本社ビルの時計が、午前一時十三分を示していた。
私と颯真が新プロジェクト推進室のフロアへ足を踏み入れると、血相を変えたキラキラ組のスタッフたちが慌ただしく行き交っていた。
洗練された白木のテーブルも、デザイナーズチェアも、肌を美しく見せる照明も、空間そのものは昼間と何ひとつ変わっていない。
それなのに、そこにいる人間だけが、すっかり別人のように取り乱していた。
急遽呼び戻されたであろうキラキラ組の皆が、青ざめた顔でフロアを走り回っている。
誰かが電話口で社外のステークホルダーに謝り続け、その隣では別の誰かが頭を抱えていた。白木のテーブルには、飲みかけのペットボトルと、印刷した発送リストが無秩序に散らばっている。
キラキラ組のオフィスは今や、香水の匂いだけが場違いに残る、ちょっとした修羅場と化していた。
「これです」
電話をくれた瀬戸さんが、震える手でスマートフォンを差し出してきた。
画面には、美容系インフルエンサーから届いたダイレクトメッセージが表示されている。
『さっきまで真っ白だったのに、水分と油分が完全に分離してるんだけど……』
その下に添付された写真を、指先で拡大する。
透明な小瓶の中で、クリームは二層に分かれていた。
上には、薄く黄色がかった油の層。下には、白く濁った水分の層。境界線は見間違えようもないほど、くっきりとしている。
『ドロドロの液状になってて、肌に乗せるとベタつく。これ、本当にこの間のと同じもの?』
別のメッセージにも、同じような写真が添えられていた。
ガラス瓶の内側を、粘度を失った白い液体が筋になって流れ落ちている。底には、均一に分散していたはずの成分が沈み、半透明の塊を作っていた。
『Blanche』の先行サンプル。私も参加した、あのPRイベントの後、トップクラスの美容系インフルエンサーたちへ配られたものだ。
白い小瓶に、細いリボンを結んだ、純白のクリーム。華やかな照明の下で、誰もが「綺麗」「かわいい」「使うのが楽しみ」と笑っていたアレだ。
その中身が今、無惨に崩壊している。
美しかった乳化状態は見る影もない。アルフレッドは、死んでいた。
「……ここまで」
思わず、声が漏れた。
分離。化粧品の品質不具合として、最も目に見えやすく、最も言い逃れのできない現象だ。容器を開ければ油と水が別々に出てくるクリームなど、商品として成立しない。どれほど豪華な容器に詰め、どれほど美しい広告を作っても、それだけで終わる。
「湊川さん!」
鋭い声とともに、ヒールの音がこちらへ迫ってきた。
黒瀬さんだった。
いつもなら一筋の乱れもなく整えられている巻き髪は、毛先が崩れ、額へ数本が張りついている。完璧なベースメイクの下から血の気が引き、唇だけが不自然なほど赤く見えた。
「どういうことなの!?」
黒瀬さんは、手にしていたスマートフォンを私へ突きつけた。
「どうしてくれるの?! なんで分離なんか起こすのよ! あなたたちのレシピに欠陥があったせいで!」
……は?
この人は、一体何を言っているんだ?
私の呆れた沈黙を、非を認めたとでも受け取ったのだろうか。黒瀬さんの声がさらに一段階跳ね上がる。
「黙ってないでなんとか言いなさいよ! どうするのよ、これ! 相手は何十万、何百万ってフォロワーがいる人たちなのよ!? 明日の朝には動画を撮られて、SNSで大炎上よ! ブランドごと終わるかもしれないのよ! 不良品を作った、あんたたち白組の責任よ!」
――その言葉を聞いた瞬間、私の中で、張り詰めていた何かが、ぷつりと切れた。
「ええ、確かに、私の責任です」
唇を震わせ、俯きながら言った
「そうよ、あなたが――」
「でも、勘違いしないでください」
私は顔を上げ、黒瀬さんの目を真っ直ぐに睨みつけた。
「私が責任を感じているのは、レシピに関してではありません。十分に品質検査をしていない試作品がお客様の手に渡ることを、止められなかったことに対してです」
一歩、距離を詰める。
黒瀬さんが、たじろいで一歩引いた。
「長期安定性試験も、複数条件での加速試験も終わっていないものを配ることの危険性を、私は何度も説明しました。確かにレシピは不十分なものでしたが、当然です。まだお客様に配ることを前提にしてなかったものだから。それを奪って、作って、『先行デモ』として配ったのは、あなたです」
「な、なんですって!」
顔を真っ赤にした黒瀬さんの右手が、鋭く振り上げられた。
――上等だ。殴れ。
私がキリストばりに黒瀬さんに向かって顎を突き出した、その瞬間。
「原因の探索は後にして、まずは今、起きている問題に対応だ」
颯真の声がフロアへ響いた。
静かな声だった。
それなのに、その一言だけで、周囲にいる皆がハッと我に返った。
「被害の拡大を防ぐことを優先した方がいい。湊川。君が指示を出せ」
「私が?」
「この中で、何が起きているかを正しく理解しているのは君だ」
周りを見る。フロアにいる全員が、私を見ていた。
黒瀬さんも、振り上げかけた手を下ろしていた。
頬にはまだ怒りの赤みが残っている。それでも一度大きく息を吸い、乱れた呼吸を整えると、唇を固く結んで私を見た。
「……分かったわ。今は、あなたに任せる」
悔しさを押し殺した声だった。それでも、はっきりとした了承だった。
昼間なら、コピー機の横に置かれた人間型予備トナー。会議へ出れば観葉植物と同じ扱いをされる、場違いなすっぴん白衣。その私を今、キラキラ組のスタッフたちが、縋るような目で見ている。
みんな何をすればいいのか分からない。市場不具合が起きるたびにお祭り騒ぎになる研究開発部署(白組)と違って、新プロジェクト推進室は製品の不具合対応の経験がないからだ。
「分かりました。今から順番に対処します。まず、連絡が入った時刻、相手の名前、メッセージの原文、添付された写真を、すべて保存してください。返信した内容も含めて、一件ごとに記録を残します。メッセージは絶対に削除しないでください」
止まっていたスタッフたちの手が、一斉に動き始める。
「それから、不具合が起きたサンプルのロットを特定します」
「でも……」
黒瀬さんが、青ざめたまま私を見た。
「製造管理ラベルは、もうないわよ」
先行サンプルの小瓶には本来、製造日や充填ライン、ロットを識別するための、小さな管理ラベルが貼られていた。
だが、あの会議で黒瀬さんは言った。試作品っぽくて、かわいくない。ブランドの世界観に合わない。全部、剥がして、と。
「製造管理ラベルは、こういう不具合が起きたときに原因を特定し、影響範囲を絞るためのカルテなんです。だから剥がしてはいけません」
「で、でも……! 最後はあなたも剥がすことに同意してたじゃない」
「はい同意しました。だから代わりに、リボンを結んだんです」
「あ……」
黒瀬さんが小さく、息を呑んだ。
周囲のスタッフたちも、一斉に顔を見合わせた。
「リボンの色ごとに、製造ロットを分けました。発送先のリストと一緒に、『誰に、何色のリボンを結んだサンプルを送ったか』という対応表を作りましたよね」
若手スタッフの一人が、弾かれたようにパソコンへ向かった。
「ありました!」
「連絡をくださった方の名前と照合してください。リボンの色も確認を」
「はい!」
キーボードを叩く音が、フロア中で一斉に響き始める。
さっきまで恐怖しか生み出していなかった通知音が、今度は情報へ変わっていく。
「一件目の不具合のリボンは、シャンパンゴールドです!」
「二件目もゴールド!」
「こっちの三人も、全員ゴールドです!」
スタッフが次々と声を上げる。
私は散らばっていた発送リストを引き寄せ、シャンパンゴールドの欄を指で追った。
「他の色からは?」
「今のところ、一件もありません!」
「ゴールドのリボンを送った方は、全員、使用中止です。すぐに個別連絡を入れてください。使用せず、容器ごと保管してもらう。こちらから返送用の資材を送り、着払いで回収します。中身を捨てないよう、必ず伝えてください。原因を調べるためには、現物が必要です。回収へ協力してくださった方には、アルカサスの現行スキンケアラインを、フルセットでお送りする旨も添えてください」
「フルセット!?」
「この会社が、現在、責任を持って安全と品質を保証できるものです。それを、正式なお詫びの書面と一緒に送ってください」
「ゴールド以外は、どうしますか?」
「現時点では、一つのロットに限られた不具合である可能性が高いです。だから、今すぐ全品を回収する必要はありません。ただし、輸送時の温度変化などで同じ現象が起きる可能性は否定できません」
私は言葉を切り、全員の顔を見渡した。
「異常があれば、絶対に使用しない。問題がなくても、こちらから連絡があるまでは保管してもらう。状況を隠さず、正確に伝えてください。それから、約束を」
「約束?」
「いつになるかは、今は言えません。でも、きちんと品質を確認した本物の完成品ができたときには、必ず真っ先にお届けします、と一筆加えてください」
失敗したものを、失敗していないように見せる必要はない。正確に説明し、謝り、回収し、次は正しいものを届ける。化粧品を愛している人たちなら、きっとその違いを分かってくれる。
「隠さず、誠実に対応してください。彼女たちもプロです。こちらが事実と向き合えば、面白半分に騒ぎ立てたりはしません」
「でも……。もし健康被害が出たら……! もう肌に塗ってしまった人もいるのよ」
黒瀬さんが唇を震わせた。
「今回起きているのは、乳化状態の崩壊です。成分が突然、別の毒性物質へ変わったわけではありません。今の写真と報告内容だけを見る限り、赤みや腫れを引き起こす変質は確認されていない」
ただし――と、続ける。
「均一性が壊れた以上、使用を続けていいものではありません。塗った方には、念のため洗い流してもらう。違和感が出た場合はすぐに使用を中止し、必要なら医療機関へ相談してもらう。その窓口も、こちらで用意してください」
「分かったわ」
黒瀬さんが、小さく息を吐いた。
それから、乱れた髪を耳へかけ、顔を上げる。
「湊川さんの言うとおりにして。ゴールドの送付先を最優先で洗い出して! 連絡担当と回収手配を分けるわよ。お詫びの現行品は、在庫管理へすぐ確認して!」
「はい!」
スタッフたちが、電話とメールへ向かう。
怒号と悲鳴しかなかったフロアに、秩序が戻り始めていた。
私はその様子を見ながら、颯真に近づいた。
「さっきは、ありがと。ちょっと頭に血が上っていた」
「気にするな。喧嘩を止めるのも役目だ」
颯真は真顔のまま言った。
「へっ? なんの?」
「君のいうところの……オカンの」
「自覚あったんだ!」
喧噪の続く深夜のキラキラ組のオフィス。
あわただしくみんなが走り回っている最中――。
私は思わず笑ってしまった。
* * *
翌日の役員会議。
本来なら、玄蕃専務から課された問いに私が答え、それを不十分と退けられ、予定どおり『Blanche』の上市が決定されるはずの場――だった。
しかし、状況は変わった。
昨夜、先行配布したサンプルに分離不具合が発生した。その一報は、すでに出席する役員全員へ伝わっている。
社内政治の天秤が大きく揺れたことを。この場にいる誰もが、それを理解していた。
その末席に、私は技術参考人として座っていた。
隣には颯真。
お互い、昨夜から一睡もしていないはずなのに、彼の黒いスーツには皺一つなく、白い横顔もいつもどおり研ぎ澄まされている。コンシーラーでも隠しきれない疲労を両目の下に飼っている私とは違う。
「昨夜の件については、すでに初期対応が完了している」
上座の玄蕃が、資料をめくりながら言った。
「不具合は特定の一ロットに限定され、対象者への連絡と回収も進んでいる。健康被害の報告もない。製造条件を修正して作り直せば済む話だ。上市を遅らせるほどの問題ではない」
「初期対応で済む問題ならそうかもしれませんが」
隣で、颯真が立ち上がった。
「今回は、少量のサンプルだったから被害は最小限ですみましたが、もし市場化していたらこの比ではありません。こちらをご覧ください」
颯真は画面に投影された資料を指し示す。
『先行配布品の不具合と新評価プロトコルの関連解析』
それは千夏が、私たちの不具合対応と並行して徹夜で作り上げたレポートだった。
不具合の発生したゴールドのリボンの色から、管理番号と製造釜を逆引き。メスキータ社から当該ロットの生ログを取り寄せて、不具合の出ていないロットの条件と比較した。
「不具合の報告のあったロットは、作成時の釜内温度が約一度高く、途中から攪拌負荷も低下している」
颯真が、玄蕃専務を見る。
「しかしながら、このロットも新しい品質検査プロトコルでは許容範囲内だ」
役員たちの表情が固まる。
「つまり、指示どおりに製造された不具合品が、指示された判定を通過することになる」
モニターに、二層へ分離したクリームが映し出される。
「従来どおり、量産検証、高温保存、温度サイクル、長期安定性試験を行っていれば、配布前に検出できた可能性が極めて高い」
颯真の瞳が、玄蕃を射抜いた。
「昨晩の品質問題が示しているのは、新しい品質管理プロトコルに欠陥があるということ、ではありませんか? 叔父上」
颯真は玄蕃を追いつめていた。
颯真は、ずっと慎重だった。私への接触も、情報の提供も、ものすごく慎重に動いていた。私はそれを、日和見だと思っていたけれど、違った。
彼は決定的な証拠が集まる時を、ずっと待っていたのだ。
そして今、創業家の人間として、叔父を正面から斬りにいっている。
「だ、だが!」
玄蕃の顔が、怒りと焦りでどす黒く染まっていた。
上座の机を両手で強く叩き、立ち上がりかける。
「元になった白組のレシピが不完全だったのも事実だ! 処方そのものに欠陥があったなら、評価方法だけの責任では――」
「研究開発室のレシピは、まだ研究途中です。安定性試験も終わっていなかった」
颯真は冷徹な声で事実だけを突きつける。
「研究開発室を凍結し、その未完成のレシピを外部企業へ渡し、開発業務を委託すると決定したのは、あなただ。そして、担当者が現物を使わない品質試験の危険性を訴えても、その意見を軽視した。それは、ここにいる役員全員が見ていることです」
颯真の言葉に、テーブルを囲む役員たちが次々と目を伏せる。彼らもまた、利益を優先して玄蕃の強引な進行に賛同した共犯者だからだ。
「未完成のレシピを奪い、完成品として扱い、必要な試験をすべて省いた。その責任を、元のレシピへすり替えることには同意できません」
「……っ」
玄蕃の喉から、声にならない呻きが漏れた。
彼は助けを求めるように周囲を見渡したが、彼と目を合わせようとする者は一人もいなかった。
誰も反論できないのだ。モニターに映った二層に分かれた無惨なクリームが、言い逃れのできない現実を突きつけている。
重苦しく、痛いほどの沈黙が続いた。
やがて、その空気に耐えかねたように、議長が重い口を開く。
「……では、座間颯真氏から提案のあった二つの議案について、採決に移ります」
各席のタブレットへ、二つの議案が表示された。
『Blanche上市計画の無期限延期』
『新評価プロトコルの再検証』
議長が採決の開始を告げる。
手元のボタンが押されるたび、正面の大型モニターへ『賛成』を示す緑色のランプが点灯していく。
一票。また、一票。それは私に突きつけられていた刃が、一本ずつ折られていく光のように見えた。
逃げ場を塞がれるように握られていた私たちの生殺与奪を決める一週間。そのタイムリミットが、モニターの端から端までを埋め尽くしていく『賛成』の光によって、音もなく溶けて消えていった。
「――採決の結果を申し上げます」
議長の硬い声が響いた。
長大なマホガニーのテーブルを囲む役員たちの視線が、タブレットに集まる。
「『Blanche』の上市計画は、正式に延期といたします。また、新評価プロトコルについても、その妥当性を一から再検証するものとします。なお、本議案の可決をもって、湊川主任へ課されていた一週間以内の安全性証明についても撤回します」
決定を告げる電子音が、各席のタブレットから短く鳴った。
その瞬間――玄蕃は、何も言わなかった。採決結果が映し出されたモニターを見上げたまま、微動だにしない。けれど、固く引き結ばれた口元だけが、わずかに歪むのだけが見てとれた。
その半歩後ろで、黒瀬さんはタブレットに表示された『延期』の二文字を見つめていた。
やがて、完璧に整えられていた肩が、ほんのわずかに落ちた。
止まった。
――止めた。私たちは、止めたのだ。
利益と速度だけを燃料に、半年後の全国発売へ向かって暴走していた巨大な時計。その針が、今、ようやく止まった。
たまらず隣を見ると、颯真も同じタイミングでこちらを見た。
普段なら検出限界以下しか動かない黒の瞳に、何かをやり遂げたような光が宿っている気がした。
颯真が、ゆっくりと一度だけ頷く。私も深く頷き返すと、全身から一気に力が抜けた。
大きく息を吐き、私はふと、手元の資料へ視線を落とした。そこには、不具合を起こしたサンプルの写真があった。
本来なら、純白の雪のように滑らかであるはずのクリーム。それが油分と水分に分かれ、くっきりと二層になっている。
これが沢山のお客様に渡らなくてよかった……。
胸を満たしていたのは、間に合ったという安堵。
なのに――。
写真を見た瞬間、胸の奥へ冷たい小石のような違和感を、私は覚えた。
分離したクリーム……。
たしかに、私たちが五年かけて育ててきたアルフレッドは、筋金入りのわからずやだ。温度が少しずれれば拗ねるし、攪拌速度を間違えれば、すぐに機嫌を損ねる。
颯真に渡されたあの完璧なクリームと比べれば、私たちの最終試作は不器用で、微細なざらつきだって残っている。
でも、私たちのクリームは、本当に――。
こんなふうに、油と水が真っ二つに裂けるような壊れ方をするだろうか。
上市へ向かっていた時計は、止まった。
けれど私の中で何か別の時計が、逆方向に回り始めたような気がした。
私と颯真が新プロジェクト推進室のフロアへ足を踏み入れると、血相を変えたキラキラ組のスタッフたちが慌ただしく行き交っていた。
洗練された白木のテーブルも、デザイナーズチェアも、肌を美しく見せる照明も、空間そのものは昼間と何ひとつ変わっていない。
それなのに、そこにいる人間だけが、すっかり別人のように取り乱していた。
急遽呼び戻されたであろうキラキラ組の皆が、青ざめた顔でフロアを走り回っている。
誰かが電話口で社外のステークホルダーに謝り続け、その隣では別の誰かが頭を抱えていた。白木のテーブルには、飲みかけのペットボトルと、印刷した発送リストが無秩序に散らばっている。
キラキラ組のオフィスは今や、香水の匂いだけが場違いに残る、ちょっとした修羅場と化していた。
「これです」
電話をくれた瀬戸さんが、震える手でスマートフォンを差し出してきた。
画面には、美容系インフルエンサーから届いたダイレクトメッセージが表示されている。
『さっきまで真っ白だったのに、水分と油分が完全に分離してるんだけど……』
その下に添付された写真を、指先で拡大する。
透明な小瓶の中で、クリームは二層に分かれていた。
上には、薄く黄色がかった油の層。下には、白く濁った水分の層。境界線は見間違えようもないほど、くっきりとしている。
『ドロドロの液状になってて、肌に乗せるとベタつく。これ、本当にこの間のと同じもの?』
別のメッセージにも、同じような写真が添えられていた。
ガラス瓶の内側を、粘度を失った白い液体が筋になって流れ落ちている。底には、均一に分散していたはずの成分が沈み、半透明の塊を作っていた。
『Blanche』の先行サンプル。私も参加した、あのPRイベントの後、トップクラスの美容系インフルエンサーたちへ配られたものだ。
白い小瓶に、細いリボンを結んだ、純白のクリーム。華やかな照明の下で、誰もが「綺麗」「かわいい」「使うのが楽しみ」と笑っていたアレだ。
その中身が今、無惨に崩壊している。
美しかった乳化状態は見る影もない。アルフレッドは、死んでいた。
「……ここまで」
思わず、声が漏れた。
分離。化粧品の品質不具合として、最も目に見えやすく、最も言い逃れのできない現象だ。容器を開ければ油と水が別々に出てくるクリームなど、商品として成立しない。どれほど豪華な容器に詰め、どれほど美しい広告を作っても、それだけで終わる。
「湊川さん!」
鋭い声とともに、ヒールの音がこちらへ迫ってきた。
黒瀬さんだった。
いつもなら一筋の乱れもなく整えられている巻き髪は、毛先が崩れ、額へ数本が張りついている。完璧なベースメイクの下から血の気が引き、唇だけが不自然なほど赤く見えた。
「どういうことなの!?」
黒瀬さんは、手にしていたスマートフォンを私へ突きつけた。
「どうしてくれるの?! なんで分離なんか起こすのよ! あなたたちのレシピに欠陥があったせいで!」
……は?
この人は、一体何を言っているんだ?
私の呆れた沈黙を、非を認めたとでも受け取ったのだろうか。黒瀬さんの声がさらに一段階跳ね上がる。
「黙ってないでなんとか言いなさいよ! どうするのよ、これ! 相手は何十万、何百万ってフォロワーがいる人たちなのよ!? 明日の朝には動画を撮られて、SNSで大炎上よ! ブランドごと終わるかもしれないのよ! 不良品を作った、あんたたち白組の責任よ!」
――その言葉を聞いた瞬間、私の中で、張り詰めていた何かが、ぷつりと切れた。
「ええ、確かに、私の責任です」
唇を震わせ、俯きながら言った
「そうよ、あなたが――」
「でも、勘違いしないでください」
私は顔を上げ、黒瀬さんの目を真っ直ぐに睨みつけた。
「私が責任を感じているのは、レシピに関してではありません。十分に品質検査をしていない試作品がお客様の手に渡ることを、止められなかったことに対してです」
一歩、距離を詰める。
黒瀬さんが、たじろいで一歩引いた。
「長期安定性試験も、複数条件での加速試験も終わっていないものを配ることの危険性を、私は何度も説明しました。確かにレシピは不十分なものでしたが、当然です。まだお客様に配ることを前提にしてなかったものだから。それを奪って、作って、『先行デモ』として配ったのは、あなたです」
「な、なんですって!」
顔を真っ赤にした黒瀬さんの右手が、鋭く振り上げられた。
――上等だ。殴れ。
私がキリストばりに黒瀬さんに向かって顎を突き出した、その瞬間。
「原因の探索は後にして、まずは今、起きている問題に対応だ」
颯真の声がフロアへ響いた。
静かな声だった。
それなのに、その一言だけで、周囲にいる皆がハッと我に返った。
「被害の拡大を防ぐことを優先した方がいい。湊川。君が指示を出せ」
「私が?」
「この中で、何が起きているかを正しく理解しているのは君だ」
周りを見る。フロアにいる全員が、私を見ていた。
黒瀬さんも、振り上げかけた手を下ろしていた。
頬にはまだ怒りの赤みが残っている。それでも一度大きく息を吸い、乱れた呼吸を整えると、唇を固く結んで私を見た。
「……分かったわ。今は、あなたに任せる」
悔しさを押し殺した声だった。それでも、はっきりとした了承だった。
昼間なら、コピー機の横に置かれた人間型予備トナー。会議へ出れば観葉植物と同じ扱いをされる、場違いなすっぴん白衣。その私を今、キラキラ組のスタッフたちが、縋るような目で見ている。
みんな何をすればいいのか分からない。市場不具合が起きるたびにお祭り騒ぎになる研究開発部署(白組)と違って、新プロジェクト推進室は製品の不具合対応の経験がないからだ。
「分かりました。今から順番に対処します。まず、連絡が入った時刻、相手の名前、メッセージの原文、添付された写真を、すべて保存してください。返信した内容も含めて、一件ごとに記録を残します。メッセージは絶対に削除しないでください」
止まっていたスタッフたちの手が、一斉に動き始める。
「それから、不具合が起きたサンプルのロットを特定します」
「でも……」
黒瀬さんが、青ざめたまま私を見た。
「製造管理ラベルは、もうないわよ」
先行サンプルの小瓶には本来、製造日や充填ライン、ロットを識別するための、小さな管理ラベルが貼られていた。
だが、あの会議で黒瀬さんは言った。試作品っぽくて、かわいくない。ブランドの世界観に合わない。全部、剥がして、と。
「製造管理ラベルは、こういう不具合が起きたときに原因を特定し、影響範囲を絞るためのカルテなんです。だから剥がしてはいけません」
「で、でも……! 最後はあなたも剥がすことに同意してたじゃない」
「はい同意しました。だから代わりに、リボンを結んだんです」
「あ……」
黒瀬さんが小さく、息を呑んだ。
周囲のスタッフたちも、一斉に顔を見合わせた。
「リボンの色ごとに、製造ロットを分けました。発送先のリストと一緒に、『誰に、何色のリボンを結んだサンプルを送ったか』という対応表を作りましたよね」
若手スタッフの一人が、弾かれたようにパソコンへ向かった。
「ありました!」
「連絡をくださった方の名前と照合してください。リボンの色も確認を」
「はい!」
キーボードを叩く音が、フロア中で一斉に響き始める。
さっきまで恐怖しか生み出していなかった通知音が、今度は情報へ変わっていく。
「一件目の不具合のリボンは、シャンパンゴールドです!」
「二件目もゴールド!」
「こっちの三人も、全員ゴールドです!」
スタッフが次々と声を上げる。
私は散らばっていた発送リストを引き寄せ、シャンパンゴールドの欄を指で追った。
「他の色からは?」
「今のところ、一件もありません!」
「ゴールドのリボンを送った方は、全員、使用中止です。すぐに個別連絡を入れてください。使用せず、容器ごと保管してもらう。こちらから返送用の資材を送り、着払いで回収します。中身を捨てないよう、必ず伝えてください。原因を調べるためには、現物が必要です。回収へ協力してくださった方には、アルカサスの現行スキンケアラインを、フルセットでお送りする旨も添えてください」
「フルセット!?」
「この会社が、現在、責任を持って安全と品質を保証できるものです。それを、正式なお詫びの書面と一緒に送ってください」
「ゴールド以外は、どうしますか?」
「現時点では、一つのロットに限られた不具合である可能性が高いです。だから、今すぐ全品を回収する必要はありません。ただし、輸送時の温度変化などで同じ現象が起きる可能性は否定できません」
私は言葉を切り、全員の顔を見渡した。
「異常があれば、絶対に使用しない。問題がなくても、こちらから連絡があるまでは保管してもらう。状況を隠さず、正確に伝えてください。それから、約束を」
「約束?」
「いつになるかは、今は言えません。でも、きちんと品質を確認した本物の完成品ができたときには、必ず真っ先にお届けします、と一筆加えてください」
失敗したものを、失敗していないように見せる必要はない。正確に説明し、謝り、回収し、次は正しいものを届ける。化粧品を愛している人たちなら、きっとその違いを分かってくれる。
「隠さず、誠実に対応してください。彼女たちもプロです。こちらが事実と向き合えば、面白半分に騒ぎ立てたりはしません」
「でも……。もし健康被害が出たら……! もう肌に塗ってしまった人もいるのよ」
黒瀬さんが唇を震わせた。
「今回起きているのは、乳化状態の崩壊です。成分が突然、別の毒性物質へ変わったわけではありません。今の写真と報告内容だけを見る限り、赤みや腫れを引き起こす変質は確認されていない」
ただし――と、続ける。
「均一性が壊れた以上、使用を続けていいものではありません。塗った方には、念のため洗い流してもらう。違和感が出た場合はすぐに使用を中止し、必要なら医療機関へ相談してもらう。その窓口も、こちらで用意してください」
「分かったわ」
黒瀬さんが、小さく息を吐いた。
それから、乱れた髪を耳へかけ、顔を上げる。
「湊川さんの言うとおりにして。ゴールドの送付先を最優先で洗い出して! 連絡担当と回収手配を分けるわよ。お詫びの現行品は、在庫管理へすぐ確認して!」
「はい!」
スタッフたちが、電話とメールへ向かう。
怒号と悲鳴しかなかったフロアに、秩序が戻り始めていた。
私はその様子を見ながら、颯真に近づいた。
「さっきは、ありがと。ちょっと頭に血が上っていた」
「気にするな。喧嘩を止めるのも役目だ」
颯真は真顔のまま言った。
「へっ? なんの?」
「君のいうところの……オカンの」
「自覚あったんだ!」
喧噪の続く深夜のキラキラ組のオフィス。
あわただしくみんなが走り回っている最中――。
私は思わず笑ってしまった。
* * *
翌日の役員会議。
本来なら、玄蕃専務から課された問いに私が答え、それを不十分と退けられ、予定どおり『Blanche』の上市が決定されるはずの場――だった。
しかし、状況は変わった。
昨夜、先行配布したサンプルに分離不具合が発生した。その一報は、すでに出席する役員全員へ伝わっている。
社内政治の天秤が大きく揺れたことを。この場にいる誰もが、それを理解していた。
その末席に、私は技術参考人として座っていた。
隣には颯真。
お互い、昨夜から一睡もしていないはずなのに、彼の黒いスーツには皺一つなく、白い横顔もいつもどおり研ぎ澄まされている。コンシーラーでも隠しきれない疲労を両目の下に飼っている私とは違う。
「昨夜の件については、すでに初期対応が完了している」
上座の玄蕃が、資料をめくりながら言った。
「不具合は特定の一ロットに限定され、対象者への連絡と回収も進んでいる。健康被害の報告もない。製造条件を修正して作り直せば済む話だ。上市を遅らせるほどの問題ではない」
「初期対応で済む問題ならそうかもしれませんが」
隣で、颯真が立ち上がった。
「今回は、少量のサンプルだったから被害は最小限ですみましたが、もし市場化していたらこの比ではありません。こちらをご覧ください」
颯真は画面に投影された資料を指し示す。
『先行配布品の不具合と新評価プロトコルの関連解析』
それは千夏が、私たちの不具合対応と並行して徹夜で作り上げたレポートだった。
不具合の発生したゴールドのリボンの色から、管理番号と製造釜を逆引き。メスキータ社から当該ロットの生ログを取り寄せて、不具合の出ていないロットの条件と比較した。
「不具合の報告のあったロットは、作成時の釜内温度が約一度高く、途中から攪拌負荷も低下している」
颯真が、玄蕃専務を見る。
「しかしながら、このロットも新しい品質検査プロトコルでは許容範囲内だ」
役員たちの表情が固まる。
「つまり、指示どおりに製造された不具合品が、指示された判定を通過することになる」
モニターに、二層へ分離したクリームが映し出される。
「従来どおり、量産検証、高温保存、温度サイクル、長期安定性試験を行っていれば、配布前に検出できた可能性が極めて高い」
颯真の瞳が、玄蕃を射抜いた。
「昨晩の品質問題が示しているのは、新しい品質管理プロトコルに欠陥があるということ、ではありませんか? 叔父上」
颯真は玄蕃を追いつめていた。
颯真は、ずっと慎重だった。私への接触も、情報の提供も、ものすごく慎重に動いていた。私はそれを、日和見だと思っていたけれど、違った。
彼は決定的な証拠が集まる時を、ずっと待っていたのだ。
そして今、創業家の人間として、叔父を正面から斬りにいっている。
「だ、だが!」
玄蕃の顔が、怒りと焦りでどす黒く染まっていた。
上座の机を両手で強く叩き、立ち上がりかける。
「元になった白組のレシピが不完全だったのも事実だ! 処方そのものに欠陥があったなら、評価方法だけの責任では――」
「研究開発室のレシピは、まだ研究途中です。安定性試験も終わっていなかった」
颯真は冷徹な声で事実だけを突きつける。
「研究開発室を凍結し、その未完成のレシピを外部企業へ渡し、開発業務を委託すると決定したのは、あなただ。そして、担当者が現物を使わない品質試験の危険性を訴えても、その意見を軽視した。それは、ここにいる役員全員が見ていることです」
颯真の言葉に、テーブルを囲む役員たちが次々と目を伏せる。彼らもまた、利益を優先して玄蕃の強引な進行に賛同した共犯者だからだ。
「未完成のレシピを奪い、完成品として扱い、必要な試験をすべて省いた。その責任を、元のレシピへすり替えることには同意できません」
「……っ」
玄蕃の喉から、声にならない呻きが漏れた。
彼は助けを求めるように周囲を見渡したが、彼と目を合わせようとする者は一人もいなかった。
誰も反論できないのだ。モニターに映った二層に分かれた無惨なクリームが、言い逃れのできない現実を突きつけている。
重苦しく、痛いほどの沈黙が続いた。
やがて、その空気に耐えかねたように、議長が重い口を開く。
「……では、座間颯真氏から提案のあった二つの議案について、採決に移ります」
各席のタブレットへ、二つの議案が表示された。
『Blanche上市計画の無期限延期』
『新評価プロトコルの再検証』
議長が採決の開始を告げる。
手元のボタンが押されるたび、正面の大型モニターへ『賛成』を示す緑色のランプが点灯していく。
一票。また、一票。それは私に突きつけられていた刃が、一本ずつ折られていく光のように見えた。
逃げ場を塞がれるように握られていた私たちの生殺与奪を決める一週間。そのタイムリミットが、モニターの端から端までを埋め尽くしていく『賛成』の光によって、音もなく溶けて消えていった。
「――採決の結果を申し上げます」
議長の硬い声が響いた。
長大なマホガニーのテーブルを囲む役員たちの視線が、タブレットに集まる。
「『Blanche』の上市計画は、正式に延期といたします。また、新評価プロトコルについても、その妥当性を一から再検証するものとします。なお、本議案の可決をもって、湊川主任へ課されていた一週間以内の安全性証明についても撤回します」
決定を告げる電子音が、各席のタブレットから短く鳴った。
その瞬間――玄蕃は、何も言わなかった。採決結果が映し出されたモニターを見上げたまま、微動だにしない。けれど、固く引き結ばれた口元だけが、わずかに歪むのだけが見てとれた。
その半歩後ろで、黒瀬さんはタブレットに表示された『延期』の二文字を見つめていた。
やがて、完璧に整えられていた肩が、ほんのわずかに落ちた。
止まった。
――止めた。私たちは、止めたのだ。
利益と速度だけを燃料に、半年後の全国発売へ向かって暴走していた巨大な時計。その針が、今、ようやく止まった。
たまらず隣を見ると、颯真も同じタイミングでこちらを見た。
普段なら検出限界以下しか動かない黒の瞳に、何かをやり遂げたような光が宿っている気がした。
颯真が、ゆっくりと一度だけ頷く。私も深く頷き返すと、全身から一気に力が抜けた。
大きく息を吐き、私はふと、手元の資料へ視線を落とした。そこには、不具合を起こしたサンプルの写真があった。
本来なら、純白の雪のように滑らかであるはずのクリーム。それが油分と水分に分かれ、くっきりと二層になっている。
これが沢山のお客様に渡らなくてよかった……。
胸を満たしていたのは、間に合ったという安堵。
なのに――。
写真を見た瞬間、胸の奥へ冷たい小石のような違和感を、私は覚えた。
分離したクリーム……。
たしかに、私たちが五年かけて育ててきたアルフレッドは、筋金入りのわからずやだ。温度が少しずれれば拗ねるし、攪拌速度を間違えれば、すぐに機嫌を損ねる。
颯真に渡されたあの完璧なクリームと比べれば、私たちの最終試作は不器用で、微細なざらつきだって残っている。
でも、私たちのクリームは、本当に――。
こんなふうに、油と水が真っ二つに裂けるような壊れ方をするだろうか。
上市へ向かっていた時計は、止まった。
けれど私の中で何か別の時計が、逆方向に回り始めたような気がした。

