会議のあと、私は蘭子さんと一言も交わせなかった。
勝ったはずだった。
すべて、終わったはずだった。
けれど、胸を満たしているのが達成感なのか、戦い抜いたあとの虚脱感なのか、自分でもわからない。長いあいだ張り詰めていた糸だけが突然切れて、感情が置き去りになってしまったようだった。
私はただ、流されるように午後が過ぎていくのを見送った。
そして、夜。
私は一人で、あの場所へ向かった。
颯真の屋敷にある、私設ラボ。
重い門をくぐり、玉砂利を踏み、屋敷のいちばん奥にある古い蔵へ入る。そこから、むき出しのコンクリート階段を地下へ下りていく。
何度、この階段を下りただろう。
眠気で足を踏み外しかけた夜もあった。結果が見たくて、一段飛ばしに駆け下りた夜もあった。途中から漂ってくる出汁の匂いに気づき、研究より先に胃袋が反応した夜も、一度や二度ではない。
認証パネルへ手をかざす。
短い電子音とともに扉が開き、HEPAフィルターを通った、冷たく澄んだ空気が頬を撫でた。
ブルーのLEDライトを反射して、最新鋭の機材が静かに並んでいる。
温度をコンマ一桁まで維持する恒温槽。非ニュートン流体の挙動まで測れる最新型のレオメーター。人の呼吸による風の揺らぎすら許さない、高精度電子天秤。
このラボがなければ、私はとっくに研究員ではいられなくなっていただろう。
並んだ機材の表面を、指先でそっとなぞる。
「――もう来ないと思っていたが」
ふいに、背後から静かな声が落ちてきた。
振り返る。
むき出しのコンクリート階段を、颯真がゆっくりと下りてくる。
今日も、一ミリの隙もない完璧なスーツ姿。
けれど、よく見れば、ネクタイの結び目だけがほんの少し緩んでいた。あの颯真でさえ、嵐のような一日が終わったことに、わずかに安堵しているのかもしれない。
「私も、昼くらいまではそう思ってました」
「玄蕃も黒瀬も失脚した。『Blanche』のメスキータ社への移管は止まり、西城蘭子の嫌疑も、事実上崩れた」
颯真はラボのフロアへ足を踏み入れながら、本日確定した戦果を淡々と読み上げていく。
「ついでに言えば、君の寮の閉鎖も撤回させた。――なのに、なぜ来た」
あの怒濤の事後処理のさなかに、私の住環境までしれっと確保していたらしい。相変わらず、無駄に有能すぎるオカンである。
「さあ。なぜでしょうね」
私は後ろ手で白衣の裾をつまみ、少しだけ笑った。
「颯真って、学生時代、夏休みの宿題はいつやる派でした?」
あまりにも唐突な質問に、颯真の眉間へ浅い皺が寄る。
「計画的に終わらせていた」
「うわ、ぽい! ものすごくそれっぽい!」
「君は、最終日に泣きながらやるタイプか」
「ぶぶー。違います」
私は人差し指を振った。
「最初に、あらかた終わらせるんです。それで安心して、いっぱい遊んで、完全に油断した頃に気づくんです。――実験レポートみたいな、めちゃくちゃ面倒な大物だけが、まだ残ってることに」
「結局、最後に泣くんじゃないか」
「そうとも言います」
「君らしいな」
颯真が呆れたように、小さく息を吐く。
私は白衣のポケットから両手を出し、静まり返ったラボを、ゆっくりと見渡した。
「……終わってない感じがするんですよね」
「なにがだ」
「だから、宿題」
声から、ふざけた調子を消す。まっすぐに、颯真を見た。
「残ってるような。いちばん面倒で、いちばん重要な大物が」
胸の奥で、止まっていた何かが、もう一度動き始める。
「それを解かないままじゃ、新しい白組の『新学期』を、気持ちよく迎えられない気がするんです。誰かに与えられた答えじゃなく――自分の手で、解きたい」
「つまり、具体的には、なんだ」
「颯真が私にくれた、あのココア缶。あの底に貼られていた、蘭子さんが流出させたとされた、『完璧なクリーム』」
白組が五年かけても辿り着けなかった、奇跡のような完成品。
「あれは、いったい――」
張り詰めた静寂の中、私は問いを突きつけた。
「誰が、どこで作ったんでしょう?」
蘭子さんにかけられた疑惑を晴らすために、私は颯真のラボを借り、ずっとその正体を追いかけてきた。結果として、玄蕃専務たちの失脚という別の形で、疑惑そのものは晴らすことができた。
けれど――。私の中では、まだ終わっていない。
いちばん肝心な、技術的な謎だけが、丸ごと残されている。
「……それについてだが」
颯真が、静かに口を開いた。
「あのサンプルは、白組が解体されるより前に、複数の取引先へ匿名で送りつけられていた。当然、メスキータ社が『Blanche』の開発へ着手するよりも前だ」
「つまり……玄蕃専務も、黒瀬さんも、メスキータ社も、あれを作っていないということですね」
そこまでは、予想がついていた。玄蕃専務にもメスキータ社にも、白組のレシピを、あそこまで劇的に改良する動機も時間もない。
彼らは、手に入れたものを完成品だと考えていた。わざわざ未知の技術へ挑んで、研究者の沼に首まで浸かる理由がない。
「まあ、『誰が』作ったのかは、今はいったん脇へ置きます」
私は恒温槽から手を離し、颯真へ向き直った。
「それよりも、どうすれば、あの暴れ馬みたいなアルフレッドを手懐けられるのか。私は、それが知りたいんです。技術的にそれを解き明かさないと、本当の意味で、白組の『新学期』を迎えられない気がして」
「なるほどな」
「だから、謎が解けるまで、このラボを使わせてくれませんか? 本日は完全に気が抜けて、研究員としてほぼ使い物になりませんけど。そのうち勝手にエンジンがかかりますんで」
颯真は小さく肩をすくめ、私を見た。
「このラボを貸す条件を、覚えているか?」
「ええっと……なんでしたっけ?」
私は、わざとらしく首を傾げる。
「毎日、手紙を書く、でしたっけ?」
「違う」
「……冗談です。研究の結果は、すべて見せる。ですよね」
「そうだ。そして、その条件に『専務を更迭するまで』という期限の条項はなかった」
颯真は、いつもの感情の読めない顔で、淡々と告げた。
「だから、条件が守られる限り――いつまでも使っていい」
「ありがとう」
初めてこの場所へ連れてこられ、最新鋭の機材を見せられた夜。私は、彼に利用されているのだと思っていた。
玄蕃専務の不正を暴き、社内の権力闘争に勝つ。そのための、都合のいい駒として使われるのだと。私も、望むところだと開き直って、その思惑へ乗っかった。
けれど、今はわかる。
この人は、採算も社内政治も関係なく、ただ純粋に、私の「研究者としての意地」を、最後まで応援してくれる人だということを。
「分かりました。じゃあ、お言葉に甘えて、これからも存分に使わせていただきます」
私は、素直に笑った。
「――でも、今日は帰りますね。最近、かなりヘビーだったから」
「夕飯は食べていかないのか?」
「今日はいいかなあ。私、今日はここで何もしてませんから。夕飯だけご馳走になるのは、なんか違う気がします」
颯真は、しばらく黙って私を見つめた。
「だったら、作るのを手伝うか?」
「え?」
「一緒に作って、一緒に食べる。それなら問題ないだろう」
「でも、前に言ってませんでしたっけ? コップに茶渋を残すような女を、厨房へ入れるわけにはいかない、とか」
「客に出す料理を作らせるならな。俺たち二人で食べるだけなら、多少のリスクは許容できる」
リスク扱いされた。ただ、厨房への立ち入り許可は下りたらしい。
「うーん、どうしようかなあ。ちなみに、本日のメニューは?」
「アジアンは大丈夫か?」
「大好物です」
「なら、シンガポールチキンライスと生春巻きにしよう」
「いいですね!」
口が即答した。
「それなら、ご相伴にあずかろうかな」
「よし。では、決まりだ」
そう言って、颯真は迷いなく階段を上り始めた。
私はその背中を、ぽかんと見送る。数段上ったところで、颯真が振り返った。
「どうした。さっさと来い」
「へ? どこへ?」
「母屋に決まっているだろう。ラボで料理をするつもりか?」
「あ、そっか。そりゃそうですよね。――って、母屋!?」
思わず、声が裏返った。
考えてみれば、当たり前である。
料理を手伝う。つまり、颯真のキッチンへ行く。つまり、これまで一度も足を踏み入れたことのない、彼が暮らす母屋へ入るということだ。
颯真の家に入り、颯真と料理を作り、二人で夕飯を食べる。
――それ、けっこう大きなイベントなのでは?
私の脳内で今さら警報が鳴り始めたが、すでに献立は決まり、参加表明まで済ませてしまっている。研究者としてあるまじき、致命的な気づきの遅さだった。
完全に、シンガポールチキンライスに釣られたあとだった。
勝ったはずだった。
すべて、終わったはずだった。
けれど、胸を満たしているのが達成感なのか、戦い抜いたあとの虚脱感なのか、自分でもわからない。長いあいだ張り詰めていた糸だけが突然切れて、感情が置き去りになってしまったようだった。
私はただ、流されるように午後が過ぎていくのを見送った。
そして、夜。
私は一人で、あの場所へ向かった。
颯真の屋敷にある、私設ラボ。
重い門をくぐり、玉砂利を踏み、屋敷のいちばん奥にある古い蔵へ入る。そこから、むき出しのコンクリート階段を地下へ下りていく。
何度、この階段を下りただろう。
眠気で足を踏み外しかけた夜もあった。結果が見たくて、一段飛ばしに駆け下りた夜もあった。途中から漂ってくる出汁の匂いに気づき、研究より先に胃袋が反応した夜も、一度や二度ではない。
認証パネルへ手をかざす。
短い電子音とともに扉が開き、HEPAフィルターを通った、冷たく澄んだ空気が頬を撫でた。
ブルーのLEDライトを反射して、最新鋭の機材が静かに並んでいる。
温度をコンマ一桁まで維持する恒温槽。非ニュートン流体の挙動まで測れる最新型のレオメーター。人の呼吸による風の揺らぎすら許さない、高精度電子天秤。
このラボがなければ、私はとっくに研究員ではいられなくなっていただろう。
並んだ機材の表面を、指先でそっとなぞる。
「――もう来ないと思っていたが」
ふいに、背後から静かな声が落ちてきた。
振り返る。
むき出しのコンクリート階段を、颯真がゆっくりと下りてくる。
今日も、一ミリの隙もない完璧なスーツ姿。
けれど、よく見れば、ネクタイの結び目だけがほんの少し緩んでいた。あの颯真でさえ、嵐のような一日が終わったことに、わずかに安堵しているのかもしれない。
「私も、昼くらいまではそう思ってました」
「玄蕃も黒瀬も失脚した。『Blanche』のメスキータ社への移管は止まり、西城蘭子の嫌疑も、事実上崩れた」
颯真はラボのフロアへ足を踏み入れながら、本日確定した戦果を淡々と読み上げていく。
「ついでに言えば、君の寮の閉鎖も撤回させた。――なのに、なぜ来た」
あの怒濤の事後処理のさなかに、私の住環境までしれっと確保していたらしい。相変わらず、無駄に有能すぎるオカンである。
「さあ。なぜでしょうね」
私は後ろ手で白衣の裾をつまみ、少しだけ笑った。
「颯真って、学生時代、夏休みの宿題はいつやる派でした?」
あまりにも唐突な質問に、颯真の眉間へ浅い皺が寄る。
「計画的に終わらせていた」
「うわ、ぽい! ものすごくそれっぽい!」
「君は、最終日に泣きながらやるタイプか」
「ぶぶー。違います」
私は人差し指を振った。
「最初に、あらかた終わらせるんです。それで安心して、いっぱい遊んで、完全に油断した頃に気づくんです。――実験レポートみたいな、めちゃくちゃ面倒な大物だけが、まだ残ってることに」
「結局、最後に泣くんじゃないか」
「そうとも言います」
「君らしいな」
颯真が呆れたように、小さく息を吐く。
私は白衣のポケットから両手を出し、静まり返ったラボを、ゆっくりと見渡した。
「……終わってない感じがするんですよね」
「なにがだ」
「だから、宿題」
声から、ふざけた調子を消す。まっすぐに、颯真を見た。
「残ってるような。いちばん面倒で、いちばん重要な大物が」
胸の奥で、止まっていた何かが、もう一度動き始める。
「それを解かないままじゃ、新しい白組の『新学期』を、気持ちよく迎えられない気がするんです。誰かに与えられた答えじゃなく――自分の手で、解きたい」
「つまり、具体的には、なんだ」
「颯真が私にくれた、あのココア缶。あの底に貼られていた、蘭子さんが流出させたとされた、『完璧なクリーム』」
白組が五年かけても辿り着けなかった、奇跡のような完成品。
「あれは、いったい――」
張り詰めた静寂の中、私は問いを突きつけた。
「誰が、どこで作ったんでしょう?」
蘭子さんにかけられた疑惑を晴らすために、私は颯真のラボを借り、ずっとその正体を追いかけてきた。結果として、玄蕃専務たちの失脚という別の形で、疑惑そのものは晴らすことができた。
けれど――。私の中では、まだ終わっていない。
いちばん肝心な、技術的な謎だけが、丸ごと残されている。
「……それについてだが」
颯真が、静かに口を開いた。
「あのサンプルは、白組が解体されるより前に、複数の取引先へ匿名で送りつけられていた。当然、メスキータ社が『Blanche』の開発へ着手するよりも前だ」
「つまり……玄蕃専務も、黒瀬さんも、メスキータ社も、あれを作っていないということですね」
そこまでは、予想がついていた。玄蕃専務にもメスキータ社にも、白組のレシピを、あそこまで劇的に改良する動機も時間もない。
彼らは、手に入れたものを完成品だと考えていた。わざわざ未知の技術へ挑んで、研究者の沼に首まで浸かる理由がない。
「まあ、『誰が』作ったのかは、今はいったん脇へ置きます」
私は恒温槽から手を離し、颯真へ向き直った。
「それよりも、どうすれば、あの暴れ馬みたいなアルフレッドを手懐けられるのか。私は、それが知りたいんです。技術的にそれを解き明かさないと、本当の意味で、白組の『新学期』を迎えられない気がして」
「なるほどな」
「だから、謎が解けるまで、このラボを使わせてくれませんか? 本日は完全に気が抜けて、研究員としてほぼ使い物になりませんけど。そのうち勝手にエンジンがかかりますんで」
颯真は小さく肩をすくめ、私を見た。
「このラボを貸す条件を、覚えているか?」
「ええっと……なんでしたっけ?」
私は、わざとらしく首を傾げる。
「毎日、手紙を書く、でしたっけ?」
「違う」
「……冗談です。研究の結果は、すべて見せる。ですよね」
「そうだ。そして、その条件に『専務を更迭するまで』という期限の条項はなかった」
颯真は、いつもの感情の読めない顔で、淡々と告げた。
「だから、条件が守られる限り――いつまでも使っていい」
「ありがとう」
初めてこの場所へ連れてこられ、最新鋭の機材を見せられた夜。私は、彼に利用されているのだと思っていた。
玄蕃専務の不正を暴き、社内の権力闘争に勝つ。そのための、都合のいい駒として使われるのだと。私も、望むところだと開き直って、その思惑へ乗っかった。
けれど、今はわかる。
この人は、採算も社内政治も関係なく、ただ純粋に、私の「研究者としての意地」を、最後まで応援してくれる人だということを。
「分かりました。じゃあ、お言葉に甘えて、これからも存分に使わせていただきます」
私は、素直に笑った。
「――でも、今日は帰りますね。最近、かなりヘビーだったから」
「夕飯は食べていかないのか?」
「今日はいいかなあ。私、今日はここで何もしてませんから。夕飯だけご馳走になるのは、なんか違う気がします」
颯真は、しばらく黙って私を見つめた。
「だったら、作るのを手伝うか?」
「え?」
「一緒に作って、一緒に食べる。それなら問題ないだろう」
「でも、前に言ってませんでしたっけ? コップに茶渋を残すような女を、厨房へ入れるわけにはいかない、とか」
「客に出す料理を作らせるならな。俺たち二人で食べるだけなら、多少のリスクは許容できる」
リスク扱いされた。ただ、厨房への立ち入り許可は下りたらしい。
「うーん、どうしようかなあ。ちなみに、本日のメニューは?」
「アジアンは大丈夫か?」
「大好物です」
「なら、シンガポールチキンライスと生春巻きにしよう」
「いいですね!」
口が即答した。
「それなら、ご相伴にあずかろうかな」
「よし。では、決まりだ」
そう言って、颯真は迷いなく階段を上り始めた。
私はその背中を、ぽかんと見送る。数段上ったところで、颯真が振り返った。
「どうした。さっさと来い」
「へ? どこへ?」
「母屋に決まっているだろう。ラボで料理をするつもりか?」
「あ、そっか。そりゃそうですよね。――って、母屋!?」
思わず、声が裏返った。
考えてみれば、当たり前である。
料理を手伝う。つまり、颯真のキッチンへ行く。つまり、これまで一度も足を踏み入れたことのない、彼が暮らす母屋へ入るということだ。
颯真の家に入り、颯真と料理を作り、二人で夕飯を食べる。
――それ、けっこう大きなイベントなのでは?
私の脳内で今さら警報が鳴り始めたが、すでに献立は決まり、参加表明まで済ませてしまっている。研究者としてあるまじき、致命的な気づきの遅さだった。
完全に、シンガポールチキンライスに釣られたあとだった。

