地下ラボを出て、コンクリートの階段を上がる。
重い木の扉を抜ければ、そこは颯真の屋敷のいちばん奥――かつて蔵として使われていた一角だ。
いつもなら、そのまま玄関へ直行して帰る。彼が実際に暮らしている居住エリアへ足を踏み入れるのは、今日が初めてだった。
「こっちだ」
颯真は、いつもとは反対方向へ歩き出した。
その背中を追いかけながら、私はほんの少し、心臓を跳ねさせている。
夜遅くに、男性のプライベート空間へ招かれるのだ。多少、戸惑いや緊張があって然るべきシチュエーションなのではないだろうか。
しかも相手は、色白で長身、黒髪、吸血鬼系美形。黙って立っているだけなら、嫁入り前のスッピン白衣の心拍数を一・五倍くらいに引き上げる性能はある。
だが、そんな甘酸っぱい緊張感は、重厚な引き戸を抜けた瞬間、それ以上の衝撃によって跡形もなく消滅した。
「なんだ、ここは……」
広い。
でかい。
高そう。
颯真の住処は、私の予想を遥かに超える豪華さだった。
見上げれば、首が痛くなるほど高い天井に、見事な太い梁が黒光りしている。足元から奥へと続く長い廊下は飴色に磨き上げられ、横を向けば、障子越しに淡くライトアップされた中庭が浮かび上がっていた。
古い日本家屋の骨格をしているのに、古臭さがまったくない。リノベーションされたばかりの、高級旅館のような雰囲気。そしてそれが、やたらと広いのだ。
玄関から三回角を曲がり、二つの中庭を横目に通り過ぎてもまだ、目的地は見えてこない。私の住んでいる独身寮なら、今の距離で建物を縦に三往復しているほどの距離なのに。
そして、ようやくたどり着いたキッチン。そこも常軌を逸した広さだった。
中央に置かれた黒い石天板の巨大なアイランド型。壁際には、業務用の大きな冷蔵庫。調理器具は大きさ順に整列し、包丁は一本ずつ専用のホルダーへ収まっている。
さながら料理番組の収録スタジオか、有名レストランのオープンキッチンのようだ。
颯真はジャケットを脱いで白いシャツの袖を肘までまくると、見覚えのある藍染めのエプロンを身につけた。
吸血鬼系御曹司で、次期社長候補。事業戦略部長のくせに、口うるさいオカンで、藍染めエプロン。颯真はいつも通りに属性が渋滞気味だ。
颯真は私にも、無地のエプロンを差し出してきた。
私はそれを白衣の上から締める。
彼は少し眉根を寄せていたが、「服が汚れるよりはいいだろう」と諦めた様子だった。
「シンガポールチキンライスの仕込みは俺がやる。君は生春巻きの具材と、付け合わせのカットを頼めるか?」
「了解です。切るのは得意です」
「その自信は、どこから来るんだ」
「刃物を持つ研究員は強いですよ」
「怖いことを言うな」
二人で並んで、広いキッチンに立つ。
颯真の手際には、実験プロトコルのように一切の無駄がない。鶏肉へ生姜とネギを揉み込み、調味液の量を正確に量り、長粒種のジャスミンライスと一緒に炊飯器へセットする。
一方、私は野菜荒い専用のシンクで野菜を洗い、包丁を握った。
きゅうり、パプリカ、たっぷりのパクチー。
生春巻き用のパプリカを、小ぶりの包丁で慎重にカットする。
一切れ目は四ミリ。二切れ目は七ミリ。三切れ目――なぜか一・五センチ。
隣でソースを作っていた颯真が、私の手元を見て、小さく息を吐いた。
「……ずいぶんと個性的な細切りだな」
「工場生産では出せない手作り感を演出しました」
「その演出、必要か? 細切りの定義から外れかけているものが混ざっているが」
「多様性です」
「化粧品を〇・〇一グラム単位で調整する人間と、同一人物とは思えん」
作業の心地よいリズムがキッチンを満たしていく。
包丁がまな板を叩く音に鍋の中で湯が沸く音、そして鶏肉のスープで炊き上がるジャスミンライスの、甘くてエスニックな香りが広大なキッチンを広がっていく。
私がライスペーパーをぬるま湯で戻し、エビと、個性の強い野菜たちを巻き上げる頃には、颯真が三種類の特製ソース――ダークソイ、ジンジャー、チリ――を小皿へ整えていた。
「完成だな」
皿の上には、艶やかに炊き上がったシンガポールチキンライスと、少し不格好な生春巻きが並んでいる。
「……ちゃんと料理になりましたね」
「そうだな」
「私も、共同制作者を名乗れるくらいは貢献しましたよね?」
「ああ。太さの違うパプリカを量産してはいたが」
「食感に変化をつけた、と言ってください」
「ものは言いようだな」
私たちはキッチン横のカウンターに並んで座り、手を合わせる。
「いただきます」
一口、食べる。
鶏肉の濃厚な旨味が染み込んだジャスミンライスへ、生姜の香りとダークソイの深い甘み、チリソースの辛味が重なった。
「美味しい……! 和食だけじゃなくてエスニックも得意とは」
「最近、研究を始めた」
「生春巻きも美味しいですよ。太さの不揃いなパプリカが、いい味を出してますよ」
「そこは無理に強調しなくていいんじゃないか?」
広すぎる屋敷の、広すぎるキッチン。
そこで私は颯真と二人、自分たちで作った料理を食べている。
数週間前まで、彼は近づき難い創業家の御曹司で、日和見主義の冷血漢だと思っていたのだが、今は白衣のまま彼の家へ上がり込み、アジアンを食べている。
そう思うと、なんだか妙な気持ちだった。
「……あれ?」
ふと顔を上げ、私は箸を止めた。
「颯真、眼鏡なんですね」
いつの間にか少し大きめの黒縁眼鏡をかけていた。
「今、気づいたのか」
呆れ半分――そして、ほんの少しだけショックを受けたような顔をする。
「ふーん。意外と似合ってますね」
私はパクチーが盛大にはみ出した生春巻きを口へ運びながら、眼鏡姿をまじまじと観察した。
実際のところ、かなり似合っていた。
いつもの隙のないスーツ姿より、少しだけ柔らかい。それでいて、知性と冷たさは消えていない。深夜の図書館で難解な洋書を読んでいそうな、勤勉な学生の雰囲気がある。
「視力、どれくらいなんですか?」
「両目とも〇・一以下だ」
「ふっ。私は二・〇です」
「視力でマウントを取られるのは、小学校以来だな」
私が勝ち誇ってふんぞり返ると、颯真は呆れたように小さく息を吐いた。
「でも、白組は眼鏡だらけですよ。大半が眼鏡女子です。みんな新入社員の頃はコンタクトだったのに、一日中データと睨めっこしているうちに、次々と眼鏡派へ転向していきました。目が乾いて仕方ないですから」
「ああ、その気持ちは完全には同意する。俺も、今日は朝から会議続きだったから、やたらと乾いて目が痛かった」
颯真は、黒縁眼鏡の位置を指先で直した。
「コンタクトレンズは乾燥するとすぐに硬さが増して、目に張りついてくる」
「素材がハイドロゲルっていう、水を抱えて膨らむ高分子の網目構造ですからね。含んでいる水分量によって、物理的な硬さが劇的に変わるんです」
私はリケジョの蘊蓄を披露しつつ、皿の上に並んだ生春巻きへ、もう一度箸を伸ばした。
「これと同じです」
生春巻きをつまみ上げ、もっちりとした皮を颯真へ見せる。
「ライスペーパーも、さっきまではプラスチックの板みたいにカチカチで、曲げたら割れそうだったでしょう。でも、ぬるま湯で水分を吸わせれば、こんなに柔らかく弾力が出ます」
「なるほどな。そういうことなら、表面が乾く前に食べるとしよう。水分が飛んだたらまた硬くなって、具材との一体感がなくなってしまうからな」
「賛成です」
言いながら、生春巻きをピーナッツソースの小皿へ運ぼうとして――。
私はピタリと、箸を止めた。
『水を含んでいる間は、柔らかく弾力がある』
『水分が飛べば硬くなり、衝撃で割れる』
頭の中で、二つの言葉が繰り返された。
私は箸の先に挟まれた、半透明の生春巻きを凝視した。
水をたっぷり含み、ぷるぷると揺れる薄い膜を。
「これだ!」
気がつくと、私は叫んでいた。
「どうかしたのか? 由芽?」
「これですよ。なんで気づかなかったんだろう」
「何の話をしている」
「あの完璧なクリーム!」
椅子を蹴るように立ち上がった。
「アルフレッドの外側に、水分量で性質が変わる膜を着せたんですよ!」
「膜?」
「水を含んでいる間は、柔らかく膨らんで衝撃を吸収する。水が抜ければ、硬く脆くなる。そうだ、それなら――全部つながる!」
胸の奥で、心臓が暴れ回っている。
「成分分析が一致した理由も! 密閉した測定器の中では四十度を超えても崩れなかった理由も! 肌の上ではきれいにとろけた理由も! あの均一な粒径分布も! これなら、全部説明できます! ハイドロゲルの装甲です!」
私はテーブルを叩いた。
食器が一斉に跳ね、スプーンが、カチャリと悲鳴を上げた。
「今すぐ確かめてきます!」
ターンと踵を返し、地下ラボへ猛ダッシュしようとした、その瞬間。
――くいっと、白衣の裾が、後ろへ引かれた。
リードを引かれた小型犬のように、私はその場で見事な急停止を決めた。
「離してーー。 今、私の目の前で科学の扉がフルオープンしたんです!」
「フルオープンはいいが、夕飯を食べてからにしろ」
颯真は箸を持ったまま、もう片方の手で私の白衣の裾をちょこんとつまんでいた。真ん中に寄せられた眉が、「お母さんは許しませんからね!」と言っているかのようだった。
颯真のこの顔には、私は心底、弱いのだ。
「はっ! わかりました!」
私は椅子に戻ると、猛烈にシンガポールチキンライスを食べ始めた。
「よく噛め。米を気管に詰まらせたら、研究どころじゃなくなるぞ」
「んぐっ……げほっ! み、水……っ!」
「ほら、言わんこっちゃない! レモングラスで口と鼻が貫通でもしたら乙女の一大事だぞ!」
颯真からグラスを渡され、盛大にむせ返る。
「くっ、こんな時に! 科学が……科学が、気管支へ……!」
「入ったのはタイ米だ。科学は関係ない」
背中をぽんぽんとさすられながら、私はいつまでも咳きこんでいた。
重い木の扉を抜ければ、そこは颯真の屋敷のいちばん奥――かつて蔵として使われていた一角だ。
いつもなら、そのまま玄関へ直行して帰る。彼が実際に暮らしている居住エリアへ足を踏み入れるのは、今日が初めてだった。
「こっちだ」
颯真は、いつもとは反対方向へ歩き出した。
その背中を追いかけながら、私はほんの少し、心臓を跳ねさせている。
夜遅くに、男性のプライベート空間へ招かれるのだ。多少、戸惑いや緊張があって然るべきシチュエーションなのではないだろうか。
しかも相手は、色白で長身、黒髪、吸血鬼系美形。黙って立っているだけなら、嫁入り前のスッピン白衣の心拍数を一・五倍くらいに引き上げる性能はある。
だが、そんな甘酸っぱい緊張感は、重厚な引き戸を抜けた瞬間、それ以上の衝撃によって跡形もなく消滅した。
「なんだ、ここは……」
広い。
でかい。
高そう。
颯真の住処は、私の予想を遥かに超える豪華さだった。
見上げれば、首が痛くなるほど高い天井に、見事な太い梁が黒光りしている。足元から奥へと続く長い廊下は飴色に磨き上げられ、横を向けば、障子越しに淡くライトアップされた中庭が浮かび上がっていた。
古い日本家屋の骨格をしているのに、古臭さがまったくない。リノベーションされたばかりの、高級旅館のような雰囲気。そしてそれが、やたらと広いのだ。
玄関から三回角を曲がり、二つの中庭を横目に通り過ぎてもまだ、目的地は見えてこない。私の住んでいる独身寮なら、今の距離で建物を縦に三往復しているほどの距離なのに。
そして、ようやくたどり着いたキッチン。そこも常軌を逸した広さだった。
中央に置かれた黒い石天板の巨大なアイランド型。壁際には、業務用の大きな冷蔵庫。調理器具は大きさ順に整列し、包丁は一本ずつ専用のホルダーへ収まっている。
さながら料理番組の収録スタジオか、有名レストランのオープンキッチンのようだ。
颯真はジャケットを脱いで白いシャツの袖を肘までまくると、見覚えのある藍染めのエプロンを身につけた。
吸血鬼系御曹司で、次期社長候補。事業戦略部長のくせに、口うるさいオカンで、藍染めエプロン。颯真はいつも通りに属性が渋滞気味だ。
颯真は私にも、無地のエプロンを差し出してきた。
私はそれを白衣の上から締める。
彼は少し眉根を寄せていたが、「服が汚れるよりはいいだろう」と諦めた様子だった。
「シンガポールチキンライスの仕込みは俺がやる。君は生春巻きの具材と、付け合わせのカットを頼めるか?」
「了解です。切るのは得意です」
「その自信は、どこから来るんだ」
「刃物を持つ研究員は強いですよ」
「怖いことを言うな」
二人で並んで、広いキッチンに立つ。
颯真の手際には、実験プロトコルのように一切の無駄がない。鶏肉へ生姜とネギを揉み込み、調味液の量を正確に量り、長粒種のジャスミンライスと一緒に炊飯器へセットする。
一方、私は野菜荒い専用のシンクで野菜を洗い、包丁を握った。
きゅうり、パプリカ、たっぷりのパクチー。
生春巻き用のパプリカを、小ぶりの包丁で慎重にカットする。
一切れ目は四ミリ。二切れ目は七ミリ。三切れ目――なぜか一・五センチ。
隣でソースを作っていた颯真が、私の手元を見て、小さく息を吐いた。
「……ずいぶんと個性的な細切りだな」
「工場生産では出せない手作り感を演出しました」
「その演出、必要か? 細切りの定義から外れかけているものが混ざっているが」
「多様性です」
「化粧品を〇・〇一グラム単位で調整する人間と、同一人物とは思えん」
作業の心地よいリズムがキッチンを満たしていく。
包丁がまな板を叩く音に鍋の中で湯が沸く音、そして鶏肉のスープで炊き上がるジャスミンライスの、甘くてエスニックな香りが広大なキッチンを広がっていく。
私がライスペーパーをぬるま湯で戻し、エビと、個性の強い野菜たちを巻き上げる頃には、颯真が三種類の特製ソース――ダークソイ、ジンジャー、チリ――を小皿へ整えていた。
「完成だな」
皿の上には、艶やかに炊き上がったシンガポールチキンライスと、少し不格好な生春巻きが並んでいる。
「……ちゃんと料理になりましたね」
「そうだな」
「私も、共同制作者を名乗れるくらいは貢献しましたよね?」
「ああ。太さの違うパプリカを量産してはいたが」
「食感に変化をつけた、と言ってください」
「ものは言いようだな」
私たちはキッチン横のカウンターに並んで座り、手を合わせる。
「いただきます」
一口、食べる。
鶏肉の濃厚な旨味が染み込んだジャスミンライスへ、生姜の香りとダークソイの深い甘み、チリソースの辛味が重なった。
「美味しい……! 和食だけじゃなくてエスニックも得意とは」
「最近、研究を始めた」
「生春巻きも美味しいですよ。太さの不揃いなパプリカが、いい味を出してますよ」
「そこは無理に強調しなくていいんじゃないか?」
広すぎる屋敷の、広すぎるキッチン。
そこで私は颯真と二人、自分たちで作った料理を食べている。
数週間前まで、彼は近づき難い創業家の御曹司で、日和見主義の冷血漢だと思っていたのだが、今は白衣のまま彼の家へ上がり込み、アジアンを食べている。
そう思うと、なんだか妙な気持ちだった。
「……あれ?」
ふと顔を上げ、私は箸を止めた。
「颯真、眼鏡なんですね」
いつの間にか少し大きめの黒縁眼鏡をかけていた。
「今、気づいたのか」
呆れ半分――そして、ほんの少しだけショックを受けたような顔をする。
「ふーん。意外と似合ってますね」
私はパクチーが盛大にはみ出した生春巻きを口へ運びながら、眼鏡姿をまじまじと観察した。
実際のところ、かなり似合っていた。
いつもの隙のないスーツ姿より、少しだけ柔らかい。それでいて、知性と冷たさは消えていない。深夜の図書館で難解な洋書を読んでいそうな、勤勉な学生の雰囲気がある。
「視力、どれくらいなんですか?」
「両目とも〇・一以下だ」
「ふっ。私は二・〇です」
「視力でマウントを取られるのは、小学校以来だな」
私が勝ち誇ってふんぞり返ると、颯真は呆れたように小さく息を吐いた。
「でも、白組は眼鏡だらけですよ。大半が眼鏡女子です。みんな新入社員の頃はコンタクトだったのに、一日中データと睨めっこしているうちに、次々と眼鏡派へ転向していきました。目が乾いて仕方ないですから」
「ああ、その気持ちは完全には同意する。俺も、今日は朝から会議続きだったから、やたらと乾いて目が痛かった」
颯真は、黒縁眼鏡の位置を指先で直した。
「コンタクトレンズは乾燥するとすぐに硬さが増して、目に張りついてくる」
「素材がハイドロゲルっていう、水を抱えて膨らむ高分子の網目構造ですからね。含んでいる水分量によって、物理的な硬さが劇的に変わるんです」
私はリケジョの蘊蓄を披露しつつ、皿の上に並んだ生春巻きへ、もう一度箸を伸ばした。
「これと同じです」
生春巻きをつまみ上げ、もっちりとした皮を颯真へ見せる。
「ライスペーパーも、さっきまではプラスチックの板みたいにカチカチで、曲げたら割れそうだったでしょう。でも、ぬるま湯で水分を吸わせれば、こんなに柔らかく弾力が出ます」
「なるほどな。そういうことなら、表面が乾く前に食べるとしよう。水分が飛んだたらまた硬くなって、具材との一体感がなくなってしまうからな」
「賛成です」
言いながら、生春巻きをピーナッツソースの小皿へ運ぼうとして――。
私はピタリと、箸を止めた。
『水を含んでいる間は、柔らかく弾力がある』
『水分が飛べば硬くなり、衝撃で割れる』
頭の中で、二つの言葉が繰り返された。
私は箸の先に挟まれた、半透明の生春巻きを凝視した。
水をたっぷり含み、ぷるぷると揺れる薄い膜を。
「これだ!」
気がつくと、私は叫んでいた。
「どうかしたのか? 由芽?」
「これですよ。なんで気づかなかったんだろう」
「何の話をしている」
「あの完璧なクリーム!」
椅子を蹴るように立ち上がった。
「アルフレッドの外側に、水分量で性質が変わる膜を着せたんですよ!」
「膜?」
「水を含んでいる間は、柔らかく膨らんで衝撃を吸収する。水が抜ければ、硬く脆くなる。そうだ、それなら――全部つながる!」
胸の奥で、心臓が暴れ回っている。
「成分分析が一致した理由も! 密閉した測定器の中では四十度を超えても崩れなかった理由も! 肌の上ではきれいにとろけた理由も! あの均一な粒径分布も! これなら、全部説明できます! ハイドロゲルの装甲です!」
私はテーブルを叩いた。
食器が一斉に跳ね、スプーンが、カチャリと悲鳴を上げた。
「今すぐ確かめてきます!」
ターンと踵を返し、地下ラボへ猛ダッシュしようとした、その瞬間。
――くいっと、白衣の裾が、後ろへ引かれた。
リードを引かれた小型犬のように、私はその場で見事な急停止を決めた。
「離してーー。 今、私の目の前で科学の扉がフルオープンしたんです!」
「フルオープンはいいが、夕飯を食べてからにしろ」
颯真は箸を持ったまま、もう片方の手で私の白衣の裾をちょこんとつまんでいた。真ん中に寄せられた眉が、「お母さんは許しませんからね!」と言っているかのようだった。
颯真のこの顔には、私は心底、弱いのだ。
「はっ! わかりました!」
私は椅子に戻ると、猛烈にシンガポールチキンライスを食べ始めた。
「よく噛め。米を気管に詰まらせたら、研究どころじゃなくなるぞ」
「んぐっ……げほっ! み、水……っ!」
「ほら、言わんこっちゃない! レモングラスで口と鼻が貫通でもしたら乙女の一大事だぞ!」
颯真からグラスを渡され、盛大にむせ返る。
「くっ、こんな時に! 科学が……科学が、気管支へ……!」
「入ったのはタイ米だ。科学は関係ない」
背中をぽんぽんとさすられながら、私はいつまでも咳きこんでいた。

