奪われた未来が救った未来



 視界の奥で、白い光が明滅している。敵艦の舷側に反射した太陽光か、それとも爆発の閃光か。判別しようとした瞬間、頭蓋の奥で鈍い痛みが弾け、思考はばらばらにほどけた。
 操縦桿を握っているはずだった。両腕に残っているのは、鋼鉄を押し込む感触。指の骨が軋み、掌の皮が擦り切れ、それでも決して離すまいとした、あの最後の重み。
だが、いま自分の指が掴んでいるものは、操縦桿ではなかった。熱を持った人間の手首だった。
(……誰だ)
 九條は目を開けようとした。瞼は鉛のように重く、開いたはずの視界には、見知らぬ天井が滲んでいる。薄汚れた木材でも、機体の内壁でもない。白々しい光を放つ、奇妙な円盤。爆発の閃光ではない。敵艦の探照灯でもない。
どこからともなく低い唸りが聞こえる。エンジン音ではない。海鳴りでもない。生き物の気配を欠いた、無機質な音だった。
 喉が焼けている。息を吸うたび、肺の奥で血が泡立つ。身体のあちこちが、自分のものではないように遠かった。右脚の感覚は鈍く、腹の奥には熱い杭を打ち込まれたような痛みが残っている。それでも九條は、呻くことだけは拒んだ。人前で痛みを声に出してしまっては、軍人失格だ。
 自分は突入したのだ。敵艦へ。爆弾ごと。機体ごと。命ごと。だのになぜ意識がある。なぜ肉体が爆ぜていない。自分は今頃全身がばらばらになって、ただの肉塊として海に浮かんでいるはずで、むしろその事実すらも認識できないはずなのに。
(散華は……成し遂げられなかったのか)
 問いの形をとった思考が浮かび上がった瞬間、胸の奥に、言葉にならない恐怖が広がった。
 死んでいない。その事実は、安堵ではなかった。九條にとって、それは命令の未達であり、役目を果たせなかった証である。
(……死ぬなよ。俺が戻るまで、勝手に死ぬな)
 先程聞こえてきたような気がした、何者かの声だ。英語ではない。まぎれもない日本語だ。だが、その音調や抑揚は、己の知る祖国の同胞たちのものとは異なっていた。
 再び訪れた静寂の中で、九條はただ、己の肉体が放つ血の匂いを嗅いでいた。どれだけの時間が経っただろうか。数分か、数時間か、数日か。時間の感覚が分からない。

 それから幾許か経って、カサリと足元でなにかが動いた。去っていったあの男がたったいま戻ってきたのだ。
 緊張が走る。殺されるのか。それとも、手荒な尋問が始まるのか。男の手が、自分の顔へと近づいてくるのが分かった。ひんやりとした、濡れた布のようなものが、血の塊で強張った額にそっと触れた瞬間——。
九條の生存本能が、理性を置き去りにして爆発した。
「……っ!」
 動くはずのない右腕が、弾かれたように跳ね上がった。視界は未だ血の海に沈み、男の顔など一ミリも見えていない。だが、長年の猛訓練によって骨と筋肉に叩き込まれた軍人としての反射が、目の前の空間を掴みにいっていた。
 掌に伝わってきた手首の感触に、九條は奇妙な衝撃を覚えた。これはおそらく軍医の手ではない。驚くほどに分厚く、強靭な肉の質量。それは操縦桿の質感と完全に重なった。
「……操縦桿を……離すな……」
 掠れた声が、自分の喉を震わせて外へと漏れた。それは己に向けた言葉だった。暗黒の海へ、灰色の巨軀へと向かって、未だ急降下を続けているはずの、己の肉体への必死の命令だった。
(まだだ、まだ標的は目の前にある。伊吹、遅れるな、私に続け——いや、違う。私はもう……)
 掴んだ手首から、生きている人間の熱量が伝わってくる。その熱が、九條の網膜の血をわずかに押し流した。
 九條継という生命は終わるはずだった。終わらなければならなかったのに。
 身体がある。痛みがある。呼吸がある。
(……捕虜か)
 その言葉が、暗い水の底から浮かび上がるように意識へ滲んだ。米兵に拾われたのだろうか。爆発の直前、海へ投げ出されたのか。それとも突入が逸れ、機体ごと撃ち落とされ、死に損なった自分だけが敵に引きずり出されたのか。
 生かされている。そうだとしたら、それは救いではなかった。尋問のためか。見世物にするためか。それとも、特攻に失敗した日本兵を嘲笑うためか。
 これから、なにをされるのだろう。
 着の身を剥がされるのか。名を、所属を、飛行場の位置を、共に出撃した者の数を吐かせるまで、眠ることも許されず問い詰められるのか。傷を塞がれるのではなく、痛みを長引かせるためだけに生かされるのか。戦う力も、自決する力も奪われたまま、敵の下で、敗残兵として晒され続けるのか。
 九條は奥歯を噛み締めた。痛みへの恐怖なら、まだ耐えられる。肉が裂けようと、骨が砕けようと、声を殺せばいい。だが、死ぬことを許されず、兵士としての沈黙を少しずつ削られていくことだけは、想像するだけで腹の底が冷えた。
いずれにせよ、自分は死に場所を奪われたのだ。
 耳の奥で、紙袋の擦れるような音がした。
 九條は薄く目を開けた。白い天井。見知らぬ壁。木でも鉄でもない、奇妙に滑らかな床。鼻を突くのは、血と油の臭いだけではない。甘ったるい薬品の匂い、石鹸のような匂い、そして自分の知らない場所の空気だった。
 そばに、若い男がいた。
 見慣れぬ衣服を着ている。軍服ではない。作業着でもない。洋服だということは形で分かるが、麻や絹ではない生地が使われているようにみえる。
 髪も短く揃えているが、丸刈りではない。立ち居振る舞いも、兵士のものではなかった。だが、体つきだけは妙に頑丈だった。肩幅があり、腕も太い。しかも、その男は日本語を喋った。
 日本人か。ならばなぜ、こんな場所にいる。敵に使われているのか。捕虜係か。通訳か。あるいは、自分から米国に膝を折った者か。
 男の手が、額へ伸びてきた。
 九條の身体は、意識より先に動いた。血に濡れた指が、その手首を掴む。骨の位置を探るように、力を込める。
「……触るな」
 声は、自分でも聞き取れぬほど掠れていた。若い男が息を呑む。
「おい、落ち着け。手当てするだけだ」
「……米兵は何処だ」
「は?」
「惚けるな。ここは、敵の収容所か。貴様は通訳か」
 男の顔が、呆気に取られたように歪んだ。
「違う。ここは俺の部屋だ。日本だよ」
「嘘を吐くな」
 九條はそう言い切った。言い切らなければ、自分の内側にある恐怖が形を持ってしまいそうだった。
「私は突入した。沖縄の海で、敵艦へ……。ならば、生きているはずがない。生きているとすれば、私は敵に拾われたのだ」
 死に損なった。散華は果たせなかったと認めてしまった。
 それは九條にとって、傷の痛みよりも深く、身体の芯を抉る事実だった。
「……お前、九條継って名前なんだよな」
 男はしばらく黙っていたが、やがて、穏やかな声で言った。
「……何処で私の名を知った。貴様、日本人の身でありながら敵に与し、私を謀ろうというのか。もう一度聞く。貴様は通訳か。捕虜係か。それとも、私に口を割らせるために差し向けられた者か」
「違うって言ってんだろ。俺は——」
 男の言葉は、途中で止まった。九條の顎が、不自然に強張ったからだ。
「おい!」
 男は反射的に身を乗り出し、九條の肩を押さえつけた。勘づかれてしまった。自分が舌を嚙んで死のうとしたことに。
九條の身体が壁にぶつかり、玄関の三和土に鈍い音が響く。負傷した身体にはそれだけでも激痛だったはずだが、九條は呻かなかった。鋭い目つきで、ぎらりと泰志を睨み返した。
「離せ!」
「離すかよ!」
「捕虜になるくらいなら、ここで果てる!」
「ふざけんな!」
 男も声を荒げ、九條の胸倉をむんずと掴んだ。
「せっかくここまで運んできたんだぞ! 勝手に死ぬな!」
「貴様になにがわかる!」
 九條の目が見開かれた。熱のせいか、怒りのせいか、瞳の奥が異様に濡れていた。
「私は突入したのだ! 命を賭け、祖国を、家族を守るために飛んだのだ! それを、こんな……こんな見知らぬ場所で、敵に拾われ、生き恥を晒せというのか!」
「俺はお前の敵じゃねえ!」
「嘘を吐くな!」
 九條の口から、血の混じった唾が飛んだ。唇の端が震えている。怖いのだ。死ぬことではなく、死ねなかったことが。自分がなんのために飛んだのか、その意味が崩れることが。
「ならば何故、私は生きている……」
 その声は、先ほどまでの怒号とは違っていた。細く、頼りなく、今にも消えそうだった。
「何故、まだ身体がある。何故、痛みがある。何故……」
 男は口をつぐんだ。なにも言わずにただ、九條の肩を押さえ続けた。逃げ道を塞ぐように。これ以上、九條が自分の身体を傷つけさせまいとするように。
「あとでいくらでも怒鳴れ。疑え。殴りたきゃ殴れ。けどいまは黙って手当てさせろ。死ぬかどうかは、それから考えろ」
 九條は言い返そうとした。想いは言葉にならなかった。代わりに、身体から力が抜けていく。張り詰めていた糸が、一本ずつ切れていくようだった。
 それでも、九條の目だけは男を睨み続けていた。
「……クソ真面目すぎるだろ、お前」
 男は吐き捨てるように呟き、震える手で救急用品の袋を引き寄せた。
「動くなよ」
 男の囁きにさえ、九條の肩が微かに跳ねた。
 このまま敵の手で傷を塞がれ、再び意識を保てる程度にだけ生かされるのだろうか。尋問に答えぬたびに、死にかけた身体をさらに追い詰められ、それでも死ぬことだけは許されぬのだろうか。
 辱めを受けることよりも、痛みに屈することよりも、恐ろしいのは、自分の口から何かが零れることだった。飛行場の位置が、僚機の名が、まだ生きている仲間達が、出撃前に白粉花を振っていた少女たちの姿が、敵の前に引きずり出されることだった。
 それだけはならぬ。九條は奥歯を噛み締めた。
「……貴様の手当てを受ける筋合いなどない」
 声は掠れ、喉の奥で血に絡んだ。それでも九條は、吐き捨てるように言った。
 男は動じなかった。いや、動じていないように見せているだけかもしれない。薄い奇妙な手袋をはめ、透明な容器や白い布を床に広げている。その所作は軍医のものではない。手際は悪く、指先も震えていた。それが、余計に不気味だった。
 敵が拙い芝居を打っているように見える。あるいは、この男自身も何も知らされず、ただ命じられているだけなのかもしれない。
 疲弊していた。指の一本すら動かすことが怠い。油断すれば、意識が根こそぎ奪われそうになる。九條は一瞬、それでもいいかと考えた。そうすればいっときは、この訳の分からない状況から逃避できる。
 完全に意識を手放せなかった。思考と肉体が別の場所で管理されているみたいに、身体はえげつないほど疲れているのに、頭はずっと覚醒したままだった。
(ぐあっ!)
 突如、胸元に激痛がはしった。微睡みかけていた意識が、一気に引き戻される。それでも九條は、声を上げずに耐えた。脂汗が全身から湧いた。腕やふくらはぎの筋肉が強張って、攣りそうになるほどに身体をのけぞらせた。
 やはり拷問がはじまったのかと見まがった。なにかが、胸元の布を引き剥がそうとしている。
 九條は反射的に腕を上げようとした。だが、肩から先が鉛のように重く、思うように動かない。身体の横に投げ出されたままだった。
「触るな……」
 かろうじて、弱々しい声が喉の奥から漏れ出た。
「触るな、貴様……」
「うるせえ。傷が見えねえだろ」
 男の声が落ちてきた。九條はその声を聞きながら、奥歯を噛み締めた。やはり日本語だ。日本人の声だ。
 胸元の留め具がひとつ外された。血と油で固まった布が、皮膚から剥がれる。乾いた肉を無理やり引き剥がされるような痛みが走った。
 声は出さなかった。出してはならない。この程度で、声を漏らしてどうする。
「貴様が敵でないのなら……放っておけ」
 一縷の望みに賭ける。このまま放置されれば、いずれ自分は死ぬだろう。そうすれば口を割ることもない。この状況に焦燥を抱くこともない。すべてが解き放たれ、安寧に心は凪ぐだろう。
 敵艦を沈めることは叶わなかったのかもしれないが、仲間を危険に晒すことだけは、避けられる。
 服が剥がされ、胸元がはだけたのが分かった。すうっと、空気が肌を撫でた。
 九條は反射的に身を捩ろうとした。だが、身体はほとんど動かなかった。肩が壁に擦れ、脇腹の奥で鈍い痛みが爆ぜる。喉の奥で息が鳴っただけで、腕は胸元を覆うことさえできない。
 手拭いかなにかで、身体を拭かれているのは分かった。その手つきが存外優しくて、九條は密かに面食らった。丁寧ではない。だがそこに、悪意は感じられなかった。
(おれを……油断させるのが目的か)
 思考の中で、ふいに素が漏れた。その一人称が頭の中に浮かんだ瞬間、九條はひどく狼狽した。違う。私は九條継伍長だ。帝国陸軍航空特別攻撃隊、知暁隊所属の搭乗員だ。軍人が、子供のように怯え、内側で『おれ』などと呟いてよいはずがない。
 剥き出しになった肌に、濡れた布が触れたことによって、兵として整えていた言葉が少しだけ剥がれてしまった。ならぬと、九條は自戒した。
 濡らした布で血を拭われるたび、皮膚に張り付いた煤と油が引き伸ばされ、傷の端がひりついた。布が裂けた傷口へ直接触れそうになると、男はわずかに手を止める。呼吸が浅くなれば、こちらの顔色を覗く。痛ませることを恐れているくせに、止めることだけはしない。その中途半端さが、九條を苛立たせた。
「……貴様」
「あ?」
「何故躊躇う」
 男の手が止まった。
「あんまりこすったら、お前がいてえだろ」
「ならば、やめろ」
「それは無理だ」
「ならば躊躇うな。痛めつけるなら痛めつけろ。生かすつもりなら生かせ。中途半端に触れるな」
 男はしばらく黙っていたが、その沈黙の後で、低く舌打ちした。
「ほんと面倒くせえな、お前」
 次の瞬間、胸元に押し当てられた布に少しだけ力がこもった。
 九條は奥歯を噛み締めた。だが、男は九條の沈黙を称賛しなかった。
「我慢すんな」
「……黙れ」
「いや、黙んねえよ。痛いなら痛いって言え」
 兵とは、声を殺すものだ。戦場で自我を持ってはならぬ。九條は、そう叩き込まれてきた。
「……一度でも漏らせば。……次は、なにを吐いてしまうか分からぬ」
 男の手が止まった。九條は目を伏せた。しまった、と思った。言うつもりなどなかった。そんな弱音を、敵か味方かも分からぬ男の前で晒すつもりなどなかった。だのになぜ、この男の前では、必要以上に言葉が溢れ出してくるのだ。
「名を問われる。階級を問われる。所属を問われる。仲間の有無を問われる。答えぬたびに傷を開かれ、それでも死ぬことは許されぬ。貴様に腹を抉られても、私は沈黙せねばならぬのだ」
 声が震えた。
「この程度の痛みで、私は……」
 この程度で、涙など。そう思った瞬間、目尻が熱くなった。
 血が入ったのだと思おうとした。額から流れた血が、目に滲んだだけだと。だが、頬を伝った熱は、血のそれではなかった。
 男の手がまた止まる。
「……お前」
「見るな。違う。これは涙などではない」
「なにも言ってねえだろ」
 九條は、動かぬ指で床を掻いた。爪の間に黒い油と血が入り込む。
「敵にほだされて弱みを見せた瞬間、私は……軍人でなくなる」
 男はなにも言わなかった。
 九條は、その沈黙が怖かった。慰められるのも、嘲られるのも、責められるのも覚悟していた。だが、なにも言われないことは想定していなかった。弱みを見せたのに、そこを突かれない。涙を見られたのに、笑われない。男はただ、先ほどより少しだけ力を弱めて、胸元の血を拭った。
「……グンジンじゃなくなっても、死にはしねえよ」
 男が言った。『軍人』という言葉の発音が、言い慣れていない言葉のようにひどくたどたどしくなる。この時勢に、そんなことがあり得るのか? 戦渦の真っ只中、その言葉を見聞するのは茶飯事だろうに。
 白い布がまた肌に触れる。今度は、ほんの少しだけ痛みが浅かった。
 胸元を拭われるたび、飛行服の下に隠していたものが暴かれていく気がした。煤と油が落ちる。血が薄まる。その下から現れるのは、命令に耐え、訓練に耐え、恐怖に耐えるために鍛えたはずの身体のはずだった。その身体はあろうことか、いまは誰かの手を借りなければ、座っていることすらできない、負傷した十七歳の身体でしかなかった。それが、なによりも耐え難かった。

 傷口に消毒液を塗りたくられ、乱暴に包帯を巻かれた九條は、朦朧とする意識の中で、男の動向から目を離さなかった。男は自分を『伊吹泰志』だと名乗った。
伊吹。宗一と同じ姓。二番機として、斜め後方に付いていた男。頼りなげな目をして、それでも最後まで機を離さなかった男。
 偶然か。それとも。
 敵はどこまで知っている。自分の名だけではなく、宗一の名まで掴んでいるのか。ならば、やはりこれはただの救護ではない。九條の口を割らせるために、あえて日本人を寄越し、聞き覚えのある姓を名乗らせているのではないか。
「……伊吹」
 九條は掠れた声で呟いた。
 泰志は散らかった部屋を片付けようとしたところだった。立ち上がるのをやめて、九條に向き直る。
「あ?」
「貴様、その姓をどこで得た」
「どこでって……俺の名字だよ」
「その名を、誰から聞いた」
「だから俺の名前だって言ってんだろ。伊吹泰志」
「たいし……」
 聞いたことのない名だった。
 だが、伊吹という姓だけが、意識の奥で不吉に鳴っている。ここで問えば、こちらがなにを守ろうとしているかを悟られる。問い方を誤れば、自分の部下まで敵の前に晒すことになる。それだけはならぬ。
「……貴様は、私についてなにを知っている」
「なんも知らねえよ。九條って名前くらいだ」
「どこで聞いた」
 泰志の顔が、わずかに歪んだ。
「ひいじいちゃんが、死ぬ前に呼んでた名前と、お前の名前が一緒なんだよな。九條『ゴチョウ』って」
「ひい、じい……?」
「曾祖父だよ。伊吹宗一」
 その名を聞いた瞬間、九條の表情は固まった。
 宗一。仲間は売らぬと、口の中で押し殺した名を、男のほうから言った。
 偶然ではない。やはり、敵は知っている。自分の名だけではない。二番機の搭乗員の名まで掴んでいる。やはりこれは手当てなどではない。救護などではない。こちらを油断させ、仲間の名を引きずり出すための、手の込んだ尋問なのだ。
 知らぬふりか。あるいは、本当になにも知らされていないのか。だが、どちらにせよ気を許してはならない。宗一の名を出された。次は所属を問われる。飛行場を問われる。出撃数を問われる。仲間の名を、あの飛行場の全てを、ひとつずつ奪われる。
「それ以上喋るな。貴様がなにを問おうとも、私は答えぬ。傷を裂かれようが骨を砕かれようが、私はなにも言わぬ」
「別に聞き出そうとしてねえよ。それにそんな悪趣味なことするかよ」
「嘘を吐くな」
 九條の声に、泰志はフンと鼻で笑った。
「嘘じゃねえよ。こっちだって意味分かんねえんだよ。ひいじいちゃんが生きてるときずっと呼んでたんだよ。九條ゴチョウ、九條ゴチョウって。あの方を置いてきたって。私だけが長く生き延びたって。こっちは何年も、ただのうわ言だと思ってたんだ」
——あの方を、置いてきた。
 宗一が、そんなことを言ったのか。
 いや、違う。惑わされるな。これは罠だ。敵は、捕虜の心を折るために、仲間の名を使う。死んだ者の声を使う。自分が守るべきものを、わざと目の前へ差し出す。
「……伊吹兵長は」
 言いかけて、九條は言葉を噛み殺した。
 問うな。その先を問えば、宗一を敵の前へ差し出すことになる。
 泰志は、そのわずかな沈黙に気づいたようだったが、なにも言ってはこなかった。
泰志は床に散らかったガーゼをまとめ、血と油で黒ずんだものを袋へ押し込んだ。手つきは相変わらず雑だった。
「……お前、本当になんなんだよ」
 泰志はぽつりと呟いたが、九條こそ答えられるはずがなかった。
 むしろそれは自分のほうが知りたかった。ここはどこで、何故自分は生きていて、なぜ宗一の名を知る男が目の前にいるのかを。
 軍の中で決められたことをしていれば、自分が何者であるかを疑う必要はなかった。
 起床の時刻があり、点呼があり、訓練があり、整備があり、命令があった。食うものも、眠る場所も、飛ぶ時刻も、死ぬ場所さえも、すべて上から与えられた。九條継という個人がなにを望むかなど、考える必要はなかった。ただ定められた位置に立ち、定められた機に乗り、定められた目標へ向かえばよかった。
 それが兵であるということだった。
 だが、ここには命令がない。
 上官もいない。飛行場もない。操縦桿もない。突入すべき敵艦もない。あるのは、血と油で汚れた自分の身体と、伊吹宗一の名を知り、彼を曾祖父だとほざくこの得体の知れない男だけだった。
 なにを守ればよい。
 なにに従えばよい。
 どこへ死ににゆけばよい。
 そのどれも分からないことが、九條には傷の痛みよりも耐え難かった。
 だからこそ、問いに答えることはできなかった。
 自分が何者なのかなど、今の九條自身にも分からなかった。