すっぴん白衣の逆転レシピ 〜メイクが苦手な化粧品研究員、データを盗まれたのでザマス王子の秘密ラボでキラキラ組にリベンジします〜

「俺の家に来い」
「…………はい?」

 深夜。閉鎖されたラボ。相手は会社の御曹司。私はしがない二十八歳の女性社員。そんな状況で『俺の家に来い』……。

 私の中の社会人としての警戒装置が、脳内でけたたましくサイレンを鳴らし始めた。
 ウーウー。
 コンプライアンス違反の危険性が極めて高い事案です。速やかに直属の上司、または人事の相談窓口へ。

「ラボで研究がしたいと言う私に、会社の上役であるあなたは、だったら自宅へ来いと言っている。ここまで合っていますか」
「ああ」
「社内研修の事例問題なら、私はここで『絶対についていかない』を選びます。なお、あなた側の正解は『夜に女性社員を自宅へ誘わない』です」
「家にラボがある」
「それを先に言え!」

 堪えきれずに放った私の声が、空調の止まった静寂の地下ラボに虚しく反響した。

「だったら『俺の家に来い』じゃなくて、『自宅に分析設備がある』から始めるべきでしょ! もったいぶって大事なところを省略するから混乱するんです」
「もったいぶったつもりはないが」
「本当に家にラボがある?」
「嘘を言ってどうする」

 颯真の端正な眉間に、うっすらと皺が寄る。
 まあ、創業家の御曹司ともなれば、自宅に私設ラボの一つや二つあってもおかしくはないのかもしれない。財力と権力の使い道としては異常だが、物理的には可能だろう。

 だが、やっぱり胡散臭い。
 朝からココア缶の裏に機密サンプルを貼り付け、私の異動先を完全に把握し、深夜の閉鎖ラボで息を潜めて待ち伏せ。そのうえ今度は、自宅に秘密のラボがあると言い出す始末。
 胡散臭い。怪しい。怪しさの濃度が高すぎる。遠心分離機にかけたら、チューブの底に真っ黒なドロドロが沈殿するレベルだ。

「そのラボ、何があるんですか?」
「分析に必要なものは一通り」
「粒径測定装置は?」
「ある」
「粘度計、恒温槽、遠心分離機は?」
「来て、自分で確かめろ」
「出たよ、そのセリフ」

 私は目を細め、目の前の長身を見据えた。

「それを私に使わせて、あなたに何の得があるんですか?」
「それを今、話す気はない」

 颯真は、温度をまったく感じさせない声で言い放った。
 またこのパターン。核心に触れようとすると、分厚いシャッターを下ろすように突き放してくる。

「俺は設備を貸す。君は分析する。それだけだ。信じられないというなら、それでもいい」

 意味が分からない。いや、言葉の意味は分かるが、彼の底にある目的がまるで読めない。

「……分かりました。使わせてくれるというなら使わせてください。でも、条件を出してもいいですか?」
「言ってみろ」
「まず、設備を見せてください。使う価値があるかは私が決めます。ダメな場合はすぐに解放してください」
「当然だ」
「あと、実際にラボを使用して、分析の結果と測定ログと原データは私が管理します。勝手に持って行ったりしないでください」
「構わない」
「最後にもうひとつ」
「まだあるのか」
「もし家に着いて、ラボなんてなくて全部嘘だったら――御曹司だろうが次期社長候補だろうが、全力で殴ります」

 颯真はじっと私を見下ろした。
 ほんの一瞬だけ、底知れない冷たい瞳の奥に、不敵に面白がるような光が揺れた気がした。

「問題ない」

 実に可愛げがない。
 でも、話は早い。

「じゃあ、ついてこい」

 颯真が踵を返し、歩き出す。
 私はサンプルの入った鞄をしっかりと胸に抱え込み、二歩分の距離を空けてその背中を追った。
 歩き出した拍子に、鞄の隙間から携帯用寝袋がずるりと顔を出す。
 それを見て、颯真がぴたりと足を止めた。

「念のため言っておくが、ラボを使わせるとは言った。住まわせるとは言っていない」
「これは護身用です」
「寝袋で、どう身を守る」
「いざというときは、あなたに被せて端を結びます」
「俺を何だと思っているんだ」

 かくして私は、敵か味方かも分からない、説明不足で胡散臭い男の家へ向かうことになった。
 自宅のラボが嘘だったら、即座に踵を返して帰る。たとえ行き先が本物の吸血鬼の巣だろうと、棺桶の数から室温まで、きっちり監査してやる。

* * *

 颯真の車は夜の街を静かに滑り、本社から車でほんの十数分ほどの場所で停まった。

 こんな近くに、鬱蒼とした林が広がるエリアがあるなんて知らなかった。街灯の少ない木立を抜けた先にあったのは、高い塀に囲まれた重厚で古い日本家屋だ。

 あの吸血鬼みたいな真っ白な顔からして、てっきり蔦の絡まる怪しげな洋館にでも住んでいるのかと思いきや、まさかの純和風建築である。

 車を降りて立派な門をくぐる。ざく、ざく、と玉砂利を踏む音が、夜の静寂に響く。

 玄関の重厚な引き戸の前で、颯真が壁のパネルへ手をかざした。ピッ、と小さな電子音が鳴り、オートロックが無音で解除される。古風な見た目とは裏腹に、セキュリティは最新らしい。

 中へ入り、靴を脱ぐ。

 ほんのりと線香と木材の香りが漂う、薄暗い廊下。私は鞄を胸へ抱え、颯真の背中をついていく。

 廊下を進み、屋敷のいちばん奥へ。かつて蔵として使われていたらしい一角で、颯真は頑丈な木の扉に手をかけた。

 ぎい、と重い音を立てて扉が開く。

 その向こうに、むき出しのコンクリート階段が、ぽっかりと口を開けていた。

「うわ」

 思わず声が出た。
 木と畳と障子でできた純和風の空間から、唐突に無機質な地下へ接続している。
 時代劇のセットを一枚めくったら、その裏に秘密研究所が隠れていたような光景だった。

「この下だ」
「この下?」

 私の足は、階段の最上段でぴたりと止まった。
 むき出しのコンクリート階段は、ぼんやりとした足元灯に照らされながら、地中深くへ消えている。

「こんな蔵の下に、本当にラボがあるんですか」
「ある」

 胡散臭い。
 深夜。御曹司の屋敷。古い蔵。そして、地下へ続くコンクリート階段。
 怪しい要素が限界まで積み上がっている。あと必要なのは、雷鳴と、どこからともなく聞こえる女性の悲鳴くらいだ。

 この暗闇の先に、何が待っているというのか。
 もし薄暗い地下室の中央に、颯真が寝起きするための黒い棺桶が置いてあったらどうしよう。

 私が下まで降りた瞬間、背後の扉がガシャンと閉まる。逃げ場を失ったところで、首筋に牙を立てられ、吸血鬼の眷属――社畜にされるのだ。

 ……待て。社畜には、すでになっている。噛まれ損では?

 想像力という名の危機管理センサーが避難勧告を発令している。一方、研究員としての本能は訴えていた。本当に粒径測定装置があるなら、さっさと降りろ、と。

 危機管理と研究欲が、私の頭の中で激しく殴り合い、結果、研究欲が勝った。

「……先に言っておきますけど」

 私はサンプルの入った鞄を、胸の前で抱え直した。

「棺桶があったら、その時点で帰りますからね」
「ない」
「即答が逆に怪しい」

 それでも、ここまで来て引き返すわけにはいかない。
 棺桶があっても、蓋を開けなければいい。血を吸われそうになったら、寝袋を被せればいい。

 私は覚悟を決め、暗闇へ続く最初の一段に足を下ろした。

 恐る恐る、コンクリートの階段を降りていく。一段下るごとに、地上に漂っていた線香と木の香りが遠ざかる。代わりに、ひやりと澄んだ空気が頬を撫でた。

 十五段ほど降りて、ようやく靴底が平らな床を捉えた。

 思わず足を止める。階段の先に扉はない。空間はそのまま奥へ続いているようだが、真っ暗で何も見えなかった。

 何も見えないが、なんだか広そうに感じる。棺桶を二十基ほど並べても余裕があるくらいの空間のようだった。

 背後から降りてきた颯真が、私のすぐ横で足を止めた。

 暗闇の中で、パチン、と硬い音が響いた。
 ジーッという低い稼働音とともに、天井のLED照明が手前から奥へ、パッ、パッ、パッ――と連鎖的に点灯していった。

 闇の中から、白い床が現れる。実験台が現れる。試薬棚が現れる。そして、部屋の最奥に並ぶ機材群が姿を現した。

「…………え?」

 眩しさに細めていた目を、私はゆっくりと開いた。

 そこにあったのは、棺桶でも、拷問部屋でもない。地下室という言葉から連想される湿気、埃、蜘蛛の巣、謎の鎖――そういうものをすべて全力で否定する、完璧に整備された最新鋭のラボだった。

「えええっ!?」

 声が、広大な空間に反響した。塵ひとつ落ちていない床。
 中央には、真新しいアイランド型の実験台。壁一面を埋める試薬棚には、ラベルの向きまで揃えられた瓶が整然と並んでいる。奥には、強力な排気ダクトを備えたドラフトチャンバーが二基。

 さらに視線を横へ動かす。

 恒温槽、遠心分離機、粒径測定装置。

 ひとつ見つけるたびに、私の中の危機管理センサーが停止し、代わりに研究員としての本能が次々と起動していく。

 そして、部屋の最奥を見た瞬間。

「……嘘でしょ」

 防振台の上に鎮座しているのは、高速液体クロマトグラフ――HPLC。その隣には、最新型のレオメーター。

 会社の旧研究棟にすらなかったハイエンドな分析機器が、まるで一家に一台の電子レンジですけど、という当然の顔で並んでいる。

 何、この空間。どこの国家予算を地下へ埋めたの。

「本当に……ラボだ」
「初めからそう言っている」

 私は鞄を抱えたまま、ふらふらと一歩踏み出した。

 吸血鬼の巣ではなかった。
 もっと危険だ。
 ここは、白衣の研究員を一目で眷属にするタイプの魔窟だ。

「これ……本物ですか」
「本物だ」
「動くんですか」
「動く」
「……個人宅の地下に、HPLC? あっ、レオメーター! あなた、こんなところにいたの!」
「機材に感情をぶつけるな」

 頬ずりしそうになった私に、颯真が冷たい声を飛ばす。そして、淡々と言った。

「ここを自由に使っていい」
「自由に?!」
「君が来ても玄関が開くようにしておく。俺が留守の時でも君はすきな時に来て、すきに使っていい」
「本当に?!」

 私は、勢いよく振り返った。
 これがあれば、もう一度、化学ができる。
 奪われたシンヴェールを再構築できる。あの“きれいなアルフレッド”を、分析できる。

「これは取引だ」

 颯真は、私ではなくラボ全体を見渡しながら言った。

「俺はこのラボを持て余している。君はラボが欲しい。だから貸す……。これは取引だ」
「……取引?」
「そうだ」

 私は鞄からスマホを取り出し、電卓を起動した。

「では、ラボの使用料はいかほどで?」
「使用料は無料だ」
「…………はい?」

 私は、改めて目の前の設備を見回した。
 HPLC。レオメーター。粒径測定装置。恒温槽。遠心分離機。どう見積もっても、「ご自由にお使いください」で貸し出される顔ぶれではない。

「装置の使用料などは?」
「必要ない」
「電気代と水道代は?」
「いらない」
「試薬や試験紙、チューブなんかの消耗品は?」
「なくなったら注文しろ。必要な業者のカタログは、あの端末に入っている」
「注文していいんですか?」
「ああ」
「あなたのお金で?」
「ほかに誰が払う」
「怖い怖い怖い!」

 私は思わず一歩後ずさった。
 うますぎる話には、絶対に裏がある。甘い話に混ざっているのが糖分だけだった例を、私は知らない。

「取引になってないですよね? あなたにとって、リターンはなんですか?」
「もちろん、見返りは要求する」
「ほら来た!」

 私はスマホを握り締め、身構えた。
 人体実験か。違法薬物の製造か。それとも、魂を担保に三十年ローンでも組まされるのか。

「ここで分析した内容と結果は、毎週レポートにまとめろ」
「……レポート?」
「測定条件、生データ、考察、次に行う試験の予定まで、すべてだ。週に一度、俺に説明しろ」
「それだけ?」
「それだけだ」

 私はしばらく黙って、条件を頭の中で並べ直した。

 住む場所も職場も失いかけている研究員に、最新鋭の地下ラボを無料で貸す。必要な試薬や消耗品も、好きに注文していい。その代わり、毎週きちんと成果をまとめて、自分に報告すること?

 お前は足長おじさんかっ! と、心の中でツッコミを入れてしまう。この男、さらに新たな属性を加えるつもりだろうか。

「ただし――」

 彼が一歩、私との距離を詰める。

「どんな結果が出ようと、一切隠さずに報告しろ。それが、どんなに君の予想と違う結論だったとしてもだ。そして、その研究結果は俺が自由に使う。――それが条件だ」
「あ」

 ――そこで、ようやく腑に落ちた。

 ラボを持て余している。だから貸す。取引だ。
 さんざんそう言ってのけたくせに、この男が本当に欲しいのは、ラボの稼働率なんかじゃない。

 毎週の報告。生データ。予想と違う結論。隠さず、すべて。
 彼が並べた条件は、どれもこれも、たったひとつの一点を指していた。

 あのサンプルを、調べろ。

 言葉にはしない。分析対象を指定もしない。けれど、朝からココア缶の裏にサンプルを貼りつけ、私の異動先を把握し、深夜の閉鎖ラボで待ち伏せた男が、いまさら「なんでもいい、好きに使え」なんて口にするわけがなかった。

 彼は、あの“きれいなアルフレッド”の正体を知りたがっている。ラボを貸すのは、そのためだ。

 なるほど。やっぱりこれは、取引だ。
 施しでも救済でもなく、対価のある取引。彼は設備と自由を差し出し、その代わりに、私の目と手で、あのサンプルの秘密を暴かせようとしている。

 颯真はこちらを見ている。真っ直ぐに射抜くような視線だ。
 私は鞄を握っていた手にきゅっと力を込め、彼の目を真正面から見返した。

「上等です」

 私は言い切った。

「どんなに残酷な数字が出ても、結果から目を逸らさない。それが研究者の(さが)ですから。分析結果は、毎週きっちり報告します。その先で生まれた研究成果も全て共有する」

「分かった。であれば――」

 颯真は薄く目を細めた。
 そして、ほんのわずかに口元を緩めた。

 笑った。たぶん。研究者として厳密に判定するなら、笑顔の検出限界ぎりぎりだったけれど。

 颯真はゆっくりと、右手を差し出した。

 白く、骨ばった、大きな手。
 契約書も、判子もない。代わりに、この手を取れということらしい。

 私は反射的に自分の右手を服の裾で拭ってから、その手を握った。

 ひやりと冷たい。吸血鬼説を、またひとつ補強するレベルの体温。けれど、握る力は驚くほど強い。私も負けじと、ぎゅっと握り返した。

 これは救済ではない。同情でも、施しでもない。

 取引だ。ならば私も、対等でいたい。

「取引成立だ」

「ええ。せいぜい、このラボを骨の髄までこき使わせてもらいます」

 深夜の地下ラボ。
 敵か味方かも分からない、胡散臭い御曹司。

 私はまだ、彼を信じたわけではない。隠していることもいっぱいあるのは間違いない。どうしてあのサンプルを調べさせたいのかもわかってない。

 それでも、この握手を境に、私と彼はひとつの秘密を共有した。
 
 会社の目を盗み、地下で企む――正真正銘の共犯者になった。