アスファルトを容赦なく叩きつける激しい雨の中を、私はただ歩き続けていた。
折り畳み傘は、鞄の奥底へ沈んだままだった。
ブラウスは肌へ冷たく張りつき、パンプスの中には水が溜まって、一歩踏み出すたびに、ぐしゃり、と嫌な音がする。
蘭子さんから真っ直ぐに差し出された細い右手。
その手を取らなかった自分。
最後の「そう」という声。
その光景が、壊れた映像テープのように、頭の中で何度も何度も繰り返されていた。
でも、一番つらいのは、私が蘭子さんを嫌いになれていないことだった。
人の肌に起きる不具合を、社内政治の罠に利用することは、絶対に許せない。
だからといって、彼女から教わった技術も、一緒にビーカーを覗き込んだ時間も、嘘だったわけじゃない。
私が、ずっと追いかけてきた背中だった。
その背中が間違っていたと認めたら、そのあとを追って歩いてきた私の五年間まで、すべて間違いだったことになってしまう気がする。
それが、どうしようもなくつらかった。
どれくらい歩いたのか、自分でも分からない。一時間か。あるいは二時間近く、彷徨っていたのだろうか。
いつの間にか日は暮れていた。ただでさえ鉛色に沈んでいた空は、夜と混じり合った黒い雲に、すっかり塗り潰されている。
ふと重い足を止めると、目の前には高い塀と、雨に濡れた重厚な門があった。
見覚えのある、純和風の屋敷。
座馬颯真の家だった。
「……なんで、私、ここに」
自分でも分からなかった。
当てもなく昼間、タクシーで通った道を歩いているつもりだったが、どうやら足だけは、最初から行き先を決めていたらしい。
急に、恥ずかしくなる。
これではまるで、蘭子さんに決別を告げた直後、心細くなって颯真のところへ逃げ込んできたみたいじゃないか。
呼び鈴なんて、押せるはずがない。
私が踵を返そうとした時、背後で、人の気配がした。
「どうしたんだ」
大きな黒い傘を差した颯真が立っていた。どうやら外出先から戻ってきたところらしい。
ずぶ濡れの私を見て、漆黒の瞳がわずかに見開かれる。
「ずぶぬれじゃないか。傘はどうした」
「鞄の中です」
「なぜ使わない」
「……使うのを、忘れていました」
颯真の眉間に、深い皺が刻まれる。
私はたまらず、視線を足元の水たまりへ逃がす。
颯真が、持っていた傘をこちらへ傾けた。大きな黒い傘が私の頭上を覆った瞬間、全身を叩いていた雨音が、ふっと遠ざかる。
「とにかく、家の中へ入れ」
「でも――」
「このままだと風邪をひくぞ」
颯真は私を追い立てるように、私を家の方へと促していく。今の私には、それに抗うだけの体力も気力も残っていなかった。
玄関の扉の鍵を開けながら、颯真が訊いてきた。
「西城蘭子に、会ったのか」
私は何も答えず小さく頷くと、颯真はそれ以上聞いてこなかった。
* * *
私は、独身寮の部屋より広い浴室で、熱いシャワーを浴びていた。
冷え切った肌へ湯が触れた瞬間、痛いほど熱く感じる。
指先の感覚が少しずつ戻ってきて、そこでようやく、自分がひどく震えていたことに気づいた。
柔らかな湯気が立ち込め、視界を白く染めていく。
壁の向こうでは、ドラム式洗濯乾燥機のずっと低く規則的なモーター音が聞こえている。
家に入った颯真は、私をそのまま脱衣所へ連れて行き、洗濯乾燥機の使用法を簡単に説明するとすぐに出て行った。台の上に残されたのは、未使用の洗濯ネットと真新しい厚手のリネン。
濡れた服を自分で洗濯機へ入れさせるのは、彼なりの配慮だろう。相変わらず、無愛想なくせに手回しが良すぎるオカンだった。
身体の芯が温まるにつれ、麻痺していた感情まで、ゆっくりと解凍されて戻ってくる。
それでも、まだ涙は出なかった。
胸の奥にぽっかりと穴が空き、冷たい風だけが吹き抜けていくようだった。
三十分ほど熱い湯を浴びて、ようやくシャワーを止めた。脱衣所の空気が火照った体に心地よく感じる。
無垢材であつらえられた洗濯台の上に置かれた、ふかふかのバスタオルと純白のバスローブ。
キャミソールもショーツも、すべて洗濯ネットへ入れて投げ込んだ乾燥機の表示を確認すると、終了までまだ四十分近く残っていた。
私はビニールで包まれた国産ブランドの認定タグのついたバスローブを持ち上げ、その場でしばし固まった。
「これを、直接着るの?」
バスローブとは、もともとそういう着方をするものだ。なんなら、びしょびしょの身体へバスタオル代わりに羽織るのが、本来の用途である。
知識としては分かっている。
だが、ここは休暇で訪れたホテルではない。他人の個人宅を、すっぽんぽんにバスローブ一枚で歩き回るのは、いかがなものか。
だが、かと言って、このまま服が乾くのを待つのも、かったるかった。
「まあ、いっか」
バスローブに腕を通すと、前をきっちり合わせ、腰紐をこれでもかと二重に結ぶ。
鏡の前で、一回。二回。三回。
それでも心配になり、四回目の確認を終えてから、私は恐る恐る廊下へ出た。
するとどこからか、出汁と味噌のいい匂いが漂ってきた。
また颯真が何か旨いものを作っているぞ。
強烈な空腹が、緊張感を一瞬で溶かし切った。
香りに誘われるようにキッチンへ行くと、食卓の真ん中には大きな土鍋が置かれていた。
かぼちゃ。白菜。しめじ。舞茸。豚肉。
平打ちの太い麺が、黄金色の味噌仕立ての汁の中でぐつぐつと煮え、豊かな湯気を立てている。
颯真はバスローブ姿の私を一瞥したが、何も言わなかった。ごく自然な動作で、椅子を引く。
「食事はまだだな?」
「そうですけど、これ、今、作ったんですか」
「ほうとうだ。圧力鍋と顆粒だしを使った時短仕様だが、身体を温めるには問題ないだろう」
私の前へ、熱々のほうとうがよそわれた器が置かれる。
かぼちゃの甘みが溶け出した味噌。豚肉の脂。出汁をたっぷり吸い込んだ太い麺。
ふうふうと息を吹きかけ、ひと口食べる。
美味い、熱い、そして美味い。
煮崩れたかぼちゃがポタージュスープのように飛魚出汁の効いた入った汁の中に溶け込んでいる。
圧倒的な熱量と旨味が、喉から胃へ、真っ直ぐに落ちていく。シャワーでも温まり切れなかった体の中まで、ホカホカと温まっていくのが分かる。
「……おいしい」
「そうか」
颯真はそれだけ言うと、それ以上は何も訊かなかった。私の顔を覗き込むこともなく、黙々とほうとうを食べている。
それが、今の私には何よりありがたい。
一杯目を食べ終えようとしていた時、颯真がおもむろに立ち上がり、キッチンへ向かった。
「君はお酒は飲めるのか?」
見れば、ワイングラスを二脚、指に挟んで掲げている。
「苦手なら、ジュースもあるが」
「いえ……少量なら。頂きます」
冷蔵庫の横のワインセラーが出されたのは、ほうとうに合わせたのか甲州産の白ワインだった。グラスへほんの少しだけ注がれた。
アルコールを飲むのは本当に久しぶりだった。
最後に飲んだのは白組の飲み会の時。その時のことを思い出し、また胸の中がうずいた。
「もう少しだけいいですか?」
颯真は無言で、さっきよりもさらに少量をグラスに注いでくれる。
疲れ切った身体へ入ったせいか、酒はすぐに体に回っていく。
アルコールがアセトアルデヒドに。アセトアルデヒドがALDH2の力を借りて酢酸に。
頭の中に化学反応式を浮かべていると、思わず笑いが込み上げてきた。
「はっ。はははー」
突然、笑い出した私を、颯真がポカンと驚いた顔で見ている。
「いえ、これは違うんです」
「なにが違う?」
「こんな時までアルコールの代謝サイクルを考えてる自分に、ツッコミを入れちゃって。何がALDH2やねーんって」
すぐさまワインの入ったグラスが引っ込められて、代わりにおひやが置かれた。
でも、それが呼び水みたいになって、私は今日、あったことを颯真に話し始めた。
ヒラルダ社へ行き、蘭子さんに会ってきたこと。
完成したシンヴェールのクリームを流出させたのが、彼女だったこと。
レシピへ意図的に不具合を仕込み、お客様の肌を、専務との政治的な駆け引きに利用したこと。
そして――。
「でも、それでも、私、蘭子さんのことを、まだ嫌いになれない」
技術を心から尊敬していること。
地下ラボで過ごした五年間が、嘘ではなかったと思いたいけれど、それでも、最後に差し出された手を取らなかったこと。
自分の中に溜まっていたものを全て吐き出す。
颯真は途中で遮ることも、黙って聞いていた。
すべてを話し終えると、私はチェイサーのグラスの横へ、ぱたりと突っ伏した。
「なんだか、これまで信じていた絶対的なものが、いきなり崩れちゃったような感じで」
頬を無垢材のテーブルへ押しつけたまま、気の抜けた声を出した。
「これから何を目標にして、化粧品を作っていけばいいのか分からなくなって。何のために今まで頑張ってきたんだろうって、思えてきて」
管を巻くように、取り留めのない言葉がこぼれ続ける。
「でも、私、がんばりましたよね? 間違ったことはやってませんよね?」
「ああ」
「逃げませんでしたよね」
「逃げていない」
問いかけるたび、淀みなく肯定される。
その言葉が降り注ぐたび、自分の中で張り詰めていた糸が、少しずつ緩んでいくのが分かった。
「だったら……本当にそう思うなら……今日くらい、私を慰めてくださいよ。この、すっぴんで、いつも白衣の女を。優しく」
なぜか、そんな言葉がぽろりと口からこぼれた。
一秒遅れて、酔いが一気に引いた。
――やばい。
私、今、とんでもなく変なことを言わなかった?
ものすごく誤解を招く言い方をしなかった?。
夜。
お酒。
男の家。
そして私は、バスローブ一枚。
この状況で「優しく慰めて」などと言えば、変な意味に取られても仕方がないのではないか?
ガタッ。
颯真が椅子を引いて、立ち上がった。
食卓を回り込み、私の背後へ来る。
私は慌てて上体を起こし、すぐ横に立った颯真を見上げた。
お酒を飲んだというのに、頬は相変わらず白いまま。冷たいほど整った吸血鬼系美形が、真っ直ぐに私を見下ろしている――。
こ、これは、まずい状況なのでは?
このまま背後から抱き締められ、首筋へ噛みつかれ、気づけばキングサイズのベッドの上。
そして朝、爽やかな小鳥のさえずりとともに目を覚ます――。吸血鬼の眷属がいっちょ上がり。
そんな一連の映像が、頭の中をものすごい速さで駆け抜けた。
心の準備など、もちろんできていない。
引き返すなら、今。
――でも。
それとは別の考えも、頭の片隅へ浮かんでいた。
今夜くらいは、抱き締められても。
たとえ少々、血を吸われちゃっても。
この人になら、もう、いいんじゃなかろうか、って。
私はきゅっと肩をすくめ、ほんの少しだけ身を固くして。覚悟を決めて、目を閉じた。
ぽん、と。
颯真の大きな手が、私の頭へ乗った。
「よく頑張ったな」
そういうと、まだ湿っている髪を崩さないように、ゆっくりと撫でられた。
まるで大人が子供をあやすように。
大きな掌でさわさわと。
「尊敬する相手を前に、逃げずに自分の答えを選んだ。よくやった」
頭頂部から、彼の手の温もりが伝わってくる。
心地よい。
ものすごく心地よい。
でも、なんだか、想像していたのとはだいぶ違う。
「あ、ありがとうございます。でも、あの……どうして、頭を撫でてます?」
「いや、君が慰めてほしいというからやっている」
「これは慰められるというより、褒められている感じですが?」
「君は自己肯定感を高めてもらって伸びるタイプだろ? 違ったら止めるが」
すっ、と手が離れそうになったのを、シャツの袖口をつまんで引き止めた。
「いえ、違わないです。……続けてください」
大の大人が情けないとは思いつつも、私は喉を鳴らす猫のように、静かに目を細めた。
「西城を尊敬していたことと、西城についていかないと決めたことは、矛盾しない」
「……」
「教わったものまで捨てる必要はない。五年間が本物だったことと、最後に違う道を選んだことは、同時に成立する。由芽は、何ひとつ間違っていない」
「でも――」
「間違えたのは、西城だ」
迷いのない、低い声で言い切られる。
「君が五年間、彼女を信じたことじゃない」
その言葉で。
私の目から、初めて涙が落ちた。
一滴、二滴と。
限界を迎えた雲から雨粒が溢れてくるように、勝手に頬を伝って落ちていく。
サッと藍染めのハンカチが差し出される。
「颯真はいつも、用意がいいですね。さては、いつも女性を泣かせていますか?」
受け取りながら、照れ隠しに憎まれ口をたたいてやった。
「だからいつも『ハンカチは持ったか?』と、聞いている」
真顔で返されて、思わず笑った。
泣きながら笑った。
颯真はしばらく私を見ていたが、やがて何かを決めたように頭から手を離し、キッチンを出ていった。
すぐに、細長いものを手に戻ってくる。
食卓の上へ置かれたのは、一本の銀の万年筆だった。
年季の入った物。精緻な花の彫刻が施された胴軸が、柔らかな照明を受けて、煌めいていた。
「これに見覚えは?」
「……嫌な予感がする程度にしか」
「だろうと思った」
颯真は苦笑する。
「白組解散の後、どうして自分に声をかけたのかと、聞いていたな」
「え、はい」
「その答えには、この万年筆が関係している」
颯真は楽しそうに話し始める。
五年前――。
颯真は重要な役員会議で使うため、久しぶりにケースから一本の万年筆を取り出したという。
アルカサスの創業者である祖父から譲り受けた、大切な万年筆だった。だが、銀製のキャップと胴軸は、ケースの中で真っ黒に変色していた。
颯真が廊下で、変わり果てた万年筆を呆然と眺めていると――。
『あー。それ、銀が硫化してますね』
大学の研究室から、そのまま抜け出してきたような白衣の女性社員が、いきなり手元を覗き込んできた。
『それなら、給湯室にあるアレで一発ですよ』
『ア・レ?』
彼女は健康食品のネット広告の煽り文句で颯真を給湯室へ連れていき、小棚から“アレ”を取り出した。
『これは?』
『アルミホイルと塩ですけど?』
アルミホイルを敷いた耐熱容器へ塩と熱湯を入れ、銀製の外装を沈める。
するとどうしたことだろうか。
湯の中で、表面を覆っていた黒ずみが、みるみる薄れていくではないか。
『還元です。銀がペンケースの硫黄と結びついて、硫化銀になっているんです。銀よりイオン化傾向の高いアルミニウムに、身代わりになってもらうんです』
熱湯の底で、黒ずんでいた銀が、本来の輝きを取り戻していく。
まるで、時間そのものを巻き戻すように。
『はい、終わりです。それじゃ、そろそろ恒温槽のタイマーが鳴るんで! さようならー!』
名前を聞く間もなく、その社員は白衣を翻し、給湯室から飛び出していった。
「五年前、黒ずみの消えた万年筆を見て、俺は初めて、祖父が見ていた化学の世界を感じた」
颯真が、懐かしそうに銀の胴軸を指先でなぞる。
「そして、魔法のような現象を事もなげに起こしてみせた、あの白衣の背中に、絶大な信頼感を覚えた……」
「ええっと、その社員って……」
私は顔を少し引き攣らせながら、上目遣いで颯真を見た。
「まさか、覚えていないのか?」
「い、いえ、覚えてますけど……。その、ま、まさか、あの時の人が、そんな高い役職の人だったとは……」
「やはり気がついてなかったんだな。新入社員でも、創業家の役員の顔くらい、覚えていてほしかったが」
「い、いやあ、……その、たぶん私、あの時は……硫化銀の還元反応しか見てなかったというか……」
「だろうな。いかにも君らしい」
颯真は肩を小刻みに震わせていた。
「だが、だからこそ、白組によるサンプル流出の疑惑を晴らしたいと考えた時、真っ先に君の顔が浮かんだ」
「私の?」
「目の前の現象だけを見る君なら、必ず真実を見抜くと確信していた」
「いやあ、単なる化学オタクなだけです」
こっぱずかしくて、私はアハハと顔を伏せた。
「以前、君は言っていたな。化粧は、社会へ飛び込むための装甲だと。でも、君にとっての装甲は別だと……」
「はい。言っていましたね」
「俺も、五年前からそれを知っていた」
私は顔を上げる。
真っ直ぐな颯真の瞳が、私だけを見ていた。
「君にとっての装甲は白衣。白衣こそ、君にふさわしい」
胸の奥で、心臓が大きく鳴った。
「すっぴんで、白衣を着て、まっすぐに研究している君が、一番、君らしい」
その時――。
胸の奥で、何かが小さく弾けた。
蘭子さんの背中を失い、行き場をなくしていたもの。
雨に濡れ、冷え切り、ひどく湿気っていた私の心の導火線へ、ぽっと、小さな火が戻ってくる。
そうだった。
私は蘭子さんに出会う前から、試験管を振っていた。
アルカサスの研究員になる前から、実験が好きだった。
小学校の夏休みの自由研究は、牛乳に含まれるカルシウムが、唾液アミラーゼの酵素活性へ与える影響について。
ビーカーに唾液を垂らすと聞いて、友人たちからは、ものすごく変な顔をされた。
中学生の頃は、水と油を馴染ませる界面活性作用に夢中になった。
台所用洗剤とサラダ油で、ひたすら均一な白濁液を作っては、「台所を実験室にするな」と母にこっぴどく叱られた。
黒ずんだ銀を見れば、還元したくなる。不安定な乳化物を見れば、原因を突き止めたくなる……。
目の前に解けていない化学の問題があるなら、解けるまで実験台の前から離れたくない。
誰かの背中を追いかけていなくても。
私はきっと、実験をやめられない。
それが私だ。
そう思った瞬間、身体の芯から、むくむくと力が湧いてきた。
底抜けに、元気が出てきたのだ。
その時、チロリロリン、チロリロリン、と。
遠くの洗濯乾燥機から、間の抜けた終了音が響いた。
「乾いた!」
私は勢いよく立ち上がった。
少しだけ足元が揺れたが、今度は踏ん張った。
「颯真、ありがとう。私、なんか仕事したくなってきました!」
「なんだ、突然?」
「服を着たら、ラボへ行きます。あ、でも、その前に寮へ戻って白衣を――」
「ああ、だったらちょっと待て」
キッチンを飛び出しそうになっているところを、呼び止められる。
颯真はキッチン脇の収納棚から、細長い包みを取り出した。
差し出された透明な包装の中には、綺麗に折り畳まれた白い布が入っていた。
新品の白衣だった。
アルカサスのブランドロゴと、『TEAM SHIROGUMI』の刺繍入り。
「これ、どうしたんですか?」
「白組が正式に復活した日に渡すつもりで、買っておいた」
「……颯真」
「だが、計画変更だ。今日の方が相応しいだろう」
颯真は白衣を私へ差し出す。
「早くその装甲を着てこい。湯冷めするぞ」
「サンキュー!」
両手で受け取った白衣を胸へ抱え、私は脱衣所へ走り込む。
バスローブを脱ぎ捨て、乾燥機から温かく乾いた服を取り出して身につける。
まだ少し湿った髪を、手早くひとつにまとめた。
そして真っ白な白衣を大きく広げ、一息に両腕を通した。
ぱん、と。
乾いた真新しい布が、背中で鳴った。
その瞬間、全身に力が漲った。
これが、私自身の戦闘服だ。
脱衣所の扉を、大きく開いた。
すっぴん。雑にまとめた髪。そして――おろしたての白衣。
「どうよ?」と言わんばかりに、両腕を広げてみせる。
颯真は満足そうに頷いた。
「ああ。やはり、よく似合う。少なくともバスローブの十倍はな」
「ははっ!」
私は笑い飛ばす。
颯真の言葉で、胸の奥で最後まで燻っていた迷いが、完全に吹き飛んでいた。
戦闘準備、完了だ。
「では、私、これからラボへ行きます」
「行って何をする?」
「私はずっと、あの人の背中を追いかけてきました」
教わった技術、厳しい言葉。ビーカー越しに見た、たくさんの景色……。
そのすべてが本物だったから、私は何ひとつ否定しなくたっていい。
「でも、あの人を追いかけるのは、今日で終わりにします」
私は白衣の腕を、ガッと強く握り込んだ。
「だから今日からは、その先を作ります」
颯真の口元が、わずかに上がった。
「それでこそ、君だ」
母屋の玄関から外に出ると、いつの間にか雨が上がっていた。雲の切れ間から、真っ白な満月が覗いている。
颯真が、ラボへ続く重厚な扉をホテルのドアマンのように開いた。
白い照明が、私の進む先へ向かって、一つ、また一つと点灯していく。
雨上がりの夜。
真新しい白衣を翻し、私は階段を駆け下りていく。
尊敬する人から受け取った、すべてを抱えて。
もう、その背中を追いかけるためではなく。
まだ誰も辿り着いていない、その先へ――。
折り畳み傘は、鞄の奥底へ沈んだままだった。
ブラウスは肌へ冷たく張りつき、パンプスの中には水が溜まって、一歩踏み出すたびに、ぐしゃり、と嫌な音がする。
蘭子さんから真っ直ぐに差し出された細い右手。
その手を取らなかった自分。
最後の「そう」という声。
その光景が、壊れた映像テープのように、頭の中で何度も何度も繰り返されていた。
でも、一番つらいのは、私が蘭子さんを嫌いになれていないことだった。
人の肌に起きる不具合を、社内政治の罠に利用することは、絶対に許せない。
だからといって、彼女から教わった技術も、一緒にビーカーを覗き込んだ時間も、嘘だったわけじゃない。
私が、ずっと追いかけてきた背中だった。
その背中が間違っていたと認めたら、そのあとを追って歩いてきた私の五年間まで、すべて間違いだったことになってしまう気がする。
それが、どうしようもなくつらかった。
どれくらい歩いたのか、自分でも分からない。一時間か。あるいは二時間近く、彷徨っていたのだろうか。
いつの間にか日は暮れていた。ただでさえ鉛色に沈んでいた空は、夜と混じり合った黒い雲に、すっかり塗り潰されている。
ふと重い足を止めると、目の前には高い塀と、雨に濡れた重厚な門があった。
見覚えのある、純和風の屋敷。
座馬颯真の家だった。
「……なんで、私、ここに」
自分でも分からなかった。
当てもなく昼間、タクシーで通った道を歩いているつもりだったが、どうやら足だけは、最初から行き先を決めていたらしい。
急に、恥ずかしくなる。
これではまるで、蘭子さんに決別を告げた直後、心細くなって颯真のところへ逃げ込んできたみたいじゃないか。
呼び鈴なんて、押せるはずがない。
私が踵を返そうとした時、背後で、人の気配がした。
「どうしたんだ」
大きな黒い傘を差した颯真が立っていた。どうやら外出先から戻ってきたところらしい。
ずぶ濡れの私を見て、漆黒の瞳がわずかに見開かれる。
「ずぶぬれじゃないか。傘はどうした」
「鞄の中です」
「なぜ使わない」
「……使うのを、忘れていました」
颯真の眉間に、深い皺が刻まれる。
私はたまらず、視線を足元の水たまりへ逃がす。
颯真が、持っていた傘をこちらへ傾けた。大きな黒い傘が私の頭上を覆った瞬間、全身を叩いていた雨音が、ふっと遠ざかる。
「とにかく、家の中へ入れ」
「でも――」
「このままだと風邪をひくぞ」
颯真は私を追い立てるように、私を家の方へと促していく。今の私には、それに抗うだけの体力も気力も残っていなかった。
玄関の扉の鍵を開けながら、颯真が訊いてきた。
「西城蘭子に、会ったのか」
私は何も答えず小さく頷くと、颯真はそれ以上聞いてこなかった。
* * *
私は、独身寮の部屋より広い浴室で、熱いシャワーを浴びていた。
冷え切った肌へ湯が触れた瞬間、痛いほど熱く感じる。
指先の感覚が少しずつ戻ってきて、そこでようやく、自分がひどく震えていたことに気づいた。
柔らかな湯気が立ち込め、視界を白く染めていく。
壁の向こうでは、ドラム式洗濯乾燥機のずっと低く規則的なモーター音が聞こえている。
家に入った颯真は、私をそのまま脱衣所へ連れて行き、洗濯乾燥機の使用法を簡単に説明するとすぐに出て行った。台の上に残されたのは、未使用の洗濯ネットと真新しい厚手のリネン。
濡れた服を自分で洗濯機へ入れさせるのは、彼なりの配慮だろう。相変わらず、無愛想なくせに手回しが良すぎるオカンだった。
身体の芯が温まるにつれ、麻痺していた感情まで、ゆっくりと解凍されて戻ってくる。
それでも、まだ涙は出なかった。
胸の奥にぽっかりと穴が空き、冷たい風だけが吹き抜けていくようだった。
三十分ほど熱い湯を浴びて、ようやくシャワーを止めた。脱衣所の空気が火照った体に心地よく感じる。
無垢材であつらえられた洗濯台の上に置かれた、ふかふかのバスタオルと純白のバスローブ。
キャミソールもショーツも、すべて洗濯ネットへ入れて投げ込んだ乾燥機の表示を確認すると、終了までまだ四十分近く残っていた。
私はビニールで包まれた国産ブランドの認定タグのついたバスローブを持ち上げ、その場でしばし固まった。
「これを、直接着るの?」
バスローブとは、もともとそういう着方をするものだ。なんなら、びしょびしょの身体へバスタオル代わりに羽織るのが、本来の用途である。
知識としては分かっている。
だが、ここは休暇で訪れたホテルではない。他人の個人宅を、すっぽんぽんにバスローブ一枚で歩き回るのは、いかがなものか。
だが、かと言って、このまま服が乾くのを待つのも、かったるかった。
「まあ、いっか」
バスローブに腕を通すと、前をきっちり合わせ、腰紐をこれでもかと二重に結ぶ。
鏡の前で、一回。二回。三回。
それでも心配になり、四回目の確認を終えてから、私は恐る恐る廊下へ出た。
するとどこからか、出汁と味噌のいい匂いが漂ってきた。
また颯真が何か旨いものを作っているぞ。
強烈な空腹が、緊張感を一瞬で溶かし切った。
香りに誘われるようにキッチンへ行くと、食卓の真ん中には大きな土鍋が置かれていた。
かぼちゃ。白菜。しめじ。舞茸。豚肉。
平打ちの太い麺が、黄金色の味噌仕立ての汁の中でぐつぐつと煮え、豊かな湯気を立てている。
颯真はバスローブ姿の私を一瞥したが、何も言わなかった。ごく自然な動作で、椅子を引く。
「食事はまだだな?」
「そうですけど、これ、今、作ったんですか」
「ほうとうだ。圧力鍋と顆粒だしを使った時短仕様だが、身体を温めるには問題ないだろう」
私の前へ、熱々のほうとうがよそわれた器が置かれる。
かぼちゃの甘みが溶け出した味噌。豚肉の脂。出汁をたっぷり吸い込んだ太い麺。
ふうふうと息を吹きかけ、ひと口食べる。
美味い、熱い、そして美味い。
煮崩れたかぼちゃがポタージュスープのように飛魚出汁の効いた入った汁の中に溶け込んでいる。
圧倒的な熱量と旨味が、喉から胃へ、真っ直ぐに落ちていく。シャワーでも温まり切れなかった体の中まで、ホカホカと温まっていくのが分かる。
「……おいしい」
「そうか」
颯真はそれだけ言うと、それ以上は何も訊かなかった。私の顔を覗き込むこともなく、黙々とほうとうを食べている。
それが、今の私には何よりありがたい。
一杯目を食べ終えようとしていた時、颯真がおもむろに立ち上がり、キッチンへ向かった。
「君はお酒は飲めるのか?」
見れば、ワイングラスを二脚、指に挟んで掲げている。
「苦手なら、ジュースもあるが」
「いえ……少量なら。頂きます」
冷蔵庫の横のワインセラーが出されたのは、ほうとうに合わせたのか甲州産の白ワインだった。グラスへほんの少しだけ注がれた。
アルコールを飲むのは本当に久しぶりだった。
最後に飲んだのは白組の飲み会の時。その時のことを思い出し、また胸の中がうずいた。
「もう少しだけいいですか?」
颯真は無言で、さっきよりもさらに少量をグラスに注いでくれる。
疲れ切った身体へ入ったせいか、酒はすぐに体に回っていく。
アルコールがアセトアルデヒドに。アセトアルデヒドがALDH2の力を借りて酢酸に。
頭の中に化学反応式を浮かべていると、思わず笑いが込み上げてきた。
「はっ。はははー」
突然、笑い出した私を、颯真がポカンと驚いた顔で見ている。
「いえ、これは違うんです」
「なにが違う?」
「こんな時までアルコールの代謝サイクルを考えてる自分に、ツッコミを入れちゃって。何がALDH2やねーんって」
すぐさまワインの入ったグラスが引っ込められて、代わりにおひやが置かれた。
でも、それが呼び水みたいになって、私は今日、あったことを颯真に話し始めた。
ヒラルダ社へ行き、蘭子さんに会ってきたこと。
完成したシンヴェールのクリームを流出させたのが、彼女だったこと。
レシピへ意図的に不具合を仕込み、お客様の肌を、専務との政治的な駆け引きに利用したこと。
そして――。
「でも、それでも、私、蘭子さんのことを、まだ嫌いになれない」
技術を心から尊敬していること。
地下ラボで過ごした五年間が、嘘ではなかったと思いたいけれど、それでも、最後に差し出された手を取らなかったこと。
自分の中に溜まっていたものを全て吐き出す。
颯真は途中で遮ることも、黙って聞いていた。
すべてを話し終えると、私はチェイサーのグラスの横へ、ぱたりと突っ伏した。
「なんだか、これまで信じていた絶対的なものが、いきなり崩れちゃったような感じで」
頬を無垢材のテーブルへ押しつけたまま、気の抜けた声を出した。
「これから何を目標にして、化粧品を作っていけばいいのか分からなくなって。何のために今まで頑張ってきたんだろうって、思えてきて」
管を巻くように、取り留めのない言葉がこぼれ続ける。
「でも、私、がんばりましたよね? 間違ったことはやってませんよね?」
「ああ」
「逃げませんでしたよね」
「逃げていない」
問いかけるたび、淀みなく肯定される。
その言葉が降り注ぐたび、自分の中で張り詰めていた糸が、少しずつ緩んでいくのが分かった。
「だったら……本当にそう思うなら……今日くらい、私を慰めてくださいよ。この、すっぴんで、いつも白衣の女を。優しく」
なぜか、そんな言葉がぽろりと口からこぼれた。
一秒遅れて、酔いが一気に引いた。
――やばい。
私、今、とんでもなく変なことを言わなかった?
ものすごく誤解を招く言い方をしなかった?。
夜。
お酒。
男の家。
そして私は、バスローブ一枚。
この状況で「優しく慰めて」などと言えば、変な意味に取られても仕方がないのではないか?
ガタッ。
颯真が椅子を引いて、立ち上がった。
食卓を回り込み、私の背後へ来る。
私は慌てて上体を起こし、すぐ横に立った颯真を見上げた。
お酒を飲んだというのに、頬は相変わらず白いまま。冷たいほど整った吸血鬼系美形が、真っ直ぐに私を見下ろしている――。
こ、これは、まずい状況なのでは?
このまま背後から抱き締められ、首筋へ噛みつかれ、気づけばキングサイズのベッドの上。
そして朝、爽やかな小鳥のさえずりとともに目を覚ます――。吸血鬼の眷属がいっちょ上がり。
そんな一連の映像が、頭の中をものすごい速さで駆け抜けた。
心の準備など、もちろんできていない。
引き返すなら、今。
――でも。
それとは別の考えも、頭の片隅へ浮かんでいた。
今夜くらいは、抱き締められても。
たとえ少々、血を吸われちゃっても。
この人になら、もう、いいんじゃなかろうか、って。
私はきゅっと肩をすくめ、ほんの少しだけ身を固くして。覚悟を決めて、目を閉じた。
ぽん、と。
颯真の大きな手が、私の頭へ乗った。
「よく頑張ったな」
そういうと、まだ湿っている髪を崩さないように、ゆっくりと撫でられた。
まるで大人が子供をあやすように。
大きな掌でさわさわと。
「尊敬する相手を前に、逃げずに自分の答えを選んだ。よくやった」
頭頂部から、彼の手の温もりが伝わってくる。
心地よい。
ものすごく心地よい。
でも、なんだか、想像していたのとはだいぶ違う。
「あ、ありがとうございます。でも、あの……どうして、頭を撫でてます?」
「いや、君が慰めてほしいというからやっている」
「これは慰められるというより、褒められている感じですが?」
「君は自己肯定感を高めてもらって伸びるタイプだろ? 違ったら止めるが」
すっ、と手が離れそうになったのを、シャツの袖口をつまんで引き止めた。
「いえ、違わないです。……続けてください」
大の大人が情けないとは思いつつも、私は喉を鳴らす猫のように、静かに目を細めた。
「西城を尊敬していたことと、西城についていかないと決めたことは、矛盾しない」
「……」
「教わったものまで捨てる必要はない。五年間が本物だったことと、最後に違う道を選んだことは、同時に成立する。由芽は、何ひとつ間違っていない」
「でも――」
「間違えたのは、西城だ」
迷いのない、低い声で言い切られる。
「君が五年間、彼女を信じたことじゃない」
その言葉で。
私の目から、初めて涙が落ちた。
一滴、二滴と。
限界を迎えた雲から雨粒が溢れてくるように、勝手に頬を伝って落ちていく。
サッと藍染めのハンカチが差し出される。
「颯真はいつも、用意がいいですね。さては、いつも女性を泣かせていますか?」
受け取りながら、照れ隠しに憎まれ口をたたいてやった。
「だからいつも『ハンカチは持ったか?』と、聞いている」
真顔で返されて、思わず笑った。
泣きながら笑った。
颯真はしばらく私を見ていたが、やがて何かを決めたように頭から手を離し、キッチンを出ていった。
すぐに、細長いものを手に戻ってくる。
食卓の上へ置かれたのは、一本の銀の万年筆だった。
年季の入った物。精緻な花の彫刻が施された胴軸が、柔らかな照明を受けて、煌めいていた。
「これに見覚えは?」
「……嫌な予感がする程度にしか」
「だろうと思った」
颯真は苦笑する。
「白組解散の後、どうして自分に声をかけたのかと、聞いていたな」
「え、はい」
「その答えには、この万年筆が関係している」
颯真は楽しそうに話し始める。
五年前――。
颯真は重要な役員会議で使うため、久しぶりにケースから一本の万年筆を取り出したという。
アルカサスの創業者である祖父から譲り受けた、大切な万年筆だった。だが、銀製のキャップと胴軸は、ケースの中で真っ黒に変色していた。
颯真が廊下で、変わり果てた万年筆を呆然と眺めていると――。
『あー。それ、銀が硫化してますね』
大学の研究室から、そのまま抜け出してきたような白衣の女性社員が、いきなり手元を覗き込んできた。
『それなら、給湯室にあるアレで一発ですよ』
『ア・レ?』
彼女は健康食品のネット広告の煽り文句で颯真を給湯室へ連れていき、小棚から“アレ”を取り出した。
『これは?』
『アルミホイルと塩ですけど?』
アルミホイルを敷いた耐熱容器へ塩と熱湯を入れ、銀製の外装を沈める。
するとどうしたことだろうか。
湯の中で、表面を覆っていた黒ずみが、みるみる薄れていくではないか。
『還元です。銀がペンケースの硫黄と結びついて、硫化銀になっているんです。銀よりイオン化傾向の高いアルミニウムに、身代わりになってもらうんです』
熱湯の底で、黒ずんでいた銀が、本来の輝きを取り戻していく。
まるで、時間そのものを巻き戻すように。
『はい、終わりです。それじゃ、そろそろ恒温槽のタイマーが鳴るんで! さようならー!』
名前を聞く間もなく、その社員は白衣を翻し、給湯室から飛び出していった。
「五年前、黒ずみの消えた万年筆を見て、俺は初めて、祖父が見ていた化学の世界を感じた」
颯真が、懐かしそうに銀の胴軸を指先でなぞる。
「そして、魔法のような現象を事もなげに起こしてみせた、あの白衣の背中に、絶大な信頼感を覚えた……」
「ええっと、その社員って……」
私は顔を少し引き攣らせながら、上目遣いで颯真を見た。
「まさか、覚えていないのか?」
「い、いえ、覚えてますけど……。その、ま、まさか、あの時の人が、そんな高い役職の人だったとは……」
「やはり気がついてなかったんだな。新入社員でも、創業家の役員の顔くらい、覚えていてほしかったが」
「い、いやあ、……その、たぶん私、あの時は……硫化銀の還元反応しか見てなかったというか……」
「だろうな。いかにも君らしい」
颯真は肩を小刻みに震わせていた。
「だが、だからこそ、白組によるサンプル流出の疑惑を晴らしたいと考えた時、真っ先に君の顔が浮かんだ」
「私の?」
「目の前の現象だけを見る君なら、必ず真実を見抜くと確信していた」
「いやあ、単なる化学オタクなだけです」
こっぱずかしくて、私はアハハと顔を伏せた。
「以前、君は言っていたな。化粧は、社会へ飛び込むための装甲だと。でも、君にとっての装甲は別だと……」
「はい。言っていましたね」
「俺も、五年前からそれを知っていた」
私は顔を上げる。
真っ直ぐな颯真の瞳が、私だけを見ていた。
「君にとっての装甲は白衣。白衣こそ、君にふさわしい」
胸の奥で、心臓が大きく鳴った。
「すっぴんで、白衣を着て、まっすぐに研究している君が、一番、君らしい」
その時――。
胸の奥で、何かが小さく弾けた。
蘭子さんの背中を失い、行き場をなくしていたもの。
雨に濡れ、冷え切り、ひどく湿気っていた私の心の導火線へ、ぽっと、小さな火が戻ってくる。
そうだった。
私は蘭子さんに出会う前から、試験管を振っていた。
アルカサスの研究員になる前から、実験が好きだった。
小学校の夏休みの自由研究は、牛乳に含まれるカルシウムが、唾液アミラーゼの酵素活性へ与える影響について。
ビーカーに唾液を垂らすと聞いて、友人たちからは、ものすごく変な顔をされた。
中学生の頃は、水と油を馴染ませる界面活性作用に夢中になった。
台所用洗剤とサラダ油で、ひたすら均一な白濁液を作っては、「台所を実験室にするな」と母にこっぴどく叱られた。
黒ずんだ銀を見れば、還元したくなる。不安定な乳化物を見れば、原因を突き止めたくなる……。
目の前に解けていない化学の問題があるなら、解けるまで実験台の前から離れたくない。
誰かの背中を追いかけていなくても。
私はきっと、実験をやめられない。
それが私だ。
そう思った瞬間、身体の芯から、むくむくと力が湧いてきた。
底抜けに、元気が出てきたのだ。
その時、チロリロリン、チロリロリン、と。
遠くの洗濯乾燥機から、間の抜けた終了音が響いた。
「乾いた!」
私は勢いよく立ち上がった。
少しだけ足元が揺れたが、今度は踏ん張った。
「颯真、ありがとう。私、なんか仕事したくなってきました!」
「なんだ、突然?」
「服を着たら、ラボへ行きます。あ、でも、その前に寮へ戻って白衣を――」
「ああ、だったらちょっと待て」
キッチンを飛び出しそうになっているところを、呼び止められる。
颯真はキッチン脇の収納棚から、細長い包みを取り出した。
差し出された透明な包装の中には、綺麗に折り畳まれた白い布が入っていた。
新品の白衣だった。
アルカサスのブランドロゴと、『TEAM SHIROGUMI』の刺繍入り。
「これ、どうしたんですか?」
「白組が正式に復活した日に渡すつもりで、買っておいた」
「……颯真」
「だが、計画変更だ。今日の方が相応しいだろう」
颯真は白衣を私へ差し出す。
「早くその装甲を着てこい。湯冷めするぞ」
「サンキュー!」
両手で受け取った白衣を胸へ抱え、私は脱衣所へ走り込む。
バスローブを脱ぎ捨て、乾燥機から温かく乾いた服を取り出して身につける。
まだ少し湿った髪を、手早くひとつにまとめた。
そして真っ白な白衣を大きく広げ、一息に両腕を通した。
ぱん、と。
乾いた真新しい布が、背中で鳴った。
その瞬間、全身に力が漲った。
これが、私自身の戦闘服だ。
脱衣所の扉を、大きく開いた。
すっぴん。雑にまとめた髪。そして――おろしたての白衣。
「どうよ?」と言わんばかりに、両腕を広げてみせる。
颯真は満足そうに頷いた。
「ああ。やはり、よく似合う。少なくともバスローブの十倍はな」
「ははっ!」
私は笑い飛ばす。
颯真の言葉で、胸の奥で最後まで燻っていた迷いが、完全に吹き飛んでいた。
戦闘準備、完了だ。
「では、私、これからラボへ行きます」
「行って何をする?」
「私はずっと、あの人の背中を追いかけてきました」
教わった技術、厳しい言葉。ビーカー越しに見た、たくさんの景色……。
そのすべてが本物だったから、私は何ひとつ否定しなくたっていい。
「でも、あの人を追いかけるのは、今日で終わりにします」
私は白衣の腕を、ガッと強く握り込んだ。
「だから今日からは、その先を作ります」
颯真の口元が、わずかに上がった。
「それでこそ、君だ」
母屋の玄関から外に出ると、いつの間にか雨が上がっていた。雲の切れ間から、真っ白な満月が覗いている。
颯真が、ラボへ続く重厚な扉をホテルのドアマンのように開いた。
白い照明が、私の進む先へ向かって、一つ、また一つと点灯していく。
雨上がりの夜。
真新しい白衣を翻し、私は階段を駆け下りていく。
尊敬する人から受け取った、すべてを抱えて。
もう、その背中を追いかけるためではなく。
まだ誰も辿り着いていない、その先へ――。

