すっぴん白衣の逆転レシピ 〜メイクが苦手な化粧品研究員、データを盗まれたのでザマス王子の秘密ラボでキラキラ組にリベンジします〜

 空は一面、重苦しい灰色の雲に覆われていた。

 まだ雨は落ちてきていないが、スマートフォンの天気予報には夕方から無慈悲な傘マークが並んでいる。私は念のため折り畳み傘を鞄へ押し込み、ヒラルダ社へ向かった。

 車で二十分ほどの距離にありながら、化粧品の研究開発を行うヒラルダ社の研究開発棟はアルカサス本社とはまるで空気が違った。

 大理石と間接照明で着飾ったアルカサスとは違い、ガラスと金属で作られたひたすらに機能的な社屋。
 エントランスに置かれているのは、女優の巨大ポスターではなく、新開発された原料の分子模型や、乳化状態の経時変化を示す比較サンプルだ。

 まるでキラキラ組と白組のようだ、と思ってしまう。

 ガラス張りの廊下を歩く。その向こうには、曇天から降り注ぐ白い拡散光をいっぱいに取り込んだ、広大な研究室が広がっていた。

 真新しい白衣を着た研究員たちが、生き生きとした足取りで行き交っている。

 遠心分離機の低い回転音。恒温槽のファンが回る音。電子天秤の微かなビープ音。

 ドラフトチャンバーの向こうでは、若い研究員が先輩らしき女性へサンプルを突き出し、ものすごい勢いで何かを説明している。説明を受けた女性も負けじとホワイトボードへ数式を書き始めた。

 研究員が、堂々と会社の真ん中を歩いている。

 アルカサスでは、研究部門は薄暗い地下へ追いやられ、白衣で本社を歩けば部外者のような目を向けられた。

 けれど、ここでは違う。研究そのものが、会社の『表側』にある。研究所が、ちゃんと日の当たる場所にある。

 通されたのは、研究エリアに隣接した小さな技術会議室だった。
 待っていた蘭子さんは、淡いアイボリーのシルクブラウスに、濃紺のノーカラージャケットと細身のパンツという恰好だった。髪も隙なくタイトにまとめられている。

 名刺に書かれている『ヒラルダ社研究所長』という肩書が、意外と様になっていた。元部署では私と似たような年中白衣の女子だったのに。

「傘、持ってきた?」

 蘭子さんは私を見るなり、いつもの呆れたような調子で言った。

「持ってきましたよ。天気予報くらい見ます」

「あなたが? 珍しい」

「どういう意味ですか」

「サンプルのことが心配でたまらなくて、台風のなか、ずぶ濡れでラボへ飛び込んできたことがあったじゃない」

「ああ……そんなこともありましたね」

 冷や汗が浮かんだ。
 蘭子さんは入社以来、ずっと上司であり恩師だった人。彼女の前では、私はいつまで経っても手のかかる新人のままで、どうしたって頭が上がらない。

 私は今日は、個人的なものではなく、正式な業務でここへ来ている。先日の役員会で、ヒラルダ社が『Blanche』の開発と量産を正式に引き継ぎ、再編される旧白組が技術協力することが決まった。今日は、そのための技術責任者だけによるキックオフ・ミーティングだ。

 試験項目の分担。サンプルの受け渡し手順。生データの保管先。アクセス権限。異常値が出た際の報告経路。量産ラインとの連携方法。

 手元の資料をめくりながら、私たちは淡々と、実務的な会話を交わした。

 話は恐ろしいほど早い。こっちが一を言えば、蘭子さんは十まで理解する。蘭子さんが投げた指示の問題点を、私は言葉が机へ落ちる前に拾い上げる。

 五年間、同じラボで同じ処方を追い続けた。その時間は、会社が変わった程度では消えてくれない。

 一通りのすり合わせが終わる。蘭子さんは最後のページへチェックを入れ、ペンの先で軽く机を叩いた。

「それで。そろそろヒラルダへ来る気になった?」

「いやいや……。今日は、技術協力の打ち合わせに来ただけでして」

「旧白組のメンバーごと来てくれたら、話が早いのだけれど。上の階、まるまるワンフロア空けて待っているのよ」

「ワンフロア?」

「恒温恒湿室も増設できるわ。分析機器も、希望があれば入れる」

 私の研究員としての心が、一瞬だけ大きく揺れた。
 危ない。この人、私を口説く方法を正確に理解している。

「会社を跨いで、白組を設備ごと一本釣りしようとしないでください」

「残念ね」

 蘭子さんは「冗談よ」と言うように、少しだけ笑った。

 私は小さく息を吸い、鞄の中へ手を入れた。そして――『それ』を取り出した。

 真っ白な小瓶。
 ラベルには、手書きで一言。『Blanche』とある。

「蘭子さん」

 私は小瓶を、机の上へ置いた。

「『Blanche』です。これを、試してみてください」

 蘭子さんの眉が、ほんのわずかに動いた。

 小瓶を手に取り、蓋を開ける。指先へ、米粒より少し小さい程度のクリームを取る。
そして、自分の手の甲へ薄く塗り広げた。

 体温へ馴染んだ瞬間、のっぺりとした白さは消えた。その代わり、肌の内側から光が滲み出たように現れる圧倒的な透明感。

 蘭子さんの指が止まった。そして、ゆっくりと顔を上げた。

「……完成させたのね」

「はい」

「どうやって? もう、あなたたちにはまともなラボがないはずでしょう」

「借りました」

 詳しくは説明しない。失脚した玄蕃専務と敵対する御曹司の個人宅。その地下。最新鋭の分析機器完備。ついでに大きなお風呂と、やたら料理の上手い家主つき。

 並べれば並べるほど誤解しか生まない。

「どうやったの?」

「アルフレッドの外側を、柔らかいハイドロゲルの球状装甲で包み込みました」

 私は小瓶を指差した。

「ハイドロゲルで?」

「はい。硬い装甲で閉じ込めるのではなく、柔らかい膜で守る。水を含んだ膜がクッションになって、工場での暴力的な攪拌の衝撃だけを吸収する。だからアルフレッドの中空構造を壊さず、粒子同士の凝集も防げます」

「なるほど……」

 蘭子さんはもう一度、塗った部分へ指を滑らせた。その感触を確かめるというより、愛おしむように。

「溶媒依存型のスマートシェルね。含水状態では柔らかい膜として粒子を守り、肌の上で水分が飛べば、膜構造そのものが崩れる。だから塗った瞬間、装甲だけが消えて、アルフレッドが均一に解放される……」

 そこまで言って、蘭子さんは満足そうに笑った。

「さすが由芽だわ」

 その言葉を聞いて、胸の奥に、熱いものが込み上げた。
 この人に認めてもらいたくて、この人の背中へ追いつきたくて、私は、ずっと研究を続けてきたのだ。

 私は小瓶を、蘭子さんの手元へ真っ直ぐに押し出した。

「この工程を、ヒラルダ社の量産処方にも組み込んでください」
「ええ、もちろん」

 蘭子さんは即答した。

「必要な評価計画と、量産ラインの調整案は今日中に組ませるわ。保護膜の形成条件を確認したいから、あとで生データも送って」

「分かりました」

「他に、次回合同会議までに、握っておくことってあるかしら?」

「はい、もう一点」

 私は蘭子さんの手元に、もう一つ、クリアファイルを置く。

「『Blanche』の先行デモ。配布されたサンプルで発生した市場不具合の原因の件です」

「何か分かった?」

 蘭子さんも興味を持ったように、体を乗り出してきた。
 
 専務が指示した新しい品質管理工程の不備に問題があったのは確かだが、化粧品エンジニアとして気になるのはその技術的、直接的原因だ。

「これまで閲覧制限をかけられていたキラキラ組のプロジェクトデータと、メスキータ社へ渡された製造資料、そのアクセスログまで、すべて調べられるようになりました」

 私は千夏と一緒に、それらを片端から突き合わせて、調査したのだ。メスキータ社でサンプル製造に使用されたレシピから、それがどのような過程を経て、アルカサスから渡ったのかの履歴も。

「それで、分かったの?」

「不具合を出したサンプルのレシピは、アルカサスのキラキラ組が白組の共有サーバから、黒瀬さんを通じてメスキータ社へ渡ったものと同じでした」

 私は蘭子さんを見た。

「問題は、そのレシピが白組にあったものからメスキータ社へ渡る前に、『一か所だけ』書き換えられていたことです」

「書き換えられていた?」

「はい。製造工程の一か所が」

 二枚の紙を置く。白組が残していた、本来のプロセスシートとメスキータ社が受け取ったもの。

「冷却工程です。乳化が終わったあと、高温のクリームを常温近くまで冷やす工程。白組の本来の条件では、三時間かけてゆっくり温度を下げる『徐冷』でした。ところが、メスキータ社側のこちらでは、十五分」

 私は、赤く囲んだ箇所を指で叩いた。

「三時間の『徐冷』が、十五分で一気に冷やす『急冷』へ変更されていたんです」

 乳化は、混ぜ終わった瞬間に完成しない。攪拌を止めた時点では、水と油が細かく分散しているだけだ。

 そこから熱がゆっくり下がる過程で、乳化剤や油相が少しずつ並び直し、クリームを支える骨組みを作る。徐冷なら、そのための時間が確保される。

 だが、急冷すればどうなるか。化粧品を製造する釜では、冷却ジャケットに接する壁際だけが先に冷える。中心部には熱が残る。

 その結果、油滴や粒子が不均一な状態のまま、強引に固定される。

 製造直後は、正常に見える。容器へも問題なく充填できる。だが内部では、乳化構造が完成しないまま固まっている。

 そこへ輸送中の振動や温度変化が加わり、潜んでいた不安定さが一気に表へ出て相分離が起きる。

「不具合が発生したロットは、釜の温度が一度高かったのですが、それ自体が、不具合の直接原因だったわけではありません。急冷へ書き換えられたことで、安全マージンが削り落とされていました」

 本来の処方なら、安全域に吸収される程度の揺らぎ。正しく徐冷されていれば、製品は壊れなかった。

「これはレシピにあらかじめ仕込まれた、時限爆弾のようなものでした。必ず爆発するかどうかは分からない。けれど、十分な品質検査工程を経ず量産すれば、いつかどこかで問題が発生する仕組みの」

「なるほど、よくわかったわ。でも、どうして書き換えが起きたの?」

 蘭子さんが眼鏡の奥の目を細めた。

「メスキータにレシピを渡したのは、専務に言われた黒瀬さんだけです。でも、彼女ではありません。やる理由がありませんし、なにより彼女には分からない……。たった一行だけを変え、成分分析でも外観検査でも見抜けないまま、量産時の小さな揺らぎだけで壊れるように処方を変えるなんて……」

 それができるのは、この処方の限界を知り尽くした人間。

 どこまでなら耐えるのか。どこを削れば崩れるのか。アルフレッドとシンヴェールを、長い間、誰よりも近くで見ていた人間だけ……。

 私は、もう一枚、ファイルを取り出す。

 データベースにあった、十年前の古い社内実験レポートだった。

 ハイドロゲルを用いた色材保護技術。先日、私が完璧なアルフレッドを作るために参考にしたアルカサスのレポート。

 実験者の欄には、はっきりと名前が印字されていた。

『西城蘭子』

 と。

「さっき、ハイドロゲルの装甲のことを話した時、このレポートのこと、以前実験したことを一度も話してくれませんでしたよね……」

 蘭子さんは、何も答えない。
 黒い瞳を伏せ、十年前の自分の名前を見つめている。

「いつもの蘭子さんなら、絶対に聞いてきますよね。膜はどう形成したのか。含水率はどこに置いたのか。どの程度の攪拌負荷まで耐えたのか。蘭子さんなら、私が説明し終える前に、十個は質問してくる」

 けれど、何一つ聞かなかった。

 確かめる必要がなかったから。

「作ったことがあったんですね。この方法を使って。あの暴れ馬みたいなアルフレッドを、完璧に安定化させたことが」

 会議室を、沈黙が満たす。
 機器の駆動音も、廊下を行き交う足音も、遠くへ引いていく。

 私の前にいるのは、五年間、背中を追い続けた人だった。
 失敗すれば怒鳴り。成功すれば誰よりも喜び、処方は嘘をつかないと、私に教えてくれた人。

 だからこそ。私は、もう目を逸らさなかった。

「蘭子さんには、完璧なクリームを作る技術が、最初からあった」

 私は、十年前のレポートへ指を置いた。

「そして白組の責任者として、白組の共有サーバのレシピを書き換える権限も持っていた」

 尊敬していた。
 憧れていた。
 今も、そのすべてが消えたわけではない。

 でも、一人の研究者として。処方の中へ残された事実を、最後まで追い切った人間として。
 私は目の前の人を見た。

 蘭子さんが、ゆっくりと顔を上げた。
 眼鏡の瞳が、真っ直ぐに私を映している。

 私は、その目から逃げなかった。

「完璧なクリームを作ったのも」

 一度、息を吸う。

「あの処方を書き換え、玄蕃専務たちが盗み出すように仕向けたのも」

 喉の奥が、焼けるように熱かった。

「――すべて、あなただったんですね。蘭子さん」