奪われた未来が救った未来



 週末の繁華街の駅前は、夜更けになってもなお、人の姿が絶えず、若者たちが目的もなく屯している。酒の空き缶が転がるアスファルトの上で、彼らはスマートフォンの青白い光を下から顔に浴びながら、笑い声を上げていた。
キャッチの男たちはとうに諦め顔で駄弁っており、シャッターの閉まったパチンコ店の前では、酔い潰れたサラリーマンがスーツのまま崩れ落ちている。
 日中は色々な広告を映し出していた街灯ビジョンは真っ暗に沈んで、高層ビルのてっぺんの明かりを反射している。ロータリーには何台かのタクシーが社名表示灯を点けて停まっていた。
伊吹泰志は、その街の隙間をぬうように、コンビニ袋を片手に提げ、とぼとぼと歩いていた。
 二十歳の彼は、推薦で入学した大学を一年後に中退し、いまは週五のバイトで食いつないでいる。将来について聞かれれば適当に笑って誤魔化すが、内側ではいつも、出口のない泥沼に足を取られているような感覚があった。
コンビニ袋を提げた右手の指には、いまも消えない硬いマメの痕がある。 高校の三年間、来る日も来る日も泥にまみれ、白球を追い続けていた証だ。
 泰志はかつて、地元では名の知れた球児だった。強豪校のレギュラーとして、甲子園という巨大な熱狂の端っこに触れたこともある。
大学への推薦が決まったときは、それが自分の正解なのだと疑わなかった。
「野球さえやっていれば、お前の人生は安泰だ」と笑う大人たちの言葉を背負い、そのレールに飛び乗った。だが、いざ大学の門を潜ってみれば、そこには自分とおなじ——あるいは自分を遥かに凌駕する怪物たちが存在していた。
 一度立ち止まってしまうと、虚無感が一気に押し寄せてきた。 あんなに誇らしかったはずの『野球推薦』という肩書きが、次第に自分を縛る鎖に変わっていった。期待に応えるためにプレーする。そこには、情熱や根性といった情緒が入り込む余地はない。就職のために実績を作る。純粋だったはずの情熱が、実利を通して濾過され、最後には何も残らなかった。

 ある日の練習中、泰志はふと、ブルペンから空を見上げた。
(……俺は、ここでなにを成し遂げようとしてるんだ?)
 そう思った瞬間、心の中で張り詰めていた糸が、音も立てずに切れた。
 翌日から泰志は練習場に姿を見せなくなった。期待を裏切った己を責める声も、叱咤する声も、ひと月もしないうちに止んだ。残ったのは、何者でもなくなった自分だった。
 部活を辞め、やがて大学を辞め、その後はじまった生活は、驚くほど静かなものだった。
 使い道のなくなったアスリートの肉体を、安物のアルコールと不規則な生活でじわじわと摩耗させている。
 いまの主戦場である引っ越しの現場では、その身体が重宝された。ときに重い荷物を一人で抱え、エレベーターのない古いアパートの外階段を黙々と往復する。肌を汗が滑り、筋肉が悲鳴を上げる感覚は嫌いではなかったが、それも結局は他人の生活を右から左へ動かしているだけに過ぎない。
 今日もまた、朝から晩まで見知らぬ誰かの引っ越しを手伝ってきた。自分の肉体という資源を、日銭に変換しているだけの作業に身を投じることで、自分が何になろうとしているのかすらわからない。

 会社の更衣室で作業着を脱ぎ捨てて、シャワーを浴び、Tシャツに着替えても、汗と埃の匂いが身体にへばりついて離れない。実際に皮膚から発せられているものなのか、幻臭なのかは定かではないが、それが鼻腔をくすぐるたびに思い出すのは、泰志が高校生だった頃、天寿を全うした泰志の曾祖父の言葉だった。

「……泰志、お前のその身体は、なんのためにあるというのだ」

 泰志の曾祖父である伊吹宗一の最期は、六月の蒸し暑い午後のことだった。
 病室の窓の外では、まだ若々しい緑の街路樹が、容赦ない日差しを浴びてぎらついていた。冷房の効いた室内には、規則正しい心電図の電子音だけが鳴っていた。それがまるで宗一の命の残り時間を刻んでいる音のように、泰志には感じられた。
 寝たきりとなって、食事も排泄も、寝返りも、ひいては日常生活の全般を他人の手を借りなければまともに出来なくなっていた宗一は、かつての大戦において陸軍に所属した飛行機の操縦士だったという。
しかし宗一は、死線を越えてきた男とは思えないほどに小さくなっていた。白いシーツに沈んだその身体は、既に中身が抜けかけている骸のようで、泰志はそこにかつて国を背負って戦った兵士の面影を見出すことはできなかった。
 一世紀近い時間を生き抜いた曾祖父の肌は乾燥し、無数の深い皺が刻まれている。その陳臭さが、自分とおなじ人間とは思えなかった。宗一の存在そのものが、泰志にとっては不気味だった。

 不意に、その細い指が泰志の手首を掴んだ。これから死にゆく者とは思えない力がそこにはあった。泰志が反射的に顔を上げると、曾祖父の混濁した瞳が、真っ直ぐに自分を——いや、自分を通り越した遥か彼方のなにかを見つめているように感じられた。
乾いた唇から漏れたのは、祈りのような、あるいは断末魔のような掠れ声だった。
「私は……あの方を、置いてきてしまった。十七歳だった……。あの方だけがあの海に消えて、私だけが……。私だけが、こんなに長く、汚く、生き延びてしまった」
 曾祖父の目尻から涙が落ちた。それは引力に引かれ落ちて、枕を濡らした。掴まれた手首の痛みを感じながら、当時の泰志は、ただただ困惑していた。

——十七歳のあの方。あの海。
 八十年も前の情景など、マウンドの上で白球を追いかけていただけの高校生には、空想の世界よりも実感が持てない話だった。
(また始まった……。長いんだよな、これ)
 泰志は、曾祖父の言葉に耳を傾けるふりをしながら、空いた左手で制服のポケットから取り出したスマートフォンを弄っていた。
 画面に表示されていたのは、地方予選の試合速報だ。ライバル校の右腕が何奪三振を記録したか、次の対戦相手の打率はどれくらいか。指先ひとつで更新される数字の羅列だけが、当時の泰志にとっての戦場であり、現実だった。
宗一が背負い続けてきた八十年の後悔も、戦友を爆炎の中に喪った痛みも、泰志にとっては惚けた老人のうわ言と捉え、触れる必要の感じられない遺物でしかなかった。
「……九條伍長。申し訳ございません、九條伍長……」
 何度も繰り返されるその名前が、誰を指しているのかさえ、泰志は聞き返そうともしなかった。
(なんで俺がこの枯れ木ジジイに腕を握られなきゃならねえんだよ)
 泰志は、宗一の細い手首を見下ろした。まるで人間の器官というよりは、乾燥してひび割れた流木の欠片のようだ。節くれ立った関節、浮き出た血管、冷たくしわがれた皮膚。
 毎日野球に打ち込み、生命力の塊のような日々を送っている泰志にとって、その感触は、生理的な嫌悪感を呼び起こすのに充分だった。
 病院から家に「会えるうちに顔を見に来てください」と呼び出しがかかったせいで、そのとき部活動の真っ最中だった泰志は、学校のグラウンドからこの病室へと連行された。
大人たちにとって、それは一族の長老を見送るための崇高な時間だったのだろうが、甲子園の予選を目前に控えた泰志にとっては、苛立たしいタイムロスでしかなかった。
 着替える暇さえなく、泥のついた練習着の上に制服の夏服を無理やり羽織って駆けつけたせいで、肌の上で乾いた汗がじりじりと痒かった。
(く・じょ・う)
 宗一の唇が、声もなく動く。また、あの名前を囁こうとしているのか。泰志たちの知らない誰かへの、時を超えた謝罪。
(……だから誰だよ、その『クジョウ』って。知らねえっつうの)
 心の中で吐き捨て、泰志はベッドを取り囲んでいる親族たちを冷めた目で見上げた。みんな大往生を迎えようとしている人間の最期の言葉を聞き漏らすまいと必死だ。
 しかし、宗一の濁った瞳は、そんな彼らのことなど一ミリも見てはいなさそうだった。この老人が死ぬ間際、その熱を振り絞って呼び続けているのは、何十年も連れ添い、先立たれた曾祖母の名前でも、自分を介護してきた家族の名前でも、あるいは曾孫である泰志の名でもない。
(百年近く生きてきて、最期の最期に呼ぶのが家族じゃなくて、その『クジョウ』とかいう奴なのかよ。……薄情なジジイだな)
 宗一にとっての伊吹家など、実はどうでもいい、ただの同居人の集まりだったんじゃないか。彼が歩んできた長い人生の大部分を占めていたはずの自分たちの存在が、死ぬ間際のうわ言に負けている。その事実が、野球一筋だった高校生の泰志には、無価値で、滑稽なものに思えた。
(そんなにそのクジョウってやつのほうが大事なら、そいつに看取ってもらえばいいじゃねえか)
 家族に一言の感謝も、一言の別れも告げず、ただただ『九條』という名の亡霊を追いかけて逝こうとする。
 泰志は、宗一の指を一本ずつ引き剥がしたい衝動を抑え、代わりにスマートフォンの画面をより強く親指で弾いた。
「泰志、いい加減にしろ。スマホをしまえ」
 泰志の父である宗志は、ワイシャツの袖を捲りながら、泰志を見下ろしていた。宗一のためというよりは、親戚の前で不謹慎な行動をとる息子を窘める毛色のほうが強い。
「……別にいいだろ。試合の結果、気になってんだよ」
 泰志は父親を一瞥したあと、視線をスマホの画面に戻した。青白い光が泰志の不機嫌な顔をぼうっと照らしている。
「だいたい俺が何してようと、分かっちゃいないんだ、この人は」
「泰志!」
 今際の際にいるのが、もっと自分に近い親等の誰かだったら、より身近に哀しみに浸れたかもしれない。そう思うのは、俺が『不謹慎』だからなのだろうかと、泰志は父の怒鳴り声を聞きながら思った。
 伊吹家の一員として、何十年もこの老いぼれを支え、飯を食わせ、最期はこうして危篤の報せに駆けつけた自分たちの存在が、たった一人の『クジョウ』という名前の誰かに、完膚なきまでに敗北している。
 宗一にとって泰志たちは、『あの海』から戻ってきてしまった後の、退屈で余計な付け足しの余生に色を与えるための、ただの書割に過ぎなかったのだろうか。

「……泰志、お前のその身体は、なんのためにあるというのだ」

 一瞬、曾祖父が全盛期のように息を吹き返したのかと錯覚した。名を呼ばれて、泰志は思わずスマートフォンの画面から顔を上げて、宗一の顔を凝視した。
(俺を曾孫の泰志として、認識してんのか?)
 白濁し、焦点も定まっていなかった曾祖父の瞳が、密度を持って泰志を射抜いているようにみえた。それは曾孫に向ける慈愛の眼差しなどではなく、戦場の最前線で、なにか決定的なものを見据える兵士の鋭さが宿っているようだった。
「なんのためって……野球だよ。そのために毎日練習してんだろ」
泰志は、ぶっきらぼうに答えた。宗一の眼光は揺るがない。
「……違う」
 宗一の声は、もはや掠れてはいなかった。
「そんなもののために、その身体を授かったのではない。お前は……お前はまだ……」
 言いかけて、宗一の瞳から不意に光が剥がれ落ちた。張り詰めすぎた弦が切れるように、曾祖父の身体から急速に生気が失われていく。掴まれていた手首の力がふっと弱まり、指先がシーツの上で震え始める。
「……あ。おい、ひいじいちゃん!」
 泰志は思わず身を乗り出した。だが、宗一の口から漏れたのは、再びあの名前だった。
「……九條、伍長……。……寒い、んです。……機体が……」
 先ほどまでの威厳は霧散し、そこにはまた、うわ事を繰り返すだけの、惨めな枯れ木が横たわっていた。
(……なんだよ、今の)
 泰志は、解放された手首を左手でさすった。
 曾祖父が自分の中に見たものは何だったのだろう。『そんなもののために』と否定された、自分のすべて。
 不愉快だった。なにも知らないくせに。俺がどれだけ練習して、どれだけの期待を背負っているか、自分ではもうまともに動けない老いぼれに、なにがわかるんだ。
 泰志は逃げるように立ち上がった。ちょうどそのとき、心電図のビープ音が乱れ、神妙な顔をしていた親族たちが一斉にベッドへと詰め寄ってきた。
「ひいおじいちゃん!」「じいさん!」
 その怒号と泣き声の渦の中で、泰志は一歩、また一歩とベッドから遠ざかった。

 主治医の見立て通り、宗一はそれから長く保たなかった。やがて、彼の手が力を失い、シーツの上に力なく滑り落ちたとき、泰志が最初に感じたのは悲しみではなく、解放感だった。ようやく、この重苦しい空気から逃げ出せる。ようやく、自分の日常に集中できる。
 次に戦う相手を決める試合の結果。泰志の心をひりつかせたのは、目の前に訪れた曾祖父の死ではなく、デジタルの画面に映し出された数字の羅列だった。

 コンビニ袋の持ち手が、右手の中指と薬指の付け根にあるマメに、じりじりと食い込む。中に入っているのは、半額シールの貼られたパスタサラダと、惰性で買ったストロング系の缶チューハイだ。
 ふと、胃の奥が雑に捩れるような、不快な空腹がせり上がってきた。今すぐ、この安っぽいアルコールと炭水化物を流し込んで、脳を麻痺させたかった。
 泰志は駅前の喧騒に背を向け、雑居ビルがひしめき合う裏路地へと足を踏み入れた。
向かう先は公園、と呼ぶにはあまりに寒々しい場所だった。唯一設置されている錆びついたブランコが風もないのに微かに揺れている。
(……ここでいいか)
泰志は、街灯の光が届かない、一番奥のベンチに腰を下ろした。
 ドレッシングをかけ、味気ないパスタをフォークで無造作に口に運んだ。咀嚼しながら缶チューハイのプルタブを引いた。人工的な果実の香りと、喉を刺すようなアルコールの刺激。それを一気に流し込むと、脳の端のほうがわずかに痺れ、今日一日の疲労が、一瞬だけ自分から切り離された。

 ベンチに置いた指先が、びくんと震えた。アルコールのせいではない。かつて立っていたマウンドで、危険な打球が顔面を掠める直前に感じたような、剥き出しの危機感が警笛を鳴らしたのだ。
 不意に、背後の茂みから、ドレッシングの酸っぱい匂いを一瞬でかき消す、異様な臭気が漂ってきた。
 焼けた鉄の、焦げた臭い。揮発した古いガソリンの、喉を刺すような刺激。
 泰志はほぼ空になっているパスタの容器をベンチに置き、ゆっくりと顔を上げた。あれほど食べ物を欲していたはずなのに、その匂いにやられて、今度は別の意味で胃が捩れそうになった。
 街灯の届かない植え込みの奥で、カサリ、と何かが土を掴む音がした。
(……野良猫か?)
 それにしては音が重い。漂ってくる臭気が強くなった。ガソリンと、湿った木や土の匂い、そしてそれらをすべて塗りつぶすような、むせ返るほど濃厚な生温かい血の匂いだった。
泰志の視界の端で、闇がどろりと蠢いた。植え込みの影から、這い出すようにして現れたのは、泥と油にまみれた人間だった。

 最初は、たちの悪い酔っ払いが潰れているのかと思った。だが、暗闇に目が慣れてきた泰志の視界に晒されたその姿は、あまりにもこの街の風景から浮き上がっていた。
 泰志の目の前に転がっているのは、今の日本にはどこを探しても存在しないはずの、異質な格好をした少年だった。
まず泰志の目に飛び込んできたのは、少年の全身を包む、茶褐色のツナギだった。厚手でゴワついた重たそうな布地。歴史の教科書や、 モノクロの古いフィルム映像でしか見たことのない装束だった。
 少年の胸元には、不格好に膨らんだ長方形の当て物が、何枚も連結されるようにして括り付けられていた。それは海に落ちた時に浮くためのものか、それとも衝撃を和らげるためのプロテクターのようなものか。パンパンに詰め物がされていたらしいその物体は、すでに 役目を終えたかのようにズタズタに引き裂かれ、中から古い綿のようなものが飛び出している。
 頭を覆っているのは、耳の部分が膨らんだ、変な形の帽子だ。伸びた顎紐は千切れて、ぶらぶらと首の辺りで揺れている。帽子の下、額に巻かれているのは、かつては白かったであろう古びた布のハチマキだった。中央に描かれた日の丸は、額から流れ出した鮮血を吸って、赤黒く変色している。額に装着されたゴツいフレームのゴーグルは、片方のレンズが粉々に砕け、帽子の内側の毛皮には真っ黒な煤がこびりついている。
(コスプレ……か? だったらガチすぎんだろ)
 一瞬、そう思った。だがこれは、そんな遊び半分の偽物じゃない。血に染まり、焦げた布。そして、喉の奥を刺すようなガソリンの刺激臭。それらの本物を見たこともないのに、目の前にあるのは本物なのだと思わざるを得ないほど、少年が纏っているのは、ただの服ではなかった。
 泰志の指先から力が抜け、飲みかけの缶チューハイが地面に叩きつけられた。乾いた金属音が深夜の公園に響き、中身の安酒が少年の足元へと広がっていったが、泰志はそれを拾おうという考えに追いつけなかった。

 少年は、震える両腕で地面を押し上げ、ゆっくりと顔をもたげた。
 喉の奥に血が詰まっているのか、湿った、苦しげな呼吸音が静寂を乱した。ゴロッと喉が鳴る。
 月の明かりが、少年の顔を照らし出した。
 泰志は息を呑んだ。額の割れた傷から流れる鮮血が、少年のあどけない顔立ちを汚している。
「おい……。あんた、大丈夫か?」
 泰志は言葉を口にしてから、自分の声が情けないほど震えていることに気づいた。  
 少年は、泰志の声に反応して、ゆっくりと視線を動かした。その瞳が泰志を捉えた瞬間、ふたりのあいだの空気が一変した。救済を求める脆薄さなど揺蕩っていない。在るのは周囲のすべてを敵か味方かで選別するような、鋭く、研ぎ澄まされた拒絶だった。
「此処は、何処だ。貴様は……」
 少年の唇から漏れたのは、現代の若者とは明らかに異なる、一音一音が重く、硬い言葉の響き。泰志にはそれがどうにも芝居じみて聞こえた。俳優が台本上の台詞を喋っているような不自然さだった。
 少年は、全身の至る箇所を負傷していた。引き裂かれた茶褐色のツナギからは、生々しく肉が削げた跡や、赤黒く変色した打撲痕が覗いている。
 少年が漏らすのは、声というより、肺の奥に溜まった血が、呼吸のたびに喉を鳴らす湿った音だった。普通なら叫び声を上げてのたうち回るような傷を負いながらも、彼は歯を食いしばり、必死に呻きを呑み込もうとしていた。
 額の傷から流れる鮮血が目に入っているはずなのに、少年は瞬きひとつせず、射抜くような眼光で泰志を凝視している。
「き……貴様……何者だ」
 唇が紫に変色し、呼吸をするたびに全身の筋肉が痙攣しているのがわかる。それなのに、少年は姿勢を正し、這いつくばった状態からでもなお、威厳を保とうとしていた。
「お前……全身傷だらけじゃないか」
 泰志が思わず一歩踏み出したとき、少年の肩がピクリと動いた。はだけた胸元を、血に濡れた手で隠すように押さえた。その動作は、傷を庇うためではなく、自分の中にある脆弱な一面や感情の乱れを他人に見られることを拒むようなものだった。
 少年の手が偶然、衣服の内側を捲り上げた。そのとき、泰志の目には、裏地に直接縫い付けられた、煤けた小さな白い布切れが映った。

『九條 継』

そこには、端正な墨書きで、名が記されていた。その漢字三文字の並びを泰志が理解した瞬間、彼は驚愕した。
(九條……?)
 耳の奥で、心臓が爆ぜた。高校最後の夏。死の気配が蔓延していたあの陰気な病室で聞いた、曾祖父の掠れ声。——九條伍長。
「ゴチョウ……」
 泰志の呟きを聞いた瞬間、九條が大きく目を見開いたのが分かった。鋭い眼光が不意に、年相応の少年の眼差しに変わる。
「……答えろ。私の名を知っているのか」
 そう言った九條の声は、大きく揺れていた。口の端から血が垂れている。この暗闇ではそれが、彼の肌を黒く染め上げたようにみえた。
 九條は、なにも答えぬ泰志の動揺を見逃さなかった。彼は泰志から距離を取ろうと身じろいだ。刹那、脇腹の傷口が開いたらしく、新たな血が土を濡らした。  
 それでも少年は表情を変えず、ただ鋭利な視線を、泰志に向けていた。だが、抵抗の意思を示すより先に、彼の肉体は限界を迎えた。
最後まで声を出すことも、痛みに顔を歪めることもなく、九條はただ静かに、その場へ崩れ落ちたのだった。