6話:すっぴん白衣型時限爆弾ただしラボなし
私に与えられた席は、広大なフロアのいちばん端の方――巨大な業務用コピー機と、過去の販促カタログが詰まった段ボールの山、その隙間だった。
右、コピー機。左、段ボール。正面は壁で、背後は誰も来ない。完璧な布陣である。仕事をさせる気はないが、逃がす気もないらしい。
窓からは遠くのビル群が見えた。もっとも日当たりは最悪で、ここだけ午後三時を過ぎた地下墓地のように薄暗い。しかも、フロア全体が自由に席を選べるフリーアドレスなのに、ここだけ私専用の固定デスクだった。理由は簡単。誰も座りたくないから。
部署内のシベリア。流刑地。コピー機が故障したときだけ人が訪れる、社内カーストの最果て。そこが、今日からの私の領土である。
「……落ち着く」
思わず呟いた。
地下ラボ育ちの人間は、日当たりの悪い隅へ追いやられると、むしろ少し安心する。
デスクの上には、ノートパソコンがぽつんと一台。今のところ、基幹システムへのログイン権限もない。社内サーバーもほぼ閲覧不可。できることといえば、イントラネットの掲示板を眺め、社食の今週のメニューを確認するくらいだ。
本日の定食、鯖のみそ煮。会社は私から研究を奪ったが、鯖の情報だけは惜しみなく与えてくれる。
一方、そんなシベリアから数メートル離れたフロア中央は、完全に別の国だった。仕切りのない広々とした空間。カフェのような白木のビッグテーブル。体を包み込むようなソファ。最新型のタブレット。天井からは、すべての人間を三割増しで美しく見せる照明が降り注いでいる。
そこに陣取った十数人のキラキラ組が、画面を軽やかにスワイプしながら、和気あいあいと意見を交わしていた。
「この色、やっぱり抜け感ありますよね」
「もう少し大人可愛い方向へ寄せたほうが、今の二十代前半には刺さるかも」
「透明感と多幸感、両方を成立させたいんですよ」
透明感、多幸感、抜け感、刺さる……。
シベリアの冷たい空気を越えて、華やかな単語が次々と飛来する。
どれも測定単位が分からない。透明感は何パーセントから透明なのか。多幸感は何グラム配合すれば足りるのか。抜け感が抜けすぎた場合、どこから回収すればいいのか。
研究棟にいた頃なら、配合率、粒径、粘度、反射率……とかの誰もが共通して確認できる数値をテーブルへ叩きつけ、朝から晩まで殴り合えた。
だが、ここで飛び交う言葉は、すべてふわふわしている。つかめない。量れない。遠心分離機に入れても、おそらく何も沈殿しない。
これがキラキラ組の公用語。通訳が欲しい。
補助業務を担当しろと言われていたが、今のところ誰からも仕事は回ってこない。つまり私は、コピー機の横で大人しく座っていろ、ということ。人間型の予備トナーだ。
ただ、夕方になり、全体会議に呼ばれた私は予備トナーから観葉植物へ昇格した。場所は、フロア中央に設えられた全面ガラス張りのミーティングルーム。外からは丸見え。華やかな仕事をしている姿だけを周囲へ見せつける、巨大なショーケースのような部屋だ。
楕円形の大きなテーブルを囲んでいるのは、プランナーやマーケティング担当などの社員が十五人ほど。
私は末席――ですらなかった。テーブルから離れた壁際の予備の丸椅子に、ぽつん。資料なし。机なし。壁際に飾られたウンベラータと、ほぼ同じ待遇である。
でも、私は黙って耳だけを研ぎ澄ませていた。なぜなら、黒瀬さんが部屋の先頭に立ち、壁面いっぱいのスマートモニターへ映し出した議題が――あれだったからだ。
『次世代ファンデーション・プロジェクト
ブランド名(仮):Blanche《ブランシュ》』
流麗なフォントで描かれたロゴ。その下に、見覚えのある名前があった。
『新規光散乱素材“シンヴェール”搭載』
――シンヴェール。
心臓が、ぎゅっと縮んだ。私たちが、五年かけて地下ラボで育ててきた新基材アルフレッドが使われたファンデーション。
温度を0.5℃間違えればすねる。攪拌を強めれば壊れる。弱めればダマになる。気難しくて、手がかかって、それでも誰よりもきれいな白を見せる――私たちのアルフレッド。だから私たちは五年間、なだめ、すかし、祈り、たまに本気で説教しながら、シンヴェールを育ててきた。
その子がいま、知らない人たちに豪華な服を着せられ、勝手に芸名までつけられて、デビュー会見へ連れ出されている。
「コンセプトは――“塗る、じゃない。まとう”」
黒瀬さんが、凜とした声でプレゼンを始めた。テーブルを囲む全員の顔が、一斉に上がる。
「従来のファンデーションは、肌の欠点を“隠す”ものでした。でも、シンヴェールは違います。肌の上で光を味方につけ、厚塗り感ゼロで、素肌以上の透明感を引き出す」
モニターに、光をまとったモデルの顔が大きく映る。
「ワントーン明るい、“発光する白い肌”を叶える。アルカサスの次世代を担う、下地一体型次世代ベースメイクです」
「おお……」
会議室のあちこちから、感嘆の吐息が漏れた。
……悔しい。ものすごく悔しいが、見せ方はうまい。
シンヴェールの心臓部――中空シリカポリマーのアルフレッドは、光を細かく散乱させることで、顔料を使わずに肌を白く見せる。
私が説明したら、まず「屈折率差」という単語が出る。次に「中空構造」。そのあと「自己組織化」と「散乱強度」。三分後には、聞いている人の半分が目を閉じる。たぶん深い理解へ到達するための瞑想だ。
それを黒瀬さんは、たった一言。
――まとう発光。一般人にも一瞬で分かる言葉へ変換した。
くっ。これがキラキラ組。中身がなくても悔しいが、中身を的確に着飾られると、それはそれで猛烈に悔しい。敵ながら、上手い。きれいな企画書で殴られて、ちょっと痛い。
「価格帯は、デパコス市場の最上位を狙います。限定パッケージには海外の著名アーティストを起用。そして、発売は――半年後です」
半年後……。半年後ですって?
私の頭の中で、警報が鳴った。ウー。ウー。ウー。研究員由芽、緊急起動。
いやいやいやいや。待って。半年後!? そんな話、白組にいたときは一ナノメートルも聞いていない。
私の脳内で、スケジュールが猛烈な勢いで逆算されていく。
発売、半年後。その前にプロモーション、容器製造、充填、物流、店頭配荷……。工場での量産開始は――遅くとも三か月後。
三か月。九十日。春休み、夏休み、冬休みを全部足しても、まだ心細い。その短期間で、完成させるのか?
外部モニターを使ったパッチテスト。アレルギー評価。長期安定性試験。真夏の倉庫を想定した高温。真冬の輸送を想定した低温。
上げる。下げる。振る。放置する。光に当てる。何度も何度も条件を変え、それでも分離せず、変質せず、人の肌を傷つけないと確認して、ようやく商品は世に出せる。
ましてアルフレッドだ。彼は温度が少しずれただけで機嫌を損ねる。攪拌が弱ければ団結し、強ければ自壊する。英国執事の顔をした、乳化界の面倒くさい爆弾である。
それを、あと三か月で量産?
現在の未完成な処方を、外注先へ丸投げして?
正気だろうか? いや、正気なら、こんなスケジュールは引かない。
気づいたときには、私の右手が上がっていた。社会性が腕を押さえるより、研究員の本能のほうが速かった。
「あの、すみません」
ガラス張りの部屋に、私の声が響く。
空気が止まる。
テーブルを囲む十五人が、一斉に振り返った。
「……なに?」
黒瀬さんが、モニターの前から冷ややかな視線を投げてくる。
「半年後は、絶対に無理だと思います」
ざわり。会議室の空気が揺れる。
「朝も言いましたがシンヴェールは、まだ安定性が出ていません。保管温度が数度ずれただけでも、水相と油相が分離する可能性があります」
私は立ち上がった。もう丸椅子へ引き返せない。
「アルフレッドの中空構造は、ものすごく壊れやすいんです。攪拌を強くすれば白さが消える。弱くすれば凝集して、ざらつきが出る。さらに言えば、ラボで作る数百グラムと、工場で作る数トンでは、条件がまったく違います」
全員、黙っている。私は構わず続けた。
「ラボレベルですら安定化技術もできてない、その上、量産条件も確立していない。長期試験も終わっていない。その状態で半年後発売なんて、不可能です」
黒瀬さんの眉が、わずかに動いた。
「不可能かどうかを決めるのは、あなたではないわ」
「化学反応は、経営会議の多数決に従いませんよ」
言ってしまった。でも、本当のことだ。
乳化は忖度しない。粒子は空気を読まない。
社長が命じても、分離するものは分離する。
「もし製品の中で分離や変質が起きたら、お客様の肌へは絶対に乗せられません。私たちメーカーが第一に優先すべきなのは、発売日でも見せ方でもない。安全と品質のはずです」
一拍。二拍。部屋の空調音だけが、やけに大きく聞こえた。
やがて黒瀬さんは、手にしていたレーザーポインターを、ゆっくりとテーブルへ置いた。
「お客様が第一」
ふっ、と鼻で笑う。
「そんなこと、ビジネスとして当然でしょう。だからこそ、一日でも早く、この新しい価値をお客様へ届けるの」
「届けた先で肌トラブルが起きたら、価値じゃなくて事故です」
「そのためにテストをするのよ」
「だから、そのテスト期間が圧倒的に足りないと言ってるんです! 外部モニターを含めた長期評価だけでも――」
「ああ。それなら心配いらないわ」
黒瀬さんは、まるで私が古い社内規定を心配しているだけのように、軽く言った。
「今回から、開発プロセス全体が見直されたの。従来の冗長なテスト期間は、大幅に短縮されることが決まったわ」
私の思考が、一瞬だけ停止した。
「短縮?」
「ええ」
「安全性試験を? 長期安定性試験を?」
「そう。効率化の一環。やらないわけじゃないわ。不必要な試験を辞めるだけ」
「それを世間では、端折ると言いませんか?」
「経営層の決定よ。スピード感のない古いやり方では、今の市場では勝てないの」
来た。スピード感……。無茶な計画を高速で正当化するとき、だいたい登場する便利な乗り物。急げ! でなく、スピード”感”。フィーリングだから、いかに無茶なスケジュールでも丸め込めてしまう。
「それに……」
黒瀬さんはカールされた長いまつ毛越しに、冷たい視線で私を見ていた。その口元には底の浅い同情を装ったような、残酷な笑みが浮かんでいる。
「それに、できないっていうのは、“白組にはできない”、って話でしょう?」
胸の奥を、鋭いものが貫いた。
「……え?」
「”あなたたちは”、五年かけても、完成させられなかった。違うかしら?」
「ち、違いませんが……」
「だったら、あなたたち以外の優秀な人間がやれば、一か月でできる可能性だってあるってことでしょ」
黒瀬さんは、小首を傾げてふっと鼻で笑った。
「素材のデータは、もう手元にある。あとは商品として形にし、正しく売るだけ。……安定化だっけ? そういう面倒で細かい成分の調整は、専門の外注先が上手く仕上げてくれるわ。長ったらしいモニターテストも含めてね」
そう言って、黒瀬さんは壊れた旧式の機械を見るような目で私を見る。
「だからあなたは、そこで大人しく座っていて」
会議室のあちこちから、小さな笑い声が湧き上がる。
私はゆっくりと丸椅子へ腰を下ろした。唇を強く噛んで、拳を握りしめながら……。
黒瀬さんたちは本気で信じている。白組が遺したデータを外注先へ渡せば、新商品は出来上がり、半年後には、“発光する白い肌”として、華々しく売り出せると。
確かにそれはできるかもしれない。白衣のポケットの中にある“きれいなアルフレッド”のサンプルを作る技術があれば。ただ、それを彼女の言う”専門の外注先”が作れるとは限らない……。
そんな処方を、試験期間まで削って、数十万、数百万人の顔へ配布? ありえないことだ。
だからと言って、勝手に失敗すればいい、とは思えない。
素人が研究開発へ手を出して、盛大に分離させればいい。容器から油が出てきたところで、「だから言ったでしょう」と高笑いしてやる、とも絶対に思えない。
だって、それで傷つくのは黒瀬さんのプライドだけじゃなく、お客様の肌もだから。
もし欠陥品が「Blanche」として世に出ようとするなら――。
止める。何をしてでも止める。
工場の生産ラインへ飛び込む。経営会議へ怒鳴り込む。新商品発表会でマイクを奪う。最悪、メディアへ欠陥の証拠をばら撒いて、アルカサスごと大炎上させる。
会社員人生? 知らん。懲戒処分? あとで考える。お客様の肌を、会社の効率化とか、キラキラした無謀なスケジュールの犠牲になんてさせない。
私の自爆で止められるなら、喜んで爆発してやる。
すっぴん白衣型時限爆弾である。
私は膝の上でノートを開き、誰にも見えない角度で、激しくペンを走らせる。
『絶対に止める』
二重丸で囲む。
『自爆可』
私は最後の一文字を書き終え、鼻息荒くペンを置いた。
よし。やることは決まった。結局、朝と何も変わっていない。
一言で言うと、純白のサンプルを分析して、私たちの処方との違いを数値で証明するのだ。あの“きれいなアルフレッド”の正体を暴いて、蘭子さんの無実も証明して、Blancheの暴走も止める……。
――と、そこまで考えたところで。
「……あれ?」
私は顔を上げた。
ガラスの向こうに広がる、キラキラ組のフロアを見渡す。
白木のテーブルに、ふかふかのソファ、そして最新のタブレット。肌をきれいに見せる照明に、いい匂いのするアロマと観葉植物、コピー機。以上。
では、問題です。
私は一体――どこで分析するのでしょうか。
私は一つ一つ、分析に必要なものを心の中で指差呼称していく。
遠心分離機! なしっ!
恒温槽! なしっ!
粒径測定装置! なしっ!
電子顕微鏡! なしっ!
粘度計! なしっ!
ホモミキサー! なしっ!
ビーカー! なしっ!
スポイト! なしっ!
pH試験紙! なしっ!
多幸感では粒径を測れない。抜け感では乳化できない。エモさをいくら攪拌しても、証拠にはならない。中学校の理科室のほうが、まだ戦力になるレベル。
会社に残ると決めた。戦う覚悟も固めた。なのに、肝心の戦場がない。研究データは奪われた。アクセス権も剥がされた。地下ラボは封鎖された。分析機器は、一台残らずあの扉の向こう。そして私は、コピー機の横だ。
「あれ?…詰んでない?」
小さく呟いた。
完璧だったはずの反撃計画が、開始一秒で設備不足により停止。武器はある。弾もある。分析すべきターゲットもポケットの中にある。
だけど――。
私にはもう、それを撃つためのラボが、どこにもない。
私に与えられた席は、広大なフロアのいちばん端の方――巨大な業務用コピー機と、過去の販促カタログが詰まった段ボールの山、その隙間だった。
右、コピー機。左、段ボール。正面は壁で、背後は誰も来ない。完璧な布陣である。仕事をさせる気はないが、逃がす気もないらしい。
窓からは遠くのビル群が見えた。もっとも日当たりは最悪で、ここだけ午後三時を過ぎた地下墓地のように薄暗い。しかも、フロア全体が自由に席を選べるフリーアドレスなのに、ここだけ私専用の固定デスクだった。理由は簡単。誰も座りたくないから。
部署内のシベリア。流刑地。コピー機が故障したときだけ人が訪れる、社内カーストの最果て。そこが、今日からの私の領土である。
「……落ち着く」
思わず呟いた。
地下ラボ育ちの人間は、日当たりの悪い隅へ追いやられると、むしろ少し安心する。
デスクの上には、ノートパソコンがぽつんと一台。今のところ、基幹システムへのログイン権限もない。社内サーバーもほぼ閲覧不可。できることといえば、イントラネットの掲示板を眺め、社食の今週のメニューを確認するくらいだ。
本日の定食、鯖のみそ煮。会社は私から研究を奪ったが、鯖の情報だけは惜しみなく与えてくれる。
一方、そんなシベリアから数メートル離れたフロア中央は、完全に別の国だった。仕切りのない広々とした空間。カフェのような白木のビッグテーブル。体を包み込むようなソファ。最新型のタブレット。天井からは、すべての人間を三割増しで美しく見せる照明が降り注いでいる。
そこに陣取った十数人のキラキラ組が、画面を軽やかにスワイプしながら、和気あいあいと意見を交わしていた。
「この色、やっぱり抜け感ありますよね」
「もう少し大人可愛い方向へ寄せたほうが、今の二十代前半には刺さるかも」
「透明感と多幸感、両方を成立させたいんですよ」
透明感、多幸感、抜け感、刺さる……。
シベリアの冷たい空気を越えて、華やかな単語が次々と飛来する。
どれも測定単位が分からない。透明感は何パーセントから透明なのか。多幸感は何グラム配合すれば足りるのか。抜け感が抜けすぎた場合、どこから回収すればいいのか。
研究棟にいた頃なら、配合率、粒径、粘度、反射率……とかの誰もが共通して確認できる数値をテーブルへ叩きつけ、朝から晩まで殴り合えた。
だが、ここで飛び交う言葉は、すべてふわふわしている。つかめない。量れない。遠心分離機に入れても、おそらく何も沈殿しない。
これがキラキラ組の公用語。通訳が欲しい。
補助業務を担当しろと言われていたが、今のところ誰からも仕事は回ってこない。つまり私は、コピー機の横で大人しく座っていろ、ということ。人間型の予備トナーだ。
ただ、夕方になり、全体会議に呼ばれた私は予備トナーから観葉植物へ昇格した。場所は、フロア中央に設えられた全面ガラス張りのミーティングルーム。外からは丸見え。華やかな仕事をしている姿だけを周囲へ見せつける、巨大なショーケースのような部屋だ。
楕円形の大きなテーブルを囲んでいるのは、プランナーやマーケティング担当などの社員が十五人ほど。
私は末席――ですらなかった。テーブルから離れた壁際の予備の丸椅子に、ぽつん。資料なし。机なし。壁際に飾られたウンベラータと、ほぼ同じ待遇である。
でも、私は黙って耳だけを研ぎ澄ませていた。なぜなら、黒瀬さんが部屋の先頭に立ち、壁面いっぱいのスマートモニターへ映し出した議題が――あれだったからだ。
『次世代ファンデーション・プロジェクト
ブランド名(仮):Blanche《ブランシュ》』
流麗なフォントで描かれたロゴ。その下に、見覚えのある名前があった。
『新規光散乱素材“シンヴェール”搭載』
――シンヴェール。
心臓が、ぎゅっと縮んだ。私たちが、五年かけて地下ラボで育ててきた新基材アルフレッドが使われたファンデーション。
温度を0.5℃間違えればすねる。攪拌を強めれば壊れる。弱めればダマになる。気難しくて、手がかかって、それでも誰よりもきれいな白を見せる――私たちのアルフレッド。だから私たちは五年間、なだめ、すかし、祈り、たまに本気で説教しながら、シンヴェールを育ててきた。
その子がいま、知らない人たちに豪華な服を着せられ、勝手に芸名までつけられて、デビュー会見へ連れ出されている。
「コンセプトは――“塗る、じゃない。まとう”」
黒瀬さんが、凜とした声でプレゼンを始めた。テーブルを囲む全員の顔が、一斉に上がる。
「従来のファンデーションは、肌の欠点を“隠す”ものでした。でも、シンヴェールは違います。肌の上で光を味方につけ、厚塗り感ゼロで、素肌以上の透明感を引き出す」
モニターに、光をまとったモデルの顔が大きく映る。
「ワントーン明るい、“発光する白い肌”を叶える。アルカサスの次世代を担う、下地一体型次世代ベースメイクです」
「おお……」
会議室のあちこちから、感嘆の吐息が漏れた。
……悔しい。ものすごく悔しいが、見せ方はうまい。
シンヴェールの心臓部――中空シリカポリマーのアルフレッドは、光を細かく散乱させることで、顔料を使わずに肌を白く見せる。
私が説明したら、まず「屈折率差」という単語が出る。次に「中空構造」。そのあと「自己組織化」と「散乱強度」。三分後には、聞いている人の半分が目を閉じる。たぶん深い理解へ到達するための瞑想だ。
それを黒瀬さんは、たった一言。
――まとう発光。一般人にも一瞬で分かる言葉へ変換した。
くっ。これがキラキラ組。中身がなくても悔しいが、中身を的確に着飾られると、それはそれで猛烈に悔しい。敵ながら、上手い。きれいな企画書で殴られて、ちょっと痛い。
「価格帯は、デパコス市場の最上位を狙います。限定パッケージには海外の著名アーティストを起用。そして、発売は――半年後です」
半年後……。半年後ですって?
私の頭の中で、警報が鳴った。ウー。ウー。ウー。研究員由芽、緊急起動。
いやいやいやいや。待って。半年後!? そんな話、白組にいたときは一ナノメートルも聞いていない。
私の脳内で、スケジュールが猛烈な勢いで逆算されていく。
発売、半年後。その前にプロモーション、容器製造、充填、物流、店頭配荷……。工場での量産開始は――遅くとも三か月後。
三か月。九十日。春休み、夏休み、冬休みを全部足しても、まだ心細い。その短期間で、完成させるのか?
外部モニターを使ったパッチテスト。アレルギー評価。長期安定性試験。真夏の倉庫を想定した高温。真冬の輸送を想定した低温。
上げる。下げる。振る。放置する。光に当てる。何度も何度も条件を変え、それでも分離せず、変質せず、人の肌を傷つけないと確認して、ようやく商品は世に出せる。
ましてアルフレッドだ。彼は温度が少しずれただけで機嫌を損ねる。攪拌が弱ければ団結し、強ければ自壊する。英国執事の顔をした、乳化界の面倒くさい爆弾である。
それを、あと三か月で量産?
現在の未完成な処方を、外注先へ丸投げして?
正気だろうか? いや、正気なら、こんなスケジュールは引かない。
気づいたときには、私の右手が上がっていた。社会性が腕を押さえるより、研究員の本能のほうが速かった。
「あの、すみません」
ガラス張りの部屋に、私の声が響く。
空気が止まる。
テーブルを囲む十五人が、一斉に振り返った。
「……なに?」
黒瀬さんが、モニターの前から冷ややかな視線を投げてくる。
「半年後は、絶対に無理だと思います」
ざわり。会議室の空気が揺れる。
「朝も言いましたがシンヴェールは、まだ安定性が出ていません。保管温度が数度ずれただけでも、水相と油相が分離する可能性があります」
私は立ち上がった。もう丸椅子へ引き返せない。
「アルフレッドの中空構造は、ものすごく壊れやすいんです。攪拌を強くすれば白さが消える。弱くすれば凝集して、ざらつきが出る。さらに言えば、ラボで作る数百グラムと、工場で作る数トンでは、条件がまったく違います」
全員、黙っている。私は構わず続けた。
「ラボレベルですら安定化技術もできてない、その上、量産条件も確立していない。長期試験も終わっていない。その状態で半年後発売なんて、不可能です」
黒瀬さんの眉が、わずかに動いた。
「不可能かどうかを決めるのは、あなたではないわ」
「化学反応は、経営会議の多数決に従いませんよ」
言ってしまった。でも、本当のことだ。
乳化は忖度しない。粒子は空気を読まない。
社長が命じても、分離するものは分離する。
「もし製品の中で分離や変質が起きたら、お客様の肌へは絶対に乗せられません。私たちメーカーが第一に優先すべきなのは、発売日でも見せ方でもない。安全と品質のはずです」
一拍。二拍。部屋の空調音だけが、やけに大きく聞こえた。
やがて黒瀬さんは、手にしていたレーザーポインターを、ゆっくりとテーブルへ置いた。
「お客様が第一」
ふっ、と鼻で笑う。
「そんなこと、ビジネスとして当然でしょう。だからこそ、一日でも早く、この新しい価値をお客様へ届けるの」
「届けた先で肌トラブルが起きたら、価値じゃなくて事故です」
「そのためにテストをするのよ」
「だから、そのテスト期間が圧倒的に足りないと言ってるんです! 外部モニターを含めた長期評価だけでも――」
「ああ。それなら心配いらないわ」
黒瀬さんは、まるで私が古い社内規定を心配しているだけのように、軽く言った。
「今回から、開発プロセス全体が見直されたの。従来の冗長なテスト期間は、大幅に短縮されることが決まったわ」
私の思考が、一瞬だけ停止した。
「短縮?」
「ええ」
「安全性試験を? 長期安定性試験を?」
「そう。効率化の一環。やらないわけじゃないわ。不必要な試験を辞めるだけ」
「それを世間では、端折ると言いませんか?」
「経営層の決定よ。スピード感のない古いやり方では、今の市場では勝てないの」
来た。スピード感……。無茶な計画を高速で正当化するとき、だいたい登場する便利な乗り物。急げ! でなく、スピード”感”。フィーリングだから、いかに無茶なスケジュールでも丸め込めてしまう。
「それに……」
黒瀬さんはカールされた長いまつ毛越しに、冷たい視線で私を見ていた。その口元には底の浅い同情を装ったような、残酷な笑みが浮かんでいる。
「それに、できないっていうのは、“白組にはできない”、って話でしょう?」
胸の奥を、鋭いものが貫いた。
「……え?」
「”あなたたちは”、五年かけても、完成させられなかった。違うかしら?」
「ち、違いませんが……」
「だったら、あなたたち以外の優秀な人間がやれば、一か月でできる可能性だってあるってことでしょ」
黒瀬さんは、小首を傾げてふっと鼻で笑った。
「素材のデータは、もう手元にある。あとは商品として形にし、正しく売るだけ。……安定化だっけ? そういう面倒で細かい成分の調整は、専門の外注先が上手く仕上げてくれるわ。長ったらしいモニターテストも含めてね」
そう言って、黒瀬さんは壊れた旧式の機械を見るような目で私を見る。
「だからあなたは、そこで大人しく座っていて」
会議室のあちこちから、小さな笑い声が湧き上がる。
私はゆっくりと丸椅子へ腰を下ろした。唇を強く噛んで、拳を握りしめながら……。
黒瀬さんたちは本気で信じている。白組が遺したデータを外注先へ渡せば、新商品は出来上がり、半年後には、“発光する白い肌”として、華々しく売り出せると。
確かにそれはできるかもしれない。白衣のポケットの中にある“きれいなアルフレッド”のサンプルを作る技術があれば。ただ、それを彼女の言う”専門の外注先”が作れるとは限らない……。
そんな処方を、試験期間まで削って、数十万、数百万人の顔へ配布? ありえないことだ。
だからと言って、勝手に失敗すればいい、とは思えない。
素人が研究開発へ手を出して、盛大に分離させればいい。容器から油が出てきたところで、「だから言ったでしょう」と高笑いしてやる、とも絶対に思えない。
だって、それで傷つくのは黒瀬さんのプライドだけじゃなく、お客様の肌もだから。
もし欠陥品が「Blanche」として世に出ようとするなら――。
止める。何をしてでも止める。
工場の生産ラインへ飛び込む。経営会議へ怒鳴り込む。新商品発表会でマイクを奪う。最悪、メディアへ欠陥の証拠をばら撒いて、アルカサスごと大炎上させる。
会社員人生? 知らん。懲戒処分? あとで考える。お客様の肌を、会社の効率化とか、キラキラした無謀なスケジュールの犠牲になんてさせない。
私の自爆で止められるなら、喜んで爆発してやる。
すっぴん白衣型時限爆弾である。
私は膝の上でノートを開き、誰にも見えない角度で、激しくペンを走らせる。
『絶対に止める』
二重丸で囲む。
『自爆可』
私は最後の一文字を書き終え、鼻息荒くペンを置いた。
よし。やることは決まった。結局、朝と何も変わっていない。
一言で言うと、純白のサンプルを分析して、私たちの処方との違いを数値で証明するのだ。あの“きれいなアルフレッド”の正体を暴いて、蘭子さんの無実も証明して、Blancheの暴走も止める……。
――と、そこまで考えたところで。
「……あれ?」
私は顔を上げた。
ガラスの向こうに広がる、キラキラ組のフロアを見渡す。
白木のテーブルに、ふかふかのソファ、そして最新のタブレット。肌をきれいに見せる照明に、いい匂いのするアロマと観葉植物、コピー機。以上。
では、問題です。
私は一体――どこで分析するのでしょうか。
私は一つ一つ、分析に必要なものを心の中で指差呼称していく。
遠心分離機! なしっ!
恒温槽! なしっ!
粒径測定装置! なしっ!
電子顕微鏡! なしっ!
粘度計! なしっ!
ホモミキサー! なしっ!
ビーカー! なしっ!
スポイト! なしっ!
pH試験紙! なしっ!
多幸感では粒径を測れない。抜け感では乳化できない。エモさをいくら攪拌しても、証拠にはならない。中学校の理科室のほうが、まだ戦力になるレベル。
会社に残ると決めた。戦う覚悟も固めた。なのに、肝心の戦場がない。研究データは奪われた。アクセス権も剥がされた。地下ラボは封鎖された。分析機器は、一台残らずあの扉の向こう。そして私は、コピー機の横だ。
「あれ?…詰んでない?」
小さく呟いた。
完璧だったはずの反撃計画が、開始一秒で設備不足により停止。武器はある。弾もある。分析すべきターゲットもポケットの中にある。
だけど――。
私にはもう、それを撃つためのラボが、どこにもない。
