座馬颯真の予告どおり、事態は猛スピードで進んだ。
三十分後。蘭子さんを除く白組メンバーは二階の中会議室へ集められ、研究開発部の解体を正式に告げられた。
「昨今の経営環境を鑑み、業務効率化および組織再編の一環として――」
総務の人が感情の死んだ声で紙を読み上げる。机の上には異動辞令。昼までに荷物をまとめて午後から新しい部署へ移れ、とのこと。
白組の葬式は十五分で終了した。お経も焼香もなし。遺族が自分で荷造りするスタイルだ。
総務が逃げるように出ていくと、横から一枚の紙が私の視界へ滑り込んできた。
『九条千夏 異動先:人事部』
隣の席の九条千夏が、自分の辞令を突きつけたまま突っ伏している。五年間の相棒であり、一番の友達だ。
「データ管理してた人間を、人の管理へ異動させるって。センスある人事だと思わない?」
「……千夏」
「で、由芽は? どこへ異動?」
私は自分の辞令をそっと差し出した。千夏は一秒だけそれを見て、「……わあ」と心の底から同情する声を出した。
『新プロジェクト推進部』
通称、キラキラ組。
水相と油相を、界面活性剤も入れずにドバッと同じビーカーへ放り込むような人事だ。絶対に分離する。
* * *
昼過ぎ。私は事務棟の高層フロアへ向かうエレベーターに乗っていた。
私の格好は、すっぴんに寝癖の残ったひとまとめの髪、色落ちジーンズ、そして白衣。
白衣は脱ぎ忘れたわけではない。物理的に脱げないのだ。
今日、私は白衣の下にキャミソールしか着ていない。キャミソール一枚で高層フロアを歩くか、ロッカーにあった蛍光グリーンの休日のゴミ出し用パーカーで乗り込むか。
白衣のまま「合同打ち合わせかな?」と誤認させるのが、最も社会的損失の少ない高度な政治的判断だった。
エレベーターの扉が開く。
『新プロジェクト推進部』
ガラス張りのエントランスの奥には、白いフロアタイルとフリースペース。窓の向こうには都心の勝ち組の眺望が広がっている。
そして何より、生息している人間が違う。
とろみのあるシルクのブラウス、完璧なヘアスタイルと血色のいいリップ。ここは香水と清潔感と、「私、朝からちゃんとしてます」の圧がする。空気にまでファンデーションが塗られている。
そこへ、白衣姿ですっぴんの私である。異物混入。しかも目視で発見できる特大サイズだ。
フリースペースにいた女性たちの視線が一斉に突き刺さった。
「ねえ、あの人……」
「瀕死の白組の人でしょ?」
「なんで白衣のままなの?」
ヒソヒソ声が波のように広がる。居心地が悪くてクリアファイルを抱きしめていると、鋭いヒールの音が近づいてきた。
「来たわね、湊川さん」
声のほうを振り返り、反射的に背筋を伸ばす。
黒瀬麗奈。キラキラ組のエース。完璧に巻かれた髪とメイクで、すべてが勝利をまとっている。
このフロアの照明は黒瀬さんが動くたびに「はい、美しい!」と追いかけているようにすら見えた。
「今日からお世話に――」
「まず、その格好。明日からやめてもらえる?」
配属初日の第一声は服装検査だった。さすがキラキラ組、中身を見る前に容器の不良を指摘してくる。
「ここは研究所じゃないの。お客様も来るのよ。そんな得体の知れないシミがついたヨレヨレの白衣……あなた一人の格好で、部署全体の品位が傷つくの。分かる?」
得体の知れないシミではなく、一週間前に暴発したファンデーションの戦歴なのだが、黒瀬さんには一ミリも刺さらないだろう。
「すみません。でも、今日はちょっと事情があって」
「事情?」
「この下、キャミソールなんです。いちおう蛍光グリーンのパーカーもありますが、どっちにしても白衣を脱ぐとコンプラが出動します。それでもよければ脱ぎますけど」
周囲のキラキラ組が一斉にこちらを見た。黒瀬さんのこめかみが微かに動く。
「……今日はそのままでいいわ。明日は適切な格好で来なさい」
「はい」
素直に返事をしたものの、私の脳内クローゼット検索は「適切な格好」ゼロ件を弾き出していた。
このフロアにおける適切とは何か。私は答えを求めるように、目の前の『適切の完全体』――黒瀬さんを見つめた。
で、気が付いてしまった。
職業柄というやつかもしれない。思わず口が動いた。
「……黒瀬さん、右の小鼻のところ、少し下地が浮いてますよ」
空気が死んだ。黒瀬さんの完璧な笑顔も、一ミリだけ死んだ。
「……え?」
「たぶん、多孔質シリカの皮脂吸着パウダーが限界まで皮脂を吸って飽和してます。それに右からエアコンの風が直撃して表面の水分が飛び、ベースの皮膜剤が収縮してる。浮いた粉が毛穴へ落ち込む『枯れ落ち』の初期症状です」
周囲の女性たちが、サッと一斉に自分の小鼻へ触れた。見事な統率力だ。
「ここで油分を足すと顔面全域の崩落へ拡大します。一度ティッシュで余分な皮脂だけ押さえてから、水溶性の保湿ミストを――あ、私、持ってますよ」
トートバッグへ手を突っ込む。片方だけのゴム手袋やマドラーの地層の下を探ろうとした瞬間。
「結構よ!」
発掘調査は、黒瀬さんの一声で打ち切られた。
完璧なメイクの下で、剥き出しの殺意がファンデーションより均一に広がっている。
悪気は一ミクロンもない。目の前に塗膜不良があれば直したくなるのが、化粧品研究員の悲しき反射なのだ。
しかし、患者は治療前に歯医者の喉笛を噛み切りそうな顔をしていた。
「……あのね、湊川さん」
黒瀬さんは絶対零度の声で言い放った。
「勘違いしないでほしいんだけど、そういう白組のやり方は、ここでは通用しないから。自分たちにしか分からない理屈を並べる古い体質は、今のアルカサスには必要ないの」
黒瀬さんが、ヒールを鳴らして一歩近づく。甘くて重い香水が鼻を刺す。
「他人のメイクを指摘する前に、まずは自分の顔をなんとかしなさい。美を売る化粧品メーカーの人間が堂々とすっぴんで歩く。それって自社の存在意義を否定する行為だと思わない?」
「ぐっ……!」
刺さった。純度九九・九九パーセントの正論だ。
「紫外線の届かない地下にこもっていれば許されたのかもしれないけれど。ここは一軍――オモテの舞台よ」
黒瀬さんは私を見下ろし、完璧に塗られた唇でゆっくりと弧を描いた。
「ここの空気に馴染めず、いつまでも昔のやり方にしがみつくようなら……自然と、自分の居場所がないことに気づくはずよ。変化に適応できない人間は、最後にはみんな『自分から』会社を去っていくの」
その言葉が、ごとんと胸の奥へ落ちた。
『自分から去っていく』
なんて敏感肌にも配慮したクリーンな表現だろう。
だが、化粧品研究員は騙されない。表側にどれだけ「やさしさ」を並べられても、必ず裏返して全成分表示を見る。
研究開発部を解体し、価値観の遠いキラキラ組へ強制異動。専門性を否定し、孤立させ、居場所を剥奪。仕上げに本人の手で退職届を書かせる。
商品名――『自己都合退職』。
「……そういうことか」
会社は不当解雇の炎上を避けるため、組織改革という名のクリームへ劇薬を練り込んだのだ。
ショックを受けたときほど笑って角を立てないのが、私の役に立たない自動防御機能だった。だが、今は違う。
顔面に貼り付けていた愛想笑いをひっぺがし、私は黒瀬さんの瞳を真っ向から見返した。
「服装は、明日までに考えます。でも、私は会社を去ったりはしませんよ」
「……なんですって?」
黒瀬さんの声から余裕が消え失せた。
「異動してきた以上、この部署の仕事はやります。ただし――」
よれよれの白衣の胸をドンと叩く。過酷な実験を共に闘い抜いてきた、誇り高き白の装甲だ。
「私の――白組のやり方は変えませんから!」
「……っ!」
「専門的な化学知識の裏付けがあったほうが、絶対に良い化粧品の企画が作れるはずです。それを私が、ここで証明します」
完璧なメイクの下で、黒瀬さんのこめかみがピクッと引きつった。
辞めるわけにはいかない。しがみついてでも会社に残って、白衣のポケットの中にある純白のサンプルを分析し、蘭子さんの無実を証明しなければならないのだ。
誰にもどかせない頑丈なお荷物として、この華やかなフロアのど真ん中に堂々と居座らせてもらう。
会社は、白組という存在を穏便に消し去るために、いちばん諦めの悪い研究員を正反対の部署へ混ぜ込んだ。
明らかな、処方ミスである。
しかも――かなり致命的な、レシピ。
三十分後。蘭子さんを除く白組メンバーは二階の中会議室へ集められ、研究開発部の解体を正式に告げられた。
「昨今の経営環境を鑑み、業務効率化および組織再編の一環として――」
総務の人が感情の死んだ声で紙を読み上げる。机の上には異動辞令。昼までに荷物をまとめて午後から新しい部署へ移れ、とのこと。
白組の葬式は十五分で終了した。お経も焼香もなし。遺族が自分で荷造りするスタイルだ。
総務が逃げるように出ていくと、横から一枚の紙が私の視界へ滑り込んできた。
『九条千夏 異動先:人事部』
隣の席の九条千夏が、自分の辞令を突きつけたまま突っ伏している。五年間の相棒であり、一番の友達だ。
「データ管理してた人間を、人の管理へ異動させるって。センスある人事だと思わない?」
「……千夏」
「で、由芽は? どこへ異動?」
私は自分の辞令をそっと差し出した。千夏は一秒だけそれを見て、「……わあ」と心の底から同情する声を出した。
『新プロジェクト推進部』
通称、キラキラ組。
水相と油相を、界面活性剤も入れずにドバッと同じビーカーへ放り込むような人事だ。絶対に分離する。
* * *
昼過ぎ。私は事務棟の高層フロアへ向かうエレベーターに乗っていた。
私の格好は、すっぴんに寝癖の残ったひとまとめの髪、色落ちジーンズ、そして白衣。
白衣は脱ぎ忘れたわけではない。物理的に脱げないのだ。
今日、私は白衣の下にキャミソールしか着ていない。キャミソール一枚で高層フロアを歩くか、ロッカーにあった蛍光グリーンの休日のゴミ出し用パーカーで乗り込むか。
白衣のまま「合同打ち合わせかな?」と誤認させるのが、最も社会的損失の少ない高度な政治的判断だった。
エレベーターの扉が開く。
『新プロジェクト推進部』
ガラス張りのエントランスの奥には、白いフロアタイルとフリースペース。窓の向こうには都心の勝ち組の眺望が広がっている。
そして何より、生息している人間が違う。
とろみのあるシルクのブラウス、完璧なヘアスタイルと血色のいいリップ。ここは香水と清潔感と、「私、朝からちゃんとしてます」の圧がする。空気にまでファンデーションが塗られている。
そこへ、白衣姿ですっぴんの私である。異物混入。しかも目視で発見できる特大サイズだ。
フリースペースにいた女性たちの視線が一斉に突き刺さった。
「ねえ、あの人……」
「瀕死の白組の人でしょ?」
「なんで白衣のままなの?」
ヒソヒソ声が波のように広がる。居心地が悪くてクリアファイルを抱きしめていると、鋭いヒールの音が近づいてきた。
「来たわね、湊川さん」
声のほうを振り返り、反射的に背筋を伸ばす。
黒瀬麗奈。キラキラ組のエース。完璧に巻かれた髪とメイクで、すべてが勝利をまとっている。
このフロアの照明は黒瀬さんが動くたびに「はい、美しい!」と追いかけているようにすら見えた。
「今日からお世話に――」
「まず、その格好。明日からやめてもらえる?」
配属初日の第一声は服装検査だった。さすがキラキラ組、中身を見る前に容器の不良を指摘してくる。
「ここは研究所じゃないの。お客様も来るのよ。そんな得体の知れないシミがついたヨレヨレの白衣……あなた一人の格好で、部署全体の品位が傷つくの。分かる?」
得体の知れないシミではなく、一週間前に暴発したファンデーションの戦歴なのだが、黒瀬さんには一ミリも刺さらないだろう。
「すみません。でも、今日はちょっと事情があって」
「事情?」
「この下、キャミソールなんです。いちおう蛍光グリーンのパーカーもありますが、どっちにしても白衣を脱ぐとコンプラが出動します。それでもよければ脱ぎますけど」
周囲のキラキラ組が一斉にこちらを見た。黒瀬さんのこめかみが微かに動く。
「……今日はそのままでいいわ。明日は適切な格好で来なさい」
「はい」
素直に返事をしたものの、私の脳内クローゼット検索は「適切な格好」ゼロ件を弾き出していた。
このフロアにおける適切とは何か。私は答えを求めるように、目の前の『適切の完全体』――黒瀬さんを見つめた。
で、気が付いてしまった。
職業柄というやつかもしれない。思わず口が動いた。
「……黒瀬さん、右の小鼻のところ、少し下地が浮いてますよ」
空気が死んだ。黒瀬さんの完璧な笑顔も、一ミリだけ死んだ。
「……え?」
「たぶん、多孔質シリカの皮脂吸着パウダーが限界まで皮脂を吸って飽和してます。それに右からエアコンの風が直撃して表面の水分が飛び、ベースの皮膜剤が収縮してる。浮いた粉が毛穴へ落ち込む『枯れ落ち』の初期症状です」
周囲の女性たちが、サッと一斉に自分の小鼻へ触れた。見事な統率力だ。
「ここで油分を足すと顔面全域の崩落へ拡大します。一度ティッシュで余分な皮脂だけ押さえてから、水溶性の保湿ミストを――あ、私、持ってますよ」
トートバッグへ手を突っ込む。片方だけのゴム手袋やマドラーの地層の下を探ろうとした瞬間。
「結構よ!」
発掘調査は、黒瀬さんの一声で打ち切られた。
完璧なメイクの下で、剥き出しの殺意がファンデーションより均一に広がっている。
悪気は一ミクロンもない。目の前に塗膜不良があれば直したくなるのが、化粧品研究員の悲しき反射なのだ。
しかし、患者は治療前に歯医者の喉笛を噛み切りそうな顔をしていた。
「……あのね、湊川さん」
黒瀬さんは絶対零度の声で言い放った。
「勘違いしないでほしいんだけど、そういう白組のやり方は、ここでは通用しないから。自分たちにしか分からない理屈を並べる古い体質は、今のアルカサスには必要ないの」
黒瀬さんが、ヒールを鳴らして一歩近づく。甘くて重い香水が鼻を刺す。
「他人のメイクを指摘する前に、まずは自分の顔をなんとかしなさい。美を売る化粧品メーカーの人間が堂々とすっぴんで歩く。それって自社の存在意義を否定する行為だと思わない?」
「ぐっ……!」
刺さった。純度九九・九九パーセントの正論だ。
「紫外線の届かない地下にこもっていれば許されたのかもしれないけれど。ここは一軍――オモテの舞台よ」
黒瀬さんは私を見下ろし、完璧に塗られた唇でゆっくりと弧を描いた。
「ここの空気に馴染めず、いつまでも昔のやり方にしがみつくようなら……自然と、自分の居場所がないことに気づくはずよ。変化に適応できない人間は、最後にはみんな『自分から』会社を去っていくの」
その言葉が、ごとんと胸の奥へ落ちた。
『自分から去っていく』
なんて敏感肌にも配慮したクリーンな表現だろう。
だが、化粧品研究員は騙されない。表側にどれだけ「やさしさ」を並べられても、必ず裏返して全成分表示を見る。
研究開発部を解体し、価値観の遠いキラキラ組へ強制異動。専門性を否定し、孤立させ、居場所を剥奪。仕上げに本人の手で退職届を書かせる。
商品名――『自己都合退職』。
「……そういうことか」
会社は不当解雇の炎上を避けるため、組織改革という名のクリームへ劇薬を練り込んだのだ。
ショックを受けたときほど笑って角を立てないのが、私の役に立たない自動防御機能だった。だが、今は違う。
顔面に貼り付けていた愛想笑いをひっぺがし、私は黒瀬さんの瞳を真っ向から見返した。
「服装は、明日までに考えます。でも、私は会社を去ったりはしませんよ」
「……なんですって?」
黒瀬さんの声から余裕が消え失せた。
「異動してきた以上、この部署の仕事はやります。ただし――」
よれよれの白衣の胸をドンと叩く。過酷な実験を共に闘い抜いてきた、誇り高き白の装甲だ。
「私の――白組のやり方は変えませんから!」
「……っ!」
「専門的な化学知識の裏付けがあったほうが、絶対に良い化粧品の企画が作れるはずです。それを私が、ここで証明します」
完璧なメイクの下で、黒瀬さんのこめかみがピクッと引きつった。
辞めるわけにはいかない。しがみついてでも会社に残って、白衣のポケットの中にある純白のサンプルを分析し、蘭子さんの無実を証明しなければならないのだ。
誰にもどかせない頑丈なお荷物として、この華やかなフロアのど真ん中に堂々と居座らせてもらう。
会社は、白組という存在を穏便に消し去るために、いちばん諦めの悪い研究員を正反対の部署へ混ぜ込んだ。
明らかな、処方ミスである。
しかも――かなり致命的な、レシピ。
