1
九條の目つきから鋭さが失われていき、やがて瞼が閉じられた。泰志はそれを間近で見ていた。死んでしまったのかと思ったが、胸が上下している。寝落ちしたのだとわかった。
その表情だけを見れば、ただ眠っているだけだといえるが、ひとたび身体に視線を移せば、この状況の異常さが際立つ。
九條が着ている服の下から、泰志が巻いた包帯が覗いている。白かったはずの包帯は、すでにところどころ薄く赤を吸っていた。きつく巻きすぎた箇所と、逆に緩んで浮いている箇所がある。これで本当に処置になっているのか、泰志には分からない。ただ、さっきまで床へ落ち続けていた血は、かろうじて受け止められていた。
玄関の隅に置いたビニール袋に、血のついたガーゼも、黒く汚れたタオルも、切った包帯の端も、ひとまず全部そこへ押し込んだ。口は固く縛ったはずだった。だが、臭いは消えない。袋の隙間から、血と油と消毒液の混じった匂いがじわじわ滲み出し、狭いワンルームの空気に居座っている。
片づけたはずなのに、なにひとつ片づいていないように感じられた。
泰志は、使い捨て手袋をはめたままの自分の手を見下ろした。薄いビニールの表面には、乾きかけた血と黒い油が筋になってこびりついている。
玄関に置いた半長靴は壁際に揃えたつもりだったが、片方だけ横倒しになっていた。
眠っている九條は、起きているときよりもずっと幼く見えた。額には割れた傷があり、頬には血と煤が残っているが、あの異様に鋭い目が閉じられた途端、顔立ちはただの少年になっていた。
どう見ても、自分より年下だった。その少年が、曾祖父の名に反応した。泰志は、スマートフォンの時刻を見た。
午前二時を過ぎている。
通報、という言葉がまた頭をよぎった。今からでも遅くない。救急車を呼ぶ。警察に事情を話す。公園で怪我人を見つけた。あまりに様子がおかしかったから連れてきてしまった。そう言えばいい。
「……『あの方』って、お前のことなのかよ」
泰志の脳裏に、曾祖父の言葉がこびりついて離れない。眠っている九條は答えない。浅い呼吸だけが返ってくる。
九條が、わずかに身じろぎして、泰志は反射的に顔を上げた。彼の瞼は閉じたままだった。だが、眉間に皺が寄っている。眠っていても、痛みからは逃れられないのかもしれない。
九條の右手が、床の上で何かを探すように動いた。指が曲がり、空を掴む。そこには何もない。
泰志はその手を見ていた。
若い手だった。爪のあいだには黒い汚れが詰まり、指の節には擦り傷がある。操縦桿を握っていたであろう手。泰志の手首を掴んだ手。その手が、いまはなにも掴めずに震えている。
「……ここにはねえよ。操縦桿も、敵も、なんもねえ。だからいまは寝てろ」
九條の手は、やがて力を失って床に落ちた。
泰志はしばらくその手を見ていたが、やがて手袋を外し、裏返して丸めた。新しいゴミを増やしてしまったことに、なぜかすこしだけ苛立った。もう一度ビニール袋を開ける気にはなれず、ひとまずゴミ箱に投げ捨てた。
そのあと、押し入れからタオルケットを一枚引っ張り出して、九條の身体に、そっとかけた。飛行服ごと、包帯ごと、少年の身体を隠すように。
泰志は壁にもたれ、その場に座り込んだ。このまま朝まで起きて、九條の呼吸を見ているつもりだった。もし容態が悪くなったら、そのときこそ救急車を呼ぶ。いや、ほんとうに呼べるのか。呼んだらどうなる。九條はどう扱われる。自分はなにを説明する。
考えれば考えるほど、出口がなかった。
九條の呼吸音だけが、規則的に聞こえる。
浅く、弱く、それでも途切れない呼吸。
泰志はその音を数えていた。
一回。二回。三回——。
途中で、数が分からなくなった。
瞼が重くなる。それでも、眠るな、と自分に言い聞かせた。
しかし、朝から晩まで引っ越しの仕事をし、夜中に得体の知れない少年を背負って運び、ドラッグストアまで走り、手当てまでした身体は、もう限界だった。
最後に見たのは、タオルケットの下で上下する九條の胸だった。
その呼吸がまだ続いていることを確認してから、泰志の意識は、ゆっくりと暗い底へと沈んでいった。
九條の目つきから鋭さが失われていき、やがて瞼が閉じられた。泰志はそれを間近で見ていた。死んでしまったのかと思ったが、胸が上下している。寝落ちしたのだとわかった。
その表情だけを見れば、ただ眠っているだけだといえるが、ひとたび身体に視線を移せば、この状況の異常さが際立つ。
九條が着ている服の下から、泰志が巻いた包帯が覗いている。白かったはずの包帯は、すでにところどころ薄く赤を吸っていた。きつく巻きすぎた箇所と、逆に緩んで浮いている箇所がある。これで本当に処置になっているのか、泰志には分からない。ただ、さっきまで床へ落ち続けていた血は、かろうじて受け止められていた。
玄関の隅に置いたビニール袋に、血のついたガーゼも、黒く汚れたタオルも、切った包帯の端も、ひとまず全部そこへ押し込んだ。口は固く縛ったはずだった。だが、臭いは消えない。袋の隙間から、血と油と消毒液の混じった匂いがじわじわ滲み出し、狭いワンルームの空気に居座っている。
片づけたはずなのに、なにひとつ片づいていないように感じられた。
泰志は、使い捨て手袋をはめたままの自分の手を見下ろした。薄いビニールの表面には、乾きかけた血と黒い油が筋になってこびりついている。
玄関に置いた半長靴は壁際に揃えたつもりだったが、片方だけ横倒しになっていた。
眠っている九條は、起きているときよりもずっと幼く見えた。額には割れた傷があり、頬には血と煤が残っているが、あの異様に鋭い目が閉じられた途端、顔立ちはただの少年になっていた。
どう見ても、自分より年下だった。その少年が、曾祖父の名に反応した。泰志は、スマートフォンの時刻を見た。
午前二時を過ぎている。
通報、という言葉がまた頭をよぎった。今からでも遅くない。救急車を呼ぶ。警察に事情を話す。公園で怪我人を見つけた。あまりに様子がおかしかったから連れてきてしまった。そう言えばいい。
「……『あの方』って、お前のことなのかよ」
泰志の脳裏に、曾祖父の言葉がこびりついて離れない。眠っている九條は答えない。浅い呼吸だけが返ってくる。
九條が、わずかに身じろぎして、泰志は反射的に顔を上げた。彼の瞼は閉じたままだった。だが、眉間に皺が寄っている。眠っていても、痛みからは逃れられないのかもしれない。
九條の右手が、床の上で何かを探すように動いた。指が曲がり、空を掴む。そこには何もない。
泰志はその手を見ていた。
若い手だった。爪のあいだには黒い汚れが詰まり、指の節には擦り傷がある。操縦桿を握っていたであろう手。泰志の手首を掴んだ手。その手が、いまはなにも掴めずに震えている。
「……ここにはねえよ。操縦桿も、敵も、なんもねえ。だからいまは寝てろ」
九條の手は、やがて力を失って床に落ちた。
泰志はしばらくその手を見ていたが、やがて手袋を外し、裏返して丸めた。新しいゴミを増やしてしまったことに、なぜかすこしだけ苛立った。もう一度ビニール袋を開ける気にはなれず、ひとまずゴミ箱に投げ捨てた。
そのあと、押し入れからタオルケットを一枚引っ張り出して、九條の身体に、そっとかけた。飛行服ごと、包帯ごと、少年の身体を隠すように。
泰志は壁にもたれ、その場に座り込んだ。このまま朝まで起きて、九條の呼吸を見ているつもりだった。もし容態が悪くなったら、そのときこそ救急車を呼ぶ。いや、ほんとうに呼べるのか。呼んだらどうなる。九條はどう扱われる。自分はなにを説明する。
考えれば考えるほど、出口がなかった。
九條の呼吸音だけが、規則的に聞こえる。
浅く、弱く、それでも途切れない呼吸。
泰志はその音を数えていた。
一回。二回。三回——。
途中で、数が分からなくなった。
瞼が重くなる。それでも、眠るな、と自分に言い聞かせた。
しかし、朝から晩まで引っ越しの仕事をし、夜中に得体の知れない少年を背負って運び、ドラッグストアまで走り、手当てまでした身体は、もう限界だった。
最後に見たのは、タオルケットの下で上下する九條の胸だった。
その呼吸がまだ続いていることを確認してから、泰志の意識は、ゆっくりと暗い底へと沈んでいった。



