「――すべて、あなただったんですね。蘭子さん」
私の静かな告発が、無機質な会議室の空気に吸い込まれていく。
蘭子さんは、自分の名前が印字された十年前のレポートを見つめたまま、しばらく、彫像のように動かなかった。でも、やがて、わずかに顎を引き、私と正面から視線を合わせた。
「ええ。そうよ」
短く。ただ一言で認めた。
その声は明瞭だった。
顕微鏡の焦点がぴたりと合ったときのように、冷たく、どこまでも鮮明な肯定。追及する私の方が逃げだしそうになるほどだった。
その時、背後で小さな音がした。
ぽつり。
ぽつり、ぽつりと。
朝から空一面を覆っていた灰色の雲が、とうとう重さに耐えきれなくなったようだ。大きな窓ガラスへ、雨粒が一つずつ黒い染みを作っていた。
そして、蘭子さんは、悪びれる様子もなく事実を並べ始めた。
アルフレッドをハイドロゲルの膜で包み、あの完璧なクリームを完成させたのは、自分であること。
共有サーバに保存されていた製造条件を書き換え、工場ごとのわずかな温度差や攪拌負荷の揺らぎで破綻する『不具合処方』を作ったのも。
そして、完成品のサンプルを外部へ送り、流出事件そのものを起こしたのも――自分だと。
蘭子さんの告白が、無機質な会議机の上へ置かれていくような気がした。
試験管を一本ずつ、ラックへ差し込んでいくように順序正しく、迷いなく……。
ただ、告白を聞いても、その答えへ辿りついていた私に驚きはなかった。けれど、たった一つだけ、分かっていないことがあった。
「……どうしてですか」
すがるように、私は問う。
「どうして、こんなことをしたんですか?」
返事の代わりに、蘭子さんは窓の外へ目を向けた。
「……失敗すれば、研究の責任。成功すれば、あの人たちの企画力。白組の名前は、どこにも残らなかった」
蘭子さんは小さなため息をひとつ吐いた。自嘲気味に口元を歪め、淡々と言葉を重ねていく。
「私たちは、誰よりも長くラボに残った。何千回も失敗して、処方を組み直して、成分を検証して、三年後も安全に使えるものを作ってきた。なのに、商品が形になった途端、明るい表舞台へ立つのはいつもプロモーションの人たち。実体のない華やかな名前をつける。都合のいい設定を作る。メディアの前で笑う。そして、自分たちが商品を生み出したような顔で拍手を浴びる。研究員は、その後ろで、万が一の不具合に備えて頭を下げる準備をしているだけ」
窓を叩く雨音が、少しずつ密度を増していく。
「……私はね、もう、うんざりだったのよ」
そんな中、玄蕃専務が白組を解体し、研究開発機能を自分と関係の深いメスキータ社へ移そうとしていることを、蘭子さんは知った。専務の指示で黒瀬さんが、白組のレシピへ手を伸ばしていることにも。
正面から役員会へ訴えても、玄蕃専務の権力には勝てない。証拠を消され、白組の責任者である蘭子さんだけが切り離されて終わる……。
だから――奪われることを知っていながら、それを利用することにした。
「奪われる場所に、毒の入ったクッキーを置いてやったのよ」
蘭子さんは、眼鏡の奥で冷ややかな光を瞬かせた。
「あの人たちは、それが白組の完成処方だと信じ切って、喜んで持っていったわ」
成分は同じクリーム。製造直後の見た目も同じ。肌へ伸ばした瞬間の、みずみずしい感触さえ、白組の最終の試作品と同じ。ただし、作成時の安全マージンだけが削り取られている……。
小さなビーカーの中なら成功する。規定条件どおりに作れば、きれいに仕上がる。
だが、大きめの釜へ移した瞬間、わずかな温度差が牙を剥く。攪拌負荷がほんの少し揺らげば、ハイドロゲルの膜は不完全なまま形成される。見た目だけは完成品の顔をして、時間差で内部構造が崩れ始める……。
盗んだ側には、毒が入っていることすら分からない。
「アウトソーシングに出した商品で不具合が発生すれば、専務派の権威は地に落ちる。本来やるべき品質試験を省いたことが原因となれば、それを率先した専務の責任は免れない」
逃げ道のない、二重の罠。しかも、蘭子さんの計画は、それだけでは終わらなかった。三つ目の罠まで用意したのだ。
「偽の処方を盗ませるだけでは、玄蕃が進めていた白組解体の計画までは表舞台へ引きずり出せない。だから、餌をもう一つ置いた」
「それが……発売前のクリームの流出……」
「そう」
蘭子さんは、自ら完成させたクリームを自ら外部へ流した。
社外の流通網から見つかった、出所不明の純白のサンプル。白組の最終試作と、検出される成分も配合比もほぼ同じ。それでいて、白組が最後まで到達できなかった、きれいなアルフレッドを持つ完成品。
玄蕃専務は、蘭子さんの狙い通り、それを利用した。
蘭子さんへ情報流出の疑いをかけ、警察へ被害届を出させ、白組の解体を上位会議体で堂々と率先した。
すべて、蘭子さんが引いた線の上を歩いていることも知らないで……。
強権を使ってことを急いで進めれば、反動があった時の反動も大きくなる。事実、デモ用サンプルで発生した不具合は、専務の引責にまで繋がった。
「……リークしたクリームに、白組の公式レシピを使わず、蘭子さんの改良したものを使ったのはなぜだったんですか?」
「ああ、それは保険よ」
「保険?」
「万が一、警察が社の言い分を真に受けて捜査が本格化した時に、白組のレシピのものとは違うことを証明できるでしょう?」
専務へ白組を潰させるための引き金と同時に、自身を守るための保険。蘭子さんは一つのサンプルへ、相反する二つの役割を持たせていたのだ。
「仮に私が逮捕されても、由芽、あなたなら、同じものでないと分かると信じていた」
蘭子さんは私に向かって微笑んだ。
「私が気がつくことまで、予測していたんですね……」
「ええ。あなたにしか、できないことだから」
蘭子さんの言葉が、胸の奥で、何かが痛いほど強く脈打った。
五年間隣で戦ってきた私に対する、最大の評価……。
でもそれは同時に。私が蘭子さんの無実を信じて足掻くことも、眠る時間を削ってサンプルを分析することも、彼女の計画に組み込まれていたということだ。
「私の狙い通り、玄蕃と黒瀬を更迭することには成功した」
蘭子さんは、最終的なの実験結果を読み上げるように言った。
「メスキータ社への『Blanche』の委託は打ち切られ、白組は復活する。失われかけた研究も、研究者も守られる。私が管理するヒラルダ社は、あなたも見つけた技術によって、より安全になった『Blanche』の開発生産を行うことになる」
「でも……その代わり、市場不具合が出ました」
私は震える声で言った。
「大事な品質試験を省いたのは玄蕃よ。未試験のサンプルを配ると決めたのは黒瀬。化粧品メーカーとして当たり前の手順を守っていれば、あの処方が誰かの肌へ触れることはなかったわ」
「それはそうですけど!」
「由芽だって、化粧品の中身のことを何も知らず商品性とか利益率のことしか頭にない連中が、偉そうにしているのは嫌だったでしょう? それが必要ないとは言わないけれど、私たち白組の仕事がもっと脚光を浴びてもいい。私はそういう環境を作りたかったのよ」
何年かけて中身を作っても、最後に拍手を浴びるのは別の人たち。
失敗だけを研究へ押しつけ、成果だけを華やかな言葉で持っていかれるたび、腹が立った。
だから、蘭子さんの気持ちは、よく分かる。
でも分かるからこそ、許せないこともある。
私は、膝の上で握っていた手をゆっくりと開いた。
爪の跡が、掌へ白く残っていた。
「でも――。蘭子さんの計画によって作られた、毒入りのクッキー。それを食べたのは、玄蕃専務でも、黒瀬さんでもありません……」
蘭子さんの瞳が、ほんのわずかに動いた。
「何も知らずに受け取って使おうとされた――お客様です」
あのPRイベントの時。沢山集まったらインフルエンサーの人たち。
彼らは確かに化粧品の中身のことを知らない人が多かっただろう。
でも、真っ白いクリームの新製品を前にしてキラキラさせていた目は本物だった。不具合は、彼らの期待への裏切りだ。
「化粧品は、会社の中で誰がを陥れたりするものではありません」
私は続ける。一語ずつ、実験ノートへ結果を書き込むように……。
「化粧品は朝、顔を洗って。鏡の前に立って。今日一日を少しでも自分に自信を持って過ごすために、自分の肌へ重ねるための物語のようなものだって……。そう教えてくれたのは蘭子さんだったじゃないですか」
再び息が詰まるような静寂が降りた。
いつの間にか、外の雨が、激しく窓を叩いていた。
無数の水滴がガラスへ打ちつけられ、窓の向こうにあった街の輪郭をぐしゃぐしゃに塗り潰していく。
「だから、化粧品の処方に嘘をついちゃいけないって。それは、化粧品の物語を壊すことになるって……」
何千回、聞いただろう。
予想を裏切る測定値が出たとき。
私が自分の失敗を認めたくなくて、機械の誤差を疑ったとき。
都合のいい解釈へ逃げそうになった私へ、蘭子さんはいつも言った。
人は嘘をつく。
会社も、数字の読み方も、簡単に都合よく変わる。
それでも、処方にだけは嘘をついてはいけない――と。
「なのに蘭子さんは嘘をついた」
胸の奥が、焼けるように痛かった。
「物語を汚しました」
「……」
蘭子さんは反論しなかった。代わりに、ただジッと私を見つめていた。
沈黙だけが、私の言葉を受け止めた。
「そうね。あなたの言う通りかもしれないわ」
ややあって、蘭子さんは言った。
「でもその代わり、白組が理想とする環境を手に入れた。ヒラルダ社は、私が求めていたすべてがあるのよ。ここなら、今度こそ、研究者が誰にも踏みにじられない場所を作れる。理不尽にラボを奪われたりしない。私たちが作った技術を、私たちの名前で世に出せる。お客様にもっと自由に、理想的な物語を届けられる!」
それは、五年間、私たちが薄暗い地下で追い求めてきた理想。
研究者が裏方へ押し込められない場所。積み上げた失敗も、完成させた技術も、正しく評価される場所。誰かの都合で試験を削られず、納得するまで処方と向き合える場所……。
「私とこない、由芽? 一緒に新しい物語を作りましょうよ」
差し出された手を私は見つめる。
必死でその背中を追った人の手。
ビーカーを支えた手。夜明け前のラボで、私の間違いだらけの実験ノートをめくった手。何度失敗しても、無言で新しいサンプル瓶を差し出してくれた手。
憧れ続けた人の――。
だからこそ。私は迷わなかった。
「行きません」
蘭子さんの指先が、わずかに強張った。
「今でも、蘭子さんの技術を尊敬しています。五年間、厳しく教えてもらったことにも、感謝しています。私が研究者でいられるのは、蘭子さんが育ててくれたからです」
そこまで言って、声が少しだけ掠れた。
前を向いた私の目は、蘭子さんを逸らさなかった。
「蘭子さんの背中を追いかけて、私はここまで来ました」
五年間、一度も追いつけると思わなかった。
実験の精度も。
処方を読む目も。
研究者としての覚悟も。
いつだって蘭子さんは、私より何歩も先を歩いている。
「でも、だからこそ、もうあなたと同じ道を歩くことは、これ以上、一緒に物語を作ることは、できません」
はっきりと告げた言葉が、冷たい会議室の空気に吸い込まれて消える。
沈黙の中、激しい雨音だけが、響き続けていた。
蘭子さんは、宙に残された自分の手をしばらく見つめていたが、やがて、ゆっくりと下ろした。
「そう」
ただ、それだけだった。
声はもう、冷たく透き通った研究所長のものへ戻り、向こうを向いた。
私は椅子から立ち上がり、蘭子さんへ向かって、深く頭を下げ。
「今までありがとうございました」
技術も、妥協を許さなかった厳しい教えも、二人で一緒にビーカーを覗き込み、わずかな変化に息を詰めた時間も。すべて、本物だった。
追いかけ続けた背中。
大きくて。
遠くて。
いつか自分も、あんな研究者になりたいと願い続けた背中だった。
その背中へ、私は最後にもう一度、深く頭を下げた。
そして、私が背を向けた。
会議室を出て、真新しい白い廊下を歩きながら胸の奥から何かが剥がれ落ちていくのが分かった。
それは、これまで蘭子さんと積み重ねていった何かだった。
エントランスホールの自動扉が左右へ開いた。
轟くような雨音が、正面から押し寄せる。
外は、折り畳み傘などほとんど役に立たないほどの土砂降りになっていた。雨がアスファルトを容赦なく殴りつけ、跳ね返った水煙が辺りを白く曇らせている。
私は雨の中へ踏み出していった。冷たい雨が髪を濡らし、頬を伝い、ブラウスへ染み込んでいく。
それでよかった。
今だけは、頬を伝うものを、全部、雨のせいにできる。
雨の中を歩いていく。
追いかけ続けた背中を、初めて後ろへ置いて。
私はもう二度と、振り返らなかった。
私の静かな告発が、無機質な会議室の空気に吸い込まれていく。
蘭子さんは、自分の名前が印字された十年前のレポートを見つめたまま、しばらく、彫像のように動かなかった。でも、やがて、わずかに顎を引き、私と正面から視線を合わせた。
「ええ。そうよ」
短く。ただ一言で認めた。
その声は明瞭だった。
顕微鏡の焦点がぴたりと合ったときのように、冷たく、どこまでも鮮明な肯定。追及する私の方が逃げだしそうになるほどだった。
その時、背後で小さな音がした。
ぽつり。
ぽつり、ぽつりと。
朝から空一面を覆っていた灰色の雲が、とうとう重さに耐えきれなくなったようだ。大きな窓ガラスへ、雨粒が一つずつ黒い染みを作っていた。
そして、蘭子さんは、悪びれる様子もなく事実を並べ始めた。
アルフレッドをハイドロゲルの膜で包み、あの完璧なクリームを完成させたのは、自分であること。
共有サーバに保存されていた製造条件を書き換え、工場ごとのわずかな温度差や攪拌負荷の揺らぎで破綻する『不具合処方』を作ったのも。
そして、完成品のサンプルを外部へ送り、流出事件そのものを起こしたのも――自分だと。
蘭子さんの告白が、無機質な会議机の上へ置かれていくような気がした。
試験管を一本ずつ、ラックへ差し込んでいくように順序正しく、迷いなく……。
ただ、告白を聞いても、その答えへ辿りついていた私に驚きはなかった。けれど、たった一つだけ、分かっていないことがあった。
「……どうしてですか」
すがるように、私は問う。
「どうして、こんなことをしたんですか?」
返事の代わりに、蘭子さんは窓の外へ目を向けた。
「……失敗すれば、研究の責任。成功すれば、あの人たちの企画力。白組の名前は、どこにも残らなかった」
蘭子さんは小さなため息をひとつ吐いた。自嘲気味に口元を歪め、淡々と言葉を重ねていく。
「私たちは、誰よりも長くラボに残った。何千回も失敗して、処方を組み直して、成分を検証して、三年後も安全に使えるものを作ってきた。なのに、商品が形になった途端、明るい表舞台へ立つのはいつもプロモーションの人たち。実体のない華やかな名前をつける。都合のいい設定を作る。メディアの前で笑う。そして、自分たちが商品を生み出したような顔で拍手を浴びる。研究員は、その後ろで、万が一の不具合に備えて頭を下げる準備をしているだけ」
窓を叩く雨音が、少しずつ密度を増していく。
「……私はね、もう、うんざりだったのよ」
そんな中、玄蕃専務が白組を解体し、研究開発機能を自分と関係の深いメスキータ社へ移そうとしていることを、蘭子さんは知った。専務の指示で黒瀬さんが、白組のレシピへ手を伸ばしていることにも。
正面から役員会へ訴えても、玄蕃専務の権力には勝てない。証拠を消され、白組の責任者である蘭子さんだけが切り離されて終わる……。
だから――奪われることを知っていながら、それを利用することにした。
「奪われる場所に、毒の入ったクッキーを置いてやったのよ」
蘭子さんは、眼鏡の奥で冷ややかな光を瞬かせた。
「あの人たちは、それが白組の完成処方だと信じ切って、喜んで持っていったわ」
成分は同じクリーム。製造直後の見た目も同じ。肌へ伸ばした瞬間の、みずみずしい感触さえ、白組の最終の試作品と同じ。ただし、作成時の安全マージンだけが削り取られている……。
小さなビーカーの中なら成功する。規定条件どおりに作れば、きれいに仕上がる。
だが、大きめの釜へ移した瞬間、わずかな温度差が牙を剥く。攪拌負荷がほんの少し揺らげば、ハイドロゲルの膜は不完全なまま形成される。見た目だけは完成品の顔をして、時間差で内部構造が崩れ始める……。
盗んだ側には、毒が入っていることすら分からない。
「アウトソーシングに出した商品で不具合が発生すれば、専務派の権威は地に落ちる。本来やるべき品質試験を省いたことが原因となれば、それを率先した専務の責任は免れない」
逃げ道のない、二重の罠。しかも、蘭子さんの計画は、それだけでは終わらなかった。三つ目の罠まで用意したのだ。
「偽の処方を盗ませるだけでは、玄蕃が進めていた白組解体の計画までは表舞台へ引きずり出せない。だから、餌をもう一つ置いた」
「それが……発売前のクリームの流出……」
「そう」
蘭子さんは、自ら完成させたクリームを自ら外部へ流した。
社外の流通網から見つかった、出所不明の純白のサンプル。白組の最終試作と、検出される成分も配合比もほぼ同じ。それでいて、白組が最後まで到達できなかった、きれいなアルフレッドを持つ完成品。
玄蕃専務は、蘭子さんの狙い通り、それを利用した。
蘭子さんへ情報流出の疑いをかけ、警察へ被害届を出させ、白組の解体を上位会議体で堂々と率先した。
すべて、蘭子さんが引いた線の上を歩いていることも知らないで……。
強権を使ってことを急いで進めれば、反動があった時の反動も大きくなる。事実、デモ用サンプルで発生した不具合は、専務の引責にまで繋がった。
「……リークしたクリームに、白組の公式レシピを使わず、蘭子さんの改良したものを使ったのはなぜだったんですか?」
「ああ、それは保険よ」
「保険?」
「万が一、警察が社の言い分を真に受けて捜査が本格化した時に、白組のレシピのものとは違うことを証明できるでしょう?」
専務へ白組を潰させるための引き金と同時に、自身を守るための保険。蘭子さんは一つのサンプルへ、相反する二つの役割を持たせていたのだ。
「仮に私が逮捕されても、由芽、あなたなら、同じものでないと分かると信じていた」
蘭子さんは私に向かって微笑んだ。
「私が気がつくことまで、予測していたんですね……」
「ええ。あなたにしか、できないことだから」
蘭子さんの言葉が、胸の奥で、何かが痛いほど強く脈打った。
五年間隣で戦ってきた私に対する、最大の評価……。
でもそれは同時に。私が蘭子さんの無実を信じて足掻くことも、眠る時間を削ってサンプルを分析することも、彼女の計画に組み込まれていたということだ。
「私の狙い通り、玄蕃と黒瀬を更迭することには成功した」
蘭子さんは、最終的なの実験結果を読み上げるように言った。
「メスキータ社への『Blanche』の委託は打ち切られ、白組は復活する。失われかけた研究も、研究者も守られる。私が管理するヒラルダ社は、あなたも見つけた技術によって、より安全になった『Blanche』の開発生産を行うことになる」
「でも……その代わり、市場不具合が出ました」
私は震える声で言った。
「大事な品質試験を省いたのは玄蕃よ。未試験のサンプルを配ると決めたのは黒瀬。化粧品メーカーとして当たり前の手順を守っていれば、あの処方が誰かの肌へ触れることはなかったわ」
「それはそうですけど!」
「由芽だって、化粧品の中身のことを何も知らず商品性とか利益率のことしか頭にない連中が、偉そうにしているのは嫌だったでしょう? それが必要ないとは言わないけれど、私たち白組の仕事がもっと脚光を浴びてもいい。私はそういう環境を作りたかったのよ」
何年かけて中身を作っても、最後に拍手を浴びるのは別の人たち。
失敗だけを研究へ押しつけ、成果だけを華やかな言葉で持っていかれるたび、腹が立った。
だから、蘭子さんの気持ちは、よく分かる。
でも分かるからこそ、許せないこともある。
私は、膝の上で握っていた手をゆっくりと開いた。
爪の跡が、掌へ白く残っていた。
「でも――。蘭子さんの計画によって作られた、毒入りのクッキー。それを食べたのは、玄蕃専務でも、黒瀬さんでもありません……」
蘭子さんの瞳が、ほんのわずかに動いた。
「何も知らずに受け取って使おうとされた――お客様です」
あのPRイベントの時。沢山集まったらインフルエンサーの人たち。
彼らは確かに化粧品の中身のことを知らない人が多かっただろう。
でも、真っ白いクリームの新製品を前にしてキラキラさせていた目は本物だった。不具合は、彼らの期待への裏切りだ。
「化粧品は、会社の中で誰がを陥れたりするものではありません」
私は続ける。一語ずつ、実験ノートへ結果を書き込むように……。
「化粧品は朝、顔を洗って。鏡の前に立って。今日一日を少しでも自分に自信を持って過ごすために、自分の肌へ重ねるための物語のようなものだって……。そう教えてくれたのは蘭子さんだったじゃないですか」
再び息が詰まるような静寂が降りた。
いつの間にか、外の雨が、激しく窓を叩いていた。
無数の水滴がガラスへ打ちつけられ、窓の向こうにあった街の輪郭をぐしゃぐしゃに塗り潰していく。
「だから、化粧品の処方に嘘をついちゃいけないって。それは、化粧品の物語を壊すことになるって……」
何千回、聞いただろう。
予想を裏切る測定値が出たとき。
私が自分の失敗を認めたくなくて、機械の誤差を疑ったとき。
都合のいい解釈へ逃げそうになった私へ、蘭子さんはいつも言った。
人は嘘をつく。
会社も、数字の読み方も、簡単に都合よく変わる。
それでも、処方にだけは嘘をついてはいけない――と。
「なのに蘭子さんは嘘をついた」
胸の奥が、焼けるように痛かった。
「物語を汚しました」
「……」
蘭子さんは反論しなかった。代わりに、ただジッと私を見つめていた。
沈黙だけが、私の言葉を受け止めた。
「そうね。あなたの言う通りかもしれないわ」
ややあって、蘭子さんは言った。
「でもその代わり、白組が理想とする環境を手に入れた。ヒラルダ社は、私が求めていたすべてがあるのよ。ここなら、今度こそ、研究者が誰にも踏みにじられない場所を作れる。理不尽にラボを奪われたりしない。私たちが作った技術を、私たちの名前で世に出せる。お客様にもっと自由に、理想的な物語を届けられる!」
それは、五年間、私たちが薄暗い地下で追い求めてきた理想。
研究者が裏方へ押し込められない場所。積み上げた失敗も、完成させた技術も、正しく評価される場所。誰かの都合で試験を削られず、納得するまで処方と向き合える場所……。
「私とこない、由芽? 一緒に新しい物語を作りましょうよ」
差し出された手を私は見つめる。
必死でその背中を追った人の手。
ビーカーを支えた手。夜明け前のラボで、私の間違いだらけの実験ノートをめくった手。何度失敗しても、無言で新しいサンプル瓶を差し出してくれた手。
憧れ続けた人の――。
だからこそ。私は迷わなかった。
「行きません」
蘭子さんの指先が、わずかに強張った。
「今でも、蘭子さんの技術を尊敬しています。五年間、厳しく教えてもらったことにも、感謝しています。私が研究者でいられるのは、蘭子さんが育ててくれたからです」
そこまで言って、声が少しだけ掠れた。
前を向いた私の目は、蘭子さんを逸らさなかった。
「蘭子さんの背中を追いかけて、私はここまで来ました」
五年間、一度も追いつけると思わなかった。
実験の精度も。
処方を読む目も。
研究者としての覚悟も。
いつだって蘭子さんは、私より何歩も先を歩いている。
「でも、だからこそ、もうあなたと同じ道を歩くことは、これ以上、一緒に物語を作ることは、できません」
はっきりと告げた言葉が、冷たい会議室の空気に吸い込まれて消える。
沈黙の中、激しい雨音だけが、響き続けていた。
蘭子さんは、宙に残された自分の手をしばらく見つめていたが、やがて、ゆっくりと下ろした。
「そう」
ただ、それだけだった。
声はもう、冷たく透き通った研究所長のものへ戻り、向こうを向いた。
私は椅子から立ち上がり、蘭子さんへ向かって、深く頭を下げ。
「今までありがとうございました」
技術も、妥協を許さなかった厳しい教えも、二人で一緒にビーカーを覗き込み、わずかな変化に息を詰めた時間も。すべて、本物だった。
追いかけ続けた背中。
大きくて。
遠くて。
いつか自分も、あんな研究者になりたいと願い続けた背中だった。
その背中へ、私は最後にもう一度、深く頭を下げた。
そして、私が背を向けた。
会議室を出て、真新しい白い廊下を歩きながら胸の奥から何かが剥がれ落ちていくのが分かった。
それは、これまで蘭子さんと積み重ねていった何かだった。
エントランスホールの自動扉が左右へ開いた。
轟くような雨音が、正面から押し寄せる。
外は、折り畳み傘などほとんど役に立たないほどの土砂降りになっていた。雨がアスファルトを容赦なく殴りつけ、跳ね返った水煙が辺りを白く曇らせている。
私は雨の中へ踏み出していった。冷たい雨が髪を濡らし、頬を伝い、ブラウスへ染み込んでいく。
それでよかった。
今だけは、頬を伝うものを、全部、雨のせいにできる。
雨の中を歩いていく。
追いかけ続けた背中を、初めて後ろへ置いて。
私はもう二度と、振り返らなかった。

