奪われた未来が救った未来



 なにがなんだか分からなかった。幸いだったのは、泰志たちの周りには誰ひとり、人の気配がなかったことだ。
 横たわっているのは、汗と血と油に塗れた少年だ。泰志はしばらくのあいだ、自分の荒い呼吸の音だけを聞きながら、その場に立ち尽くしていた。
 通報すべきだ、と頭の片隅で理性が告げていた。救急車を呼べばいい。警察に連絡すればいい。そうすれば、この血まみれの少年の命は助かるかもしれない。
 だが、泰志はポケットの中のスマートフォンを握りしめたまま、画面を点けることができなかった。
 目の前に倒れているのは、ただの怪我人ではない。今の日本には存在しないはずの軍服を着て、全身から焦げた鉄とガソリンと血の臭いを漂わせている。そんな状態の少年を救急隊員や警察に引き渡した瞬間、まず間違いなく大ごとになる。
 それだけなら、まだよかった。
 泰志は逃げればいい。関係ないふりをすればいい。公園の片隅で見つけた、得体の知れない怪我人として、全部を他人に押しつければいい。だのに、できなかった。
 ——九條継。九條伍長。
 その名前が、思考の中で抜けなかった。
 高校最後の夏、曾祖父が、枯れ木のような手で自分の手首を掴みながら、何度も何度も呼んでいた名。あのときはただの老人のうわ言だと思っていた。自分には関係のない、何十年も昔の、腐った記憶の残骸だと思っていた。
 その名前を持つ少年が、今、目の前で血を流して倒れている。
 泰志は無意識に手首をさすった。
『お前のその身体は、なんのためにあるというのだ』
 あの言葉が、今もなお皮膚の下から蘇ってくる。
「……クソッ」
 泰志は吐き捨てると、パスタの空き容器をゴミ箱に放り込み、九條の傍らに膝をついた。
 迷いが消えたわけではなかった。怖くないはずがない。だが、通報するという選択肢は、すでに排除していた。
 毎日、他人の家の洗濯機や冷蔵庫を一人で担ぎ上げている肉体だ。倒れた人間ひとりを運ぶことなど、泰志にとっては造作もない作業だった。
 気を失っている九條の身体を抱き起こした瞬間、生々しい若者の体温を感じた。
 九條の腕を首に回し、その身体を背中へと乗せる。背負い上げた瞬間、泰志は奇妙な違和感に目を見開いた。
(……軽い)
 自分とさほど変わらない背格好をしているというのに、背中に伝わる質量は、引っ越し現場で運ぶどんな家具よりも軽かった。
 だが、軽いからといって、脆いわけではなかった。泰志の背中に押し当てられた九條の胸板や、肩の骨格は、まるで芯に鉄を仕込んであるかのように硬く、頑丈だった。気を失ってなお、その筋肉は弛緩しきることなく、微かに緊張している。
 泰志は九條の臀部をがっしりと両手で支え、歩き出した。誰の目にも留まらないように闇を縫って歩く。
 首筋に、九條の浅い呼吸が微かに吹き付けられていた。喉の奥で時折「ゴロ……」と血が鳴るたびに、泰志は足底を踏みしめて歩幅を早めた。
 普段ならなんとも思わない繁華街の照り返しが、今はひどく疎ましかった。泰志は黙々と、自分の足裏がアスファルトを踏み締める感触だけに集中した。
 駅から徒歩八分。公園からは二分もかからない、立地だけが自慢の、築四十年を超えるアパート。エレベーターのない外階段を、泰志は足音を殺しながら一段ずつ上っていった。引っ越しの仕事で叩き込まれた、重心をブレさせない歩法。それが、まさかこんなところで役に立つとは思わなかった。
 二階の突き当たり。家賃五万円の十畳のワンルームが、泰志の家だった。
 鍵を開け、ドアノブをひねると、暗がりの部屋へと滑り込んだ。すぐに鍵を閉め、チェーンをかける。
 泰志は狭い玄関の三和土に、九條の身体を壁に寄りかからせるようにして、ゆっくりと下ろした。フローリングに、泥と血にまみれた身体をそのまま転がすわけにはいかない。まずはその足元を固めている、異様に厳つい革靴を脱がせようとしたが、それは予想以上に頑強で、泰志の手を拒んだ。
(なんだこれ。どうやって脱がせるんだよ)
 それは現代のミリタリー風ブーツとも、現場で履く安全靴とも違う、見たこともない構造をしていた。足首の上までをすっぽりと覆う茶褐色の牛革は、ガソリンと乾いた血を吸って硬く強張っている。太い革紐がいくつものハトメを複雑に這い、足首のラインを執拗に締め上げていた。
 泰志は膝をつき、まずは結び目を解こうとした。しかし、血を吸って干からびた紐は石のように固まっており、指先が滑って爪が剥がれそうになる。
 指の力を込め、泰志は強引に結び目を引き千切るようにして解きほぐした。だが、紐を緩めただけではびくともしない。足首のホールドを補強するためだろうか、金属製のバックルがさらに皮膚を圧迫するように固定されていた。
 見よう見まねで金具を外すたびに、古い鉄の擦れる嫌な音が狭い玄関に響く。ようやくすべての固定を解き、泰志は半長靴の踵を掴んで引っ張った。
 強引に引き抜こうと力を込めた瞬間、九條の身体がびくりと拒絶するように跳ねた。気を失っているはずの少年の奥歯が小さく鳴る。ツナギの裾から覗くふくらはぎの筋肉が、激痛に耐えるように硬直した。
 泰志は、自分の額から嫌な汗が流れるのを感じた。九條の足首を固定して、じわじわと革を捩るようにして、ようやく片方ずつ引き抜く。スポン、と湿った音を立てて靴が脱げた瞬間、足に巻かれていた白布が血に染まってボロボロと解けた。
 部屋の電気を点けた瞬間、泰志はハッと息を呑んだ。
 明るい場所であらわになった九條の姿は、公園の闇の中で見たときよりも、遥かに現実離れしていた。茶褐色の飛行服は、泥と煤と血を吸ってところどころ黒く固まり、胸元の救命胴衣のような当て物は無惨に裂け、綿のような中身を吐き出している。額の傷から流れた血は、頬を伝い、顎の先で乾いていた。
「……なんだよ、これ」
 泰志は怪我に慣れていないわけではない。野球部時代、裂傷も骨折も見た。引っ越しの現場では、指を挟んで爪を剥がした作業員もいた。目の前のこれは、転んだ、ぶつけた、切った——そんな言葉で片づけられるものではない。
 泰志は一瞬、スマートフォンへ手を伸ばしかけた。
 救急車。
 その三文字が頭に浮かぶ。だが、画面を見るよりも早く、いまさら何を迷っているのだ、と胸の奥で誰かが言った。
 ここまで運んできたのは自分だ。通報しないと決めたのも自分だ。
 傷だ。まず傷をどうにかしなければならない。水で洗う。布を当てる。血を止める。頭ではそれくらいしか思いつかない。消毒液、包帯、ガーゼ。そういうものが必要なのは分かる。だが、自分の部屋にそんな気の利いたものがあるはずもなかった。
 駄目元で洗面台の下を開ける。出てきたのは、ほとんど空になった洗剤の詰め替えと、いつ買ったかも覚えていないカビ取り剤だけだった。キッチンの引き出しを開けても、最低限の調理器具と割り箸、いくつかの輪ゴムが転がっているだけだ。
 ふと思い立って押し入れの下段を乱暴に漁ると、奥から黒いリュックが顔を覗かせた。大学の野球部を辞めた日に、部室から持ち帰って以来、一度も開けていないものだった。
 中には、使いかけのテーピング、丸まった伸縮包帯、湿布、半分潰れたアイシング用の袋、汚れたリストバンドが押し込まれている。
 どれも、あの日までの自分が、まだなにかになれると信じていた頃の残骸だった。未練がましく捨てられなかったものが、こんな形で手元に残っている。
 泰志はテーピングと包帯を掴み取った。だが、それだけでは足りない。目の前にいる少年は、捻挫や打撲で済む状態ではなかった。彼が負った傷を、タオルと気休めの包帯だけでどうにかできるとは思えない。
 買いに行くしかない。
 繁華街から少し外れたこの辺りには、二十四時間営業のドラッグストアがある。
 バイトで遅くなったときに、コンビニより重宝している。ここから走れば、往復十分もかからない。
 財布とスマートフォンを掴み、玄関へ向かおうとしたとき、洗面台の鏡に映った自分の姿が目に入った。
「……うわっ!」
 着ている白いTシャツは、ひどい有様だった。九條を背負ったときに擦りつけられたのだろう。肩から胸元にかけて、黒い油汚れと赤黒い血がべったりと染み込んでいる。首筋にも、乾きかけた泥の筋がついていた。振り返って背中を映すと、前よりも酷い有様だ。このまま外へ出たが最後、人殺しかなにかと誤解されて、交番に連行されるのがオチだろう。
 ローテーブルの横に積まれた洗濯物の山を崩し、替えのTシャツを引っ張り出したあと、脱いだシャツを空き袋に突っ込み、口を固く縛った。
 玄関に戻ると、九條は壁にもたれかかったまま、浅い呼吸を繰り返していた。唇は紫がかり、額には脂汗が浮いている。
「すぐ戻る。だから死ぬなよ。俺が戻るまで、勝手に死ぬな」
 返事があるはずもなかった。それでも泰志は、そう言わずにはいられなかった。
 泰志は走った。アパートの外階段を駆け下り、路地を抜ける。コンビニの明かりを横目に、交差点を渡る。ドラッグストアの看板が、深夜の空に白く浮かんでいた。
 自動ドアが開くと、泰志は店内に駆け込んだ。
「いらっしゃいませ」
 レジの若い店員が、眠そうな声で言った。
 泰志は顔を伏せたまま、衛生用品の棚へ向かった。消毒液。ガーゼ。包帯。医療用テープ。大きめの絆創膏。使い捨て手袋。何をどれだけ買えばいいのか分からない。分からないから、目についたものを手当たり次第に籠へ放り込んだ。
 棚の端に、傷口洗浄用のボトルが並んでいる。泰志はそれも掴んだ。ついでに水と、スポーツドリンクと、少し考えてゼリー飲料も籠に入れる。
 レジへ向かう途中、ふと自分の手を見た。指の爪の間に、黒い汚れが入り込んでいた。泥なのか、油なのか、血なのかまでは分からない。
 店員は、籠の中身を淡々と読み取っていく。深夜に消毒液と包帯とガーゼを大量に買う客を、不審に思っているのかいないのか、その顔からはなにも読み取れなかった。
 白いレジ袋に詰められていく救急用品を見ながら、泰志は妙な気分になった。
 自分のために使うはずだった金が、九條の手当てをするために消えていく。
 それが腹立たしいのか、怖いのか、どんな気持ちで見ていればいいのか分からない。
 袋を受け取り、店を出たあと、泰志はまた走った。アパートの階段を駆け上がる頃には、息が切れていた。鍵を開ける手がもつれる。部屋に滑り込み、大慌てで靴を脱いだ。
 九條は、まだそこにいた。泰志が部屋を出たときのままの体勢で壁にもたれ、浅い呼吸を繰り返しながら、かろうじて生きていた。
「……よし」
 泰志はレジ袋を床に置き、膝をついた。
「悪い。正しいやり方なんか知らねえ。けど、なにもしないよりはましだろ」
 そう言ってから、泰志は使い捨て手袋の箱を開けた。薄いビニールを指に通す。手袋越しでも、自分の指先が震えているのが分かった。
 濡らしたタオルを絞り、九條の額にそっと当てる。
 その瞬間、意識のないはずの九條の指が、泰志の手首を掴んだ。
「……操縦桿を……離すな……」
 掠れた声が、玄関の狭い空気を震わせた。
 泰志は息を呑んだ。あの日、病室で宗一に掴まれた場所が、また熱を持ったような気がした。