「化学をお見せします」
背後の巨大スクリーンが、一斉に純白へ染まった。
中央に浮かび上がったのは、一個の小さな球体。薄い膜に包まれ、その内部は空洞になっている。
「これが、シンヴェールの心臓部――中空ポリマーの粒子、私たちがアルフレッドと呼んでいるものです」
画面の中で、球体が何百倍、何千倍へと拡大されていく。
「ものすごく小さな、空洞のシャボン玉だと思ってください。外側の膜と、内側に閉じ込められた空気。その二つが光を複雑に反射することで、白い顔料を使わずに、透明感のある純白を生み出します」
アルフレッドへ光が差し込む。
光は球体の表面と内部で何度も屈折し、柔らかな純白となって周囲へ広がった。
「ですが、このアルフレッドには致命的な弱点がありました。イギリス紳士のように気難しいのです」
画面の左右から、巨大なミキサーの刃が迫る。
「壊れないように、優しく混ぜなければならない」
回転数を落とした刃の周囲で、アルフレッド同士が次々とくっつき、大きな塊になった。
「でも、ダマを作らないためには、強く混ぜなければならない」
刃が高速回転へ切り替わる。
今度はアルフレッドが次々と潰れ、内部の空気が抜けて、白い光が消えていく。
「先ほど説明いたしましたシンヴェールは、この問題を、アルフレッドの一粒一粒へハイドロゲルの装甲を与えることで解決しました」
スクリーンに、シャンパンゴールドの光が走った。アルフレッドの周囲を、透明な膜が包み込む。
「とても強く、完成度の高い技術です。長時間崩れず、隙のない、均一な肌を作ることができる」
私は、シャンパンゴールドの容器を手に取った。
「ですが、私たちは別の答えを選びました」
ゴールドの光が消える。
代わりに、アイスブルーの光がスクリーンを満たした。
「一粒ずつを、硬い殻で守るのではありません」
アルフレッドの周囲へ、水と油が交互に重なった、柔らかな層が生まれる。
それらは幾重にも連なり、立体的な網の目へ変化していく。
「周囲の成分と手をつながせ、全体で支えることにしたんです」
巨大な刃が、再び回転を始めた。
網の目は、トランポリンのように大きくたわみ、衝撃を受け流す。
一部が切り裂かれる。
だが、次の瞬間。
離れた網の目が再び引き寄せられ、元の形へ戻った。
「クリームのベースとなる水分と良質な保湿オイルを、肌の角質層に似た層状の構造へ並べました。それを三次元へつなぎ、アルフレッドを包み込むように支えます」
スクリーンへ、技術名が浮かび上がる。
『自己修復型・3Dラメラネットワーク』
「この網の目は、強い力を受けたときには一度ほどけ、衝撃を逃がします。そして、力がなくなれば、すぐにつながり直します」
刃が高速で回り網の目が切れても、すぐにつながるムービーが表示される。それが繰り返される。
「だから、強く混ぜてもアルフレッドは壊れない。しかも、粒子同士が近づきすぎないよう網の目が支えるため、ダマにもならない」
画面の中で、無数のアルフレッドが一定の距離を保ったまま、純白の光を放っている。
「そして、肌へ塗ったときには――」
人間の肌を模したCGへ、アイスブルーのクリームが触れた。
体温と皮脂に反応し、網の目が、閉じられたジッパーを開くようにほどけていく。
アルフレッドだけが、肌の凹凸に沿って均一に広がる。
「三十六度前後の体温と皮脂に触れた瞬間、網の目は液状化します。硬い殻も、砕けた破片も残さない。肌の構造へ溶け込むようにほどけるから、あの軽さと素肌感を作ることができるんです」
客席のあちこちから、「あぁ……」と納得する声が漏れた。
さっきからアイスブルーのクリームを塗っていたインフルエンサーたちが、自分の手の甲を見つめ直し、しきりに頷いている。
シャンパンゴールド。
アイスブルー。
二つの映像が、並んだ。
「ハイドロゲル装甲は、アルフレッドを一粒ずつ守る技術です」
ゴールドの光が、強く輝く。
「3Dラメラネットワークは、周囲のすべてでアルフレッドを支える技術です」
アイスブルーの光が、柔らかく広がる。
「一日中、隙のない肌を保ちたい日には、シンヴェール。軽く柔らかな素肌感を楽しみたい日には、ネオ・シンヴェール」
私は、二つの容器を並べた。
「正解は、一つではありません。なりたい肌によって、選べばいいんです」
納得と共感のざわめきが一気に広がり、やがて会場全体から温かく、力強い拍手が沸き起こった。
よし、伝わった。
専門用語の深い沼へ沈ませずに、説明できた。
事前に黒瀬さんの助言を聞いておいてよかった。
私は小さく息を吐き、胸を撫で下ろす――。
その時、
壇上の端で、スッと凛とした手が上がった。
「一つ、質問してもいいかしら」
凛とした声が、拍手を切り裂いた。
蘭子さんだった。
壇上の端に立ち、アイスブルーの容器を手にしている。銀縁眼鏡の奥から発せられるのは、新技術に挑もうとする研究者の鋭い視線だ。
しかし、次の瞬間。
「お待ちしておりました、西城所長!」
黒瀬さんの声が、ホールへ高らかに響いた。
どこからともなくスタッフが現れ、蘭子さんへワイヤレスマイクを差し出す。
同時に、スクリーンが切り替わった。
燃え上がるシャンパンゴールド。
吹き荒れるアイスブルー。
中央へ、巨大な銀色の文字が激突する。
『”RANKO” VS ”YUME”』
「えっ」
思わず、間の抜けた声が出た。
私から。
いつの間に、こんなものを。
「はい、皆様! ここからは、当イベント第二部!! 化粧品専門家同士による、予定調和一切なしのガチバトルです!」
「は?!」
聞いてない。
第二部があるなんて、私は一言も聞いていない。
黒瀬さんと目が合った。
真っ赤な唇が、凶悪なほど綺麗に笑っていた。
――想定どおりよ。
何がや。
巨大スクリーンの隅には、千夏の姿が映っていた。照明卓へタブレットを接続し、満面の笑みで親指を立てている。
裏切り者が、もう一人いた。
「では、伺わせていただきます。ラメラネットワークですが」
蘭子さんは背後で爆発し続ける恥ずかしい演出など意に介する様子もなく、質問を始めた。その目は完全に、学会の質疑応答で食らいついてくる他社の研究員の顔だ。
同時に、スクリーンではシャンパンゴールドのゲージが最大まで跳ね上がる演出が現れた。
「確かに自己修復するラメラ構造は魅力的だけど、工場の巨大なホモミキサーが生むあの暴力的な剪断力に、繊細な網の目がズタズタに引き裂かれて終わりのはずよ。どうやって都合よく自己修復させるというの?」
スクリーンに、即座に注釈が表示された。
『※剪断力:高速回転する刃が、中身を引きずり、切り裂く力。ミキサーに慈悲はない。』
注釈まで用意されている。
千夏。あなた、その仕込み、いつから?
「ええ。通常なら破綻します」
私は反射的に打ち返した。
「ですから私たちは、その後の攪拌しながら冷却する過程で、意図的に相転移を起こすことで自己修復させたんです!」
『※相転移:温度によって、水と油の並び方が劇的に変化する現象。クリームの変身タイム。』
私の言葉が、アイスブルーの光弾となって発射された。
『ガキィィィン!』
蘭子さんのゴールドの盾へ激突する。数字とグラフが火花になって飛び散った。
「相転移!?」
蘭子さんが一歩、こちらへ踏み出した。
「液晶状態を経由させたと? それには、極めて厳密な温度勾配が必要なはずよ。コンマ一度の冷却速度のずれが、全ロットの廃棄に直結する。工場の巨大な釜で、そんな繊細な温度管理ができるとは思えませんが」
『※温度勾配:どの速さで、どの順番で温度を変えるか。コンマ一度を笑う者は、全ロット廃棄に泣く。』
「そこは、特殊な双子型界面活性剤を微量添加することで、液晶構造が安定する温度領域を広げました!」
『※双子型界面活性剤:水と油を仲介する部分を二つ持つ、双子のような強力な仲人。』
アイスブルーのゲージが、さらに上がる。
「攪拌羽根の回転数と冷却曲線を完全に同期させる制御プログラムも組んであります! 工場スケールで三十ロット、すべて同じ構造を再現済みです!」
『※工場スケール:ビーカーではなく、もはや人間が入れそうな巨大釜。入ってはいけない。』
『ドガァァァン!』
巨大な攪拌羽根のCGが、蘭子さんの盾を正面から打ち砕いた。
でも、蘭子さんは止まらない。
むしろ、楽しそうに言い返してくる
「それでは極性オイルの溶解度が落ちる。成分同士が弾き合って、あの羽のように軽い使用感は出せないはず!」
『※極性オイル:肌になじみやすい、しっとり系の油分。仲間を選ぶ、少し気難しい子。』
「極性をずらすため、水相側へ微量の低分子ポリオールを噛ませました!」
『※低分子ポリオール:水に溶けやすい保湿成分。今回は、気難しい成分同士の通訳担当。』
「界面張力を限界まで下げて、オイルを網の目の中へ格納したんです!」
『※界面張力:水と油が互いに「こっちへ来るな」と押し返す力。人間関係にもよくある。』
『ズバァァァン!』
アイスブルーの刃が、ゴールドの光弾を真っ二つに切り裂いた。
「なにこれ……」
「よく分からないけど、すごい戦いになってる……」
「今、どっちが勝ってるの?」
「画面では青い方がちょっと押してる??」
さっきまで目を輝かせていたインフルエンサーたちの頭上に、見えない疑問符が次々と浮かんでいる。
「装甲を持たないネットワークなら、時間の経過で必ずオストワルド熟成が起きる!」
『※オストワルド熟成:小さな粒子が減り、大きな粒子ばかりが育ってしまう現象。クリームの世界における、望まれざる成長期。』
「アルフレッドの表面へ、立体障害を持つ高分子ポリマーをアンカーとして打ち込みました!」
『※立体障害:分子同士が物理的に邪魔をして、近づけなくする効果。満員電車とほぼ同じ。』
「五十度の恒温槽で三ヶ月! 粒度分布のピークは、一ナノメートルもずれていません!」
『バゴォォォン!』
私の背後で、巨大な恒温槽が爆発した。
もちろん、CGである。
現実の恒温槽が爆発していたら、私は今すぐイベントを中止して避難誘導を始めている。
「そんなにポリマーと界面活性剤を組み込んだら、降伏値が跳ね上がる!」
『※降伏値:クリームが動き始めるまでに必要な最初の力。高すぎると、塗るだけでちょっとした筋力トレーニングになる。』
「なりません! 網の目は、肌の角質層にあるラメラ構造を模したバイオミメティクスです! 体温三十六度と、皮脂に含まれるオレイン酸に触れた瞬間、ジッパーが外れるように網の目が液状化します!」
『※バイオミメティクス:自然界からの全力カンニング。』
『※オレイン酸:人間の皮脂のヤツ。』
あまりの速さに千夏の説明が雑になってきた。
「塗布時の摩擦係数は、従来品より三十八パーセント低下! テープストリッピング試験で回収された角質量も、二十七パーセント減少しています! そして、本日お配りしたものも、安定性試験、安全性試験、量産設備での製造試験、そして輸送試験。そのすべてを終えた最終製品です!」
『※つまり:今回は、本当に完成してから配りました。たいへん重要。』
最後の注釈だけ、文字が異様に大きかった。
あれは黒瀬さんの指示だ。
間違いない。
「…………!」
蘭子さんの唇が、わずかに開いた。
でも、反論は続かなかった。
私はすべての穴を、塞いだ。
蘭子さんのシャンパンゴールドのゲージが、静かに停止し、私のアイスブルーのゲージも、同じところで止まる。
そこへ。
「はい、ストォォォップ!!」
黒瀬さんの声が、すべてを薙ぎ払った。
『パァン!』
ショッキングピンクの閃光が迸った。
二人の間へスポットライトが落ち、黒瀬さんが勢いよく割って入る。
「そこまでです、化粧品オタ――もといエンジニアのお二人!」
「今、オタクって言いそうになっていませんでした?」
「気のせいです」
黒瀬さんは一切の動揺を見せず、客席へ向き直った。
「申し訳ございません。二人とも、専門分野へ入ると周囲の存在を忘れる習性がございます」
黒瀬さんは、シャンパンゴールドとアイスブルー、二つの容器を高く掲げた。
「難しい話は、すべて忘れていただいて結構です! 要するに、ここにいる二人が、それぞれ別の方法で、完璧な魔法を完成させたということを覚えていただければ!」
スクリーンに、二つの光が走る。
シャンパンゴールドの光は、一粒ずつを強く守る。
アイスブルーの光は、柔らかな網の目で全体を支える。
「一日中、隙のない、凛とした肌へ――」
ゴールドの容器が、まばゆく輝く。
「装甲のシンヴェール!」
歓声が上がる。
「肌へ柔らかくほどける、軽やかな透明感を――」
アイスブルーの容器が、純白の光を放つ。
「素肌のネオ・シンヴェール!」
さらに大きな歓声。
「二つの技術! 二つの美しさ! どちらか一つを選ぶ必要はございません!」
「両方!」
客席から声が飛んだ。
「両方買う!」
「ありがとうございます!」
黒瀬さんが、満面の笑みで応じた。
「新生『Blanche』――シンヴェール、ネオ・シンヴェール!」
二つの容器が、巨大スクリーンの中央へ並ぶ。
「同時発売、決定です!」
『ドォォォン――!!』
重低音が復活した。
ステージの左右に設置されたキャノン砲が火を噴き、銀色の紙吹雪がホールいっぱいに撃ち出される。
歓声、拍手、フラッシュ、紙吹雪の嵐……。
ライブ配信のコメントが、スクリーンの端を滝のように流れていく。
『ゴールド派!』
『ブルー派!』
『両方予約する!』
『情報量エグすぎて脳がショートしたw』
『両方予約確定です本当にありがとうございました』
『注釈芸人だれwww』
照明卓の千夏が、客席から見えない位置で、誇らしげに胸を張っていた。
こうして――。
交わるはずのなかった無数の思いを、まるで一つの巨大なビーカーでかき混ぜるように。
新生『Blanche』のお披露目イベントは、かつてない熱とまばゆい純白の光を集めたまま、最高のフィナーレを迎えたのだった。
* * *
最後の招待客が会場をあとにしたのは、それから二時間後だった。
音楽は止まり。
ムービングライトも消え。
ついさっきまで数百人の熱狂で満ちていたホールには、祭りのあとの静けさが広がっている。
銀色の紙吹雪だけが、大理石の床に残っていた。
私はステージのへりへ腰を下ろし、スニーカーの足をぶらぶらと揺らしていた。
客席の最前列には、蘭子さんが一人で座っている。
アイスブルーの容器を両手で包み、長い間、何も言わずに見つめていた。
「……あの」
沈黙に耐えきれず、私が口を開いた。
「さっきの質問、かなり細かいところまで突っこんできましたね」
「あなたなら、あれくらい答えられると思っていたもの。おかげで、ネオ・シンヴェールのポイントは分かった」
「やっぱり、探っていたんですね。でも、残念でした。先週、作成技術は知財化済ですよ」
「知ってる? 特許侵害を証明するのって発明するのよりもハードル高いのよ」
「え、ええ、そうなんですか?」
蘭子さんは、小さく笑って「冗談よ。するわけないでしょ」と付け加えた。
その笑顔には、もう壇上で見せていた張り詰めた強さはなかった。
「……私も、考えたことがあったの。アルフレッドを、硬い装甲で守るのではなく、ラメラ構造の中へ分散させる方法は」
蘭子さんの指が、アイスブルーのラインをなぞる。
「でも、できなかったのよ。試行錯誤したんだけど」
蘭子さんは、ゆっくりと顔を上げた。
「でも、由芽は完成させた」
銀縁眼鏡の奥から、蘭子さんが私を見る。
長い沈黙。
そして。
「いつの間にか、あなたは私を超えていたのね」
胸の奥が、強く締めつけられた。
ずっと追い続けてきた背中。
認めてほしかった人。
褒めてほしかった人。
その蘭子さんから、ようやく届いた言葉だった。五年前の私なら、きっと泣いて喜んだ。
でも。
私は、ゆっくりと首を振った。
「違うんです」
私はステージの上で立ち上がり、右手を高く掲げた。
暗かったステージの左側へ、一条のスポットライトが落ちた。
白衣姿の千夏。
その隣には、同じ純白の白衣を着た、白組のみんなが並んでいる。
二つ目のスポットライト。
会社指定の濃紺の作業着をまとい、技術営業・青組の三村さん。
三本目の光。
漆黒のパンツスーツに身を包み、腕を組んで立つ黒瀬さん。
そして、最後の光がホール後方へ伸びた。
照明卓の陰。
光を吸い込むような黒いスーツ姿で、颯真が立っている。
「蘭子さんにできなかったことを、私一人ができたわけじゃありません」
もし私一人だったら。
今も地下ラボで、アルフレッドへ悪態をつきながら、同じサンプルを混ぜ続けていたと思う。
食事も忘れて。
眠ることも忘れて。
そして、たぶん途中で颯真に電源を切られている。
「千夏が、白組の二十年分の失敗データを掘り返してくれました。三村さんが、私たちの意味不明な要求を原料メーカーへ通じる言葉に翻訳してくれました。白組のみんなが実験を繰り返して、黒瀬さんたちが、それをお客様へ届く商品にしてくれました」
一人では、絶対に辿り着けなかった。
「……みんなでやったから、できたんです」
「…………」
「蘭子さん」
口にした途端、胸の奥へ沈めていたものが、少しだけ浮かび上がった。
「私、まだ怒っています」
蘭子さんの指先が、わずかに動いた。
「レシピを書き換えたことも。お客様の肌を使ったことも。もちろん、今でも許していません。でも――」
それとは別に。
ずっと、言いたかったことがあった。
「白組が解体されると知ったとき、どうして相談してくれなかったんですか」
声が、少しだけ震えた。
「私たち、そんなに頼りなかったですか」
「由芽……」
「蘭子さんは、一人で全部決めて。一人で背負って。一人で会社を出ていってしまった」
私たちは、何も知らなかった。
何も選ばせてもらえなかった。
「一緒に戦いたかったです」
勝てなかったかもしれない。
みんなまとめて、追い出されていたかもしれない。
それでも。
「負けるとしても、一緒に負けたかった。失敗したら、みんなで次の実験を考えたかった。蘭子さんが苦しいなら……私たちにも、少しくらい背負わせてほしかったです」
声にしてしまうと、それは驚くほど単純な願いだった。
助けたかった。
頼ってほしかった。
ただ、それだけだったのだ。
「蘭子さんは、アルフレッドを守るために、硬い装甲を作りましたよね」
私は、アイスブルーの容器へ目を落とした。
「でも、そのずっと前から、自分にも同じものを被せていたんじゃないですか」
誰にも触れさせない。
弱いところを見せない。
壊されるくらいなら、先にすべてを切り捨てる。
「私は、それはしたくなかった」
顔を上げる。
「だからネオ・シンヴェールには、装甲をつけませんでした」
一粒だけを硬くして、すべてに耐えさせるのではない。
周囲の層が支える。
一部が崩れても、隣の層がつながり直す。何度切られても、全体でもう一度構造を作る。
「私たちも、何度も分離しかけました。というか、今でもかなり頻繁に分離しています。やっぱり今でも、考え方が違うなって思うこともあります」
黒瀬さんがフンという顔をした。
「でも、そのたびに誰かが混ぜ直してくれたんです。違うところは、違うまま。得意なことを持ち寄って、何度でもつながり直した」
スポットライトの中に立つ仲間たちを見渡す。
「この処方は、私たちに似ています」
自己修復するラメラネットワーク。
切れても、崩れても、またつながる。
「それが、私たちにできて、蘭子さん一人にはできなかったことです」
静寂が落ちた。
蘭子さんは何も言わなかった。
銀縁眼鏡の奥を伏せ、アイスブルーの容器を両手で包み込んでいる。
怒っているのか。
傷ついているのか。
それとも、別のことを考えているのか。
私には、もう分からなかった。
やがて蘭子さんの親指が、容器の縁をゆっくりとなぞった。
「……あなた、今日はよく喋るわね」
「必要なときは喋ります」
「そうだったわね。研究の話になると、止めても喋り続ける子だった」
蘭子さんの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
憑き物が落ちたような、晴れやかな笑顔ではなかった。
それでも、私が五年間追い続けた蘭子さんの顔が、少しだけ戻っていた。
「……これは、私には作れないわね」
蘭子さんはアイスブルーの容器を持ったまま、私へ背を向けた。
漆黒のドレスの裾が、大理石の床を滑る。
カツン。
カツン。
高いヒールの音が、巨大なホールを横切っていく。
重厚な大扉の前まで来たところで、その足が止まった。
「由芽」
「はい」
蘭子さんは、こちらを振り返らなかった。
「そのラメラネットワーク。三年後も、同じ自己修復性を保てると言い切れる?」
思わず、笑ってしまった。
最後まで。
本当に、最後まで、この人は研究者だった。
「今、長期安定性試験中です」
「そう」
「でも、必ず最後まで見届けます」
短い沈黙。
「結果が出たら、送って」
「ヒラルダ社の研究所長宛てにですか?」
蘭子さんは、少しだけ考えた。
「……西城蘭子個人宛てでいいわ」
胸の奥が、じんわりと熱くなった。
「分かりました。都合の悪いデータも、失敗したサンプルの写真も、全部送ります」
「そうしなさい」
蘭子さんが、ほんの少しだけ振り返る。
「楽しみにしているわ」
「はい」
大扉が開いた。
蘭子さんは、その向こうへ歩いていく。
あの雨の日と同じように、私へ背を向けて。
けれど今度は、その背中が遠ざかっても、胸の中に穴は開かなかった。
三年後に、見せるデータがある。
それまでは、それぞれの場所で研究を続ければいい。
バタン、と重い音を立てて扉が閉まった。
ホールに静寂が戻る。
私は、一緒にステージへ並んでくれた仲間たち――白組の先輩、三村さん、黒瀬さんをぐるりと見渡した。
そして、胸いっぱいの感謝を込めて、深く頭を下げる。
「みなさん、本当に……ありがとうございました」
顔を上げると、みんなが温かく、誇らしげな笑顔を返してくれた。
最後に。
私は、少し離れた場所に立つ颯真の方へと向き直った。
相変わらずの無愛想な顔。けれど、私を見つめ返すその漆黒の瞳には、確かな労いと、隠しきれないほどの光が宿っている。
私は、洗い立ての真っ白な白衣の裾を、両手でふわりと広げてみせた。
私だけの、最高の戦闘服を。
そして、一切の装甲を持たないすっぴんの顔で、彼へ向けて思いきり笑いかけた。
颯真の口元が、わずかに、けれど確かに綻んだ。
背後の巨大スクリーンが、一斉に純白へ染まった。
中央に浮かび上がったのは、一個の小さな球体。薄い膜に包まれ、その内部は空洞になっている。
「これが、シンヴェールの心臓部――中空ポリマーの粒子、私たちがアルフレッドと呼んでいるものです」
画面の中で、球体が何百倍、何千倍へと拡大されていく。
「ものすごく小さな、空洞のシャボン玉だと思ってください。外側の膜と、内側に閉じ込められた空気。その二つが光を複雑に反射することで、白い顔料を使わずに、透明感のある純白を生み出します」
アルフレッドへ光が差し込む。
光は球体の表面と内部で何度も屈折し、柔らかな純白となって周囲へ広がった。
「ですが、このアルフレッドには致命的な弱点がありました。イギリス紳士のように気難しいのです」
画面の左右から、巨大なミキサーの刃が迫る。
「壊れないように、優しく混ぜなければならない」
回転数を落とした刃の周囲で、アルフレッド同士が次々とくっつき、大きな塊になった。
「でも、ダマを作らないためには、強く混ぜなければならない」
刃が高速回転へ切り替わる。
今度はアルフレッドが次々と潰れ、内部の空気が抜けて、白い光が消えていく。
「先ほど説明いたしましたシンヴェールは、この問題を、アルフレッドの一粒一粒へハイドロゲルの装甲を与えることで解決しました」
スクリーンに、シャンパンゴールドの光が走った。アルフレッドの周囲を、透明な膜が包み込む。
「とても強く、完成度の高い技術です。長時間崩れず、隙のない、均一な肌を作ることができる」
私は、シャンパンゴールドの容器を手に取った。
「ですが、私たちは別の答えを選びました」
ゴールドの光が消える。
代わりに、アイスブルーの光がスクリーンを満たした。
「一粒ずつを、硬い殻で守るのではありません」
アルフレッドの周囲へ、水と油が交互に重なった、柔らかな層が生まれる。
それらは幾重にも連なり、立体的な網の目へ変化していく。
「周囲の成分と手をつながせ、全体で支えることにしたんです」
巨大な刃が、再び回転を始めた。
網の目は、トランポリンのように大きくたわみ、衝撃を受け流す。
一部が切り裂かれる。
だが、次の瞬間。
離れた網の目が再び引き寄せられ、元の形へ戻った。
「クリームのベースとなる水分と良質な保湿オイルを、肌の角質層に似た層状の構造へ並べました。それを三次元へつなぎ、アルフレッドを包み込むように支えます」
スクリーンへ、技術名が浮かび上がる。
『自己修復型・3Dラメラネットワーク』
「この網の目は、強い力を受けたときには一度ほどけ、衝撃を逃がします。そして、力がなくなれば、すぐにつながり直します」
刃が高速で回り網の目が切れても、すぐにつながるムービーが表示される。それが繰り返される。
「だから、強く混ぜてもアルフレッドは壊れない。しかも、粒子同士が近づきすぎないよう網の目が支えるため、ダマにもならない」
画面の中で、無数のアルフレッドが一定の距離を保ったまま、純白の光を放っている。
「そして、肌へ塗ったときには――」
人間の肌を模したCGへ、アイスブルーのクリームが触れた。
体温と皮脂に反応し、網の目が、閉じられたジッパーを開くようにほどけていく。
アルフレッドだけが、肌の凹凸に沿って均一に広がる。
「三十六度前後の体温と皮脂に触れた瞬間、網の目は液状化します。硬い殻も、砕けた破片も残さない。肌の構造へ溶け込むようにほどけるから、あの軽さと素肌感を作ることができるんです」
客席のあちこちから、「あぁ……」と納得する声が漏れた。
さっきからアイスブルーのクリームを塗っていたインフルエンサーたちが、自分の手の甲を見つめ直し、しきりに頷いている。
シャンパンゴールド。
アイスブルー。
二つの映像が、並んだ。
「ハイドロゲル装甲は、アルフレッドを一粒ずつ守る技術です」
ゴールドの光が、強く輝く。
「3Dラメラネットワークは、周囲のすべてでアルフレッドを支える技術です」
アイスブルーの光が、柔らかく広がる。
「一日中、隙のない肌を保ちたい日には、シンヴェール。軽く柔らかな素肌感を楽しみたい日には、ネオ・シンヴェール」
私は、二つの容器を並べた。
「正解は、一つではありません。なりたい肌によって、選べばいいんです」
納得と共感のざわめきが一気に広がり、やがて会場全体から温かく、力強い拍手が沸き起こった。
よし、伝わった。
専門用語の深い沼へ沈ませずに、説明できた。
事前に黒瀬さんの助言を聞いておいてよかった。
私は小さく息を吐き、胸を撫で下ろす――。
その時、
壇上の端で、スッと凛とした手が上がった。
「一つ、質問してもいいかしら」
凛とした声が、拍手を切り裂いた。
蘭子さんだった。
壇上の端に立ち、アイスブルーの容器を手にしている。銀縁眼鏡の奥から発せられるのは、新技術に挑もうとする研究者の鋭い視線だ。
しかし、次の瞬間。
「お待ちしておりました、西城所長!」
黒瀬さんの声が、ホールへ高らかに響いた。
どこからともなくスタッフが現れ、蘭子さんへワイヤレスマイクを差し出す。
同時に、スクリーンが切り替わった。
燃え上がるシャンパンゴールド。
吹き荒れるアイスブルー。
中央へ、巨大な銀色の文字が激突する。
『”RANKO” VS ”YUME”』
「えっ」
思わず、間の抜けた声が出た。
私から。
いつの間に、こんなものを。
「はい、皆様! ここからは、当イベント第二部!! 化粧品専門家同士による、予定調和一切なしのガチバトルです!」
「は?!」
聞いてない。
第二部があるなんて、私は一言も聞いていない。
黒瀬さんと目が合った。
真っ赤な唇が、凶悪なほど綺麗に笑っていた。
――想定どおりよ。
何がや。
巨大スクリーンの隅には、千夏の姿が映っていた。照明卓へタブレットを接続し、満面の笑みで親指を立てている。
裏切り者が、もう一人いた。
「では、伺わせていただきます。ラメラネットワークですが」
蘭子さんは背後で爆発し続ける恥ずかしい演出など意に介する様子もなく、質問を始めた。その目は完全に、学会の質疑応答で食らいついてくる他社の研究員の顔だ。
同時に、スクリーンではシャンパンゴールドのゲージが最大まで跳ね上がる演出が現れた。
「確かに自己修復するラメラ構造は魅力的だけど、工場の巨大なホモミキサーが生むあの暴力的な剪断力に、繊細な網の目がズタズタに引き裂かれて終わりのはずよ。どうやって都合よく自己修復させるというの?」
スクリーンに、即座に注釈が表示された。
『※剪断力:高速回転する刃が、中身を引きずり、切り裂く力。ミキサーに慈悲はない。』
注釈まで用意されている。
千夏。あなた、その仕込み、いつから?
「ええ。通常なら破綻します」
私は反射的に打ち返した。
「ですから私たちは、その後の攪拌しながら冷却する過程で、意図的に相転移を起こすことで自己修復させたんです!」
『※相転移:温度によって、水と油の並び方が劇的に変化する現象。クリームの変身タイム。』
私の言葉が、アイスブルーの光弾となって発射された。
『ガキィィィン!』
蘭子さんのゴールドの盾へ激突する。数字とグラフが火花になって飛び散った。
「相転移!?」
蘭子さんが一歩、こちらへ踏み出した。
「液晶状態を経由させたと? それには、極めて厳密な温度勾配が必要なはずよ。コンマ一度の冷却速度のずれが、全ロットの廃棄に直結する。工場の巨大な釜で、そんな繊細な温度管理ができるとは思えませんが」
『※温度勾配:どの速さで、どの順番で温度を変えるか。コンマ一度を笑う者は、全ロット廃棄に泣く。』
「そこは、特殊な双子型界面活性剤を微量添加することで、液晶構造が安定する温度領域を広げました!」
『※双子型界面活性剤:水と油を仲介する部分を二つ持つ、双子のような強力な仲人。』
アイスブルーのゲージが、さらに上がる。
「攪拌羽根の回転数と冷却曲線を完全に同期させる制御プログラムも組んであります! 工場スケールで三十ロット、すべて同じ構造を再現済みです!」
『※工場スケール:ビーカーではなく、もはや人間が入れそうな巨大釜。入ってはいけない。』
『ドガァァァン!』
巨大な攪拌羽根のCGが、蘭子さんの盾を正面から打ち砕いた。
でも、蘭子さんは止まらない。
むしろ、楽しそうに言い返してくる
「それでは極性オイルの溶解度が落ちる。成分同士が弾き合って、あの羽のように軽い使用感は出せないはず!」
『※極性オイル:肌になじみやすい、しっとり系の油分。仲間を選ぶ、少し気難しい子。』
「極性をずらすため、水相側へ微量の低分子ポリオールを噛ませました!」
『※低分子ポリオール:水に溶けやすい保湿成分。今回は、気難しい成分同士の通訳担当。』
「界面張力を限界まで下げて、オイルを網の目の中へ格納したんです!」
『※界面張力:水と油が互いに「こっちへ来るな」と押し返す力。人間関係にもよくある。』
『ズバァァァン!』
アイスブルーの刃が、ゴールドの光弾を真っ二つに切り裂いた。
「なにこれ……」
「よく分からないけど、すごい戦いになってる……」
「今、どっちが勝ってるの?」
「画面では青い方がちょっと押してる??」
さっきまで目を輝かせていたインフルエンサーたちの頭上に、見えない疑問符が次々と浮かんでいる。
「装甲を持たないネットワークなら、時間の経過で必ずオストワルド熟成が起きる!」
『※オストワルド熟成:小さな粒子が減り、大きな粒子ばかりが育ってしまう現象。クリームの世界における、望まれざる成長期。』
「アルフレッドの表面へ、立体障害を持つ高分子ポリマーをアンカーとして打ち込みました!」
『※立体障害:分子同士が物理的に邪魔をして、近づけなくする効果。満員電車とほぼ同じ。』
「五十度の恒温槽で三ヶ月! 粒度分布のピークは、一ナノメートルもずれていません!」
『バゴォォォン!』
私の背後で、巨大な恒温槽が爆発した。
もちろん、CGである。
現実の恒温槽が爆発していたら、私は今すぐイベントを中止して避難誘導を始めている。
「そんなにポリマーと界面活性剤を組み込んだら、降伏値が跳ね上がる!」
『※降伏値:クリームが動き始めるまでに必要な最初の力。高すぎると、塗るだけでちょっとした筋力トレーニングになる。』
「なりません! 網の目は、肌の角質層にあるラメラ構造を模したバイオミメティクスです! 体温三十六度と、皮脂に含まれるオレイン酸に触れた瞬間、ジッパーが外れるように網の目が液状化します!」
『※バイオミメティクス:自然界からの全力カンニング。』
『※オレイン酸:人間の皮脂のヤツ。』
あまりの速さに千夏の説明が雑になってきた。
「塗布時の摩擦係数は、従来品より三十八パーセント低下! テープストリッピング試験で回収された角質量も、二十七パーセント減少しています! そして、本日お配りしたものも、安定性試験、安全性試験、量産設備での製造試験、そして輸送試験。そのすべてを終えた最終製品です!」
『※つまり:今回は、本当に完成してから配りました。たいへん重要。』
最後の注釈だけ、文字が異様に大きかった。
あれは黒瀬さんの指示だ。
間違いない。
「…………!」
蘭子さんの唇が、わずかに開いた。
でも、反論は続かなかった。
私はすべての穴を、塞いだ。
蘭子さんのシャンパンゴールドのゲージが、静かに停止し、私のアイスブルーのゲージも、同じところで止まる。
そこへ。
「はい、ストォォォップ!!」
黒瀬さんの声が、すべてを薙ぎ払った。
『パァン!』
ショッキングピンクの閃光が迸った。
二人の間へスポットライトが落ち、黒瀬さんが勢いよく割って入る。
「そこまでです、化粧品オタ――もといエンジニアのお二人!」
「今、オタクって言いそうになっていませんでした?」
「気のせいです」
黒瀬さんは一切の動揺を見せず、客席へ向き直った。
「申し訳ございません。二人とも、専門分野へ入ると周囲の存在を忘れる習性がございます」
黒瀬さんは、シャンパンゴールドとアイスブルー、二つの容器を高く掲げた。
「難しい話は、すべて忘れていただいて結構です! 要するに、ここにいる二人が、それぞれ別の方法で、完璧な魔法を完成させたということを覚えていただければ!」
スクリーンに、二つの光が走る。
シャンパンゴールドの光は、一粒ずつを強く守る。
アイスブルーの光は、柔らかな網の目で全体を支える。
「一日中、隙のない、凛とした肌へ――」
ゴールドの容器が、まばゆく輝く。
「装甲のシンヴェール!」
歓声が上がる。
「肌へ柔らかくほどける、軽やかな透明感を――」
アイスブルーの容器が、純白の光を放つ。
「素肌のネオ・シンヴェール!」
さらに大きな歓声。
「二つの技術! 二つの美しさ! どちらか一つを選ぶ必要はございません!」
「両方!」
客席から声が飛んだ。
「両方買う!」
「ありがとうございます!」
黒瀬さんが、満面の笑みで応じた。
「新生『Blanche』――シンヴェール、ネオ・シンヴェール!」
二つの容器が、巨大スクリーンの中央へ並ぶ。
「同時発売、決定です!」
『ドォォォン――!!』
重低音が復活した。
ステージの左右に設置されたキャノン砲が火を噴き、銀色の紙吹雪がホールいっぱいに撃ち出される。
歓声、拍手、フラッシュ、紙吹雪の嵐……。
ライブ配信のコメントが、スクリーンの端を滝のように流れていく。
『ゴールド派!』
『ブルー派!』
『両方予約する!』
『情報量エグすぎて脳がショートしたw』
『両方予約確定です本当にありがとうございました』
『注釈芸人だれwww』
照明卓の千夏が、客席から見えない位置で、誇らしげに胸を張っていた。
こうして――。
交わるはずのなかった無数の思いを、まるで一つの巨大なビーカーでかき混ぜるように。
新生『Blanche』のお披露目イベントは、かつてない熱とまばゆい純白の光を集めたまま、最高のフィナーレを迎えたのだった。
* * *
最後の招待客が会場をあとにしたのは、それから二時間後だった。
音楽は止まり。
ムービングライトも消え。
ついさっきまで数百人の熱狂で満ちていたホールには、祭りのあとの静けさが広がっている。
銀色の紙吹雪だけが、大理石の床に残っていた。
私はステージのへりへ腰を下ろし、スニーカーの足をぶらぶらと揺らしていた。
客席の最前列には、蘭子さんが一人で座っている。
アイスブルーの容器を両手で包み、長い間、何も言わずに見つめていた。
「……あの」
沈黙に耐えきれず、私が口を開いた。
「さっきの質問、かなり細かいところまで突っこんできましたね」
「あなたなら、あれくらい答えられると思っていたもの。おかげで、ネオ・シンヴェールのポイントは分かった」
「やっぱり、探っていたんですね。でも、残念でした。先週、作成技術は知財化済ですよ」
「知ってる? 特許侵害を証明するのって発明するのよりもハードル高いのよ」
「え、ええ、そうなんですか?」
蘭子さんは、小さく笑って「冗談よ。するわけないでしょ」と付け加えた。
その笑顔には、もう壇上で見せていた張り詰めた強さはなかった。
「……私も、考えたことがあったの。アルフレッドを、硬い装甲で守るのではなく、ラメラ構造の中へ分散させる方法は」
蘭子さんの指が、アイスブルーのラインをなぞる。
「でも、できなかったのよ。試行錯誤したんだけど」
蘭子さんは、ゆっくりと顔を上げた。
「でも、由芽は完成させた」
銀縁眼鏡の奥から、蘭子さんが私を見る。
長い沈黙。
そして。
「いつの間にか、あなたは私を超えていたのね」
胸の奥が、強く締めつけられた。
ずっと追い続けてきた背中。
認めてほしかった人。
褒めてほしかった人。
その蘭子さんから、ようやく届いた言葉だった。五年前の私なら、きっと泣いて喜んだ。
でも。
私は、ゆっくりと首を振った。
「違うんです」
私はステージの上で立ち上がり、右手を高く掲げた。
暗かったステージの左側へ、一条のスポットライトが落ちた。
白衣姿の千夏。
その隣には、同じ純白の白衣を着た、白組のみんなが並んでいる。
二つ目のスポットライト。
会社指定の濃紺の作業着をまとい、技術営業・青組の三村さん。
三本目の光。
漆黒のパンツスーツに身を包み、腕を組んで立つ黒瀬さん。
そして、最後の光がホール後方へ伸びた。
照明卓の陰。
光を吸い込むような黒いスーツ姿で、颯真が立っている。
「蘭子さんにできなかったことを、私一人ができたわけじゃありません」
もし私一人だったら。
今も地下ラボで、アルフレッドへ悪態をつきながら、同じサンプルを混ぜ続けていたと思う。
食事も忘れて。
眠ることも忘れて。
そして、たぶん途中で颯真に電源を切られている。
「千夏が、白組の二十年分の失敗データを掘り返してくれました。三村さんが、私たちの意味不明な要求を原料メーカーへ通じる言葉に翻訳してくれました。白組のみんなが実験を繰り返して、黒瀬さんたちが、それをお客様へ届く商品にしてくれました」
一人では、絶対に辿り着けなかった。
「……みんなでやったから、できたんです」
「…………」
「蘭子さん」
口にした途端、胸の奥へ沈めていたものが、少しだけ浮かび上がった。
「私、まだ怒っています」
蘭子さんの指先が、わずかに動いた。
「レシピを書き換えたことも。お客様の肌を使ったことも。もちろん、今でも許していません。でも――」
それとは別に。
ずっと、言いたかったことがあった。
「白組が解体されると知ったとき、どうして相談してくれなかったんですか」
声が、少しだけ震えた。
「私たち、そんなに頼りなかったですか」
「由芽……」
「蘭子さんは、一人で全部決めて。一人で背負って。一人で会社を出ていってしまった」
私たちは、何も知らなかった。
何も選ばせてもらえなかった。
「一緒に戦いたかったです」
勝てなかったかもしれない。
みんなまとめて、追い出されていたかもしれない。
それでも。
「負けるとしても、一緒に負けたかった。失敗したら、みんなで次の実験を考えたかった。蘭子さんが苦しいなら……私たちにも、少しくらい背負わせてほしかったです」
声にしてしまうと、それは驚くほど単純な願いだった。
助けたかった。
頼ってほしかった。
ただ、それだけだったのだ。
「蘭子さんは、アルフレッドを守るために、硬い装甲を作りましたよね」
私は、アイスブルーの容器へ目を落とした。
「でも、そのずっと前から、自分にも同じものを被せていたんじゃないですか」
誰にも触れさせない。
弱いところを見せない。
壊されるくらいなら、先にすべてを切り捨てる。
「私は、それはしたくなかった」
顔を上げる。
「だからネオ・シンヴェールには、装甲をつけませんでした」
一粒だけを硬くして、すべてに耐えさせるのではない。
周囲の層が支える。
一部が崩れても、隣の層がつながり直す。何度切られても、全体でもう一度構造を作る。
「私たちも、何度も分離しかけました。というか、今でもかなり頻繁に分離しています。やっぱり今でも、考え方が違うなって思うこともあります」
黒瀬さんがフンという顔をした。
「でも、そのたびに誰かが混ぜ直してくれたんです。違うところは、違うまま。得意なことを持ち寄って、何度でもつながり直した」
スポットライトの中に立つ仲間たちを見渡す。
「この処方は、私たちに似ています」
自己修復するラメラネットワーク。
切れても、崩れても、またつながる。
「それが、私たちにできて、蘭子さん一人にはできなかったことです」
静寂が落ちた。
蘭子さんは何も言わなかった。
銀縁眼鏡の奥を伏せ、アイスブルーの容器を両手で包み込んでいる。
怒っているのか。
傷ついているのか。
それとも、別のことを考えているのか。
私には、もう分からなかった。
やがて蘭子さんの親指が、容器の縁をゆっくりとなぞった。
「……あなた、今日はよく喋るわね」
「必要なときは喋ります」
「そうだったわね。研究の話になると、止めても喋り続ける子だった」
蘭子さんの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
憑き物が落ちたような、晴れやかな笑顔ではなかった。
それでも、私が五年間追い続けた蘭子さんの顔が、少しだけ戻っていた。
「……これは、私には作れないわね」
蘭子さんはアイスブルーの容器を持ったまま、私へ背を向けた。
漆黒のドレスの裾が、大理石の床を滑る。
カツン。
カツン。
高いヒールの音が、巨大なホールを横切っていく。
重厚な大扉の前まで来たところで、その足が止まった。
「由芽」
「はい」
蘭子さんは、こちらを振り返らなかった。
「そのラメラネットワーク。三年後も、同じ自己修復性を保てると言い切れる?」
思わず、笑ってしまった。
最後まで。
本当に、最後まで、この人は研究者だった。
「今、長期安定性試験中です」
「そう」
「でも、必ず最後まで見届けます」
短い沈黙。
「結果が出たら、送って」
「ヒラルダ社の研究所長宛てにですか?」
蘭子さんは、少しだけ考えた。
「……西城蘭子個人宛てでいいわ」
胸の奥が、じんわりと熱くなった。
「分かりました。都合の悪いデータも、失敗したサンプルの写真も、全部送ります」
「そうしなさい」
蘭子さんが、ほんの少しだけ振り返る。
「楽しみにしているわ」
「はい」
大扉が開いた。
蘭子さんは、その向こうへ歩いていく。
あの雨の日と同じように、私へ背を向けて。
けれど今度は、その背中が遠ざかっても、胸の中に穴は開かなかった。
三年後に、見せるデータがある。
それまでは、それぞれの場所で研究を続ければいい。
バタン、と重い音を立てて扉が閉まった。
ホールに静寂が戻る。
私は、一緒にステージへ並んでくれた仲間たち――白組の先輩、三村さん、黒瀬さんをぐるりと見渡した。
そして、胸いっぱいの感謝を込めて、深く頭を下げる。
「みなさん、本当に……ありがとうございました」
顔を上げると、みんなが温かく、誇らしげな笑顔を返してくれた。
最後に。
私は、少し離れた場所に立つ颯真の方へと向き直った。
相変わらずの無愛想な顔。けれど、私を見つめ返すその漆黒の瞳には、確かな労いと、隠しきれないほどの光が宿っている。
私は、洗い立ての真っ白な白衣の裾を、両手でふわりと広げてみせた。
私だけの、最高の戦闘服を。
そして、一切の装甲を持たないすっぴんの顔で、彼へ向けて思いきり笑いかけた。
颯真の口元が、わずかに、けれど確かに綻んだ。

