颯真とラボ使用の約束を交わした翌日から、私の二重生活は稼働を開始した。
昼は、網膜を労災認定へ追い込むほど高彩度な『キラキラ組』。夜は、吸血鬼っぽいと評判の御曹司が支配する薄暗い地下ラボ。
言語化しただけで、字面のギャップ感が暴力的。少女漫画と企業サスペンスとブラック企業体験記を、業務用ホモミキサーへまとめて投入し、毎分一万回転で強制乳化したような生活になりそうだ。
そんなわけで、今日がその初日。
私は会社が終わると直で座馬邸に来た。母屋には行かず、直接、地下ラボへ向かい、ラボの明かりをつける。
「ただいま……」
思わず真新しい粒径測定装置に帰宅の挨拶をした瞬間――。
「勘違いするな」
「ひぃっ!?」
背中越しに液体窒素をぶちまけられたような声が飛んできて、私は間抜けな悲鳴を上げた。
勢いよく振り返る。
一体、いつ降りてきたのか、黒いスーツを隙なく着こなした座馬颯真が、階段の最下段に立っていた。
白い肌、黒い髪、そして感情の在庫が完全に切れている硬質な美貌。例によって吸血鬼ビンゴなら開始三秒で全マスが埋まったような顔をしている。
「い、いたなら、いるって言って!」
あと、もうちょっと《《まともな》》声のかけ方はなかったのだろうか。『ただいま』の返事に『勘違いするな』である。日本中の家庭を探しても、これほど殺伐とした帰宅時の挨拶は、そうそう見つからないだろう。
「なんでいつも背後から音もなく現れるんですか? あなたの登場、毎回心臓へ直接ダメージを入れてくるんですが!」
「……」
私の抗議を空気抵抗ゼロの無言で受け流し、颯真は靴音も立てずにこちらへ歩み寄ってきた。
「昨日も言ったが、ここは、お前の家ではない」
「分かっていますが?」
「じゃあ、さっきの『ただいま』はなんだ」
「言葉の綾です。研究員は、ラボへ入ると反射的に帰宅判定が出る生き物なんです!」
嘘ではない。階段を降り、チリ一つない真っ白なリノリウムの床を踏んだ瞬間から、凝り固まっていた肩の力はすっかり抜けていた。
LEDの冷たい光を目に受けて微かに漂うオゾンと薬品の匂いを嗅ぐと、昼の間、太陽光が降り注ぐ上階のオフィスのコピー機の横で縮こまっていた背中が、本来の角度へ戻っていくのだ。
「白組にとってラボは、鮭にとっての生まれた川みたいなものなんですよ。理屈じゃありません。帰巣本能です」
「鮭は寝袋も歯ブラシも持ち込まない」
「だって寮は一か月後に閉鎖されるんですよ。私はいずれ行き場を失うんです」
「だから?」
「新居を想定したシミュレーションをするなら、早いほうがいいかと」
「シミュレーションで寝袋と歯ブラシを置いて帰るやつはいない。それは既に入居だ」
颯真は実験台の上に並んだ携帯用寝袋、懐中電灯、歯ブラシセット入りのポーチを、証拠品でも確認するように順番に指さした。
「俺はラボを使わせるとは言った。だが、ここに住むことを許した覚えはない」
ぐっ。防御の隙間を縫って、みぞおちへ正論が突き刺さる。
そうなのだ。
昨夜、颯真とラボの使用契約(?)を結んだあと、私は「夜通しで実験することもありますし」「朝一番で測定したい日も来るかもしれません」「ほら、床も平らですし」と、もっともらしい顔で主張を重ねた。どれも寝泊まりの許可を得る理由にはなっていないが、持参していた寝袋一式をここへ置き、既成事実だけを作って帰ったのだ。
なお、その間、彼は一度も「置いていい」とは言っていない。私は沈黙という名の未回答を、都合よく許可に換算しただけである。
くっ、既成事実作戦、ここまでか。かくなるうえは第二陣じゃ。脳内の屁理屈武者たちよ、出会え、出会えー!
私がさらなる無理筋の交渉を開始しようとした、そのときだった。颯真は不意に踵を返すと、すたすたと壁際へ向かい、小さな扉の前で立ち止まった。
てっきり、物置か何かだと思っていた扉。開けると、そこは、れっきとした小部屋だった。
中央に鎮座しているのは、真新しい折り畳み式の簡易ベッド。とはいえ、脚部の剛性が異常に高く、野戦病院どころか北極圏の観測基地でも安心して使えそうな堅牢なやつだ。
その上には、私のペラペラな寝袋とは明らかに分子密度の違う高級寝袋と、反発係数を緻密に計算されたであろう低反発枕がセットされている。触らなくても分かるぞ。あれは下手をすれば、私の寮の布団より高いやつだ。
さらに視線を巡らせると、部屋の端には鏡扉付きの小さな洗面台まで完備されていた。
簡易ベッドの傍らにはサイドテーブルと小型の冷蔵庫まである。畳まれたタオル、未開封の歯ブラシ、ガラスのコップに給水用ボトル、無地のTシャツとスウェット。冷蔵庫の上の蓋つきの小型収納ケースには、胃薬、頭痛薬、絆創膏までもが等間隔で几帳面に整列している。
――これはもう、救援物資だ。
遭難者に向けてピンポイントで投下されるやつである。この手厚すぎる装備なら、今すぐここで無人島生活すら始められそうだった。
「……」
「……」
沈黙。
ラボの空調だけが、低く一定の周波数でうなっている。
私は無言でベッドを指さした。
次に、颯真を指さした。
もう一度、ベッドを指さした。
「言いたいことがあるなら、口で言え」
「住むなって言った人がっ!」
私は震える指を、地下居住スターターセット全体へ向けた。
「なんで家具つき1LABを用意しているんですか」
颯真の眉が、ほんの一ミリだけ動いた。
動揺と呼ぶにはあまりに微細な揺れ。
高性能な地震計でようやく検知できる、感情の初期微動である。
「……住めとは言っていない。ただ、実験期間中は寝泊まりが必要になる場合もある。作業効率を考え、最低限の備品を置いているだけだ」
「歯ブラシは?」
「口腔衛生は全身の健康に影響する」
「タオルは?」
「洗った手は拭け」
「胃薬は?」
「君は実験に集中すると、賞味期限の切れた菓子パンを平気で食べるだろう」
「ど、どうしてそれを!」
「調べはついてる」
「それで、このスウェットは?」
「君は疲れると白衣のまま寝るだろう」
「調べはそこまで! でも、何か問題がありましたっけ?」
「白衣の乱れは、実験結果の乱れにつながる」
「こういうのを世間では、住環境の整備というのでは?」
「違う。私はここに住んでいいとは一言も言っていない。この部屋はあくまで効率的にラボを使用するための装備だ」
「はあ?」
強情である。 口では徹底して突き放すようなことを言う。
住むな。許可していない。勘違いするな。
だが、実際にはなんやかんや言って世話を焼こうとする。
オカンみたいヤツである。正論で武装したオカン。
ついにオカン属性まで手に入れたか、ザマス王子よ。世間的にはキャラブレというんじゃなかろうか。
「あの。一応、言っておきますけど」
私はベッドへ近づきかけた足を止め、姿勢を正した。
「寝袋も、ベッドも、タオルも。全部、めちゃくちゃ助かります。実験が始まれば、遠慮なく使わせていただきます。ただ――」
颯真が、静かに私を見据える。
「タダで甘えるつもりはありません。これは私への『先行投資』だと思ってください。この最高の睡眠環境への対価は、必ず、期待以上の『分析結果』で返しますから」
私が胸を張って宣言すると、颯真はしばらく黙って私を見たあと、
「当然、そのつもりだ」
ふい、と視線を逸らした。
私の網膜の錯覚かもしれない。
地下照明のいたずらかもしれない。
でも、たぶん。
横を向いたその顔の輪郭が、ほんのわずか――本当にコンマ数ミリだけ、やわらかく弛んだ気がした。
昼は、網膜を労災認定へ追い込むほど高彩度な『キラキラ組』。夜は、吸血鬼っぽいと評判の御曹司が支配する薄暗い地下ラボ。
言語化しただけで、字面のギャップ感が暴力的。少女漫画と企業サスペンスとブラック企業体験記を、業務用ホモミキサーへまとめて投入し、毎分一万回転で強制乳化したような生活になりそうだ。
そんなわけで、今日がその初日。
私は会社が終わると直で座馬邸に来た。母屋には行かず、直接、地下ラボへ向かい、ラボの明かりをつける。
「ただいま……」
思わず真新しい粒径測定装置に帰宅の挨拶をした瞬間――。
「勘違いするな」
「ひぃっ!?」
背中越しに液体窒素をぶちまけられたような声が飛んできて、私は間抜けな悲鳴を上げた。
勢いよく振り返る。
一体、いつ降りてきたのか、黒いスーツを隙なく着こなした座馬颯真が、階段の最下段に立っていた。
白い肌、黒い髪、そして感情の在庫が完全に切れている硬質な美貌。例によって吸血鬼ビンゴなら開始三秒で全マスが埋まったような顔をしている。
「い、いたなら、いるって言って!」
あと、もうちょっと《《まともな》》声のかけ方はなかったのだろうか。『ただいま』の返事に『勘違いするな』である。日本中の家庭を探しても、これほど殺伐とした帰宅時の挨拶は、そうそう見つからないだろう。
「なんでいつも背後から音もなく現れるんですか? あなたの登場、毎回心臓へ直接ダメージを入れてくるんですが!」
「……」
私の抗議を空気抵抗ゼロの無言で受け流し、颯真は靴音も立てずにこちらへ歩み寄ってきた。
「昨日も言ったが、ここは、お前の家ではない」
「分かっていますが?」
「じゃあ、さっきの『ただいま』はなんだ」
「言葉の綾です。研究員は、ラボへ入ると反射的に帰宅判定が出る生き物なんです!」
嘘ではない。階段を降り、チリ一つない真っ白なリノリウムの床を踏んだ瞬間から、凝り固まっていた肩の力はすっかり抜けていた。
LEDの冷たい光を目に受けて微かに漂うオゾンと薬品の匂いを嗅ぐと、昼の間、太陽光が降り注ぐ上階のオフィスのコピー機の横で縮こまっていた背中が、本来の角度へ戻っていくのだ。
「白組にとってラボは、鮭にとっての生まれた川みたいなものなんですよ。理屈じゃありません。帰巣本能です」
「鮭は寝袋も歯ブラシも持ち込まない」
「だって寮は一か月後に閉鎖されるんですよ。私はいずれ行き場を失うんです」
「だから?」
「新居を想定したシミュレーションをするなら、早いほうがいいかと」
「シミュレーションで寝袋と歯ブラシを置いて帰るやつはいない。それは既に入居だ」
颯真は実験台の上に並んだ携帯用寝袋、懐中電灯、歯ブラシセット入りのポーチを、証拠品でも確認するように順番に指さした。
「俺はラボを使わせるとは言った。だが、ここに住むことを許した覚えはない」
ぐっ。防御の隙間を縫って、みぞおちへ正論が突き刺さる。
そうなのだ。
昨夜、颯真とラボの使用契約(?)を結んだあと、私は「夜通しで実験することもありますし」「朝一番で測定したい日も来るかもしれません」「ほら、床も平らですし」と、もっともらしい顔で主張を重ねた。どれも寝泊まりの許可を得る理由にはなっていないが、持参していた寝袋一式をここへ置き、既成事実だけを作って帰ったのだ。
なお、その間、彼は一度も「置いていい」とは言っていない。私は沈黙という名の未回答を、都合よく許可に換算しただけである。
くっ、既成事実作戦、ここまでか。かくなるうえは第二陣じゃ。脳内の屁理屈武者たちよ、出会え、出会えー!
私がさらなる無理筋の交渉を開始しようとした、そのときだった。颯真は不意に踵を返すと、すたすたと壁際へ向かい、小さな扉の前で立ち止まった。
てっきり、物置か何かだと思っていた扉。開けると、そこは、れっきとした小部屋だった。
中央に鎮座しているのは、真新しい折り畳み式の簡易ベッド。とはいえ、脚部の剛性が異常に高く、野戦病院どころか北極圏の観測基地でも安心して使えそうな堅牢なやつだ。
その上には、私のペラペラな寝袋とは明らかに分子密度の違う高級寝袋と、反発係数を緻密に計算されたであろう低反発枕がセットされている。触らなくても分かるぞ。あれは下手をすれば、私の寮の布団より高いやつだ。
さらに視線を巡らせると、部屋の端には鏡扉付きの小さな洗面台まで完備されていた。
簡易ベッドの傍らにはサイドテーブルと小型の冷蔵庫まである。畳まれたタオル、未開封の歯ブラシ、ガラスのコップに給水用ボトル、無地のTシャツとスウェット。冷蔵庫の上の蓋つきの小型収納ケースには、胃薬、頭痛薬、絆創膏までもが等間隔で几帳面に整列している。
――これはもう、救援物資だ。
遭難者に向けてピンポイントで投下されるやつである。この手厚すぎる装備なら、今すぐここで無人島生活すら始められそうだった。
「……」
「……」
沈黙。
ラボの空調だけが、低く一定の周波数でうなっている。
私は無言でベッドを指さした。
次に、颯真を指さした。
もう一度、ベッドを指さした。
「言いたいことがあるなら、口で言え」
「住むなって言った人がっ!」
私は震える指を、地下居住スターターセット全体へ向けた。
「なんで家具つき1LABを用意しているんですか」
颯真の眉が、ほんの一ミリだけ動いた。
動揺と呼ぶにはあまりに微細な揺れ。
高性能な地震計でようやく検知できる、感情の初期微動である。
「……住めとは言っていない。ただ、実験期間中は寝泊まりが必要になる場合もある。作業効率を考え、最低限の備品を置いているだけだ」
「歯ブラシは?」
「口腔衛生は全身の健康に影響する」
「タオルは?」
「洗った手は拭け」
「胃薬は?」
「君は実験に集中すると、賞味期限の切れた菓子パンを平気で食べるだろう」
「ど、どうしてそれを!」
「調べはついてる」
「それで、このスウェットは?」
「君は疲れると白衣のまま寝るだろう」
「調べはそこまで! でも、何か問題がありましたっけ?」
「白衣の乱れは、実験結果の乱れにつながる」
「こういうのを世間では、住環境の整備というのでは?」
「違う。私はここに住んでいいとは一言も言っていない。この部屋はあくまで効率的にラボを使用するための装備だ」
「はあ?」
強情である。 口では徹底して突き放すようなことを言う。
住むな。許可していない。勘違いするな。
だが、実際にはなんやかんや言って世話を焼こうとする。
オカンみたいヤツである。正論で武装したオカン。
ついにオカン属性まで手に入れたか、ザマス王子よ。世間的にはキャラブレというんじゃなかろうか。
「あの。一応、言っておきますけど」
私はベッドへ近づきかけた足を止め、姿勢を正した。
「寝袋も、ベッドも、タオルも。全部、めちゃくちゃ助かります。実験が始まれば、遠慮なく使わせていただきます。ただ――」
颯真が、静かに私を見据える。
「タダで甘えるつもりはありません。これは私への『先行投資』だと思ってください。この最高の睡眠環境への対価は、必ず、期待以上の『分析結果』で返しますから」
私が胸を張って宣言すると、颯真はしばらく黙って私を見たあと、
「当然、そのつもりだ」
ふい、と視線を逸らした。
私の網膜の錯覚かもしれない。
地下照明のいたずらかもしれない。
でも、たぶん。
横を向いたその顔の輪郭が、ほんのわずか――本当にコンマ数ミリだけ、やわらかく弛んだ気がした。

