奪われた未来が救った未来



 彼はその瞬間、自身諸共兵器となった。
 一九四五年六月。九條継は、九九式襲撃機の風防越しに、灰色の巨軀が急速に膨れ上がるのを見ていた。沖縄の海を覆い尽くす米艦隊の一角、駆逐艦の船腹が、網膜を焦がすほどに迫っていた。
機体の腹に抱え込んだ爆弾は、最早外部の装備ではない。十七歳の少年の、骨髄や筋肉、あるいは神経と溶け合い、一度きりの衝撃として放たれる凶器そのものだった。
 操縦桿を握る拳には、限界まで回転を上げるエンジンの震えが、自分の心拍の速さに合わさるように伝わっていた。いや、胸を打つ鼓動の高鳴りのほうが、エンジンと共鳴しているというべきだろうか。

 数時間前、世界は蝉時雨の中にあった。
 九州の端にある秘匿飛行場。掩体壕から引き出された九九式襲撃機は、夏の強烈な陽光を浴びて、鈍く銀色に光っていた。滑走路の脇には、地元の女学校の生徒たちが並んでいて、彼女たちが振る白粉花や白い手拭いがエンジンの熱気で歪んで見えた。少女たちが摘んできた花弁の赤色が、これから自分が流す血の色に見えて、九條は咄嗟に視線を逸らした。
あんな子供たちに、死にゆく男の背中を見送らせるべきではない。
そう思ったが、もう自分は後戻りが出来ぬ領域に足を踏み入れたのだ。

「……九條伍長殿、ご準備はよろしいでしょうか」
 整備兵の声に、九條は短く頷いた。まだ少年の柔らかさを残した頬を、飛行帽の革紐がぎゅっと締め付けている。
 出撃前の水盃は、驚くほど無味無臭だった。喉を通る冷たさが、まだ生きていることを、皮肉にも自覚させた。
「一番機、始動!」
 号令と共に、プロペラが回転を始める。重苦しいエンジンの爆音。排気管から吹き出す青白い炎。操縦席に潜り込んだ瞬間、九條の視界から日常が消えた。後ろに付く二番機の伊吹宗一が、風防越しにこちらを見ている。九條よりも二つ年上の、どこか頼りなげな目をしていた宗一。九條は前だけを見つめ、無言でスロットルを押し込んだ。
機体が震える。隊列を組んだ機は、順に滑走路を駆けていく。
 尾輪が浮き、大地との繋がりが断たれる。ふわりと身体ごと浮き上がった瞬間、九條は二度と踏むことのない日本の土を、機窓から見下ろした。
 瑞穂の国。 守るべき、美しい祖国。そう教育され、自分も信じてきたはずの景色は、高度を上げるにつれて、ただの緑の塊へと変わっていった。
(ああ、これで、数刻もすれば、私は散華するのだ)
 確信が、心に平穏をもたらした。もう将来を案じる必要も、いつ来るともわからぬ出撃命令に怯える夜を過ごす必要もない。
 この飛行場に配属され、自分の役割を聞いてからずっと抱いていた重荷を、この機体と共に海に投げ捨ててしまえるのだという、歪んだ解放感が九條の心を支配していた。
 雲を抜け、眼下に広がるのはどこまでも続く深い紺碧の海だった。 宗一の二番機が、そして三番機が、影のように自分の斜め後ろに付き従っている。
 数時間の飛行。太陽が空の天辺をなぞり、海面が蒼玉のようにきらめいてきたころ、水平線の向こうに灰色の針の山が見えた。敵艦隊だ。
 そのとき、九條の心から最後の一滴の『人間』が消えた。
(……一番機、突撃体制)
 自分にそう言い聞かせた瞬間、心拍数はエンジンの回転数と完全に同化し、指先は操縦桿の一部となった。 思考は止まり、ただ網膜に映る標的だけを追い求める計算機と化した。後ろを飛ぶ宗一たちのことさえ、もう意識にはなかった。
「……突撃ィッ」
 咆哮したつもりだったが、時速三百キロを超える風切り音と、断末魔のようなエンジンの咆哮が、機を操る少年の存在をかき消していた。
 九條が操縦桿を両手で深く押し込むと、九九式襲撃機は、まるで自ら死を急ぐかのように鼻先を下降させた。
 その瞬間、世界は上下を失った。視界を占めていた海面が、正面から立ち上がる巨大な壁へと変貌する。高度を下げるにつれ、風防の外を流れる雲の欠片が、凄まじい速度で後方へと置き去られていく。それはまるで、彼がこれまで生きてきた十七年という時間を、一秒ごとに剥ぎ取っていくかのような光景だった。
「……ッ、がっ!……」
 肉体を襲ったのは、暴力的な威力の重力加速度だった。目に見えない強大な圧力が頭上からのしかかり、それなりに鍛え上げたはずの身体を座席の奥底へと力任せにめり込ませる。内臓が容赦なく押し潰され、肺を満たしていた酸素が、熱い吐息となって無理やり絞り出され、喉の奥から血の味が迫ってきた。脳から血が引き、視界の端が急速に狭まり、世界がどす黒く縁取られていく。だが、九條は奥歯が砕けんばかりに噛み締め、剥き出しの意志だけで意識の糸を繋ぎ止めた。
 機体の部品をつなぎ合わせる鋲の一本一本が悲鳴を上げ、主翼の付け根が今にも引きちぎれんばかりに軋む。九條にはそれが自分の身体が鳴る音のように感じられた。
(まだだ……まだ、離すな)
 弾幕が空を裂いた。四方八方から突き上げてくる機銃の曳光弾。それは紅蓮の針となって機体の周囲をかすめ、主翼の銀色を容赦なく削り取っていく。死を彩る刺繍のように、翼に弾痕が刻まれていった。
 左翼を貫いた弾丸が燃料タンクの端を掠め、ガソリンの匂いが一気にコックピットへ流れ込んだ。死の気配が、いよいよ実体を伴って鼻腔を突く。さらに右翼に一発、金属の弾ける乾いた音が響き、機体が大きく身震いした。九條は表情ひとつ変えない。もはや釣合を立て直す必要もない。墜ちる先は決まっている。
(否、墜ちているのではない。私が、この機体そのものが、行くべき場所へ向かっているのだ)
 海面が近づく。波頭の白、波紋のうねり、そしてその中心に居座る灰色の鉄の塊——標的である敵駆逐艦の輪郭が露わになっていく。
 距離が縮まるたび、九條の心から『明日』という概念が削ぎ落とされていった。急降下による風圧が、隙間から入り込み、彼の飛行帽を、そしてその下の頭皮を激しくなぶる。  
 もはや、空と海の境界はない。そこに在るのは、少年の命を火薬へと変えるための、数秒の下降線だけだった。
——高度、五百。三百。百……。
 九條が見ていたのは『敵艦』という概念ではなかった。それは無数の鉄板の継ぎ目であり、複雑に絡み合う配管の束であり、そして必死に機銃を操る米兵たちの、焦燥にまみれ歪んだ貌そのものだった。
 鬼畜米英。何度も聞かされた言葉だった。敵は人にあらず。討つべき獣であり、国土を焼き、母や幼子を踏みにじるものだと教えられてきた。九條もまた、そう信じていた。信じていなければ、機首を敵艦へ向けることなどできなかった。だが、風防の向こうで機銃を操る米兵の表情が、恐怖に歪んでいるのを見た瞬間、その言葉はわずかに形を失った。あれもまた死にたくないと願う人間の貌だ、と気づきかけたからだ。九條はその気づきを、操縦桿を握る拳の中で握り潰した。
 突如、機体下部から猛烈な突き上げが走った。対空砲の破片がコックピットの底面を紙細工のように食い破り、操縦席の足元を丸ごと粉砕したのだ。熱風と共に、無数の鉄の散弾が九條の右脚を容赦なく薙いだ。
 半長靴の革が裂け、肉が爆ぜ、骨が砕ける不快な感触が伝わる。激痛が脳を焼くよりも早く、溢れ出した鮮血が操縦席の床をどす黒く染め、漏れ出したガソリンと混ざり合った。
「ッ……あああああッ!!」
 肺に残ったわずかな空気を絞り出し、九條は絶叫した。右足首の感覚は既に消失し、方向舵を蹴る術は奪われた。だが、剥き出しになった神経は、機体の震えと直接繋がったかのように鋭敏さを増していた。砕け散った風防の破片が時速三百キロの暴風に乗り、鑢となって彼の頬を削り、額を割り、流れる血を後方へと霧散させていく。
 機体もまた、限界を超えていた。急降下の重圧に耐えかねた主翼の鋲が、銃声のような音を立てて次々と弾け飛ぶ。めくれ上がった外板が風に煽られて千切れ去った。鼓膜を震わせる物の、どれが機体の軋みで、どれが己の骨の鳴る音か判別すらつかない。
 視界が、真っ赤に染まった。
 眼球の毛細血管が圧力に耐えかねて弾け、網膜が血の海に沈む。その真っ赤な視界の向こう側で、標的である駆逐艦の舷側が、壁のように立ちはだかった。
 操縦桿を握りしめる両腕の筋肉は硬直を通り越し、既に鉄の一部と化していた。ちぎれかけた肉体と、崩壊寸前の鋼鉄。そのふたつが溶け合い、ひとつの兵器となって牙を剥く。
 距離、三。二。一。
「散華ッ!!」
 直後、九九式襲撃機の機首が敵艦の装甲を貫いた。その瞬間、九條の世界から音が消失し、白熱の閃光がすべてを呑み込んだ。自機か敵機かも区別のつかぬ鉄が歪み、爆薬が内側から膨張し、十七歳の骨肉を、細胞のひとつひとつに至るまで徹底的に解体していく。熱い。脳漿が沸騰し、意識が粒子となる。

 九條継という生命は、その刹那、たった一度きりの爆炎として完璧に完成した。

——はずだった。