軍人の1日は、朝の国歌斉唱から始まる。日の出より早い朝礼と点呼。眠い目を叩き起こすように、英雄を讃えよと歌い上げた。
当時18歳のリーリエも、その1人だった。だが彼女は、この朝がそれほど嫌ではなかった。
まさに軍歌。そんな国歌は歌うと身が引き締まる。
そして何より、ヘルト陛下の肖像画を好きなだけ見つめることができるのだ。
帝国軍元帥であり、この国の君主。ヘルト・ヒエルブルグ陛下は、小国だったグルート王国を帝国へと発展させた英雄王だ。
グルート人特有の赤い目は、鋭く吊り上がっている。ご尊顔に刻まれた皺や傷跡からにじみ出る、歳を重ねられた陛下の貫禄と余裕。いったいどれ程激しい戦火を導かれたのだろう。
王族の証である、燃える炎の髪。苛烈な陛下の熱が、こちらまで伝わってきそうだ。
(やっぱり、かっこいいなぁ陛下は……!)
首都で生まれ育ったリーリエにとって、彼は子供の頃からの憧れだ。凱旋行進で初めてヘルト王を生で見た衝撃は、忘れられない。
今こうして、軍人として陛下のお役に立てる。それは、リーリエにとって胸を熱くするほどの誇りだった。
隊ごとの行進で、広間から退出する。その瞬間から、その日の勤務が始まるのだ。
「リーリエ。」
男性の声がして、彼女は立ち止まる。振り向けば、駆け寄ってきたのは同期のシャンだ。
「昨日、首都から着いたばっかりだろ?もう山まで行くのか?」
「うん。やっと探し人の居場所が分かったもの。」
心配げにするシャンに、リーリエは軽やかに答える。分かっていたことだろうに、彼はあからさまに眉を下げた。
彼女が今いるのは、帝国の西の国境である山脈のそば。山の向こうの友好国との交易や、湖からの豊かな水で発展した新しい街だ。
リーリエが任務のために首都を離れたのがもう1ヶ月も前と思うと、随分遠くまで来たものだ。
「探し人って……知獣、って呼ばれてる医者だろ?確かに、病気したら森の奥へつれてけ、なんて民間伝承?迷信?は年寄り共がよく言ってるけどさあ……。」
そんなこの街に赴任して長いシャンはぼやく。そして彼は、耳打ちをするようにリーリエとの距離を詰めた。
「気をつけろよ?山の中じゃ、未だに反帝国つってゲリラ戦してる連中が居るって噂だぜ。」
「……未だに??」
その内容に、リーリエも声を潜める。目を丸くしてシャンを見上げたが、彼は冗談を言ている顔ではなかった。
「そ、未だに。この辺りって、元々土着信仰が強いんだよ。その上、国境だった森を伐採して道路作ったり街になったりしてるからなー…」
「あー……」
訓練隊だった時の、必修座学の記憶が蘇ってくる。確かに、そんな地域だと習った。
とは言え、ここは帝国となる前に領土となったエリアだ。それがまだ、ゲリラ戦なんてやっているなんて。
正直、信じられなかった。
「リーリエは女だから、警戒されにくいだろうけど……。可能なら、軍服じゃない方が安全かも。」
最後にそう告げると、シャンは彼を呼ぶ上官の元へ。残念ながら、雑談はここまでだ。
彼がいるのは、教育推進隊。地元の学校で教師をする部隊所属の彼からの助言は、さすがに無視することは出来ない。
任務にあたるのはリーリエ1人。現地上官の指示を仰ぐべく、彼女は医療部隊の部屋へ急ぐのだった。
◇
見たこともない小鳥が木の枝で歌っている。新緑の緑が目に鮮やかで、踏みしめる土は柔らかい。
街中では感じない神聖さ。登って行く山の景色に、リーリエは土着信仰が強いという話を妙に納得してしまった。
結局、街の商店街で買ったシャツを彼女は身にまとっていた。錆びた刀やヘルメットが、時折草木に紛れて転がっている。
占領から20年経過してなお、この地は抵抗を止めていない。それは本当なのかもしれなかった。
「……って、言うか……」
水を求めて、せせらぎの音を頼りに進む。カラカラに乾いた口から滲む、弱音。
「地図通りのはずなのに全っ然つかないんだけど……!?」
日の光を反射してキラキラした小川を見つけ、リーリエは思わず駆け出していた。
両手ですくった水に口づけをする。何度も何度も繰り返して、漸くひと息つくことができたのだった。
日の位置を確認する。もう西に傾いているということは、山に入って4時間は経っている。
その事実に、リーリエの顔は曇った。
(どうしよう、早く知獣さんを首都にお連れしなきゃなのに……)
彼女は指令書の入った鞄を握りしめる。思い出すのは、首都を旅立つ前日のこと。
目元に途切れた円のような傷跡を持つ上官はリーリエに命じたのだ。
「帝国の為に……一刻も早く、知獣を連れてこい。」
真っ白な軍医局の上官室に似合わないくらい重たい声だった。あれほど緊張した司令は、初めてだ。
だと言うのに。やっと本物に出会えそうだと思ったら、謎の迷子。野営訓練への熱意が足りなかったのだろうか。
(ヘルト陛下……本当にご病気を患ってるのかな……)
職場で耳にしてしまった噂。今回の特命任務で、彼女の中でその不安は日に日に大きくなっていた。
ちょろちょろと小川の音が耳を打つ。水面で揺れる、木々の葉の影。
それをもう一口すくって飲むリーリエ。そして彼女は、勢いよく立ち上がった。
「ともかく!もう1回地図を確認しよう!!」
鼓舞するように宣言した瞬間。
小川の向かいのおじさんと、バッチリ目が合ってしまった。
「……元気だねえ、お嬢ちゃん。」
「あ……あははは……どうもぉ……。」
いったい、いつからあのおじさんは居たのだろうか…!
特大の独り言は、どこから聞かれてしまったのか…!
穴があったら入りたい。誰か来れば足音が絶対しそうなこの山の中、まさか目の前の人に気づかないだなんて。
あまりにも軍人失格な現実に、リーリエは耳まで真っ赤になってしまった。
「この山の村に向かってるのかい?」
「あ、はい……!」
おじさんがもう一度声をかけてくる。反射的に返事をしてしまってから、彼女は改めて彼の姿を観察した。
くたびれた肌に滲む皺から、60歳前後だろうかと当たりをつける。灰色の短い髪が、余計に老けた印象を与えていた。
特徴的な大きな丸メガネの奥の、優しそうな赤みがかった目。首都では珍しくもない、グルート人特有の瞳だ。自分と揃いの特徴に、リーリエは一気に親近感を覚えた。
「私、リーリエ・リヒトヴァイスと言います。仕事で首都から来たんですが、道に迷ってしまって……。」
若輩者ゆえ、自己紹介はこちらからが礼儀だろう。そう思って話し始めると、グルート人のおじさんはゆっくりと頷いた。
「へえ、リンベルクから来たの……?そりゃあ大変だったろう。仕事とはいえ、こんな辺境まで……。」
「あぁ、いえ……。それより、まさか山で迷うと思ってなくて……」
誤魔化すように笑みを浮かべるしかない。だがおじさんは気にした様子もなく、横においてあった籠を持って立ち上がった。
「軍人さんだから、森が警戒したんだろうねえ。」
「……え?」
笑みが引きつり、リーリエの顔が固まる。雑談のようにおじさんは言うが、いったいどういうことだろう。
制服を着ていないのに、どこで軍人とバレたのか。
森が警戒するとは、どういうことか。
心臓が駆け足を始めている。ゲリラ戦の抵抗の話が、頭をチラついて仕方ない。
腰に携帯している短刀に手を伸ばす。訓練通り動ければ、おじさん1人くらい相手にできるはずだ。
リーリエは、腰を低くした。
「……あれえ?」
だと言うのに、聞こえてきたのは間の抜けた声。ぱちくりと、丸メガネの奥でまたたきをするおじさん。
「適当に言ったんだけど……もしかして、当たっちゃったあ?」
「…………はい?」
「えー、リーリエちゃん軍人さん?あらー、可愛い兵隊さんが居たもんだ。」
「……」
開いた口がふさがらない。本当に、何という失態だろう。
キュッと口を引き結んで、暴れまわる心の中をどうにか耐える。悔しいと言うべきか、恥ずかしいと言うべきか。
おじさんが反帝国の勢力ではないことを祈るしかできなくなってしまった。本当に、訓練隊から自分はやり直すべきではなかろうか。
「僕はヴァルだよ。よろしくね、リーリエちゃん。」
「……よろしくお願いします……。」
しおれた風船のように口元に皺がよる。そんな彼女をおかしそうに笑うおじさん。……いや、ヴァル。
結局、彼の案内で村に向かうことになった。なんと、小川から5分もかからなかったのである。
当時18歳のリーリエも、その1人だった。だが彼女は、この朝がそれほど嫌ではなかった。
まさに軍歌。そんな国歌は歌うと身が引き締まる。
そして何より、ヘルト陛下の肖像画を好きなだけ見つめることができるのだ。
帝国軍元帥であり、この国の君主。ヘルト・ヒエルブルグ陛下は、小国だったグルート王国を帝国へと発展させた英雄王だ。
グルート人特有の赤い目は、鋭く吊り上がっている。ご尊顔に刻まれた皺や傷跡からにじみ出る、歳を重ねられた陛下の貫禄と余裕。いったいどれ程激しい戦火を導かれたのだろう。
王族の証である、燃える炎の髪。苛烈な陛下の熱が、こちらまで伝わってきそうだ。
(やっぱり、かっこいいなぁ陛下は……!)
首都で生まれ育ったリーリエにとって、彼は子供の頃からの憧れだ。凱旋行進で初めてヘルト王を生で見た衝撃は、忘れられない。
今こうして、軍人として陛下のお役に立てる。それは、リーリエにとって胸を熱くするほどの誇りだった。
隊ごとの行進で、広間から退出する。その瞬間から、その日の勤務が始まるのだ。
「リーリエ。」
男性の声がして、彼女は立ち止まる。振り向けば、駆け寄ってきたのは同期のシャンだ。
「昨日、首都から着いたばっかりだろ?もう山まで行くのか?」
「うん。やっと探し人の居場所が分かったもの。」
心配げにするシャンに、リーリエは軽やかに答える。分かっていたことだろうに、彼はあからさまに眉を下げた。
彼女が今いるのは、帝国の西の国境である山脈のそば。山の向こうの友好国との交易や、湖からの豊かな水で発展した新しい街だ。
リーリエが任務のために首都を離れたのがもう1ヶ月も前と思うと、随分遠くまで来たものだ。
「探し人って……知獣、って呼ばれてる医者だろ?確かに、病気したら森の奥へつれてけ、なんて民間伝承?迷信?は年寄り共がよく言ってるけどさあ……。」
そんなこの街に赴任して長いシャンはぼやく。そして彼は、耳打ちをするようにリーリエとの距離を詰めた。
「気をつけろよ?山の中じゃ、未だに反帝国つってゲリラ戦してる連中が居るって噂だぜ。」
「……未だに??」
その内容に、リーリエも声を潜める。目を丸くしてシャンを見上げたが、彼は冗談を言ている顔ではなかった。
「そ、未だに。この辺りって、元々土着信仰が強いんだよ。その上、国境だった森を伐採して道路作ったり街になったりしてるからなー…」
「あー……」
訓練隊だった時の、必修座学の記憶が蘇ってくる。確かに、そんな地域だと習った。
とは言え、ここは帝国となる前に領土となったエリアだ。それがまだ、ゲリラ戦なんてやっているなんて。
正直、信じられなかった。
「リーリエは女だから、警戒されにくいだろうけど……。可能なら、軍服じゃない方が安全かも。」
最後にそう告げると、シャンは彼を呼ぶ上官の元へ。残念ながら、雑談はここまでだ。
彼がいるのは、教育推進隊。地元の学校で教師をする部隊所属の彼からの助言は、さすがに無視することは出来ない。
任務にあたるのはリーリエ1人。現地上官の指示を仰ぐべく、彼女は医療部隊の部屋へ急ぐのだった。
◇
見たこともない小鳥が木の枝で歌っている。新緑の緑が目に鮮やかで、踏みしめる土は柔らかい。
街中では感じない神聖さ。登って行く山の景色に、リーリエは土着信仰が強いという話を妙に納得してしまった。
結局、街の商店街で買ったシャツを彼女は身にまとっていた。錆びた刀やヘルメットが、時折草木に紛れて転がっている。
占領から20年経過してなお、この地は抵抗を止めていない。それは本当なのかもしれなかった。
「……って、言うか……」
水を求めて、せせらぎの音を頼りに進む。カラカラに乾いた口から滲む、弱音。
「地図通りのはずなのに全っ然つかないんだけど……!?」
日の光を反射してキラキラした小川を見つけ、リーリエは思わず駆け出していた。
両手ですくった水に口づけをする。何度も何度も繰り返して、漸くひと息つくことができたのだった。
日の位置を確認する。もう西に傾いているということは、山に入って4時間は経っている。
その事実に、リーリエの顔は曇った。
(どうしよう、早く知獣さんを首都にお連れしなきゃなのに……)
彼女は指令書の入った鞄を握りしめる。思い出すのは、首都を旅立つ前日のこと。
目元に途切れた円のような傷跡を持つ上官はリーリエに命じたのだ。
「帝国の為に……一刻も早く、知獣を連れてこい。」
真っ白な軍医局の上官室に似合わないくらい重たい声だった。あれほど緊張した司令は、初めてだ。
だと言うのに。やっと本物に出会えそうだと思ったら、謎の迷子。野営訓練への熱意が足りなかったのだろうか。
(ヘルト陛下……本当にご病気を患ってるのかな……)
職場で耳にしてしまった噂。今回の特命任務で、彼女の中でその不安は日に日に大きくなっていた。
ちょろちょろと小川の音が耳を打つ。水面で揺れる、木々の葉の影。
それをもう一口すくって飲むリーリエ。そして彼女は、勢いよく立ち上がった。
「ともかく!もう1回地図を確認しよう!!」
鼓舞するように宣言した瞬間。
小川の向かいのおじさんと、バッチリ目が合ってしまった。
「……元気だねえ、お嬢ちゃん。」
「あ……あははは……どうもぉ……。」
いったい、いつからあのおじさんは居たのだろうか…!
特大の独り言は、どこから聞かれてしまったのか…!
穴があったら入りたい。誰か来れば足音が絶対しそうなこの山の中、まさか目の前の人に気づかないだなんて。
あまりにも軍人失格な現実に、リーリエは耳まで真っ赤になってしまった。
「この山の村に向かってるのかい?」
「あ、はい……!」
おじさんがもう一度声をかけてくる。反射的に返事をしてしまってから、彼女は改めて彼の姿を観察した。
くたびれた肌に滲む皺から、60歳前後だろうかと当たりをつける。灰色の短い髪が、余計に老けた印象を与えていた。
特徴的な大きな丸メガネの奥の、優しそうな赤みがかった目。首都では珍しくもない、グルート人特有の瞳だ。自分と揃いの特徴に、リーリエは一気に親近感を覚えた。
「私、リーリエ・リヒトヴァイスと言います。仕事で首都から来たんですが、道に迷ってしまって……。」
若輩者ゆえ、自己紹介はこちらからが礼儀だろう。そう思って話し始めると、グルート人のおじさんはゆっくりと頷いた。
「へえ、リンベルクから来たの……?そりゃあ大変だったろう。仕事とはいえ、こんな辺境まで……。」
「あぁ、いえ……。それより、まさか山で迷うと思ってなくて……」
誤魔化すように笑みを浮かべるしかない。だがおじさんは気にした様子もなく、横においてあった籠を持って立ち上がった。
「軍人さんだから、森が警戒したんだろうねえ。」
「……え?」
笑みが引きつり、リーリエの顔が固まる。雑談のようにおじさんは言うが、いったいどういうことだろう。
制服を着ていないのに、どこで軍人とバレたのか。
森が警戒するとは、どういうことか。
心臓が駆け足を始めている。ゲリラ戦の抵抗の話が、頭をチラついて仕方ない。
腰に携帯している短刀に手を伸ばす。訓練通り動ければ、おじさん1人くらい相手にできるはずだ。
リーリエは、腰を低くした。
「……あれえ?」
だと言うのに、聞こえてきたのは間の抜けた声。ぱちくりと、丸メガネの奥でまたたきをするおじさん。
「適当に言ったんだけど……もしかして、当たっちゃったあ?」
「…………はい?」
「えー、リーリエちゃん軍人さん?あらー、可愛い兵隊さんが居たもんだ。」
「……」
開いた口がふさがらない。本当に、何という失態だろう。
キュッと口を引き結んで、暴れまわる心の中をどうにか耐える。悔しいと言うべきか、恥ずかしいと言うべきか。
おじさんが反帝国の勢力ではないことを祈るしかできなくなってしまった。本当に、訓練隊から自分はやり直すべきではなかろうか。
「僕はヴァルだよ。よろしくね、リーリエちゃん。」
「……よろしくお願いします……。」
しおれた風船のように口元に皺がよる。そんな彼女をおかしそうに笑うおじさん。……いや、ヴァル。
結局、彼の案内で村に向かうことになった。なんと、小川から5分もかからなかったのである。



