落ちるたび、血液が手足の末端にまで巡っていくのが分かった。それが九條には恐ろしかった。
生き返っていく。この見知らぬ空間で、ただ肉体だけが勝手に修復されていく。
 やがて、箸の先が空になった器の底を虚しく掻いた。九條は両手で丼を掴み、残った琥珀色の汁を一滴残らず飲み干した。最後の一滴が喉を通り過ぎた瞬間、指から力が抜け、器が座卓の上に倒れる。コトン、というチープで軽い音がした。
九條は、力なく投げ出された己の両手を見つめた。腹は満たされた。
「……浅ましい」
 九條の口から、掠れた声がこぼれ落ちた。「死に損ないの癖に……浅ましい肉体だ……」
 底知れない自己嫌悪にまみれたその呟きは、泰志に向けたものではなかった。欲望に負け、卑しくも生きようと呼吸を繰り返す己の身体に向けた呪詛だった。
 泰志はなにも言わず、九條の手元から空になった器と箸を回収した。
 九條は壁に寄りかかったまま、抗おうとした。まだここは安全な場所とは限らない。この男が宗一の曾孫だと名乗ったところで、時代が切り替わっているという途方もない狂気を、心がまだ咀嚼できていない。隙を見せるわけにはいかない。
そう思う一方、限界を超えていた肉体に、温かい食べ物が胃に収まったことで、これまで感じたことのない量の睡魔と疲労が津波のように押し寄せてきた。
「……おれ、は……」
 無意識のうちに、またあの一人称が漏れた。何重にも着込んでいた軍人としての鎧が剥がれ落ちていく。
 九條の身体が、ゆっくりと壁伝いに床へと滑り落ちた。泰志が振り返ったときには、九條はすでに完全に意識を手放していた。浅く張り詰めていた呼吸は、深く、重い寝息へと変わっている。不安定な寝相を、泰志は歩み寄って無造作に直してやった。
「……本当に、ただのガキじゃねえか」
 泰志が、口の中で小さく吐き捨てた。特攻隊員。英霊。曾祖父が最期まで涙を流して懺悔し続けた相手。どれだけ重く歴史的な言葉を並べ立てても、いま、自分の部屋の床で無防備に丸まって眠っているのは、冷凍うどん一杯の匂いに抗えず、泣きながら腹を満たした、傷だらけの十七歳の少年に過ぎなかった。

 再び目を覚ましたとき、身体の痛みが幾分か和らいでいることに気付いた。そもそも戦闘機に乗っていたとき、敵の攻撃を浴びて、右足が吹き飛んだはずだ。
 九條は上体をわずかに起こし、床に投げ出されている己の右脚へと視線を落とした。そこには、あの泰志という男が昨夜不格好に巻きつけた、白い包帯の塊がある。
 血が滲んではいるものの、膝から下、ふくらはぎを経て足首に至るまでの脚の輪郭が存在していた。
 そっと指先を伸ばし、包帯の上から圧をかけてみる。
「……っ」
 頭の芯が白く粟立つような、鈍い激痛がはしった。それは痛みを感じる神経が、足の末端まで繋がっているという何よりの証拠だった。
 記憶が混乱しているのかと、九條は己に問うた。否、間違いない。高度を下げ、突撃態勢に入ったあの瞬間、機体下部を突き破った対空砲の散弾は、九條の右脚を容赦なく薙ぎ払った。半長靴の分厚い革が裂け、肉が爆ぜ、骨が砕ける不快な感触を、脳は鮮明に記憶している。方向舵を蹴る感覚は完全に消失し、操縦席の底には噴き出た鮮血が溜まっていたはずなのだ。
 軍医のいない戦地において、あれほどの銃創を負えばどうなるか。本来であれば、数刻も経たずに失血性のショックで命を落とすか、運よく生き延びたとしても、傷口から雑菌が入り込み、高熱と共に肉の壊死が始まるはずだった。切断するしか助かる道はないと宣告されてもおかしくない傷だ。
だというのに。九條は自らの掌を、今度は胸元や脇腹の裂傷へと這わせた。痛む。身体の節々が軋み、呼吸のたびに肺の奥がひりつく。だが、それは昨夜感じていたような、命そのものを根こそぎ奪い去ろうとする死の熱狂からは程遠い。むしろ、傷口の奥底で細胞が急速に結びつき、強引に肉を縫い合わせようとしているような治癒の熱だった。
(……どういうことだ。私の身体は、どうなっている)
 あの一瞬の閃光。二五〇キロ爆弾と共に敵艦の鋼鉄へと激突したはずのあの刹那、九條の肉体は、物理的な法則を完全に逸脱した何らかの干渉を受けたのではないか。
 時を越え、時代を跳躍するという異常事態。それほどの歪みの中を通り抜けてきたのだとすれば、己の肉体もまた、常識的な生命活動の理から外れてしまったのではないか。破壊されるはずだった質量が、行くあてを失ってこの時代に不時着したとき、矛盾を抱えたまま、無理やりにその形を保とうとしている。まるで、一度砕け散った硝子の破片が、見えない力によって元の形へと寄せ集められているかのようだ。
 九條は己の掌を見つめた。指先を握り込み、開く。爪の間に残る血の汚れ。 確かに自分は生きている。だが、果たしてこの身体は、昨日鹿屋の基地を飛び立ったときの自分と全く同じ人間だと言い切れるのだろうか。
(……化物じみているな)
 自嘲するような乾いた呟きが、静まり返った脳の中に落ちた。
 国のために死ぬことすら許されず、あまつさえ、ちぎれかけた手足までが強引に生へと引き戻されていく。この英霊になり損ねた肉体は、これから自分に何をさせようとしているのか。
 空気を震わせる敵機の飛行機の爆音も、空襲警報のけたたましいサイレンも、軍靴の足音も、ここでは一切聞こえない。あまりにも平坦で、長閑だ。
 視線を巡らせると、数歩離れた壁際で、伊吹泰志が長椅子に寝そべっていた。無防備に手足を投げ出し、規則正しい寝息を立てている。本気で九條を捕虜として扱う気があるのなら、これほど隙だらけの態勢で眠るはずがない。
 そのとき、九條は自分が布団に寝かされていることに気付いた。うどんを食ったあとに限界を迎えて意識を手放した場所は、もう少し壁よりの床の上だったはずだ。だが今、九條の身体は部屋の奥に敷かれた、分厚い敷布団の上に横たえられていた。おまけに身体の下には、これ以上布団を汚さないためか、何枚もの大判の布が隙間なく敷き詰められている。
 自分で動いた記憶はないのだから、泰志によって運ばれたのだろう。完全に意識を失い、ただの重い肉の塊と化した自分を、あいつは一人で抱え上げてここまで運んだのだ。傷口に極力響かないよう、慎重に、かつ確実に。 先ほども間近で見たあの分厚い胸板と、丸太のような腕。兵舎でどれほどしごかれても得られないような強靭な肉体を持ちながら、あの男の指の使い方は、ひどく不器用だった。
 九條は、泰志の寝顔を静かに見つめた。
『俺は、伊吹宗一の曾孫だ』
 言葉が、改めて九條の脳裏に蘇る。昨夜は狂人の戯言だと跳ね除けた。敵の巧妙な罠だと疑った。時間が経って、冷えた思考で周囲の光景を観察すればするほど、九條の常識を根底から覆す事実ばかりが目に飛び込んでくる。
泰志が着ている服の滑らかな布地。部屋を照らしていた、異常に明るい白い灯り。指先ひとつで火と水を操る炊事場。そして、部屋の片隅の机に置かれた、手のひらほどの黒い板のようなもの。どれも、大日本帝国はおろか、敵国たる米国の兵器にすら存在しないであろう代物ばかりだ。
(本当に、ここは……)
 己が生きるはずのなかった、この手で護りたかった、未来の日本だというのか。
 戦友たちは、次々にあの海に散っていった。自分と共に死地に赴いた宗一は、生き延びて天寿を全うしたという。
 自分だけがなぜ、あの一瞬の閃光の中から、この時代へと弾き出されてしまったのか。生き残ってしまった。大義も、命令も、死に場所もすべて失った空っぽの肉体だけが、この見知らぬ平和な世界に置き去りにされた。
「……伊吹」
 九條は、眠る泰志の面影の中に、かつて自分の後ろを飛んでいた青年の顔を探すように、誰にも聞こえないほどの声でその名を呟いた。

 九條が所属していた部隊は、その名を知暁隊といった。
 『知暁』とは、『知り尽くすこと』という意味だと習った。転じて暁を知るとは、随分と皮肉だと思った。自分たちは、それぞれに与えられた任務を全うすれば、暁を見ることなどなく果てていく。暗い海の底か、あるいは白熱の爆炎の中で、己の命ごと消滅するのが特攻だ。決して夜明けを迎えることのない、片道切符の命。そんな男たちが集まった部隊には似つかわしくない。
あるいは自分たちが犠牲になることによって、国の未来に夜明けをもたらすことを願い、その名にしたのだろうか。後世の者たちに、もう一度美しい暁を見せるための礎となる。その名には、そういう悲壮な祈りを込められていたのかもしれない。

 ほんとうに皆が皆、心の底からそういう崇高な想いを抱いていたのだろうかと疑問を抱けば、名づけた者の祈りも、そこに集められた者たちの覚悟も、すべてが徒言となってしまう。だから九條は、ただ黙って敬礼した。命じられた所属を受け取り、命じられた機の整備状況を確認した。
 それでよかった。
 あの場所では、それ以外のことを考えずに済んだ。
 起床の号令が鳴れば起き、点呼があれば名を返し、訓練があれば身体を動かした。食堂で配られたものを食い、整備兵の説明を聞き、出撃予定の変更を告げられれば、それを胸の奥へ沈めた。死ぬ時刻が今日でないと知れば、安堵ではなく、わずかな失望が身体の底に残った。まだ生きなければならないのか、と。
知暁隊にいる者たちは、多かれ少なかれ同じものを腹に抱えていた。国のため、家族のため、天皇陛下のため。言葉はいくらでもあった。けれど夜になると、その立派な言葉の隙間から、十七や十八の少年の本音が漏れた。
 厠へ立つふりをして外へ出る者がいた。
 靴紐を結び直すだけで、ひどく長い時間をかける者がいた。
 親に送る手紙を、何度も書き直している者がいた。
 九條は、それを見ないふりをした。
 見ることは、自分の中にある同じものを認めることだった。恐怖。未練。家へ帰りたいという、あまりにも幼い願い。母の炊いた飯の匂い。弟の声。夏の朝に庭へ落ちる光。そういうものをひとつでも思い出せば、操縦桿を握る手が鈍るような気がした。

 九條の直属の上官であった、久世直臣軍曹は、そういう場所にあっても、不思議と静かな男だった。
 背は高くない。声も大きくない。怒鳴って人を従わせるようなところもない。だが、整備兵も、搭乗員も、久世が口を開くと自然に耳を傾けた。古参の兵が持つ荒々しさではなく、すでに何度も死地を見てきた者だけが持つ、乾いた重みがあった。
 九條は、久世を尊敬していた。
 尊敬していた、などという生温い言葉では足りない。あの男の背中に追いつけなければ、自分は散華する資格すらないと思っていた。久世が機体を点検すれば、九條も黙ってそれに倣った。久世が米粒ひとつ残さず飯を食えば、九條もそうした。久世が「眠れるうちに眠れ」と言えば、たとえ眠れずとも目を閉じた。
 その久世が、ある晩、格納庫の脇で九條に言った。
「九條。お前は、死ぬことを急ぎすぎているきらいがあるな」
「急いでなど、おりません」
 しばらく考えて、ようやく返した声を拾った久世は九條を見なかった。格納庫の暗がりの向こう、掩体壕に収まった機体の輪郭を見ていた。
「ならば、何故そんな顔をしている」
「どのような顔でしょうか」
「死に場所を見つけて安堵している顔だ」
 咄嗟に言い返したかった。国のためです。任務です。搭乗員として当然の覚悟です、と言えばよかった。そういう言葉は、もう身体に染みついているものだと思っていた。毎日の訓示で浴び、手紙に書き、心の中で何度も唱えてきた。そうすることによって、たとえ最初は反発をおぼえていたものであっても、自分の中で咀嚼して、その通りだと思えるようになった。
 だが、久世の前では、思想として持っていたはずの言葉が、なにも出てこなかった。
「……いけませんか」
 九條は言った。
「死ぬことを恐れぬ兵であるなら、それでよいのではありませんか」
 久世はそこで、ようやく九條を見た。怒ってはいなかった。その目には、九條が胸の奥へ押し込めていた安堵を、すでに見抜いている者の静けさがあった。安堵とは、死への恐怖を凌駕してなお、九條の心に蔓延っている想いだった。それは計り知れない恐怖があるが、逆に死ねばもう悩まなくて済む、命令に従って散れば自分の命の意味を考えずに済む、十七歳の自分が背負いきれない重荷から解放される。そういうことを考えてしまう九條の心の隙を、久世は見抜いていたのだろう。
「恐れぬことと、死に逃げることは違う」
 九條の心を常に灼いていた感情は恐怖などではないと思っていた。
敵艦へ機首を向け、肉体ごと爆炎に変わるその瞬間を思えば、腸の奥が冷える。夜、寝床に横たわっていると、まだ来てもいない衝撃の熱が、瞼の裏にちらつくこともあった。
 九條は、それを覚悟と呼んできた。
 呼ばなければ、立っていられなかった。
「……私は、逃げてなどおりません」
 日々の訓練に励むこと。与えられた命令に従うこと。自分が積み重ねている行動は、逃避などという言葉で括られるものではない。そのはずだ。
「本当に危ういのは、自分が逃げていることを、立派な言葉で覆い隠したときだ」
「久世軍曹殿は、私に、死を恐れろと仰るのですか」
九條は顔を上げた。久世の横顔は暗かった。格納庫の屋根から落ちる影の中で、その表情はほとんど見えない。
「死ぬのが怖くない兵などいない。怖くないふりをしている者と、怖さをどこかへ押し込めた者がいるだけだ」
「では、押し込めればよいではありませんか」
「押し込めたものは、機に乗ったあとで暴れる。それは照準を定める時かもしれん。弾幕を抜ける時かもしれん。あるいは、敵艦の鉄板が見えた瞬間かもしれん。そこで暴れ出した恐怖は、操縦桿を握る手を鈍らせる。死にたいと願う心も同じだ。死に急ぐ者は、最後の一瞬で命を雑に扱う」
「雑に……」
「そうだ」
 久世は九條を見た。暗がりの中でも、彼の視線が自分を射抜いていることが、はっきりと分かった。
「貴様の命は、貴様が軽く捨ててよいものではない」
 命など、すでに国へ預けている。機体と爆弾と共に使い切るものだ。自分のものではない。九條継という個人の願いや恐れに、いまさら何の価値がある。
 そう言いたかった。だが、言えなかった。
 久世の目が、それを許さなかった。責めているのではない。哀れんでいるのでもない。ただ、九條が自分の命を軽く扱うことでようやく立っていることを、知っている目だった。
「……私の命は、任務のためにあります」
「任務のために使う命だからこそ、最後まで自分のものとして持っていろ。捨てるな。投げるな。逃げ込むな。握ったまま行け」
 九條は息を呑んだ。
「死ぬな、とは言わん。我々は、そういう場所にいる。だが、死に場所を与えられて安堵するな。死ねば終わると思うな。終わらせるために飛ぶな」
「では何のために、私は飛ぶのですか」
 久世はすぐには答えなかった。
 遠くで、整備兵の誰かが笑った。すぐにその笑い声は途切れる。格納庫の奥で、出撃を待つ機体が沈黙している。その腹に抱かれる爆弾も、まだただの鉄の塊としてそこにあった。
「それを、他人に預けるな。俺たち上官にも、国にもだ」
「九條」
「はい」
「貴様は、まだ少年だ」
 九條の身体が強張った。その言葉は、敵弾よりも不意に胸へ入ってきた。少年。兵でもなく、伍長でもなく、搭乗員でもなく、ただの少年だという。九條が最もみられたくない自分の一面を、久世は静かに言い当てた。
「私は、軍人です」
「軍人である前に、少年だ。貴様のような少年が兵になることはある。だが、兵になったからといって、少年だという事実が消えるわけではない」
 九條は、拳を握った。爪が掌に食い込む。痛みがあった。
「……私は、弱いということでしょうか」
 言ってから、九條は後悔した。あまりにも情けない問いだった。久世軍曹殿に向けるべき言葉ではない。だが、もう取り消せなかった。
「弱い者は、自分が逃げていることを疑わん。お前は、疑っている。だから苦しい」
 漫然と胸に抱いている苦しさに名をつけられることが、九條には耐え難かった。叱られたほうが楽だった。未熟だと罵られたほうが、まだ兵として立てた。だが久世は、叱りも罵りもしない。ただ、九條の胸の奥にあるものを、そこにあると認めてしまう。
「……私は、それでも、命令が下れば戦地に赴きます」
「ならば最後の最後まで、生きて操縦桿を握れ。死ぬためではない。貴様の命を、未来に届かせるためにだ。貴様の肉体がそこで潰えても、繋がれる未来があるからだ」
 風が吹いた。足元の草が低く揺れた。
 九條は久世に向き直って敬礼した。久世も、ゆっくりと答礼した。
 その夜、九條は寝床に戻ってからも、しばらく眠れなかった。
 死に逃げるな。
 久世の言葉は、夜が明けても消えなかった。

 久世は与えられた余暇の中で、他の兵士たちには混じらず、本を読んでいることが多かった。『葉隠』『歎異抄』『銀河鉄道の夜』。彼が寝床の脇に置いている本は色々あったが、とりわけ漱石の『こころ』を好んで何度も読んでいた。
 九條には文字を読む習慣がなかった。会ったこともない誰かの空想や、あるいは思想を読んだところで、自分の人生が豊潤になるとは思えなかった。そもそも、これから終わる命が、豊かになる必要などない。
 読書をする仲間は、知暁隊の中では久世だけだったから、それが余計に目立ってみえた。
 相良清二は、九條よりひとつ年下の兵長だった。少年飛行兵の出で、十五で郷里を離れ、軍の学校で空を飛ぶための身体と作法を叩き込まれたという。十六という年齢は、家にいればもう働き手として数えられる歳だった。田畑に出る者もいれば、工場へ通う者もいる。まだ家にいれば母親に飯の量を心配されていてもおかしくない。だがここでは、その若さは守られる理由にはならなかった。相良はすでに兵長であり、九條に敬礼し、九條と同じ空へ送られる立場だった。だというのに、普段の彼は飛行服に袖を通していても、どこか布に着られているようなところがあり、軍帽の下に覗く目元には、まだ少年の丸みが残っていた。本人はその幼さを恥じているらしく、九條の前に立つときだけは、必要以上に背筋を伸ばした。
「九條伍長殿」
 呼ばれて、九條は顔を上げた。
 兵舎の外では、夕方の光が土埃を薄く染めていた。九條は地面が盛り上がって土手のようになっている場所に腰を下ろし、雑草などをむしりながら、その夕焼け空を眺めていた。
「何だ」
「お邪魔でなければ、少しだけ、お話ししてもよろしいでしょうか」
「邪魔だと言えば、去るのか」
 九條がそう返すと、相良は一瞬だけ固まったが、すぐに妙に真剣な顔で頷いた。
「はい。ご迷惑であれば」
 その素直さが、九條にはかえって扱いづらかった。
「……好きにしろ」
「はい」
相良は嬉しそうに返事をして、九條の隣に腰を下ろした。近い、と思った。だが相良は、そこが当然の場所であるかのように腰を下ろし、膝の上で両手を揃えている。近づきすぎていることに気づいていないのか、それとも気づいた上でそうしているのか、九條には分からなかった。
 肩が触れるほどではない。だが、相良が少し身じろぎすれば袖が擦れる。その程度の距離だった。
「……近い」
 九條が言うと、相良ははっと背筋を伸ばした。
「申し訳ありません! 離れます」
 立ち上がろうとした相良を、九條は横目で見た。
「よい」
 相良は一瞬だけ迷ったあと、またそろそろと腰を下ろした。
「ありがとうございます」
「礼を言うことではない」
「はい」
 相良は頷いた。
 相良の横顔をふと見ると、その視線は兵舎の隅へ向いていた。九條もそちらを見遣る。
 そこでは久世が、木箱に座って古びた文庫本を開いていた。背を兵舎の壁に預け、薄い紙面へ静かに目を落としている。ページをめくる指はゆっくりで、読書を楽しんでいるというより、そこに書かれた何かと黙って向き合っているように見えた。
「久世軍曹殿は、今日も本を読んでおられるのですね」
「そうだな」
「九條伍長殿は、お読みにならないのですか」
「必要がない」
 九條は即答した。
「必要がなくとも、読んでみたいとは思われませんか」
「思わん」
「自分は……少し、思います」
 九條は相良を見た。目が合って、相良は慌てて姿勢を正した。
「いえ、怠けたいという意味ではありません。ただ、その、本を読んでいると、ここではない場所へ行けるような気がして」
「ここではない場所」
「はい」
 相良は、兵舎の入口から見える飛行場へ目を向けた。掩体壕の影、整備中の機体、乾いた草、赤く傾きかけた空。そこにあるものはすべて、出撃へ向かうために整えられているように見えた。
「家でも、学校でも、まだ見たことのない町でも構いません。読んでいるあいだだけは、少しだけ、身体がここに縛られていないような気がするのです」
 言い終えると、相良は自分の言葉を恥じたように目を伏せた。
「申し訳ありません。不謹慎でした」
「不謹慎ではない」
 九條は言った。自分でも意外なほど、すぐに言葉が出た。
 相良が顔を上げる。
「だが、私は読まん」
「何故ですか」
「別の場所へ行く必要がないからだ。我々が行く場所は、すでに決まっている」
 その言葉を口にした瞬間、相良の顔から幼い明るさが少しだけ消えた。
 九條は、言い過ぎたと思った。だが、取り消す言葉を持っていなかった。優しくすることは、相良を子供扱いすることになる。彼もまた搭乗員だ。飛ぶためにここへ来ている。
 相良はしばらく黙り込み、やがて小さく頷いた。
「はい。九條伍長殿は、やはりお強いですね。自分は、九條伍長殿のようになりたいです」
 相良は真っ直ぐにこちらを見ていた。彼の中にもまた、恐怖がないわけではない。そう言った唇の端には、まだ少年らしい怯えが残っている。それでも、彼は九條を見ていた。
 九條はかぶりを振った。自分は憧憬の的ではない。久世に見抜かれたばかりの弱さを、相良は知らずに憧れている。
「私のようになる必要はない」
「……申し訳ありません」
 九條は返事をしなかった。
 手のひらから、崩れた葉がしなしなと散っていった。九條がむしらなければ、まだ根を持って生きていたはずの葉だ。その葉が地面に降りて、他の緑と同化したとき、相良は自分の懐に手を入れた。
「あの、九條伍長殿」
「まだ何かあるのか」
「これを……見ていただけないでしょうか」
 差し出されたのは、小さく折り畳まれた紙だった。何度も開いた跡があり、端は汗で柔らかくなっている。相良はそれを、まるで壊れ物でも差し出すように両手で持っていた。
「家から来た手紙です」
「何故、私に見せる」
「見ていただきたいのではなく、その……読めないところがありまして」
 相良は困ったように笑った。
「母の字は昔から少し崩れておりまして、自分でも、分からない箇所があるのです。九條伍長殿なら、お分かりになるかと」
「私は、本を読まんと言ったはずだ」
「本ではありません」
 相良は、少しだけ真剣な声で言った。
「母の手紙です」
 九條は、その言葉に詰まった。
 紙片は、相良の指の間でわずかに震えていた。風のせいではない。相良自身の手が震えているのだ。
 九條はしばらくそれを見ていた。やがて、黙って手を伸ばした。
 相良の表情が、ぱっと明るくなる。九條はそれを見ないふりをして、折り目を開いた。
 墨の字は、確かに読みづらかった。ところどころ滲み、紙の端は擦り切れている。何度も読み返されたのだろう。母親の言葉は、戦の大義などひとつも書いていなかった。身体を冷やすな。食べられる時に食べなさい。無理をするな。近所の誰それが芋を分けてくれた。弟がまた池に落ちた。おまえも頑張りなさい。遠く離れていても、お前のことはずっと案じている。
「……読めるところだけで構いません」
 相良が遠慮がちに言った。九條は息を整え、そして低い声で読み始めた。
 相良は、背筋を伸ばしたまま聞いていた。まるで訓示を聞く兵のように。だが、その目は途中から少しずつ潤み、やがて俯いた。九條はそれに気づいたが、読むのをやめなかった。
最後までよどみなく読んだ。読み終えたとき、相良は目頭をぬぐいながら小さく頭を下げた。
「ありがとうございます、九條伍長殿」
 九條は元のかたちに紙を畳んで返した。
「大事にしまっておけ」
「はい」
「何度も開くと破れる。貴様はそれを、来るべきときが来たときも、その身に携えて行くのだろう」
「はい」
 相良は手紙を懐へ戻すと、少し照れたように笑った。
「やはり、九條伍長殿はお優しいです」
「貴様の頼み通りに、手紙を読んだだけだ」
「はい」
「それは優しさなどではない」
「はい」
 相良は頷いたが、その顔はまったく納得していなかった。
 九條はそれ以上言わなかった。
 相良が満足げに敬礼し、兵舎の方へと走り去っていく背中を見送った後、九條はひとり、夕暮れの土手に残された。周囲に誰もいなくなったことを確認してから、九條はそっと己の飛行服の胸元へ右手を当てた。
分厚い布地越しに、硬く四つ折りにされた紙の感触がある。相良をたしなめるような真似をしておきながら、九條自身もまた、母親からの手紙を肌身離さず持ち歩いていた。
それは、詳しい任地も任務も書けぬまま、転属の報せだけを家に送った後、ほどなくして届いた手紙だった。

『継。九條の家の誉れとして、立派にお役目を果たしなさい』

 そこには、軍人の母として恥じぬ、気丈な言葉だけが並んでいた。相良の母のように、身体を案じることも、日常の些細な出来事を綴っていることもなかった。
 母がどのような顔でこの墨をすり、どのような手で筆を握り、どれほどの時間をかけてこの短い手紙を書き上げたか。それを想像するだけで、九條の中の『軍人』が音を立てて崩れそうになる。
 だから、読まない。もう二度と開かないと決めていた。
 ただ胸の奥深くに抱き、その紙の感触だけを、命を繋ぎ止めるための重石にしていた。自分がこの世に存在し、愛されていたという、たったひとつの確証として。