2
夏の朝は空が白んでくるのが早く、泰志の部屋もだんだん外の光が入り込んでいた。
泰志は目を覚ましてから、自分が結局は眠りこけていたことに気付いた。部屋の中は深夜とおなじままで、電気も付けっ放しだった。ハッと覚醒して、部屋の中を見渡す。
九條はまだ眠っていた。それを見てほっと安堵するが、その安堵は、長くは保たなかった。
九條は生きている。それは、この状況が少しでもましになったという意味ではなかった。むしろ、朝の光が入り込んだことで、夜のあいだは焦燥に紛れていたものが輪郭を持ちはじめていた。
昨日までなら、朝に目を覚まして最初に気にするのは、バイトの集合時間か、スマートフォンの通知か、前夜に飲み残した酒缶の後始末だった。
九條のほうをあらためて見ると、すぐに包帯の赤みが目に入った。昨夜巻いたときより、色が濃くなっている。
「……マジでどうすんだよ」
声にしてみても、静寂は答えなかった。
泰志は壁に手をついて立ち上がろうとした。部屋の壁にもたれたまま眠ってしまったせいで、首の筋がぎしりと痛んだ。
スマートフォンを拾い上げると、画面には午前五時過ぎを示す数字が浮かんでいた。通知がいくつか溜まっている。バイト先のグループ、どうでもいい広告、寝ているあいだに届いたニュース。世界はいつもどおりに動いていた。自分の部屋の玄関に、飛行服を着た少年が寝ていることなど、当然、どこにも通知されていない。
泰志はスマートフォンを伏せて九條のそばへ膝をついた。手を伸ばしかけて、止めた。触れば起こしてしまうかもしれない。目覚めれば、あの目で睨まれる。ここを敵地だと疑われ、触るなと拒まれ、命令するなと吐き捨てられる。だが、触れなければ熱があるのかどうかも分からない。結局、泰志は指の背をそっと九條の額に近づけた。
熱かった。眠っている人間のぬくもりではない。身体の内側でなにかが燃えているような熱だった。泰志は思わず手を引いた。
「……嘘だろ」
昨日の夜に体温計を買わなかったことを後悔した。消毒液もガーゼも包帯も、目についたものは片っ端から買ったつもりだったが、やはり抜けていた。
九條の唇は乾いていた。ところどころ皮が割れ、血の色とは別の赤みが滲んでいる。スポーツドリンクのボトルは、昨夜のまま、九條の手が届きそうな場所に置いてあるが、手を付けた様子はなかった。
九條の瞼が、微かに震えた。やがてゆっくりと目が開く。最初、その瞳はどこも見ていなかった。熱に濁り、部屋の天井の白さを理解できずに彷徨っているようだった。だが、泰志の顔を認めた瞬間、奥のほうに昨夜と同じ警戒が戻ろうとした。
戻ろうとして、戻りきらなかった。
九條は身を起こそうとした。しかし肩がわずかに動いただけで、すぐに息が詰まる。包帯の下の傷に響いたのだろう。
「動くな」
泰志は咄嗟に言った。九條の目が、再び鋭く泰志を射た。
「……命令……するな」
声はほとんど息のようだった。
「命令じゃねえよ。動くと傷が開くって言ってんだ」
九條は答えなかった。視線だけが、天井、壁、カーテンの隙間から差し込む白い朝の光を辿る。どれも、彼の知る場所ではない。
「ここは……」
「俺の部屋だ」
「敵地となにが違う」
敵地ではない、と言い切りたい。ここは日本で、米兵も尋問官もいない。だが、九條にとっては、知らない時代の、知らない男の部屋でしかない。身体は動かず、服をはだけさせられて包帯を巻かれている。敵地だと思うなというほうが無理なのかもしれなかった。
——この少年は過去から来た。
そんな馬鹿げた言葉が、泰志の頭の中で形になった瞬間、悪寒が駆け抜けた。
それが事実だったとしても、なかなか受け止められるものでもないが、受け止められないからといって、少年の存在が消えてくれるわけでもなかった。
「少なくとも、いまここにいるのは俺だけだ。お前をどうこうする奴はいねえ」
「それが最も信用ならぬ」
「朝からよくそれだけ噛みつけるな」
「……貴様が私を喋らせている」
その返しに、泰志は安堵した。まだ言い返す力がある。まだ睨める。まだ自分を保とうとしている。そう思った直後、九條の指がタオルの端を探るように動いた。胸元を隠そうとしているのだと分かり、泰志は伸ばしかけた手を止めた。
「いまはお前の身体なんか見ねえよ」
「……何故だ」
「お前が嫌がるから」
「ならば、昨夜は何故やめなかった」
「血が止まんなかったからだよ」
泰志は、言い訳のように聞こえないよう、できるだけ短く答えた。
「ただ、また血が溢れてきたら手当てしなきゃいけないし、そうじゃなくても包帯は交換しなきゃいけない。そのときは見させてもらうぞ」
九條はしばらく泰志を見ていた。その視線には、まだ疑いがある。敵意もある。だが、その奥に、昨夜とは少し違う困惑が混じっていた。
泰志は立ち上がり、カーテンを少し引いた。朝の光が弱まり、部屋の白さが和らぐ。九條が眩しそうに目を細めていたからだった。
「……何故、光を遮った」
「眩しそうだったから」
「それだけか」
「それだけだよ」
言葉で現状を分からせようとしても無駄だと思った。九條が置かれている状況を、泰志自身もまだ説明できいない。ここは敵地ではない。自分は敵ではない。そう言ったところで、九條の身体が自由に動くようになるわけでも、熱が下がるわけでもなかった。
泰志は立ち上がり、キッチンのほうへ向かった。ワンルームに据えつけられた小さな冷蔵庫は、低い唸り声を上げながら、いつも通りそこにあった。上段の冷凍庫を開けると、白い冷気が朝の空気へ薄く流れ出した。中には、半分ほど霜を被った冷凍うどんと、いつ買ったのか思い出せない冷凍唐揚げ、それから青い氷嚢が押し込まれていた。
野球部だった頃、肩を冷やすために使っていたものだ。大学を辞めてからも捨てられず、かといって使うこともなく、冷凍庫の奥で硬くなっていた。あの頃は、投げ終えた右肩にこれを当てて、明日も投げるために熱を逃がしていた。消費した身体を、次の練習へ繋ぐための道具だった。
「……なにやってんだろうな、俺」
泰志は誰にともなく呟き、氷嚢を取り出した。表面についた霜が指に貼りつき、思わず顔をしかめる。硬く凍りすぎていて、そのまま額に当てるには冷たすぎる気がした。流しでタオルを濡らして絞り、氷嚢を包む。
振り返ると、九條はまだこちらを見ていた。熱で潤んだ目だったが、警戒だけは失っていない。泰志が手にしている青い氷嚢を見て、眉間にかすかな皺が寄る。
「……それはなんだ」
「氷嚢。熱冷ますやつ」
泰志が近づくと、九條の指がタオルの端を握ろうとした。拒もうとしているのだろう。だが、力が入らず、指先が布を掠めただけだった。
「触るな」
「額だけだ」
「必要ない。この程度……」
「その『この程度』で、お前、意識が朦朧としているじゃねえか」
九條は言い返そうとしたようだったが、息が続かなかった。唇がわずかに開き、乾いた呼吸だけが漏れる。泰志は膝をつき、氷嚢を包んだタオルをそっと九條の額へ近づけた。
触れた瞬間、九條の肩がびくりと跳ねた。
「冷たいだけだ。少し我慢しろ」
「……命令するな」
「はいはい。お願いだから我慢してください」
投げやりに言うと、九條は睨んできた。その睨みは長く続かなかった。額に当てられた冷たさが、焼けた身体には少しだけ心地よかったのかもしれない。強張っていた眉間が、ほんのわずかに緩む。
「……貴様が敵でないなら、何故、ここまでする」
昨夜も似たようなことを訊かれた気がした。泰志はすぐには答えられなかった。答えを用意していたわけではない。自分でも分からないまま、気づけば冷凍庫から氷嚢を取り出し、タオルに包み、この少年の額へ当てている。
「発熱している奴を放っといたら、寝覚め悪いだろ」
青い氷嚢の下で、九條の額はまだ熱かった。生きている熱だった。死ぬためではなく、まだその命を燃やすために、いまこの瞬間をどうにか越えようとしている身体の熱だった。
それに気づいた瞬間、泰志は途端に息苦しくなった。九條は、まだなにも受け入れていない。いまもまだ、自分は死ぬべきだと思っているのだろう。思っているのに、身体はまだ生きようとしている。思考と本能がまったく逆方向にはたらいている。
泰志は自分の手の下にある熱が、急に恐ろしくなった。九條は自分のことを軍人だと言い張る。死ぬならそれでよいとも言う。だが額は熱を持ち、唇は乾き、冷たいものを当てればほんのわずかに眉間が緩む。本人がどれだけ拒んでも、身体のほうは、まだこの朝を越えようとしている。
これまで泰志にとって身体とは、使うものだった。投げるための肩、走るための足、バットを振るための腰。重いものを持つための背中。痛めれば湿布を貼り、疲れれば酒を流し込み、眠ればまた翌日には動かす。そうやって自分の身体を雑に扱ってきた。
目の前の九條の身体は違った。それは本人の意思に背いてでも、生きようとしている身体だった。まるで、九條継という少年の意志とは別に、肉体だけが必死でこの時代にしがみついているようだった。
九條は黙ったまま、泰志を見ている。眠気とも熱とも違うものが、その沈黙の底に沈んでいるようだ。疑いは消えていない。起きてからずっと泰志の一挙手一投足を追っている。
「……貴様は、私を生かしてどうする」
泰志はすぐに答えられなかった。
どうする。何度も頭の中で反芻した。病院に連れていくのか。警察に差し出すのか。この部屋に隠し続けるのか。過去から来たかもしれない、などという馬鹿げた可能性を本気で受け入れるのか。どれも答えではなかった。どれも、いまの泰志には選べないものばかりだった。
「知らねえよ」
ようやく出た声は、自分でも嫌になるほど頼りなかった。
「知らぬのに、私を生かすのか」
「知ってたら生かすとか、知らねえなら放っとくとか殺すとか、そういう話じゃねえだろ。……理由なんかいちいち考えてねえよ。お前も、自分の仲間がいまのお前と同じ目に遭っていたら、俺みたいに手を貸すだろ」
「……仲間ならば、その者を救うために手を尽くす。それは人として当然のことだ。しかし戦場なら話は違う。国を、家族を守るために、ときに非情な決断をせねばならないときもある」
熱に浮かされ、唇も乾き、指の一本すら満足に動かせないはずなのに、その言葉だけはどこか遠い場所から持ち出してきた鉄片のようだった。国。家族。非情な決断。泰志には、どれも大きすぎて、手触りのない言葉に聞こえた。
「そうかよ。でも、いま、ここは戦場じゃねえ。いいから黙って休んでろ」
九條の話を聞いていたら、頭がどうにかなりそうだった。これまでも価値観の違う者と話をしたことは何度もある。いまの思考の疲弊はそれに近いものがあった。
少しでも早く九條の警戒を解くためにも、互いに納得のいくまで話をするべきだとも思うが、このままでは、話はずっと平行線を辿るだろう。
助ける。死ぬ。助ける。その必要はない。助ける——。そんな押し問答を繰り返すよりも、九條は身体の回復に専念するべきだ。だから泰志は立ち上がって話題を変えた。
「腹減ってるだろ。うどん食うか」
夏の朝は空が白んでくるのが早く、泰志の部屋もだんだん外の光が入り込んでいた。
泰志は目を覚ましてから、自分が結局は眠りこけていたことに気付いた。部屋の中は深夜とおなじままで、電気も付けっ放しだった。ハッと覚醒して、部屋の中を見渡す。
九條はまだ眠っていた。それを見てほっと安堵するが、その安堵は、長くは保たなかった。
九條は生きている。それは、この状況が少しでもましになったという意味ではなかった。むしろ、朝の光が入り込んだことで、夜のあいだは焦燥に紛れていたものが輪郭を持ちはじめていた。
昨日までなら、朝に目を覚まして最初に気にするのは、バイトの集合時間か、スマートフォンの通知か、前夜に飲み残した酒缶の後始末だった。
九條のほうをあらためて見ると、すぐに包帯の赤みが目に入った。昨夜巻いたときより、色が濃くなっている。
「……マジでどうすんだよ」
声にしてみても、静寂は答えなかった。
泰志は壁に手をついて立ち上がろうとした。部屋の壁にもたれたまま眠ってしまったせいで、首の筋がぎしりと痛んだ。
スマートフォンを拾い上げると、画面には午前五時過ぎを示す数字が浮かんでいた。通知がいくつか溜まっている。バイト先のグループ、どうでもいい広告、寝ているあいだに届いたニュース。世界はいつもどおりに動いていた。自分の部屋の玄関に、飛行服を着た少年が寝ていることなど、当然、どこにも通知されていない。
泰志はスマートフォンを伏せて九條のそばへ膝をついた。手を伸ばしかけて、止めた。触れば起こしてしまうかもしれない。目覚めれば、あの目で睨まれる。ここを敵地だと疑われ、触るなと拒まれ、命令するなと吐き捨てられる。だが、触れなければ熱があるのかどうかも分からない。結局、泰志は指の背をそっと九條の額に近づけた。
熱かった。眠っている人間のぬくもりではない。身体の内側でなにかが燃えているような熱だった。泰志は思わず手を引いた。
「……嘘だろ」
昨日の夜に体温計を買わなかったことを後悔した。消毒液もガーゼも包帯も、目についたものは片っ端から買ったつもりだったが、やはり抜けていた。
九條の唇は乾いていた。ところどころ皮が割れ、血の色とは別の赤みが滲んでいる。スポーツドリンクのボトルは、昨夜のまま、九條の手が届きそうな場所に置いてあるが、手を付けた様子はなかった。
九條の瞼が、微かに震えた。やがてゆっくりと目が開く。最初、その瞳はどこも見ていなかった。熱に濁り、部屋の天井の白さを理解できずに彷徨っているようだった。だが、泰志の顔を認めた瞬間、奥のほうに昨夜と同じ警戒が戻ろうとした。
戻ろうとして、戻りきらなかった。
九條は身を起こそうとした。しかし肩がわずかに動いただけで、すぐに息が詰まる。包帯の下の傷に響いたのだろう。
「動くな」
泰志は咄嗟に言った。九條の目が、再び鋭く泰志を射た。
「……命令……するな」
声はほとんど息のようだった。
「命令じゃねえよ。動くと傷が開くって言ってんだ」
九條は答えなかった。視線だけが、天井、壁、カーテンの隙間から差し込む白い朝の光を辿る。どれも、彼の知る場所ではない。
「ここは……」
「俺の部屋だ」
「敵地となにが違う」
敵地ではない、と言い切りたい。ここは日本で、米兵も尋問官もいない。だが、九條にとっては、知らない時代の、知らない男の部屋でしかない。身体は動かず、服をはだけさせられて包帯を巻かれている。敵地だと思うなというほうが無理なのかもしれなかった。
——この少年は過去から来た。
そんな馬鹿げた言葉が、泰志の頭の中で形になった瞬間、悪寒が駆け抜けた。
それが事実だったとしても、なかなか受け止められるものでもないが、受け止められないからといって、少年の存在が消えてくれるわけでもなかった。
「少なくとも、いまここにいるのは俺だけだ。お前をどうこうする奴はいねえ」
「それが最も信用ならぬ」
「朝からよくそれだけ噛みつけるな」
「……貴様が私を喋らせている」
その返しに、泰志は安堵した。まだ言い返す力がある。まだ睨める。まだ自分を保とうとしている。そう思った直後、九條の指がタオルの端を探るように動いた。胸元を隠そうとしているのだと分かり、泰志は伸ばしかけた手を止めた。
「いまはお前の身体なんか見ねえよ」
「……何故だ」
「お前が嫌がるから」
「ならば、昨夜は何故やめなかった」
「血が止まんなかったからだよ」
泰志は、言い訳のように聞こえないよう、できるだけ短く答えた。
「ただ、また血が溢れてきたら手当てしなきゃいけないし、そうじゃなくても包帯は交換しなきゃいけない。そのときは見させてもらうぞ」
九條はしばらく泰志を見ていた。その視線には、まだ疑いがある。敵意もある。だが、その奥に、昨夜とは少し違う困惑が混じっていた。
泰志は立ち上がり、カーテンを少し引いた。朝の光が弱まり、部屋の白さが和らぐ。九條が眩しそうに目を細めていたからだった。
「……何故、光を遮った」
「眩しそうだったから」
「それだけか」
「それだけだよ」
言葉で現状を分からせようとしても無駄だと思った。九條が置かれている状況を、泰志自身もまだ説明できいない。ここは敵地ではない。自分は敵ではない。そう言ったところで、九條の身体が自由に動くようになるわけでも、熱が下がるわけでもなかった。
泰志は立ち上がり、キッチンのほうへ向かった。ワンルームに据えつけられた小さな冷蔵庫は、低い唸り声を上げながら、いつも通りそこにあった。上段の冷凍庫を開けると、白い冷気が朝の空気へ薄く流れ出した。中には、半分ほど霜を被った冷凍うどんと、いつ買ったのか思い出せない冷凍唐揚げ、それから青い氷嚢が押し込まれていた。
野球部だった頃、肩を冷やすために使っていたものだ。大学を辞めてからも捨てられず、かといって使うこともなく、冷凍庫の奥で硬くなっていた。あの頃は、投げ終えた右肩にこれを当てて、明日も投げるために熱を逃がしていた。消費した身体を、次の練習へ繋ぐための道具だった。
「……なにやってんだろうな、俺」
泰志は誰にともなく呟き、氷嚢を取り出した。表面についた霜が指に貼りつき、思わず顔をしかめる。硬く凍りすぎていて、そのまま額に当てるには冷たすぎる気がした。流しでタオルを濡らして絞り、氷嚢を包む。
振り返ると、九條はまだこちらを見ていた。熱で潤んだ目だったが、警戒だけは失っていない。泰志が手にしている青い氷嚢を見て、眉間にかすかな皺が寄る。
「……それはなんだ」
「氷嚢。熱冷ますやつ」
泰志が近づくと、九條の指がタオルの端を握ろうとした。拒もうとしているのだろう。だが、力が入らず、指先が布を掠めただけだった。
「触るな」
「額だけだ」
「必要ない。この程度……」
「その『この程度』で、お前、意識が朦朧としているじゃねえか」
九條は言い返そうとしたようだったが、息が続かなかった。唇がわずかに開き、乾いた呼吸だけが漏れる。泰志は膝をつき、氷嚢を包んだタオルをそっと九條の額へ近づけた。
触れた瞬間、九條の肩がびくりと跳ねた。
「冷たいだけだ。少し我慢しろ」
「……命令するな」
「はいはい。お願いだから我慢してください」
投げやりに言うと、九條は睨んできた。その睨みは長く続かなかった。額に当てられた冷たさが、焼けた身体には少しだけ心地よかったのかもしれない。強張っていた眉間が、ほんのわずかに緩む。
「……貴様が敵でないなら、何故、ここまでする」
昨夜も似たようなことを訊かれた気がした。泰志はすぐには答えられなかった。答えを用意していたわけではない。自分でも分からないまま、気づけば冷凍庫から氷嚢を取り出し、タオルに包み、この少年の額へ当てている。
「発熱している奴を放っといたら、寝覚め悪いだろ」
青い氷嚢の下で、九條の額はまだ熱かった。生きている熱だった。死ぬためではなく、まだその命を燃やすために、いまこの瞬間をどうにか越えようとしている身体の熱だった。
それに気づいた瞬間、泰志は途端に息苦しくなった。九條は、まだなにも受け入れていない。いまもまだ、自分は死ぬべきだと思っているのだろう。思っているのに、身体はまだ生きようとしている。思考と本能がまったく逆方向にはたらいている。
泰志は自分の手の下にある熱が、急に恐ろしくなった。九條は自分のことを軍人だと言い張る。死ぬならそれでよいとも言う。だが額は熱を持ち、唇は乾き、冷たいものを当てればほんのわずかに眉間が緩む。本人がどれだけ拒んでも、身体のほうは、まだこの朝を越えようとしている。
これまで泰志にとって身体とは、使うものだった。投げるための肩、走るための足、バットを振るための腰。重いものを持つための背中。痛めれば湿布を貼り、疲れれば酒を流し込み、眠ればまた翌日には動かす。そうやって自分の身体を雑に扱ってきた。
目の前の九條の身体は違った。それは本人の意思に背いてでも、生きようとしている身体だった。まるで、九條継という少年の意志とは別に、肉体だけが必死でこの時代にしがみついているようだった。
九條は黙ったまま、泰志を見ている。眠気とも熱とも違うものが、その沈黙の底に沈んでいるようだ。疑いは消えていない。起きてからずっと泰志の一挙手一投足を追っている。
「……貴様は、私を生かしてどうする」
泰志はすぐに答えられなかった。
どうする。何度も頭の中で反芻した。病院に連れていくのか。警察に差し出すのか。この部屋に隠し続けるのか。過去から来たかもしれない、などという馬鹿げた可能性を本気で受け入れるのか。どれも答えではなかった。どれも、いまの泰志には選べないものばかりだった。
「知らねえよ」
ようやく出た声は、自分でも嫌になるほど頼りなかった。
「知らぬのに、私を生かすのか」
「知ってたら生かすとか、知らねえなら放っとくとか殺すとか、そういう話じゃねえだろ。……理由なんかいちいち考えてねえよ。お前も、自分の仲間がいまのお前と同じ目に遭っていたら、俺みたいに手を貸すだろ」
「……仲間ならば、その者を救うために手を尽くす。それは人として当然のことだ。しかし戦場なら話は違う。国を、家族を守るために、ときに非情な決断をせねばならないときもある」
熱に浮かされ、唇も乾き、指の一本すら満足に動かせないはずなのに、その言葉だけはどこか遠い場所から持ち出してきた鉄片のようだった。国。家族。非情な決断。泰志には、どれも大きすぎて、手触りのない言葉に聞こえた。
「そうかよ。でも、いま、ここは戦場じゃねえ。いいから黙って休んでろ」
九條の話を聞いていたら、頭がどうにかなりそうだった。これまでも価値観の違う者と話をしたことは何度もある。いまの思考の疲弊はそれに近いものがあった。
少しでも早く九條の警戒を解くためにも、互いに納得のいくまで話をするべきだとも思うが、このままでは、話はずっと平行線を辿るだろう。
助ける。死ぬ。助ける。その必要はない。助ける——。そんな押し問答を繰り返すよりも、九條は身体の回復に専念するべきだ。だから泰志は立ち上がって話題を変えた。
「腹減ってるだろ。うどん食うか」



