私の網膜の錯覚かもしれない。
地下照明のいたずらかもしれない。
でも、たぶん。
横を向いたその顔の輪郭が、ほんのわずか――本当にコンマ数ミリだけ、やわらかく弛んだ気がした。
でも、それもほんの一瞬のことだった。
颯真は小さく息を吐き、すぐにいつもの氷点下の無表情を再起動させた。ペースを握られるのが嫌なのか、彼は私から少し距離を取り、冷たいステンレスの実験台へと視線を移した。
「今日から実験を始めるのか」
「もちろん」
〇・一秒。即答。
今日も一日中、慣れない高彩度空間で「刺さる」「映える」「エモい」という、測定不能・再現不能・定義不能の三大物性について議論させられたのだ。私の十本の指は今、ピペットとビーカーを求め、禁断症状に近い痺れを起こしている。
「だってやっと実験できるんだから!」
歓喜のあまり、思わず両腕を天井へ突き上げ、凝り固まった背骨を思い切り伸ばした。
その瞬間。
――ミシッ。
肩まわりの縫い目から、明確な繊維の破断音(警告音)が静かなラボに響き渡った。
『ピーッ、ピーッ。これ以上の張力を加えた場合、本外装の物理的崩壊は免れません。直ちに動作を停止してください』
脳内で、無機質なシステム音声がリピート再生される。私は両腕を上げた姿勢のまま、完全にフリーズした。
「…………」
「…………」
颯真と私の間に、先ほどとは全く別の、致命的に気まずい沈黙が落ちた。冷徹な御曹司の視線が、私の右肩付近――いま悲鳴を上げた縫い目――に、じっと固定されている。
そう、今日の私は、いつもの機能的な白衣ではない。黒瀬さんからの絶対命令により、就職活動以来、寮のクローゼット最深部で地層の一部と化していた、なけなしの黒スーツを発掘してきたのだ。
朝から黒瀬さんには、
『なに、その就活生みたいな喪服』
『体型データ、五年前から更新してないでしょ』
『そのボタン、午後までもつ?』
『スカートのホック、歪んでない?』
と、製品の不具合報告でも読み上げるように、次々と欠陥を指摘された。そして悔しいことに黒瀬さんの言う通り、現在の私と五年前のスーツとの間に、致命的な互換性エラーが発生しているのだ。
徹夜。深夜の菓子パン。カップ麺。そして「カロリーゼロの飲料と一緒に摂取すれば、菓子パンのカロリーも実質ゼロ」という、私独自の熱力学第二法則。
それらによって堅実に構築された現在の研究員ボディに対し、五年前の就活モデルは、あまりに無慈悲だった。
肩の布地は限界まで張りつめ、胸元のボタンは分子間力を振り切って、今にも弾道飛行へ移行しそうになっている。腕を上げれば、背中の縫い目から「次はないぞ」という警告音が鳴る。
全身が、ぱつん、ぱつん、である。
「……その物理的に破綻した格好で、今日一日稼働したのか」
颯真が、心底理解不能なエラーコードでも目撃したような顔で、私を凝視していた。
「着てましたよ。悪いですか」
胸を張る。
ミシッ。
胸元のボタンが、最後通牒を発した。
颯真が、すっと半歩だけ横へずれる。
「悪いな」
「今、さりげなくボタンの射線から避けましたよね!?」
「今のそのスーツで一日を過ごすのは業務ではない。ただの耐久試験だ。スーツと体、どちらが先に破断するかを競う形式の」
「まずは体の方への心配を優先してください!」
「なぜ、規格の合わないものを着る。なぜ新しいのを買わない」
「異動は昨日だったんですよ? そんな時間、ありません」
颯真はすぐに内ポケットからスマートフォンを取り出す。
長い指で画面を操作し、こちらへ向けた。
「この辺がいいだろう」
「……はい?」
颯真が示した画面には、都内のセミオーダースーツ店を比較したサイトが表示されていた。
しかも検索条件は、すでに『手頃な価格帯』『最短三日で納品』『防シワ素材』『採寸データ保存可』『洗濯機対応』まで絞り込まれている。
私の予算と生活能力と衣服への関心の低さを、的確かつ容赦なく見抜いたラインナップだった。
「……ありがとうございます。リストは、ありがたく参考にします」
私は差し出された画面を、自分のスマートフォンで素早く撮影した。逃げ道ごと保存完了。
「生地は、防シワと速乾性を備えた機能素材を選べ。あの部署は社外へ出る機会も多い。服は消耗品だ。高価な一着ではなく、手入れの容易なものを最低二着用意した方がいい」
「はいはい」
「今の返事は信用できない」
「失礼な」
「つい先ほど、ボタンを射出しかけた人間の信用値だ」
「結局、射出はしてません。発射予告に留まりました」
「とにかく、今夜の実験が終わったらすぐにオンラインで入店予約をしておいた方がいい。君はこういうのを後に後にまわすタイプだからな」
また出たよ。完全にオカンの口調。
「分かりましたってば。でも、今日はもうスーツの話は結構です。私は白衣に着替えてきまーす」
追撃を受ける前に、私は簡易ベッドのある小部屋へ逃げ込んだ。
限界を迎えていたスーツのホックを外す。
「っはぁぁぁ……!」
肺が、本来の容積を思い出した。
それから、薬品の匂いが染みついた白衣へ袖を通す。
その瞬間、肉体的にも精神的にもバラバラになっていた自分の輪郭が、カチリと正しい位置へ戻った。
これだ。外界のノイズを遮断し、純粋なデータとだけ向き合うための、私専用の戦闘服。スーツ姿の私は、借り物の社会人だ。だが、白衣を着た私は――湊川由芽である。
着替えを終えて実験室へ戻ると、颯真はまだそこにいた。一階の母屋へ戻ればいいものを、実験台の脇で腕を組み、律儀に私が出てくるのを待っていたらしい。
颯真の視線が、白衣姿の私を頭からつま先まで一度スキャンする。
「……やはり、そちらの方がいい」
「は?」
「さっきのスーツより、ずっと似合っている」
「…………」
「…………」
「あの。それ、私を褒めています?」
「そう聞こえなかったか」
「わざわざ確認が必要になる褒め方でした」
「視覚的な白衣と君の相性について、率直な感想を述べただけだ」
「もしかして……白衣フェーー?」
「違う」
「否定が速い」
「君が妙な方向へ話を進めるからだ」
ラボの室温は一定に保たれている。
なのに、顔の表面温度だけが、じわりと上昇した。
落ち着け、私。
これは衣服のフィッティングに関する客観的評価だ。被験者一名、比較対象二着。サンプル数が足りなさすぎる。統計的有意差なし。
「……まあ、いいです。白衣が私のデフォルト設定なのは事実なので」
私は白衣の袖を勢いよくまくり、耐薬品性の黒色天板が張られた実験台へと向き直った。
視線の先にあるのは、あらかじめココア缶の底から慎重に削り取り、滅菌済みの透明なサンプル管へ移し替えておいた、純白の中身。
白組が五年の歳月と数千回の試行錯誤の末に到達した最終プロトタイプとは、明らかに違う。
ざらつきがない。
オストワルド熟成を疑わせる粒子の粗大化も、クリーミングの兆候もない。
熱いココア缶の底に貼りつけられるという、乳化系にとって最悪に雑な熱履歴を食らったにもかかわらず、分散状態は不気味なほど均一なままだ。
「……絶対に、別物だ」
白組の最終試作は、あと一歩のところで微細な凝集を克服できなかった。
では、目の前のガラス管に収まっている、この『奇跡』は何だ。
誰が作った。どこで作った。どんな分散技術を使えば、あの気難しいアルフレッドをねじ伏せ、ここまで完璧に安定化できる?
知りたい。今すぐ割って、混ぜて、温めたい。遠心分離にかけたい。私の中で、研究者のアクセルが床を突き抜けた。
「しばらく、実験を見せてもらってもいいか?」
不意に背後から声がして、私は肩を跳ねさせた。
振り返ると、颯真がアイランド型実験台の向かい側へ歩み寄ってくるところだった。
意外だった。実験など見たこともなさそうな御曹司が、分析の過程を見学したいという。
まさか、本当に白衣が見たいだけじゃなかろうな。黒装束のドラキュラのくせに。
「どうぞ。でも、機器やサンプルには絶対に素手で触らないでください。人間の皮脂や微量のアミノ酸が混入しただけでも、表面張力が狂ってデータが汚染されますから」
「分かっている」
私が差し出した青いニトリル手袋を、颯真は受け取った。黒いスーツ姿の男が、無表情のまま青い手袋へ指を通していく。
だが、途中で止まった。どうやらサイズが合わないらしい。手が大きすぎて、指の股まできちんと収まっていない。颯真は眉間にわずかな皺を寄せ、不器用そうに一本ずつ手袋を引っ張っている。
冷徹な吸血鬼系御曹司が、ゴムの摩擦抵抗と静かなる死闘を繰り広げていた。
「――それで。これから何を測定する?」
パチン、と手首でゴムを弾き、ようやく装着を終えた颯真が、実験台の向かいに置かれた背の高いパイプ椅子へ腰を下ろす。
黒い天板を挟んで、ちょうど私の目の高さに、彼の漆黒の瞳が来た。
「まずは、このサンプルの構造解析です」
私はマイクロスパチュラを手に取り、サンプル管を指した。
「従来のファンデーションが肌を白く見せる方法は、基本的に一つです。『酸化チタン』という、屈折率の高い白色無機顔料を肌へ塗布する。毛穴もシミも、物理的な厚みで覆い隠す。極端に言えば、ペンキのベタ塗りです」
「隠蔽力、だな」
「……知ってるんですか?」
「事業戦略部長を何だと思っている」
「吸血鬼」
「役職を聞いている」
「ザマス王子」
「もういい。続けろ」
私は気を取り直し、サンプル管を照明へ透かした。
「でも、私たちが開発したコア成分『シンヴェール』のアプローチは、まったく違う。中身が空洞になった極小の『中空シリカポリマー』を使うんです。粒子そのものは透明。でも、外殻と内部の空洞との屈折率の差を利用して、光をあらゆる方向へ反射させる」
「塗料の白で覆うのではなく、光そのものを散らして白く見せる……のだな」
「そうです! ペンキの白じゃない。雪や雲と同じ、光が作り出す白です。百点」
「採点は要らない」
素っ気ない返事とは裏腹に、颯真の目がわずかに細められた。
興味を持っている。しかも、ちゃんと理解した上で。
私のテンションが、一段上がった。
「ところが、ここが最大のネックです。この中空粒子、絶望的に扱いづらい」
「不安定なのか」
「不安定どころではありません。強く混ぜれば死ぬ。弱く混ぜれば群れる。繊細なくせに寂しがり屋という、非常に面倒な物質です」
「アルフレッド、だったか」
「はい。乳化の際、ホモミキサーの回転数を上げすぎると、せん断力で中空構造が割れる。空洞が潰れれば屈折率差が失われ、ただのポリマーくずです。だからといって、割れないように優しく撹拌すると――」
私は両手をゆっくり近づけ、最後に拳を一つに固めた。
「今度は粒子同士が引き合って、巨大な凝集塊になる」
「強く混ぜても失敗。弱く混ぜても失敗するのか」
「その通り。粒子を壊さない優しさと、凝集を許さない激しさ。その相反する二条件の間にある、針の穴ほどの『唯一の最適解』を探して、白組は五年間、温度、回転数、投入順序、撹拌時間を振り続けました」
スパチュラを握る指へ、自然と力がこもる。
「夏も冬も。昼も夜も。何千回も作って、壊して、また作った。それでも最後の微細な凝集だけは、どうしても消せなかった」
私は視線を落とし、ガラス管の中の純白を睨んだ。
「なのに、これは違う。私たちが五年間ぶつかり続けた壁を、なぜか越えている」
悔しい。
だが、それ以上に――知りたくてたまらない。
「どんな未知の技術を使えば系を安定化できるのか。材料か。表面処理か。乳化工程そのものが違うのか。構造を一つずつ分解し、相手がたどった道筋を逆向きに暴き出す。それが逆解析です」
空調設備のインバーターが発する、低く一定の音だけがラボに響いていた。
黒い実験台を挟んだ向こう側で、颯真は両腕を組み、微動だにしない。その漆黒の目はサンプルではなく、私を見ていた。
「……その前に、一つ、根本的なことを聞いておきたい」
颯真の声は、一滴の不純物も許さない水晶のように、硬く、透明だった。
「湊川。そもそも、『化粧品』とは何だ」
「薬機法第二条第三項では――」
「それは聞いていない」
プレパラートグラスへ伸ばしかけていた私の右手が、空中で止まる。
「法令上の定義ではない。マーケティング部門が好んで使う、『透明感』や『多幸感』といった、夢を売るための文句も要らない。純粋な化学として。君たち研究者は、何を『化粧品』と定義し、何を目指して物質を組み上げている。聞かせてほしい」
私の大脳皮質の処理が、一瞬、完全にフリーズした。
昨日、黒瀬さんが「消費者は誰も見ない」と、価値のないノイズのように切り捨てたもの。
華やかなラベルの下にある、『中身』。
その物質としての存在意義を、この人は根源から問い直している。
昼間のフロアで飛び交っていた、「透明感」「多幸感」「私らしさ」。測定方法も単位も定義もない、表層だけの言葉とは、見ている位相がまるで違う。
この人は、化学の世界を外から眺めているだけではない。白衣も着ずに、本気でこちら側へ降りてこようとしている。
どうやら私は、このオカン吸血鬼を、少し見くびっていたらしい。
地下照明のいたずらかもしれない。
でも、たぶん。
横を向いたその顔の輪郭が、ほんのわずか――本当にコンマ数ミリだけ、やわらかく弛んだ気がした。
でも、それもほんの一瞬のことだった。
颯真は小さく息を吐き、すぐにいつもの氷点下の無表情を再起動させた。ペースを握られるのが嫌なのか、彼は私から少し距離を取り、冷たいステンレスの実験台へと視線を移した。
「今日から実験を始めるのか」
「もちろん」
〇・一秒。即答。
今日も一日中、慣れない高彩度空間で「刺さる」「映える」「エモい」という、測定不能・再現不能・定義不能の三大物性について議論させられたのだ。私の十本の指は今、ピペットとビーカーを求め、禁断症状に近い痺れを起こしている。
「だってやっと実験できるんだから!」
歓喜のあまり、思わず両腕を天井へ突き上げ、凝り固まった背骨を思い切り伸ばした。
その瞬間。
――ミシッ。
肩まわりの縫い目から、明確な繊維の破断音(警告音)が静かなラボに響き渡った。
『ピーッ、ピーッ。これ以上の張力を加えた場合、本外装の物理的崩壊は免れません。直ちに動作を停止してください』
脳内で、無機質なシステム音声がリピート再生される。私は両腕を上げた姿勢のまま、完全にフリーズした。
「…………」
「…………」
颯真と私の間に、先ほどとは全く別の、致命的に気まずい沈黙が落ちた。冷徹な御曹司の視線が、私の右肩付近――いま悲鳴を上げた縫い目――に、じっと固定されている。
そう、今日の私は、いつもの機能的な白衣ではない。黒瀬さんからの絶対命令により、就職活動以来、寮のクローゼット最深部で地層の一部と化していた、なけなしの黒スーツを発掘してきたのだ。
朝から黒瀬さんには、
『なに、その就活生みたいな喪服』
『体型データ、五年前から更新してないでしょ』
『そのボタン、午後までもつ?』
『スカートのホック、歪んでない?』
と、製品の不具合報告でも読み上げるように、次々と欠陥を指摘された。そして悔しいことに黒瀬さんの言う通り、現在の私と五年前のスーツとの間に、致命的な互換性エラーが発生しているのだ。
徹夜。深夜の菓子パン。カップ麺。そして「カロリーゼロの飲料と一緒に摂取すれば、菓子パンのカロリーも実質ゼロ」という、私独自の熱力学第二法則。
それらによって堅実に構築された現在の研究員ボディに対し、五年前の就活モデルは、あまりに無慈悲だった。
肩の布地は限界まで張りつめ、胸元のボタンは分子間力を振り切って、今にも弾道飛行へ移行しそうになっている。腕を上げれば、背中の縫い目から「次はないぞ」という警告音が鳴る。
全身が、ぱつん、ぱつん、である。
「……その物理的に破綻した格好で、今日一日稼働したのか」
颯真が、心底理解不能なエラーコードでも目撃したような顔で、私を凝視していた。
「着てましたよ。悪いですか」
胸を張る。
ミシッ。
胸元のボタンが、最後通牒を発した。
颯真が、すっと半歩だけ横へずれる。
「悪いな」
「今、さりげなくボタンの射線から避けましたよね!?」
「今のそのスーツで一日を過ごすのは業務ではない。ただの耐久試験だ。スーツと体、どちらが先に破断するかを競う形式の」
「まずは体の方への心配を優先してください!」
「なぜ、規格の合わないものを着る。なぜ新しいのを買わない」
「異動は昨日だったんですよ? そんな時間、ありません」
颯真はすぐに内ポケットからスマートフォンを取り出す。
長い指で画面を操作し、こちらへ向けた。
「この辺がいいだろう」
「……はい?」
颯真が示した画面には、都内のセミオーダースーツ店を比較したサイトが表示されていた。
しかも検索条件は、すでに『手頃な価格帯』『最短三日で納品』『防シワ素材』『採寸データ保存可』『洗濯機対応』まで絞り込まれている。
私の予算と生活能力と衣服への関心の低さを、的確かつ容赦なく見抜いたラインナップだった。
「……ありがとうございます。リストは、ありがたく参考にします」
私は差し出された画面を、自分のスマートフォンで素早く撮影した。逃げ道ごと保存完了。
「生地は、防シワと速乾性を備えた機能素材を選べ。あの部署は社外へ出る機会も多い。服は消耗品だ。高価な一着ではなく、手入れの容易なものを最低二着用意した方がいい」
「はいはい」
「今の返事は信用できない」
「失礼な」
「つい先ほど、ボタンを射出しかけた人間の信用値だ」
「結局、射出はしてません。発射予告に留まりました」
「とにかく、今夜の実験が終わったらすぐにオンラインで入店予約をしておいた方がいい。君はこういうのを後に後にまわすタイプだからな」
また出たよ。完全にオカンの口調。
「分かりましたってば。でも、今日はもうスーツの話は結構です。私は白衣に着替えてきまーす」
追撃を受ける前に、私は簡易ベッドのある小部屋へ逃げ込んだ。
限界を迎えていたスーツのホックを外す。
「っはぁぁぁ……!」
肺が、本来の容積を思い出した。
それから、薬品の匂いが染みついた白衣へ袖を通す。
その瞬間、肉体的にも精神的にもバラバラになっていた自分の輪郭が、カチリと正しい位置へ戻った。
これだ。外界のノイズを遮断し、純粋なデータとだけ向き合うための、私専用の戦闘服。スーツ姿の私は、借り物の社会人だ。だが、白衣を着た私は――湊川由芽である。
着替えを終えて実験室へ戻ると、颯真はまだそこにいた。一階の母屋へ戻ればいいものを、実験台の脇で腕を組み、律儀に私が出てくるのを待っていたらしい。
颯真の視線が、白衣姿の私を頭からつま先まで一度スキャンする。
「……やはり、そちらの方がいい」
「は?」
「さっきのスーツより、ずっと似合っている」
「…………」
「…………」
「あの。それ、私を褒めています?」
「そう聞こえなかったか」
「わざわざ確認が必要になる褒め方でした」
「視覚的な白衣と君の相性について、率直な感想を述べただけだ」
「もしかして……白衣フェーー?」
「違う」
「否定が速い」
「君が妙な方向へ話を進めるからだ」
ラボの室温は一定に保たれている。
なのに、顔の表面温度だけが、じわりと上昇した。
落ち着け、私。
これは衣服のフィッティングに関する客観的評価だ。被験者一名、比較対象二着。サンプル数が足りなさすぎる。統計的有意差なし。
「……まあ、いいです。白衣が私のデフォルト設定なのは事実なので」
私は白衣の袖を勢いよくまくり、耐薬品性の黒色天板が張られた実験台へと向き直った。
視線の先にあるのは、あらかじめココア缶の底から慎重に削り取り、滅菌済みの透明なサンプル管へ移し替えておいた、純白の中身。
白組が五年の歳月と数千回の試行錯誤の末に到達した最終プロトタイプとは、明らかに違う。
ざらつきがない。
オストワルド熟成を疑わせる粒子の粗大化も、クリーミングの兆候もない。
熱いココア缶の底に貼りつけられるという、乳化系にとって最悪に雑な熱履歴を食らったにもかかわらず、分散状態は不気味なほど均一なままだ。
「……絶対に、別物だ」
白組の最終試作は、あと一歩のところで微細な凝集を克服できなかった。
では、目の前のガラス管に収まっている、この『奇跡』は何だ。
誰が作った。どこで作った。どんな分散技術を使えば、あの気難しいアルフレッドをねじ伏せ、ここまで完璧に安定化できる?
知りたい。今すぐ割って、混ぜて、温めたい。遠心分離にかけたい。私の中で、研究者のアクセルが床を突き抜けた。
「しばらく、実験を見せてもらってもいいか?」
不意に背後から声がして、私は肩を跳ねさせた。
振り返ると、颯真がアイランド型実験台の向かい側へ歩み寄ってくるところだった。
意外だった。実験など見たこともなさそうな御曹司が、分析の過程を見学したいという。
まさか、本当に白衣が見たいだけじゃなかろうな。黒装束のドラキュラのくせに。
「どうぞ。でも、機器やサンプルには絶対に素手で触らないでください。人間の皮脂や微量のアミノ酸が混入しただけでも、表面張力が狂ってデータが汚染されますから」
「分かっている」
私が差し出した青いニトリル手袋を、颯真は受け取った。黒いスーツ姿の男が、無表情のまま青い手袋へ指を通していく。
だが、途中で止まった。どうやらサイズが合わないらしい。手が大きすぎて、指の股まできちんと収まっていない。颯真は眉間にわずかな皺を寄せ、不器用そうに一本ずつ手袋を引っ張っている。
冷徹な吸血鬼系御曹司が、ゴムの摩擦抵抗と静かなる死闘を繰り広げていた。
「――それで。これから何を測定する?」
パチン、と手首でゴムを弾き、ようやく装着を終えた颯真が、実験台の向かいに置かれた背の高いパイプ椅子へ腰を下ろす。
黒い天板を挟んで、ちょうど私の目の高さに、彼の漆黒の瞳が来た。
「まずは、このサンプルの構造解析です」
私はマイクロスパチュラを手に取り、サンプル管を指した。
「従来のファンデーションが肌を白く見せる方法は、基本的に一つです。『酸化チタン』という、屈折率の高い白色無機顔料を肌へ塗布する。毛穴もシミも、物理的な厚みで覆い隠す。極端に言えば、ペンキのベタ塗りです」
「隠蔽力、だな」
「……知ってるんですか?」
「事業戦略部長を何だと思っている」
「吸血鬼」
「役職を聞いている」
「ザマス王子」
「もういい。続けろ」
私は気を取り直し、サンプル管を照明へ透かした。
「でも、私たちが開発したコア成分『シンヴェール』のアプローチは、まったく違う。中身が空洞になった極小の『中空シリカポリマー』を使うんです。粒子そのものは透明。でも、外殻と内部の空洞との屈折率の差を利用して、光をあらゆる方向へ反射させる」
「塗料の白で覆うのではなく、光そのものを散らして白く見せる……のだな」
「そうです! ペンキの白じゃない。雪や雲と同じ、光が作り出す白です。百点」
「採点は要らない」
素っ気ない返事とは裏腹に、颯真の目がわずかに細められた。
興味を持っている。しかも、ちゃんと理解した上で。
私のテンションが、一段上がった。
「ところが、ここが最大のネックです。この中空粒子、絶望的に扱いづらい」
「不安定なのか」
「不安定どころではありません。強く混ぜれば死ぬ。弱く混ぜれば群れる。繊細なくせに寂しがり屋という、非常に面倒な物質です」
「アルフレッド、だったか」
「はい。乳化の際、ホモミキサーの回転数を上げすぎると、せん断力で中空構造が割れる。空洞が潰れれば屈折率差が失われ、ただのポリマーくずです。だからといって、割れないように優しく撹拌すると――」
私は両手をゆっくり近づけ、最後に拳を一つに固めた。
「今度は粒子同士が引き合って、巨大な凝集塊になる」
「強く混ぜても失敗。弱く混ぜても失敗するのか」
「その通り。粒子を壊さない優しさと、凝集を許さない激しさ。その相反する二条件の間にある、針の穴ほどの『唯一の最適解』を探して、白組は五年間、温度、回転数、投入順序、撹拌時間を振り続けました」
スパチュラを握る指へ、自然と力がこもる。
「夏も冬も。昼も夜も。何千回も作って、壊して、また作った。それでも最後の微細な凝集だけは、どうしても消せなかった」
私は視線を落とし、ガラス管の中の純白を睨んだ。
「なのに、これは違う。私たちが五年間ぶつかり続けた壁を、なぜか越えている」
悔しい。
だが、それ以上に――知りたくてたまらない。
「どんな未知の技術を使えば系を安定化できるのか。材料か。表面処理か。乳化工程そのものが違うのか。構造を一つずつ分解し、相手がたどった道筋を逆向きに暴き出す。それが逆解析です」
空調設備のインバーターが発する、低く一定の音だけがラボに響いていた。
黒い実験台を挟んだ向こう側で、颯真は両腕を組み、微動だにしない。その漆黒の目はサンプルではなく、私を見ていた。
「……その前に、一つ、根本的なことを聞いておきたい」
颯真の声は、一滴の不純物も許さない水晶のように、硬く、透明だった。
「湊川。そもそも、『化粧品』とは何だ」
「薬機法第二条第三項では――」
「それは聞いていない」
プレパラートグラスへ伸ばしかけていた私の右手が、空中で止まる。
「法令上の定義ではない。マーケティング部門が好んで使う、『透明感』や『多幸感』といった、夢を売るための文句も要らない。純粋な化学として。君たち研究者は、何を『化粧品』と定義し、何を目指して物質を組み上げている。聞かせてほしい」
私の大脳皮質の処理が、一瞬、完全にフリーズした。
昨日、黒瀬さんが「消費者は誰も見ない」と、価値のないノイズのように切り捨てたもの。
華やかなラベルの下にある、『中身』。
その物質としての存在意義を、この人は根源から問い直している。
昼間のフロアで飛び交っていた、「透明感」「多幸感」「私らしさ」。測定方法も単位も定義もない、表層だけの言葉とは、見ている位相がまるで違う。
この人は、化学の世界を外から眺めているだけではない。白衣も着ずに、本気でこちら側へ降りてこようとしている。
どうやら私は、このオカン吸血鬼を、少し見くびっていたらしい。

