すっぴん白衣の逆転レシピ 〜メイクが苦手な化粧品研究員、データを盗まれたのでザマス王子の秘密ラボでキラキラ組にリベンジします〜

 『Blanche』の上市延期と、評価プロトコルの全面再検証が決まった、その翌日。

 座馬颯真(ざまそうま)は、反撃を開始した。

 九時――緊急内部監査。十三時――品質保証部との合同調査。十六時――監査役会への報告。十八時――臨時取締役会。以下、会議、会議、会議、会議――。

 社内スケジュールにびっしりと並んだ颯真の予定は、もはや会議日程ではない。敵陣へ時間差で撃ち込まれる、砲撃予定表だった。

 未完成の処方が、いつ社外へ展開されたのか。必須だった安定性試験が、誰の指示で「机上試験による代替可」へ書き換えられたのか。なぜ、玄蕃専務と関係の深いメスキータ社が、異様な速さで製造委託先に選ばれたのか――。

 そうなのだ。私に秘密のラボを提供し、なんなら毎晩ご飯まで作ってくれる、ちょっと過保護な御曹司だと思っていたら。

 この男、裏では黙々と、専務を追い詰める証拠を集めていたのである。しかも、ただ集めていたわけではない。時系列で整理し、経緯をつなぎ、言い逃れできない形になるまで、冷静に、執拗に、逃げ道ごと固めていた。

 そして――今。颯真は温存していたデータを、監査部門や上位の会議体へ次々と叩き込んだ。一発撃ち込むたびに、専務派の一人が黙る。もう一発撃ち込むたびに、別の一人が席を離れる。

 それまで社内の主流を占めていた玄蕃専務の陣営が、音を立てて切り崩されていった。


 崩れたのは、専務派の陣形だけではなかった。

 それまで社内を覆っていた沈黙にも、あちこちで亀裂が入り始めた。

 最初に耳へ飛び込んできたのは、廊下ですれ違った二人組の声だった。

「ねえ、白組がデータを持ち出したって話、あったじゃん」
「ああ、西城さんって人?」
「あれ、そもそもキラキラ組が仕組んだんじゃないかって」
「え。じゃあ、白組は丸ごと嵌められたってこと?」

 真新しい社員証を首から下げた、入社して間もなさそうな二人だった。私に気づいた瞬間、揃って口を閉ざし、気まずそうに足早に通り過ぎていく。

 社員食堂でも。

 昼の列で後ろに並んでいた社員たちが、トレーを抱えたまま声を潜めていた。

「なんでメスキータ社は、あんなに早くラインを動かせたんだ?」
「レシピを受け取ってから、あの期間で量産準備まで進められるわけないよな」
「じゃあ、もっと前から渡ってたってこと?」
「……誰が、って話になるよな」

 そこで声が途切れた。
 けれど、誰のことを指しているのかは、もう名前にするまでもなかった。

 そして、帰りのエレベーター。

 扉が閉まった直後、誰かがぽつりと言った。

「西城さんって人、本当に持ち出したのかな」
「むしろ、嵌められたんじゃない?」
「白組の人たち、ずっと犯罪者みたいに見られてたよね」
「……それ、本当だったらひどすぎるでしょ」

 狭い箱の中に、重い沈黙が落ちた。

 あの日。
 本社の正面車寄せへ並べられた警察車両。けたたましく回る赤色灯。刑事たちに前後を挟まれ、肩を小さく丸めて歩く蘭子さん――。

 大勢の社員の目に焼きつけられた、あまりにも分かりやすい一枚の絵。

 ――西城蘭子が、白組の技術を流出させた。

 説明などなくても、誰もがそう思うように作られた光景だった。けれど今、その一枚の絵には、まったく違う意味が与えられようとしている。

 事件が起きたから、白組が解体されたのではない。白組を解体するために、事件が作られたのではないか。

 みんなが、同じ疑問へ辿り着き始めていた。

 白組は泥棒ではなく、泥棒に仕立て上げられた側だったのではないか――と。

 そして、さらに数日後。

 玄蕃専務が、専務職と研究開発管掌から事実上更迭された。その一報を私へ持ち込んだのは、颯真ではない。営業の三村さんだった。

「玄蕃専務、飛んだぞ」

 玄蕃専務は、『Blanche』に関するすべての権限を剥奪された。メスキータ社との『Blanche』の委託契約も白紙。不透明な取引の経緯については、第三者を交えた調査が行われることになったという。

 そして、専務派の一人。
 新プロジェクト推進室――通称『キラキラ組』のトップである黒瀬さんも、『Blanche』のプロジェクト責任者を解任された。キラキラ組そのものも、第三者調査の結果が出るまで、いったん解散。

 私がそのフロアを訪れたとき、あれほど暴力的に発光していた空間は、段ボール箱の群れに占拠されていた。

 高級フレグランスによる空中の覇権争いは、完全終結。代わりにフロアを満たしているのは、粘着テープとコピー用紙の匂いだった。

 壁を飾っていた巨大な商品ビジュアルも、半分まで剥がされていた。満面の笑みで純白のクリームを掲げていたモデルは、今や顔の右半分しか残っていなかった。

 栄枯盛衰。キラキラ組の隆盛と没落が、剥がしかけのポスター一枚に凝縮されているようだった。

 フロアの中央で、黒瀬さんは私物を段ボール箱へ詰めていた。私の姿を認めると、彼女は何も言わず、デスクに残されていた分厚いファイルを引き寄せた。

「持っていって」

 差し出されたのは、『Blanche』に関するすべての進行記録。両手で受け取った瞬間、ずしりと腕へ重みがかかる。

 黒瀬さんが費やした時間も、欲しかった評価も、この商品で見ようとしていた未来も。そのすべてが、一冊の中へ綴じ込まれているような重さだった。

「……私が作りたかったのは、こんな終わり方じゃなかった」

 掠れた声だった。いつものように私を見下す響きも、鋭い虚勢もない。そこにいたのは、計算違いの結末に打ちのめされた、一人の企画者だった。

「まだ終わっていません」

 私は、ファイルの硬い表紙を指で押さえた。

「『Blanche』は、これから再始動します」

 黒瀬さんは、何も答えなかった。
 箱を抱え、誰もいなくなったデスクの間を歩いていく。
 最後まで、その背筋だけは真っ直ぐに伸びていた。

 やがてエレベーターの扉が閉まり、黒瀬さんの姿を覆い隠す。私は分厚いファイルを胸に抱えたまま、彼女が見えなくなるまで、その場を動かなかった。


* * *


 数日が経った午後。

 私は颯真に声をかけられ、技術参考人として臨時経営会議へ参加していた。

 大きな窓から、真夏の日差しがたっぷりと差し込んでいる。
 白い壁。磨き上げられた長机。容赦なく明るい会議室。
 上座にあった玄蕃専務の席は、空いている。その背後に控えていた黒瀬さんの姿も、もうない。

 会議は、ここ数日で決まった処分の確認から始まった。白組の解体を推し進めた専務派は、その多くが更迭。

 解体の経緯にも、調べれば調べるほど怪しい点が噴出。『Blanche』は、上市計画をいったん白紙へ戻し、あらためて研究開発フェーズからやり直す。

 それらの決定事項が、順番に確認されていく。

 ――そこまで決まったら。

 あとはもう、白組復活に決まってるでしょ!

 私の脳内では、まだ議題にすら上がっていない『白組再結成案』が、すでに全会一致で可決されていた。

 散り散りになったメンバーを呼び戻す。
 地下ラボの照明を点ける。
 実験台を奪還。

 私は早くも、白組再結成後の座席配置まで考え始めていた。

 でも次の瞬間。スクリーンへ、『Blanche』の新たな開発体制表が映し出された時、私の脳内会議で盛大に鳴り響いていた復活のファンファーレが、急停止した。

 どこにも、『研究開発部署』の箱がない。

 もう一度見る。やっぱり、ない。

 その代わり、研究開発の項目には、たった四文字が記されていた。

『外部委託』

「ちょっと、颯真。これ、どういうこと? 聞いてないんだけど」

 私は隣に座る颯真を肘で小突き、声を潜めたまま口を尖らせた。

「社内の研究開発機能を復活させるって、言ってたよね?」

 颯真は表情一つ変えなかった。

「研究組織の再編は進めている。だが、今すぐ白組を元の状態へ戻すことはできない」

 メンバーは、すでに複数の部署へ異動している。
 予算も、ほかの部門へ分配済み。
 地下ラボの機材は、減価償却と処分の手続きへ入っている。
 責任者だった蘭子さんは退職し、白組解体の経緯そのものも、まだ第三者調査の途中。

 一度システム上で解体された組織が、翌朝、魔法のように復活することはない、と颯真は淡々と話す。

「それは分かりますけど。じゃあ、『Blanche』の研究開発は、引き続きメスキータ社へ委託するってことですか?」

 颯真は答える代わりに、スクリーンの方を視線で示した。

 ちょうど議長役の取締役が、その説明に入るところだった。

「また、メスキータ社との契約についてですが、『Blanche』に関する開発および製造委託は停止します。ただし、同社へ委託している既存製品については、品質保証部による監督と追加監査を条件に、生産を継続します」

 今回問題になったのは、『Blanche』の評価プロトコルと、その決定過程だ。

 メスキータ社の生産能力そのものや、現在問題なく流通している既存製品まで、すべて不適格と判断されたわけではない。

 ここで感情的に全契約を打ち切れば、既存製品の供給が止まり、メスキータ社の社員だけでなく、取引先や使用者へ迷惑をかける。それでは、企業として責任ある態度とは呼べない。

 そこは、私にも納得できる。

 納得はできるのだが――。

 では、『Blanche』の研究開発は、いったいどこへ委託するというのか。

「『Blanche』の再開発については、こちらの企業を、委託先の最終候補として選定しました」

 議長の言葉と同時に、スライドが切り替わった。
 スクリーンいっぱいに、企業名とロゴが映し出される。

「――っ!」

 その名前を目にした瞬間、私は声を失った。
 そこに大きく記されていたのは――。

『ヒラルダ社』

 ヒラルダ社。

 蘭子さんが転職した、化粧品の研究開発会社だった。


「それでは、『Blanche』の再開発計画について、先方の責任者よりご説明いただきます。お入りください」

 スクリーン脇の扉が、ゆっくりと開いた。

 コツ、コツ、と。

 ヒールの音が、明るい会議室へ響いた。
 白いシャツにチャコールグレーの細身のスーツ。肩口で綺麗に切りそろえられた黒髪。知的な銀縁眼鏡。

 背筋を真っ直ぐに伸ばし、その人は並み居る役員たちの視線を正面から受け止め、演台へ歩いていく。

 あの日、警察車両の赤色灯が回る中、刑事たちに前後を挟まれ、小さく肩を丸めて会社を去った人が――今度は、夏の日差しに満ちた会議室へ、自分の足で、顔を上げて帰ってきた。

「ヒラルダ社、新研究所所長の西城蘭子です」

 役員たちへ深々と一礼する蘭子さん。

 私の手から、危うくペンが落ちかけた。

 蘭子さんがヒラルダ社の新研究所へ移ることは聞いていた。
 けれど、まさか『Blanche』の新しい委託候補として、アルカサスへ戻ってくるなんて思わなかった。


 蘭子さんが端末を操作すると、スクリーンへ再開発計画が映し出された。

 処方と原料規格の再検証から、量産条件の確立、安全性と長期安定性の確認まで。製品化に必要な試験が、すべて組み込まれている。

 しかも、試験条件や測定ログ、生データは、アルカサスへ完全共有。判定基準に曖昧さはなく、都合の悪い結果が出た場合の報告手順まで、最初から明記されていた。

 専務一派が「時間がかかる」と削り落としたものを、一つ残らず拾い上げた、技術的に隙のない計画書だった。

「私たちは、上市日を守るために品質を証明するのではありません」

 蘭子さんの凛とした声が、会議室を満たす。

「品質を証明できた日を、上市日にします」

 胸の奥が、熱くなる。そうだ。これが、研究開発だ。
 決められた発売日へ、試験結果を無理やり押し込むのではない。試験を積み重ね、その先に発売できる日を見つける。

「『Blanche』の処方開発も、量産化も、品質管理も、ヒラルダ社新研究所が責任を持って行います」

 蘭子さんは、はっきりと言い切り、顔を上げた。

 並んだ役員たちの先。末席に座る私を、真っ直ぐに見た。

 銀縁眼鏡の奥の瞳が、優しく細められた。
 たったそれだけで、五年間の記憶が一気に蘇った。

 実験台を挟んで叱られた日。失敗した試作品を、夜中まで一緒に作り直した日。
 結果が出なくて俯いていた私へ、高い栄養ドリンクを叩きつけてくれた日。

 ずっと追い続けてきた、白衣の背中。目の奥が熱くなる。膝の上で握った手が、かすかに震えた。



 その後、臨時経営会議は満場一致で、ヒラルダ社への開発委託を承認した。
 さらに、旧白組のメンバーも技術協力という形で再開発へ参加する。
 将来的な社内研究開発機能の再構築を見据え、ヒラルダ社と共同で知見を蓄積していく方針も、あわせて確認された。



 すべて解決したように見えた。白組はまだ復活してないけれど、信頼できる人の研究所が担当し、旧白組もそれに協力できるというなら、私に不満はない。

 ようやくすべてが、正しい場所へ戻り始めたのだと――私は、心からそう信じていた。