その日の夜。――といっても、定時を少し回ったばかりで、夏の空にはまだ夕方の青さが残っている頃。
キラキラ組の面々は、終業時刻と同時に一斉に立ち上がった。パソコンを閉じ、パウダールームで手早く化粧を直し、「じゃ、お先でーす」と甘い声を残して、香水の匂いとともに消えていく。
一方、私の本日の業務実績といえば、コピー機の隣に座って、観葉植物と一緒に会議へ出て、黒瀬さんへ噛みついただけ。
仕事なんて一件も回ってこなかった。胸を張って言うことではないが、残業する理由も一件たりとも存在しない。
よし。帰ろう。
私の家は、アルカサスの敷地の端にある古い独身寮。ラボのある研究棟から徒歩七分。ひびの入った外壁。雨が降ると湿気る廊下。階段を上るたびに「ギィ」「ミシッ」と鳴き、住人の帰宅を建物全体で歓迎してくれる、築年数不詳の三階建てである。
もともとは、新入社員向けの寮だった。だが最近では、勤務時間が不規則で、夜遅くまでラボに籠もりがちな研究員しか使わなくなっていた。
反応待ちで終電を逃した。安定性試験の経過が気になって帰れない。三時間後には、もう一度温度を確認しなければならない。そんな白衣たちが、申し訳程度の仮眠をむさぼるための巣である。
最盛期には全部屋が埋まっていたそうだが、研究員が減るにつれて住人も減った。今では空室のほうが多い。廊下ですれ違うのも、白組の残党か、この建物の古さをものともしない強靱な社員くらいだった。
「今日はもう、お風呂に入って寝よう……」
そう決めて、自分の部屋の郵便受けを開けたところで――白い封筒が、ぽとりと足元へ落ちた。
差出人は、総務部。封筒の右上には、赤字で大きく『重要』。総務から届く『重要』が、重要ではなかったためしはない。そして、嬉しかったためしもない。
私は薄暗い廊下で封を切った。中身は一枚。見出しだけが、やけに大きい。
『旧研究職社員寮 閉鎖および退去のお知らせ』
「まじ?」
老朽化と組織再編に伴い、本寮を一か月後に閉鎖する。期日までに退去すること。希望者には不動産会社を紹介する。以上。
ラボ、データ、先輩に続いて、今度は寝床まで奪われた。
「どこまで持っていく気なの、うちの会社……」
とはいえ、住む場所なら探せば見つかる。問題は、そう簡単には見つからないもののほうだ。
四畳半の畳に胡座をかき、私は白衣のポケットからあの一包を取り出した。ココア缶の底に貼られていた、蘭子さんの無実を証明するための唯一の武器。
だが、これを調べるには装置がいる。不動産屋で「遠心分離機つき、電子顕微鏡完備」と希望を出せば静かに帰されるし、寮の共同キッチンにある誰かの酢では分析できない。
大学の設備や外部委託は会社を通すから足がつく。自腹で中古機器を買うにも貯金が足りないし、そもそも電子顕微鏡は玄関を通らない。無理に入れれば床が抜ける。
私はサンプルをつまんだまま、腕を組んだ。
「となると、やっぱり……あそこしかないか」
研究棟、地下二階。今朝まで白組が使っていた、あのラボ。
電子キーはロックされ、中へ入れなくなっている。だが、中の装置までは、まだ運び出されていないはずだ。遠心分離機も、恒温槽も、粒径測定装置も、電子顕微鏡も、全部あの扉の向こうにある。
「こっそり入って、使えないかな」
口に出した瞬間、完全に駄目な案だということがよく分かる。でも、実に魅力的にも聞こえた。
私は鞄の底を探り、小さな鍵を取り出した。
古びた銀色の鍵。
白組ラボの隣にある物品倉庫から、中へ入るための非常用物理鍵だ。停電やカードリーダーの故障に備え、夜勤担当が持ち回りで預かっていたもの。昨日の夜勤担当は私。そして今日の大混乱で、返せとも言われなかった。
「…………」
銀色の鍵が、部屋の蛍光灯を受けてきらりと光った。
「ちょっと、見てこようかな……」
たぶん、あそこからなら、今も入れる。もちろん、無断で立ち入れば重大な規則違反である。見つかれば懲戒処分。下手をすれば解雇。もっと下手をすれば警察。
今日、会社に残ると決意した人間が、その日のうちに会社へ忍び込んで追い出される。
スピード感がありすぎる。
「でも、ちょっと確認するだけなら……」
そう。確認だ。
中へ入るわけではない。鍵が開くか確認するだけ。もし開いたら、電気が来ているか確認するだけ。電気が来ていたら、装置が動くか確認するだけ。装置が動いたら、サンプルをほんの一滴だけ確認するだけ。
そのまま分析結果が出てしまったとしても、それは確認を重ねた結果であり、最初から実験するつもりだったわけではない。
「うん。確認だな」
何ひとつ、うん、ではない。だが、急に確認したくなってきた。猛烈に。今すぐに。
そこで、私はもうひとつ重大な事実へ気づいた。
この寮は、一か月後になくなる。そして私は、住む場所を失う。対して地下ラボには、窓がない。つまり外から中を覗かれる心配もない。夜勤のときに寝袋を持ち込んで仮眠したこともある。シャワーならオフィスにある。自販機もある。社食だって、朝になれば開く。
家賃、ゼロ、通勤時間、ゼロ秒、分析装置まで、徒歩十歩。
広さは四畳半の比ではない。
「……住めるんじゃない?」
口に出すと、がぜん住める気がしてきた。
窓はないが、地下ラボ育ちの私には、特に問題ではない。むしろ紫外線対策として優秀だ。ベッドがなくても寝袋がある。研究員は、床さえ平らならだいたい眠れる。キッチンの代わりに、電気ケトルがある。なんなら恒温槽もある。ガスバーナーだってある。
トイレと風呂はオフィス設備を使えばいいし。
「住めそうじゃん!」
私は膝を叩いた。
四畳半の老朽寮から、最先端分析機器つき地下空間へ。これは退去ではない。住環境の戦略的アップデートだ。
1LDKならぬ1LAB。敷金礼金ゼロ。職場まで徒歩ゼロ分。二十四時間いつでもアルフレッドの様子を見守れる、研究員垂涎の物件。
唯一の欠点は、住んでいることが会社に発覚した瞬間、社会人生命が終わることくらいだ。
「よし。とりあえず、内見だけ行ってみよう」
待て。会社の封鎖区画へ非常用の鍵で忍び込むことを、内見とは呼ばない。そう思いつつも、私は既に立ち上がっていた。
鞄へサンプルを入れる。鍵を入れる。念のため、歯ブラシを入れる。着替えを入れる。棚の奥から携帯用寝袋も引っ張り出す。
「……いや、今日は確認だけだから」
寝袋を抱えたまま、自分へ言い聞かせる。
内見だけなら、歯ブラシも着替えも寝袋も必要ない。
でも、念のためだ。
そうして私は、封鎖された会社のラボを次の新居候補として内見するため、再び研究棟へ向かうことになった。
最悪の一日は、まだ終わっていなかった。
というより、ようやく終わりかけていた一日を、私が自分の足で延長しに行こうとしていた。
夜の会社は、昼間とはまったく別の生き物だ。
本館の高層フロアには、まだまばらに明かりが残っている。けれど、こちらの研究棟の窓は一枚残らず黒く沈み、空調の低い唸り声すら途絶えていた。
そんな研究棟の地下二階。薄暗い研究ラボの隣――冷え切った物品倉庫に、今、私は息を潜めている。
「開けっ……この……頑固者……!」
非常用の鍵はちゃんと入ってガチャリと回ったはずなのに、ノブがびくともしないのだ。空調の止まった地下特有の気圧差のせいか、扉そのものが枠に張り付いているらしい。
「昨日まで仲間だったでしょうが……! 急に会社側の顔をするな……!」
肩で押す。腰を入れる。背中の鞄に詰めてきた懐中電灯、歯ブラシ、着替え、携帯用寝袋の重量まで利用して、全体重を預ける。
三度目の体当たりで、鉄扉は「ゴンッ」と情けない音を立て、ようやく内側へ開いた。
「……勝った」
思わず、その場に膝をつきそうになる。忍び込む前から、すでに体力の八割を使ってしまった。
真っ暗なラボの中へ足を踏み入れる。
「……電気、来てるかな」
壁のスイッチを指先で探り当てる。
じ、と低い音がして、天井の一列だけが明るくなった。暗闇に沈んでいた装置の輪郭が、ぼんやりと浮かび上がる。
「オッケー、来てるじゃん!」
電気が来ているということは。装置が動くはずだ。
私は吸い寄せられるように、粒径測定装置の前へ立った。
電源を入れる。ファンが回り出した。画面に自己診断の表示が流れていく。何百回と見てきた起動画面が、今夜だけは後光を放って見えた。
「動く……! 動くぞ!」
装置が動くということは、計測することもできるはず。
私は鞄から保冷ポーチを取り出し、ファスナーを開けて、中にある透明なパウチをそっと光へかざす。
純白のクリーム。正体不明のアルフレッド。
「……いや、待て。私」
一度、動きを止める。
いつの間にか右手にはピペットを持っていた。左手には希釈用の精製水。
頭の中には、すでに測定条件が三パターン組み上がっている。予備測定の結果次第では、温度条件を振った追加試験までやるつもりになっている。
「これ、完全に実験する人間の動きでは?」
誰もいないラボで、自分に鋭くツッコミを入れる。確認だけの人間が、なぜ検量線の準備を始めているのか。
「確認だから……これは、装置がまだ動くか確認するだけ」
念仏のように唱えながら、私はピペットのチップを箱から引き抜いた。
もはや誰も私を止められない。止める人間なんて、この地下には一人もいないはず――だった。
「――口で言い訳しながら、手は完全に実験の準備を終えているぞ」
「ひぃっ!?」
ピペットが手から飛んだ。心臓も、ほぼ同時に喉から飛び出した。
懐中電灯を掴み、振り回しながら勢いよく振り返る。光の円が、さっき私の入ってきた扉のところに立つ長身の男の顔を直撃した。
「警備員さん、違うんです! これは、その、決して怪しい者では――」
「まず、その光をどけろ」
「はっ!」
慌てて懐中電灯を下げる。闇から半歩踏み出したのは、警備員の制服ではなかった。
隙のない黒いスーツ。長身。非常灯の下でも分かるほど白い肌。古い洋館の棺から起き出し、そのまま会社へ出勤してきたような吸血鬼系美形。
「なあんだ」
私は胸を撫で下ろした。
「なんだ、ザマス王子か」
「安心するところを、完全に間違えている」
ザマス王子こと座馬颯真は、心底呆れた顔で私を見下ろしていた。
「深夜に閉鎖区画へ忍び込んだ人間が、警備員ではなく役員だと分かって安心するのか」
「あ……」
そうだった。警備員より、ある意味まずい。
創業家の御曹司。次期社長候補。事業戦略部長かなにか。私を懲戒処分へ送り込むには、十分すぎる肩書きを持つ男である。
私は反射的に、ピペットを背中へ隠した。
「これは違ってて」
「何がだ」
「散歩です」
「懐中電灯とピペットを握りしめてか?」
「鍵を返しに来ました」
「鍵は、そこの装置を起動して返却するものなのか」
「電気が来ているか、確認を」
「立入禁止のラボで、実験装置を起動して?」
「…………」
言い訳が全滅した。
「……正直に言うと」
「最初からそうしろ」
「ラボへ忍び込みました」
「見れば分かる」
「できれば、見なかったことにしてもらえませんか」
「できると思うか?」
「そこを、御曹司権限で」
「そのような権限はない。あったとしても、社員の不法な侵入の黙認には使わん」
正論。くっ。顔がいいだけではなく、正論まで強い。だが、ここで一方的に捕まるわけにはいかない。
私はピペットを握ったまま、颯真を睨み返す。
「そもそも、なんであなたがここに?」
「君が来る可能性が高いと思って、ラボの周囲を見張っていた」
「……はい?」
さらりと言われたが、聞き流していい内容ではなかった。
「私が来ると思って、ずっと待っていた?」
「そうだが?」
「怖っ」
思わず、本気の声が出てしまった。
「今朝もそうでしたよね? なぜ私がラボの近くにいると必ず現れるんですか?」
「監視しているからだ」
あっさりと言い放たれた。
「それを世間では、ストーカーとか言うのでは?」
思わず、半歩下がってしまった。吸血鬼からストーキング。洒落にならない。
「勘違いするな。君を見張っていたのは、興味本位からではない」
「じゃあ、なんなんですか?」
「今、会社は君を危険人物として認識している」
「私?」
「社内のサンプルを流出させた疑惑の西城蘭子と、最も近い場所にいた研究員としてだ。監視される十分な理由がある」
「蘭子さんも私も、そんな危険人物ではありません!」
「しかし事実、閉鎖されたラボへ深夜に忍び込み、勝手に会社の資産である分析装置を使おうとしている。もし警備に見つかっていれば、お前は西城と同じように事情を聞かれていた。言い逃れはできない」
「うっ」
颯真の言っていることは間違ってはいない。でも、サンプルを渡してきたのは、そっちなんだが。
「じゃあ、聞かせてください。私が危険人物だというなら、どうして――」
私は鞄のファスナーを開けてポーチを取り出し、透明なパウチを懐中電灯の光へ掲げた。
「どうしてこれを渡したんですか?」
颯真の表情は動かない。
「いつから自社のホットココアのオマケに、機密サンプルを貼り付けるようになったんですか。普通に消費者庁案件ですよ」
王子は返事はない。だが、否定もしない。
私はパウチを持つ指へ力を込めた。
「確認させてください。これが、流出していた新製品のサンプルですよね?」
颯真は、しばらく私の手元を見ていた。
「さあな」
「さあな、って……」
貼ったことすら認めない。口を割る気がないらしい。
「……いいです。認めなくても。でもこれが、流出したサンプルだという前提で話します!」
私は手の中のパウチを強く握り直し、闇の中に浮かぶ純白を見据えた。
「これ、白組が最後に作ったシンヴェールとは違います」
「……」
颯真の目が、ここで初めて、値踏みするように細められた。
「何が違う?」
「白組の最新試作には、肌へ伸ばしきる直前、ごくわずかなざらつきが残っていました。アルフレッドの中空粒子を、完全には均一に分散できていなかったからです。でも、これは違う。ざらつきがない。指先に、凝集の感触がほとんど残らない」
颯真は表情一つ変えず、黙って私の言葉の先を待っている。
「白組の最新試作を、そのまま持ち出したものじゃない。誰かが別の技術を加えて、アルフレッドを安定させています。だから、蘭子さんは無実なんです。持ち出してなんかいない!」
薄暗い地下廊下に、私の声だけが反響して消えた。
数秒の、ひどく重たい沈黙。ややあって、冷ややかな声が飛んできた。
「――それだけか」
「それだけ?」
「ざらつきがない。指先で分かる。君が並べたのは、すべて感覚の話だ」
「そうです! だから調べようとしていたんです」
私は台の上のピペットを指した。
「違和感を見つける。仮説を立てる。測る。数字にする。再現する。そこまでやって、初めて結論です。私は、その途中にいるだけです」
颯真は、何も言わない。私は勢いのまま続けた。
「まず粒径分布を取ります。次に粘度、温度依存性、光の散乱特性。白組の試作サンプルを条件違いで再現して比較する。必要なら遠心分離と加速試験もかけます。中空構造の保持率まで確認するなら電子顕微鏡も――」
「分かった」
「まだ三分の一です」
「十分だ」
颯真は暗いラボを一瞥した。
「君のやりたいことは分かった。だが、このラボを使うのは下策だろう。不法侵入して得たデータに、証拠としての価値はない。機器の校正記録も、サンプルの受け入れ記録も残せない。測定者が深夜に一人で機器を動かし、都合のいい結果だけを持ち出したと主張されたら、反論できるのか。そもそも、君にはこの設備を使う権限がない」
「…………」
そこを言われると、弱い。いや、弱いどころではない。一撃死だ。
「それに、ここは明日の朝から設備の停止作業が始まる。装置は順次撤去され、近いうちにただの倉庫になる予定だ」
「ええっ?!」
私は、思わず粒径測定装置を見た。
たった今まで回っていた画面が、急に遠く見えた。
「そんな……」
「夜中に忍び込んで、実験を続けられる場所ではない」
突き放すような声だった。
温度がない。私の計画も、覚悟も、最初から数に入っていないような言い方だった。
「分かりました」
私はパウチを保冷ポーチへ戻し、ファスナーを閉じた。
「もう、いいです。ここが使えないことは理解しました。ほかを探します」
鞄を肩へ掛け直す。
「大学の共同利用設備。外部の分析会社。最悪、中古機器を自腹で買います。手はまだある。あなたに認めてもらう必要も、頼る理由もありません」
私は出入り口に立つ颯真をまっすぐに見据え、歩き出した。
「……退いてください」
短く言い捨て、彼の脇を強引にすり抜ける。微かに高いスーツの生地が擦れる音がした。颯真は引き留める素振りも見せず、あっさりと私を通した。
物品倉庫へ通じる扉を開けようとした時、
「一つ、言い忘れたことがある」
背中に、低い声が刺さった。私は振り返らないまま、足を止める。
「警察の取り調べを受けていた西城蘭子は、聴取を終えて解放されている」
その一言で、私は振り返る。
「本当ですか?! 蘭子さんは、今どこに」
「自宅だ。会社は自宅待機を命じている。明日以降も任意の聴取が続く」
「自宅待機……」
安堵が、途中で止まった。
「一応、言っておくが、絶対に連絡を取ろうとするな」
「どうしてです?!」
「捜査の中心にいる研究者同士が、この段階で接触すれば、口裏合わせや証拠隠滅を疑われる。連絡したという事実だけで、二人とも立場が悪くなる」
「でも――」
「今ここで君が見つかれば、彼女も説明を求められる。彼女を守りたいなら、感情のまま巻き込まないことだ」
冷たい言葉だった。でも、間違ってはいない。
私はしばらく考え、鞄の紐を握り直した。
「……今夜は、連絡しません」
颯真を見る。
「ただし、あなたの言葉を聞いたからじゃない。状況を確認するまで動かないだけです」
「それでいい」
手の中で、懐中電灯の光が揺れる。
行く場所も、戦う場所も、たった今すべて塞がれた。ラボは撤去される。蘭子さんには近づけない。
私は、もう一度颯真を見上げりう。
私を牽制しておきながら、その手で決定的な証拠を渡してくる。ラボへ来ると予測して待ち伏せ、蘭子さんへ近づくなと止める。
この人のやることは、何ひとつ噛み合わない。目的がまるで読めない。
「……一つだけ、教えて。あなたは、私の敵? それとも、味方?」
颯真は、答えなかった。
夜の闇よりも深い瞳が、ただ静かに私を見下ろしている。肯定も、否定もない。感情を一切読み取らせるつもりのない沈黙だった。
やがて、颯真は薄い唇を開き――
「……分析がしたいか?」
「ええ」
「だったら……」
彼はひどくあっさりと、言った。
「俺の家に来い」
「…………はい?」
思わず、私は間抜けな声を漏らしていた。
キラキラ組の面々は、終業時刻と同時に一斉に立ち上がった。パソコンを閉じ、パウダールームで手早く化粧を直し、「じゃ、お先でーす」と甘い声を残して、香水の匂いとともに消えていく。
一方、私の本日の業務実績といえば、コピー機の隣に座って、観葉植物と一緒に会議へ出て、黒瀬さんへ噛みついただけ。
仕事なんて一件も回ってこなかった。胸を張って言うことではないが、残業する理由も一件たりとも存在しない。
よし。帰ろう。
私の家は、アルカサスの敷地の端にある古い独身寮。ラボのある研究棟から徒歩七分。ひびの入った外壁。雨が降ると湿気る廊下。階段を上るたびに「ギィ」「ミシッ」と鳴き、住人の帰宅を建物全体で歓迎してくれる、築年数不詳の三階建てである。
もともとは、新入社員向けの寮だった。だが最近では、勤務時間が不規則で、夜遅くまでラボに籠もりがちな研究員しか使わなくなっていた。
反応待ちで終電を逃した。安定性試験の経過が気になって帰れない。三時間後には、もう一度温度を確認しなければならない。そんな白衣たちが、申し訳程度の仮眠をむさぼるための巣である。
最盛期には全部屋が埋まっていたそうだが、研究員が減るにつれて住人も減った。今では空室のほうが多い。廊下ですれ違うのも、白組の残党か、この建物の古さをものともしない強靱な社員くらいだった。
「今日はもう、お風呂に入って寝よう……」
そう決めて、自分の部屋の郵便受けを開けたところで――白い封筒が、ぽとりと足元へ落ちた。
差出人は、総務部。封筒の右上には、赤字で大きく『重要』。総務から届く『重要』が、重要ではなかったためしはない。そして、嬉しかったためしもない。
私は薄暗い廊下で封を切った。中身は一枚。見出しだけが、やけに大きい。
『旧研究職社員寮 閉鎖および退去のお知らせ』
「まじ?」
老朽化と組織再編に伴い、本寮を一か月後に閉鎖する。期日までに退去すること。希望者には不動産会社を紹介する。以上。
ラボ、データ、先輩に続いて、今度は寝床まで奪われた。
「どこまで持っていく気なの、うちの会社……」
とはいえ、住む場所なら探せば見つかる。問題は、そう簡単には見つからないもののほうだ。
四畳半の畳に胡座をかき、私は白衣のポケットからあの一包を取り出した。ココア缶の底に貼られていた、蘭子さんの無実を証明するための唯一の武器。
だが、これを調べるには装置がいる。不動産屋で「遠心分離機つき、電子顕微鏡完備」と希望を出せば静かに帰されるし、寮の共同キッチンにある誰かの酢では分析できない。
大学の設備や外部委託は会社を通すから足がつく。自腹で中古機器を買うにも貯金が足りないし、そもそも電子顕微鏡は玄関を通らない。無理に入れれば床が抜ける。
私はサンプルをつまんだまま、腕を組んだ。
「となると、やっぱり……あそこしかないか」
研究棟、地下二階。今朝まで白組が使っていた、あのラボ。
電子キーはロックされ、中へ入れなくなっている。だが、中の装置までは、まだ運び出されていないはずだ。遠心分離機も、恒温槽も、粒径測定装置も、電子顕微鏡も、全部あの扉の向こうにある。
「こっそり入って、使えないかな」
口に出した瞬間、完全に駄目な案だということがよく分かる。でも、実に魅力的にも聞こえた。
私は鞄の底を探り、小さな鍵を取り出した。
古びた銀色の鍵。
白組ラボの隣にある物品倉庫から、中へ入るための非常用物理鍵だ。停電やカードリーダーの故障に備え、夜勤担当が持ち回りで預かっていたもの。昨日の夜勤担当は私。そして今日の大混乱で、返せとも言われなかった。
「…………」
銀色の鍵が、部屋の蛍光灯を受けてきらりと光った。
「ちょっと、見てこようかな……」
たぶん、あそこからなら、今も入れる。もちろん、無断で立ち入れば重大な規則違反である。見つかれば懲戒処分。下手をすれば解雇。もっと下手をすれば警察。
今日、会社に残ると決意した人間が、その日のうちに会社へ忍び込んで追い出される。
スピード感がありすぎる。
「でも、ちょっと確認するだけなら……」
そう。確認だ。
中へ入るわけではない。鍵が開くか確認するだけ。もし開いたら、電気が来ているか確認するだけ。電気が来ていたら、装置が動くか確認するだけ。装置が動いたら、サンプルをほんの一滴だけ確認するだけ。
そのまま分析結果が出てしまったとしても、それは確認を重ねた結果であり、最初から実験するつもりだったわけではない。
「うん。確認だな」
何ひとつ、うん、ではない。だが、急に確認したくなってきた。猛烈に。今すぐに。
そこで、私はもうひとつ重大な事実へ気づいた。
この寮は、一か月後になくなる。そして私は、住む場所を失う。対して地下ラボには、窓がない。つまり外から中を覗かれる心配もない。夜勤のときに寝袋を持ち込んで仮眠したこともある。シャワーならオフィスにある。自販機もある。社食だって、朝になれば開く。
家賃、ゼロ、通勤時間、ゼロ秒、分析装置まで、徒歩十歩。
広さは四畳半の比ではない。
「……住めるんじゃない?」
口に出すと、がぜん住める気がしてきた。
窓はないが、地下ラボ育ちの私には、特に問題ではない。むしろ紫外線対策として優秀だ。ベッドがなくても寝袋がある。研究員は、床さえ平らならだいたい眠れる。キッチンの代わりに、電気ケトルがある。なんなら恒温槽もある。ガスバーナーだってある。
トイレと風呂はオフィス設備を使えばいいし。
「住めそうじゃん!」
私は膝を叩いた。
四畳半の老朽寮から、最先端分析機器つき地下空間へ。これは退去ではない。住環境の戦略的アップデートだ。
1LDKならぬ1LAB。敷金礼金ゼロ。職場まで徒歩ゼロ分。二十四時間いつでもアルフレッドの様子を見守れる、研究員垂涎の物件。
唯一の欠点は、住んでいることが会社に発覚した瞬間、社会人生命が終わることくらいだ。
「よし。とりあえず、内見だけ行ってみよう」
待て。会社の封鎖区画へ非常用の鍵で忍び込むことを、内見とは呼ばない。そう思いつつも、私は既に立ち上がっていた。
鞄へサンプルを入れる。鍵を入れる。念のため、歯ブラシを入れる。着替えを入れる。棚の奥から携帯用寝袋も引っ張り出す。
「……いや、今日は確認だけだから」
寝袋を抱えたまま、自分へ言い聞かせる。
内見だけなら、歯ブラシも着替えも寝袋も必要ない。
でも、念のためだ。
そうして私は、封鎖された会社のラボを次の新居候補として内見するため、再び研究棟へ向かうことになった。
最悪の一日は、まだ終わっていなかった。
というより、ようやく終わりかけていた一日を、私が自分の足で延長しに行こうとしていた。
夜の会社は、昼間とはまったく別の生き物だ。
本館の高層フロアには、まだまばらに明かりが残っている。けれど、こちらの研究棟の窓は一枚残らず黒く沈み、空調の低い唸り声すら途絶えていた。
そんな研究棟の地下二階。薄暗い研究ラボの隣――冷え切った物品倉庫に、今、私は息を潜めている。
「開けっ……この……頑固者……!」
非常用の鍵はちゃんと入ってガチャリと回ったはずなのに、ノブがびくともしないのだ。空調の止まった地下特有の気圧差のせいか、扉そのものが枠に張り付いているらしい。
「昨日まで仲間だったでしょうが……! 急に会社側の顔をするな……!」
肩で押す。腰を入れる。背中の鞄に詰めてきた懐中電灯、歯ブラシ、着替え、携帯用寝袋の重量まで利用して、全体重を預ける。
三度目の体当たりで、鉄扉は「ゴンッ」と情けない音を立て、ようやく内側へ開いた。
「……勝った」
思わず、その場に膝をつきそうになる。忍び込む前から、すでに体力の八割を使ってしまった。
真っ暗なラボの中へ足を踏み入れる。
「……電気、来てるかな」
壁のスイッチを指先で探り当てる。
じ、と低い音がして、天井の一列だけが明るくなった。暗闇に沈んでいた装置の輪郭が、ぼんやりと浮かび上がる。
「オッケー、来てるじゃん!」
電気が来ているということは。装置が動くはずだ。
私は吸い寄せられるように、粒径測定装置の前へ立った。
電源を入れる。ファンが回り出した。画面に自己診断の表示が流れていく。何百回と見てきた起動画面が、今夜だけは後光を放って見えた。
「動く……! 動くぞ!」
装置が動くということは、計測することもできるはず。
私は鞄から保冷ポーチを取り出し、ファスナーを開けて、中にある透明なパウチをそっと光へかざす。
純白のクリーム。正体不明のアルフレッド。
「……いや、待て。私」
一度、動きを止める。
いつの間にか右手にはピペットを持っていた。左手には希釈用の精製水。
頭の中には、すでに測定条件が三パターン組み上がっている。予備測定の結果次第では、温度条件を振った追加試験までやるつもりになっている。
「これ、完全に実験する人間の動きでは?」
誰もいないラボで、自分に鋭くツッコミを入れる。確認だけの人間が、なぜ検量線の準備を始めているのか。
「確認だから……これは、装置がまだ動くか確認するだけ」
念仏のように唱えながら、私はピペットのチップを箱から引き抜いた。
もはや誰も私を止められない。止める人間なんて、この地下には一人もいないはず――だった。
「――口で言い訳しながら、手は完全に実験の準備を終えているぞ」
「ひぃっ!?」
ピペットが手から飛んだ。心臓も、ほぼ同時に喉から飛び出した。
懐中電灯を掴み、振り回しながら勢いよく振り返る。光の円が、さっき私の入ってきた扉のところに立つ長身の男の顔を直撃した。
「警備員さん、違うんです! これは、その、決して怪しい者では――」
「まず、その光をどけろ」
「はっ!」
慌てて懐中電灯を下げる。闇から半歩踏み出したのは、警備員の制服ではなかった。
隙のない黒いスーツ。長身。非常灯の下でも分かるほど白い肌。古い洋館の棺から起き出し、そのまま会社へ出勤してきたような吸血鬼系美形。
「なあんだ」
私は胸を撫で下ろした。
「なんだ、ザマス王子か」
「安心するところを、完全に間違えている」
ザマス王子こと座馬颯真は、心底呆れた顔で私を見下ろしていた。
「深夜に閉鎖区画へ忍び込んだ人間が、警備員ではなく役員だと分かって安心するのか」
「あ……」
そうだった。警備員より、ある意味まずい。
創業家の御曹司。次期社長候補。事業戦略部長かなにか。私を懲戒処分へ送り込むには、十分すぎる肩書きを持つ男である。
私は反射的に、ピペットを背中へ隠した。
「これは違ってて」
「何がだ」
「散歩です」
「懐中電灯とピペットを握りしめてか?」
「鍵を返しに来ました」
「鍵は、そこの装置を起動して返却するものなのか」
「電気が来ているか、確認を」
「立入禁止のラボで、実験装置を起動して?」
「…………」
言い訳が全滅した。
「……正直に言うと」
「最初からそうしろ」
「ラボへ忍び込みました」
「見れば分かる」
「できれば、見なかったことにしてもらえませんか」
「できると思うか?」
「そこを、御曹司権限で」
「そのような権限はない。あったとしても、社員の不法な侵入の黙認には使わん」
正論。くっ。顔がいいだけではなく、正論まで強い。だが、ここで一方的に捕まるわけにはいかない。
私はピペットを握ったまま、颯真を睨み返す。
「そもそも、なんであなたがここに?」
「君が来る可能性が高いと思って、ラボの周囲を見張っていた」
「……はい?」
さらりと言われたが、聞き流していい内容ではなかった。
「私が来ると思って、ずっと待っていた?」
「そうだが?」
「怖っ」
思わず、本気の声が出てしまった。
「今朝もそうでしたよね? なぜ私がラボの近くにいると必ず現れるんですか?」
「監視しているからだ」
あっさりと言い放たれた。
「それを世間では、ストーカーとか言うのでは?」
思わず、半歩下がってしまった。吸血鬼からストーキング。洒落にならない。
「勘違いするな。君を見張っていたのは、興味本位からではない」
「じゃあ、なんなんですか?」
「今、会社は君を危険人物として認識している」
「私?」
「社内のサンプルを流出させた疑惑の西城蘭子と、最も近い場所にいた研究員としてだ。監視される十分な理由がある」
「蘭子さんも私も、そんな危険人物ではありません!」
「しかし事実、閉鎖されたラボへ深夜に忍び込み、勝手に会社の資産である分析装置を使おうとしている。もし警備に見つかっていれば、お前は西城と同じように事情を聞かれていた。言い逃れはできない」
「うっ」
颯真の言っていることは間違ってはいない。でも、サンプルを渡してきたのは、そっちなんだが。
「じゃあ、聞かせてください。私が危険人物だというなら、どうして――」
私は鞄のファスナーを開けてポーチを取り出し、透明なパウチを懐中電灯の光へ掲げた。
「どうしてこれを渡したんですか?」
颯真の表情は動かない。
「いつから自社のホットココアのオマケに、機密サンプルを貼り付けるようになったんですか。普通に消費者庁案件ですよ」
王子は返事はない。だが、否定もしない。
私はパウチを持つ指へ力を込めた。
「確認させてください。これが、流出していた新製品のサンプルですよね?」
颯真は、しばらく私の手元を見ていた。
「さあな」
「さあな、って……」
貼ったことすら認めない。口を割る気がないらしい。
「……いいです。認めなくても。でもこれが、流出したサンプルだという前提で話します!」
私は手の中のパウチを強く握り直し、闇の中に浮かぶ純白を見据えた。
「これ、白組が最後に作ったシンヴェールとは違います」
「……」
颯真の目が、ここで初めて、値踏みするように細められた。
「何が違う?」
「白組の最新試作には、肌へ伸ばしきる直前、ごくわずかなざらつきが残っていました。アルフレッドの中空粒子を、完全には均一に分散できていなかったからです。でも、これは違う。ざらつきがない。指先に、凝集の感触がほとんど残らない」
颯真は表情一つ変えず、黙って私の言葉の先を待っている。
「白組の最新試作を、そのまま持ち出したものじゃない。誰かが別の技術を加えて、アルフレッドを安定させています。だから、蘭子さんは無実なんです。持ち出してなんかいない!」
薄暗い地下廊下に、私の声だけが反響して消えた。
数秒の、ひどく重たい沈黙。ややあって、冷ややかな声が飛んできた。
「――それだけか」
「それだけ?」
「ざらつきがない。指先で分かる。君が並べたのは、すべて感覚の話だ」
「そうです! だから調べようとしていたんです」
私は台の上のピペットを指した。
「違和感を見つける。仮説を立てる。測る。数字にする。再現する。そこまでやって、初めて結論です。私は、その途中にいるだけです」
颯真は、何も言わない。私は勢いのまま続けた。
「まず粒径分布を取ります。次に粘度、温度依存性、光の散乱特性。白組の試作サンプルを条件違いで再現して比較する。必要なら遠心分離と加速試験もかけます。中空構造の保持率まで確認するなら電子顕微鏡も――」
「分かった」
「まだ三分の一です」
「十分だ」
颯真は暗いラボを一瞥した。
「君のやりたいことは分かった。だが、このラボを使うのは下策だろう。不法侵入して得たデータに、証拠としての価値はない。機器の校正記録も、サンプルの受け入れ記録も残せない。測定者が深夜に一人で機器を動かし、都合のいい結果だけを持ち出したと主張されたら、反論できるのか。そもそも、君にはこの設備を使う権限がない」
「…………」
そこを言われると、弱い。いや、弱いどころではない。一撃死だ。
「それに、ここは明日の朝から設備の停止作業が始まる。装置は順次撤去され、近いうちにただの倉庫になる予定だ」
「ええっ?!」
私は、思わず粒径測定装置を見た。
たった今まで回っていた画面が、急に遠く見えた。
「そんな……」
「夜中に忍び込んで、実験を続けられる場所ではない」
突き放すような声だった。
温度がない。私の計画も、覚悟も、最初から数に入っていないような言い方だった。
「分かりました」
私はパウチを保冷ポーチへ戻し、ファスナーを閉じた。
「もう、いいです。ここが使えないことは理解しました。ほかを探します」
鞄を肩へ掛け直す。
「大学の共同利用設備。外部の分析会社。最悪、中古機器を自腹で買います。手はまだある。あなたに認めてもらう必要も、頼る理由もありません」
私は出入り口に立つ颯真をまっすぐに見据え、歩き出した。
「……退いてください」
短く言い捨て、彼の脇を強引にすり抜ける。微かに高いスーツの生地が擦れる音がした。颯真は引き留める素振りも見せず、あっさりと私を通した。
物品倉庫へ通じる扉を開けようとした時、
「一つ、言い忘れたことがある」
背中に、低い声が刺さった。私は振り返らないまま、足を止める。
「警察の取り調べを受けていた西城蘭子は、聴取を終えて解放されている」
その一言で、私は振り返る。
「本当ですか?! 蘭子さんは、今どこに」
「自宅だ。会社は自宅待機を命じている。明日以降も任意の聴取が続く」
「自宅待機……」
安堵が、途中で止まった。
「一応、言っておくが、絶対に連絡を取ろうとするな」
「どうしてです?!」
「捜査の中心にいる研究者同士が、この段階で接触すれば、口裏合わせや証拠隠滅を疑われる。連絡したという事実だけで、二人とも立場が悪くなる」
「でも――」
「今ここで君が見つかれば、彼女も説明を求められる。彼女を守りたいなら、感情のまま巻き込まないことだ」
冷たい言葉だった。でも、間違ってはいない。
私はしばらく考え、鞄の紐を握り直した。
「……今夜は、連絡しません」
颯真を見る。
「ただし、あなたの言葉を聞いたからじゃない。状況を確認するまで動かないだけです」
「それでいい」
手の中で、懐中電灯の光が揺れる。
行く場所も、戦う場所も、たった今すべて塞がれた。ラボは撤去される。蘭子さんには近づけない。
私は、もう一度颯真を見上げりう。
私を牽制しておきながら、その手で決定的な証拠を渡してくる。ラボへ来ると予測して待ち伏せ、蘭子さんへ近づくなと止める。
この人のやることは、何ひとつ噛み合わない。目的がまるで読めない。
「……一つだけ、教えて。あなたは、私の敵? それとも、味方?」
颯真は、答えなかった。
夜の闇よりも深い瞳が、ただ静かに私を見下ろしている。肯定も、否定もない。感情を一切読み取らせるつもりのない沈黙だった。
やがて、颯真は薄い唇を開き――
「……分析がしたいか?」
「ええ」
「だったら……」
彼はひどくあっさりと、言った。
「俺の家に来い」
「…………はい?」
思わず、私は間抜けな声を漏らしていた。
