私が最初に取りかかったのは、白組の最終試作と、問題の純白サンプルの『壊れ方』を比べることだった。
完成した状態が似ているなら、負荷をかければいい。生まれ方が違うものは、壊れるときに本性を見せる。
「温度、四十度。攪拌速度、毎分三千回転。開始します」
二つのビーカーを並べ、同時に攪拌を始める。
透明な容器の中で、純白のクリームが渦を巻く。
白組の試作は、せん断力が加わるにつれて、わずかに光沢を失った。アルフレッドの中空構造が一部崩れ、光の散乱状態が変わったのだ。
ところが、もう一方は――白いまま。
不気味なほど、何も変わらない。
「強い……」
思わず、顔を寄せる。
「白組の子は、もう目を回してる。なのに、こっちは平然としてる。何、この子。三半規管どうなってるの」
「クリームに三半規管はないよ」
三台のパソコンの向こうから、千夏が訂正した。
「分かってるよ。ただの比喩だって」
「由芽の場合、本気で話しかけてる可能性があるから」
攪拌を止め、二つの試料をすぐに粒径測定装置へかける。
やがて、画面に、二本の分布曲線が現れる。
「出た……」
白組の試作は、ピークが広がっていた。
問題のサンプルは、ほぼ動いていない。
「やっぱり、何かで守られてる。アルフレッドの外か中に、別の構造がある……?」
胸が高鳴った。
だが、すぐに千夏の冷静な声が飛んでくる。
「それで、別処方によるものだと、断言できる?」
「…………」
私は画面を見つめ直した。
そうなのだ。
実はできない。
製造規模が変われば、粒子へ加わるせん断履歴も変わる。分散状態が改善され、見かけ上の耐久性が上がった可能性は残る。
「……まだ、無理」
「だよねえ」
「うん」
落ち込んでいる暇はない。
温度を上げたり、下げたり。凍らせたり、溶かしたり。
その上で遠心分離機へかけたりする。
何をやっても違いは出る。確かに出る。
だが、そのたびに『製造誤差』『原料ロット差』『製造スケール違いの影響』という三人組が現れ、決定打の前へ厚かましく立ち塞がるのだ。
この三人組、顔もないくせに強すぎる。
やっぱり、違いよりも、違いが出る理由を明らかにしないと。そうしないと、別物であることを証明することはできそうにない。
* * *
次の会議まで残り、四日。
地下ラボは、完全に戦場と化していた。
ホワイトボードは、私の化学式と、千夏の数式と、颯真の会議用の矢印で三つ巴になっている。
実験台には、条件ごとに番号を振ったサンプル容器。床には、印刷した論文の束。休憩室の床には寝袋。なぜかその横には、千夏が持ち込んだサメ型の抱き枕。
「有給休暇を快適に過ごすための必需品」らしい。
でも嘘なのだ。
この四十八時間、彼女がそのサメに抱きつけた時間は、合計二十三分しかない。
「この係数……どうして、ここだけ固定してるわけ」
千夏の独り言と一緒に、カタカタカタカタ、と、狂ったようなタイピング音が響いている。彼女がラボに持ち込んだ三つの画面には、何万行もの数値と、複雑な三次元グラフが目まぐるしく切り替わっていた。
「温度依存項を動かすと、三十七度付近でモデルが不安定になる。だから、実測値のある三十五度までで丸めてる……?」
千夏の指が止まる。
私も、粘度計から顔を上げた。
「それ、穴にならない?」
「どうかなあ」
千夏は別の画面で論文を開き、目にも留まらぬ速さでページを送る。
「類似素材を使った海外の研究も、評価上限は三十五度。引用元と条件は揃ってる。皮膚表面温度として不自然とも言い切れない」
「でも、真夏の屋外や、運動後なら?」
「そこは突ける。でも『想定使用環境として頻度が低い』と反論されたら、上市を止めるほどの穴にはならない。実験だって網羅はしてないもんね」
「くうう……!」
私は悔し気な声を上げる。
千夏の方も針の穴は見えている。けれど、そこへ剣を通した瞬間、『許容範囲』という蓋が閉じるのだ。
「他にも粒子の表面硬度を、実測せずに母材のポリマー特性から推定してる、というのもあるんだけどねえ」
「ダメなの?」
「代替推定は国際的なガイドラインの範囲内。推定式の決定係数も高い。これ単独じゃ弱いんだよねえ」
「またしても許容範囲?」
思わず手にしていたスパチュラを床へ投げたくなる。
許容範囲やら、推定可能、既知見から問題なし、とか、資料に書かれている言葉は、どれも穏やかで理知的だ。優秀などこぞの技術コンサルにでも書かせたのだろう。
「やっぱり一筋縄ではいかないよ、由芽」
千夏が、疲れた声で言う。
「そっちはどうなの?」
「こっちも、まだダメ」
私はモニターに並んだ分析結果を見つめたまま、ゆっくりと首を振った。
数日前から、状況は一ミリも動いていない。
いや、数日前どころではない。颯真のラボを使い始めたあの夜から、ずっと同じ場所をぐるぐる回り続けている気さえする。
目の前には、あれほど完璧なクリームがある。
白組のレシピだって、隅々まで頭に入っている。
それなのに。
二つを隔てる、たったひとつの違いを、私はどうしても見つけられずにいた。
* * *
深夜一時十二分。
千夏が壁掛け時計を見上げた瞬間、首の骨がバキッと鳴った。
「今、私の中の何かが折れた音がした」
「心?」
「たぶん頸椎」
「それは困る。コーヒー淹れてあげようか?」
「なぜそれで頸椎が治ると考えるか分からないが、お願いしようかな」
「オッケー」
軽いノリで答えながら立ち上がる。
自分の脚ではないみたいに、膝がぎこちない。
千夏も眼鏡を外し、両手で顔を覆った。鼻の付け根に、くっきりと赤い跡がついていた。
「由芽、オーダー入ります! ブラック。限界まで濃いやつ」
「それ、もう飲み物じゃなくて覚醒剤寄りだよ」
休憩室で、二人分のコーヒーを淹れる。
マグカップから立ち上る湯気を眺めながら、私たちはパイプ椅子へ深く沈み込んだ。
苦味が、麻痺しかけた脳を内側から叩く。
昔も、こんなふうに何度も徹夜した。白組のラボで、蘭子さんに叱られながら。
けれど、あの頃の徹夜は、今とは違った。新しいものが生まれる直前の熱が、疲れを忘れさせてくれた。今は、生み出したものを奪われないために、泥沼の防衛戦をしている。
同じ白衣。同じコーヒー。同じ千夏。
なのに、こんなにも息苦しい。
「……蘭子さんから、連絡あった?」
マグカップへ視線を落としたまま、千夏が聞いてきた。
「うん」
「なんて答えた?」
「保留にした」
「そっか。私も」
顔を上げる。
「千夏はなんて誘われた?」
「お給料二割増し。分析チームの立ち上げから任せるって」
「いいじゃん。どうしてすぐ受けなかったの?」
「たぶん、由芽と同じ理由だよ」
千夏はマグカップを両手で包み、私を見た。
「研究に戻りたいけど、やっぱりそれは、あの研究棟の地下のラボがいい」
「……」
「白組のみんなであの場所に戻って、蘭子さんに怒鳴られながら、また実験を繰り返したいんだよね」
「うん、そう。私もそう」
口にした途端、記憶の中の地下ラボに、ぱっと明かりが灯る。
絶え間なく響く分析機器の駆動音。エタノールとコーヒーの入り交じった匂い。サンプル瓶で埋め尽くされた実験台。誰かの笑い声と、その全部を吹き飛ばす蘭子さんの怒鳴り声。
忙しくて、眠くて、毎日のように叱られていた。
それなのに、今になって思い出すと、あの場所にいた私たちは、どうしようもないくらい楽しそうだった。
ふと、千夏の目の下に浮かぶ薄い隈が目に入った。
千夏も同じように私の顔を見て、わずかに口元を緩める。
「もし、今ここに蘭子さんがいたら、二人とも怒られているね。無計画にやっているから、徹夜なんかすることになるんだって」
「そのあと、高い栄養ドリンクを机に叩きつけてくる」
「そうそう。『肌荒れるわよ!』って怒鳴りながら」
二人で、少しだけ笑った。
けれど、笑い声はすぐに途切れた。
白組が復活しても。
あの地下ラボへ戻れても。
そこに、蘭子さんはいない。
たぶん、千夏も同じことを考えていた。けれど、どちらも口にはしなかった。
今はまだ、それを言葉にしてしまうと、前へ進めなくなりそうだった。
千夏がマグカップに残ったコーヒーを飲み干す。
私も、椅子から立ち上がった。
「……戻ろうか」
「うん」
休憩は、七分で終わった。
* * *
残り、二日。
限界ぎりぎりの生活で、唯一、私たちを人間の側へ引き戻したのは、颯真の差し入れだった。
「夕食だ」
その夜、彼は三段重ねの巨大な保温弁当箱を抱えて現れた。
いつもの黒いスーツ。
いつもの無表情。
両手には、明らかに次期社長候補の標準装備ではない大容量弁当箱。
「今日は疲労回復を優先した。豚の生姜焼き、具沢山の豚汁、ほうれん草と胡麻の白和え。米は一人二百グラムだ」
「待ってました!」
私は、ほとんど反射で立ち上がった。
「食べる前に手を洗え」
「はい!」
「九条もだ」
「私も管理対象なんだ」
「この地下にいる人間が食中毒を起こせば、全員の作業が止まる」
休憩室のテーブルへ、次々と料理が広げられていく。
照りのある生姜焼き。大きめに切られた大根、人参、里芋、ごぼうが沈む豚汁。艶のある炊きたての白米。
エタノールと微かなオゾンの匂いに支配されていた地下へ、出汁と生姜と醤油の香りが、圧倒的な物量で侵攻してくる。
私の胃が、研究中とは思えない大音量で鳴った。
「由芽、今、お腹が返事したよ」
「生体反応でござい」
「三日前から、まともに食べてない人間の反応だ」
目の前へ豚汁が置かれた。
一口飲む。
「……生き返る」
昆布と鰹の出汁が、空洞になっていた体の隅々まで流れ込んでいく。
千夏も一口啜り、丸眼鏡の奥で目を見開いた。
「何これ。おいしすぎる。座馬さん、これ本当に全部、自分で作ったんですか?」
「ああ」
「吸血鬼なのに、小料理店をやれるほど料理が上手って本当なんだ」
「九条。誰から、その情報を?」
「そりゃあ」
二人の視線が、同時にこちらへ移る。
私は生姜焼きを口いっぱいに頬張り、会話不能を装った。
颯真は鼻を鳴らすと、資料の束を持ち直した。
「俺は上で、明日の面談資料をまとめる。食べ終わったら、最低でも四時間は寝ろ」
「四時間も!」
「由芽。今の発言が異常だと自覚した方がいい」
そう言い残し、颯真は休憩室を出て行った。
扉が閉まるってから三秒。
千夏が、トンッと肘で私の脇腹をつついた。
「ねえ、由芽」
「何」
「あんた、ザマスとつきあってんの?」
「ぶふっ!」
危うく、豚汁で鼻の奥を洗浄するところだった。
慌ててティッシュで口元を押さえる。
「変なこと、言わんといてください!」
「どこの方言だよ。でも、あんた、完全に胃袋、掴まれてるじゃん」
「それは否定できないが!」
「栄養状態から睡眠時間まで管理されてるし……。もしかして、血、吸われちゃった?」
「吸われてない、吸われてない」
私はパタパタと手を振る。
「違う違う。あれはねえ、オカンなのよ」
「オカン?」
「そう。口うるさいオカン。ザマスはザマスでも、スネちゃまとか言ってる方だった」
「へえ。それだけ?」
「うん、それだけ。胃袋は掴まれた。でも血は吸われてない」
「ふーん」
千夏は意味ありげに目を細めたものの、それ以上は追及せず、豚汁の大根を口へ運んだ。
張り詰め続けていた時間。
千夏とこんなくだらない話をしながら颯真の手料理を食べている間だけは、ほんの少し息ができた。
* * *
タイムリミットの前日の深夜。
会議まで残り、十時間。
地下ラボには、息を吸うだけで肺が重くなるような空気が漂っていた。
一週間分の努力が、机という机を埋め尽くしている。
膨大な測定データ。印刷した何十本もの論文。赤ペンで余白が消えるほど書き込んだ解析結果。そのどれもが、『ここが怪しい』ということは示している……。
けれど、『だから危険だ』『だから白組の完成処方そのものではない』と、玄蕃の求める『確かな根拠』には届いていない。
「……ごめん」
ふいに、千夏が、かすれた声で言った。
充血した目で画面を見たまま、指だけが力なくキーボードを離れる。
「ダメだった」
「千夏……」
「予測モデルのズレは、七か所。未実測のまま代替推定した物性値は、三つ。想定使用環境から落ちてる条件も見つけた」
いつも元気な千夏の声が、今は一週間分の疲労で震えていた。
「でも、全部、既存論文か国際的な評価手順の許容範囲内。条件設定にも手続き上の瑕疵はない。『より慎重な追加試験が望ましい』とは言える。でも、『上市を止めなければならない致命的な欠陥』とまでは言えない」
千夏の両手が、膝の上で拳になる。
「紙の上だけなら、本当に、きれいなんだよ。このプロトコル」
「そう……。そっか」
そう言った私の声も、ひどく弱かった。
「私の方も……ダメそう」
実験ノートを握りしめる。
最大の根拠になりそうな違いに絞るところまでは来た。
温度サイクル後の分離傾向と表面硬度の違いを示唆する摩擦係数。
すべての物性の違いの原因が、この二つに集約できるところまでは分かってきた。
欲しかったものは、目の前まで来ている気がする。
物性値が違う理由が何なのか。薄い膜一枚を隔てた向こうに、答えの輪郭まで見えている気さえする。
なのに、破れない。
「純白サンプルの方が、何か硬い構造で守られてる可能性は高い。白組とは違う方法で、アルフレッドを安定させる技術が使われている。でも、その『何か』を同定できない」
時間も比較用の対照データも足りないけれど、一番足りてないのは、私自身のアイディアだ。見えない技術を特定する発想力が不足している。
違うと感じたのは、私だ。
蘭子さんの無実を信じたのも、私だ。
なのに、その直感を、私はどうしても具体的な根拠につなげられない。
あと一歩。あと一つ、何かがあれば。
けれど、壁の時計の秒針は、私たちの事情など知らない顔で進み続けている。
ラボの入り口で腕を組んでいた颯真が、ゆっくりと口を開いた。
「つまり、玄蕃の主張の正当性の盾は、明日までに砕けそうにない、ということだな」
「颯真……ごめん」
彼に向かって私はゆっくりと頷いた。
「謝罪は不要だ」
表情を変えず颯真は首を振った。
「君たちは一週間、限界を超える仕事をしたのは明らかだ。届かなかったのは、それ以上に証明する内容が難しかったということだろう」
静かな声だった。私たちを慰めるための優しい嘘ではなく、心からそう思っているように聞こえた
でも、そのせいで、余計に苦しい。
「証拠がない以上、明日の会議で俺が政治的に動いても、玄蕃は押し切るだろう。しかし、それでも俺は、最後まで足掻くつもりだ」
低い声が、静まり返ったラボへ落ちる。
「会議では、九条が作成した資料を拠り所に、市場テストと安全性評価が不十分であるとして、上市延期を提案する。また、流出したとされるサンプルが白組のレシピによるものでないことも、改めて主張する。否決された場合に備え、議事録へ正式な反対意見も残す。品質保証部門にも、再度判断を求める」
「それで勝てる……?」
「勝算は、限りなく低い」
颯真は、険しい顔のまま頷いた。
「だが、ゼロではない限り、やる」
その言葉は、力強かった。
けれど、私には分かってしまったのだ。
颯真は、勝てると信じているから戦うのではない。
一週間、必死で走り続けた私たちの努力を、ここで無駄にしないために、最後まで戦おうとしているのだ。
勝算があるからではなく、私たちのために……。
そう思った時、胸の奥で、最後まですがっていた何かが静かに折れた。
――つまり、私たちは負けたのだ。
このまま『Blanche』の上市は承認され、半年後には発売される。
これまで私たちが守ってきた品質保証の基準では、安全だと断言できない製品が売り場へ並ぶ。そして毎朝、何も知らない誰かの肌へ塗られる。
そのとき私たちにできるのは、何も起きないことを、ただ祈ることだけだ。
そして、私と颯真は会社を追われる。
「千夏」
私は、親友の前へ立った。
「本当に、ありがとう。私のわがままに巻き込んで、ごめん。それでも来てくれて、七日間、ずっと一緒に戦ってくれて……本当に、ありがとう」
「由芽……」
それから、颯真へ向き直った。
「颯真も。私たちが戦える七日間を作ってくれて、最後まで諦めずにいてくれて……ありがとう」
口にするたび、これで終わりなのだと認めているようで、喉の奥が痛んだ。
それでも、言わなければならなかった。
私は二人に向かって、深く頭を下げた。
その時だった――。
白衣の胸ポケットの中で、何かが震えた。
――ブルルルルル。
深夜の静寂を引き裂く、異様に大きな振動音。
三人とも、同時に動きを止めた。
私は慌ててポケットへ手を突っ込み、スマートフォンを取り出す。
画面に表示されていたのは――新プロジェクト推進室の瀬戸さんの名前だった。
深夜のこんな時間に、キラキラ組から電話?
嫌な予感がしながら、私は通話ボタンを押す。
「はい、湊川です」
『湊川さん……!』
瀬戸さんの声は、聞いたことがないほど震えていた。
電話の向こうで、何人もの声が飛び交っている。
『責任者へ連絡した?』
『投稿はまだ消させないで、記録を――』
『救急相談には、もう――』
慌ただしい音に荒い呼吸。
ただ事ではない。
「何があったんですか」
『先行配布した、プロモーション用のサンプル……』
ドキリとする。電話を持つ指が冷たくなる。
『インフルエンサーの人から連絡が来て……』
「連絡?」
『最初は、一人だったの。でも、二人目、三人目って増えて……!』
千夏が椅子を蹴るように立ち上がった。
颯真も、こちらへ一歩近づく。
私は、無意識にスピーカーへ切り替えていた。
「何が起きたんですか」
『……届いたサンプル』
ラボの空気が、凍りついた。
『配布したサンプルから不具合が。塗ったらなんか変だったって。瓶を見たら、分離してたって』
「!」
その瞬間、私の頭をハンマーで殴られたような衝撃が走った。
「ふ、不具合?!」
そう。
現実が。
先に証明してしまったのだ。
私たちの仮説を。
千夏が、一週間、徹夜しても証明できなかったことを。
配布したサンプルで不具合を出すという、絶対にやってはいけない、最悪の形で!
完成した状態が似ているなら、負荷をかければいい。生まれ方が違うものは、壊れるときに本性を見せる。
「温度、四十度。攪拌速度、毎分三千回転。開始します」
二つのビーカーを並べ、同時に攪拌を始める。
透明な容器の中で、純白のクリームが渦を巻く。
白組の試作は、せん断力が加わるにつれて、わずかに光沢を失った。アルフレッドの中空構造が一部崩れ、光の散乱状態が変わったのだ。
ところが、もう一方は――白いまま。
不気味なほど、何も変わらない。
「強い……」
思わず、顔を寄せる。
「白組の子は、もう目を回してる。なのに、こっちは平然としてる。何、この子。三半規管どうなってるの」
「クリームに三半規管はないよ」
三台のパソコンの向こうから、千夏が訂正した。
「分かってるよ。ただの比喩だって」
「由芽の場合、本気で話しかけてる可能性があるから」
攪拌を止め、二つの試料をすぐに粒径測定装置へかける。
やがて、画面に、二本の分布曲線が現れる。
「出た……」
白組の試作は、ピークが広がっていた。
問題のサンプルは、ほぼ動いていない。
「やっぱり、何かで守られてる。アルフレッドの外か中に、別の構造がある……?」
胸が高鳴った。
だが、すぐに千夏の冷静な声が飛んでくる。
「それで、別処方によるものだと、断言できる?」
「…………」
私は画面を見つめ直した。
そうなのだ。
実はできない。
製造規模が変われば、粒子へ加わるせん断履歴も変わる。分散状態が改善され、見かけ上の耐久性が上がった可能性は残る。
「……まだ、無理」
「だよねえ」
「うん」
落ち込んでいる暇はない。
温度を上げたり、下げたり。凍らせたり、溶かしたり。
その上で遠心分離機へかけたりする。
何をやっても違いは出る。確かに出る。
だが、そのたびに『製造誤差』『原料ロット差』『製造スケール違いの影響』という三人組が現れ、決定打の前へ厚かましく立ち塞がるのだ。
この三人組、顔もないくせに強すぎる。
やっぱり、違いよりも、違いが出る理由を明らかにしないと。そうしないと、別物であることを証明することはできそうにない。
* * *
次の会議まで残り、四日。
地下ラボは、完全に戦場と化していた。
ホワイトボードは、私の化学式と、千夏の数式と、颯真の会議用の矢印で三つ巴になっている。
実験台には、条件ごとに番号を振ったサンプル容器。床には、印刷した論文の束。休憩室の床には寝袋。なぜかその横には、千夏が持ち込んだサメ型の抱き枕。
「有給休暇を快適に過ごすための必需品」らしい。
でも嘘なのだ。
この四十八時間、彼女がそのサメに抱きつけた時間は、合計二十三分しかない。
「この係数……どうして、ここだけ固定してるわけ」
千夏の独り言と一緒に、カタカタカタカタ、と、狂ったようなタイピング音が響いている。彼女がラボに持ち込んだ三つの画面には、何万行もの数値と、複雑な三次元グラフが目まぐるしく切り替わっていた。
「温度依存項を動かすと、三十七度付近でモデルが不安定になる。だから、実測値のある三十五度までで丸めてる……?」
千夏の指が止まる。
私も、粘度計から顔を上げた。
「それ、穴にならない?」
「どうかなあ」
千夏は別の画面で論文を開き、目にも留まらぬ速さでページを送る。
「類似素材を使った海外の研究も、評価上限は三十五度。引用元と条件は揃ってる。皮膚表面温度として不自然とも言い切れない」
「でも、真夏の屋外や、運動後なら?」
「そこは突ける。でも『想定使用環境として頻度が低い』と反論されたら、上市を止めるほどの穴にはならない。実験だって網羅はしてないもんね」
「くうう……!」
私は悔し気な声を上げる。
千夏の方も針の穴は見えている。けれど、そこへ剣を通した瞬間、『許容範囲』という蓋が閉じるのだ。
「他にも粒子の表面硬度を、実測せずに母材のポリマー特性から推定してる、というのもあるんだけどねえ」
「ダメなの?」
「代替推定は国際的なガイドラインの範囲内。推定式の決定係数も高い。これ単独じゃ弱いんだよねえ」
「またしても許容範囲?」
思わず手にしていたスパチュラを床へ投げたくなる。
許容範囲やら、推定可能、既知見から問題なし、とか、資料に書かれている言葉は、どれも穏やかで理知的だ。優秀などこぞの技術コンサルにでも書かせたのだろう。
「やっぱり一筋縄ではいかないよ、由芽」
千夏が、疲れた声で言う。
「そっちはどうなの?」
「こっちも、まだダメ」
私はモニターに並んだ分析結果を見つめたまま、ゆっくりと首を振った。
数日前から、状況は一ミリも動いていない。
いや、数日前どころではない。颯真のラボを使い始めたあの夜から、ずっと同じ場所をぐるぐる回り続けている気さえする。
目の前には、あれほど完璧なクリームがある。
白組のレシピだって、隅々まで頭に入っている。
それなのに。
二つを隔てる、たったひとつの違いを、私はどうしても見つけられずにいた。
* * *
深夜一時十二分。
千夏が壁掛け時計を見上げた瞬間、首の骨がバキッと鳴った。
「今、私の中の何かが折れた音がした」
「心?」
「たぶん頸椎」
「それは困る。コーヒー淹れてあげようか?」
「なぜそれで頸椎が治ると考えるか分からないが、お願いしようかな」
「オッケー」
軽いノリで答えながら立ち上がる。
自分の脚ではないみたいに、膝がぎこちない。
千夏も眼鏡を外し、両手で顔を覆った。鼻の付け根に、くっきりと赤い跡がついていた。
「由芽、オーダー入ります! ブラック。限界まで濃いやつ」
「それ、もう飲み物じゃなくて覚醒剤寄りだよ」
休憩室で、二人分のコーヒーを淹れる。
マグカップから立ち上る湯気を眺めながら、私たちはパイプ椅子へ深く沈み込んだ。
苦味が、麻痺しかけた脳を内側から叩く。
昔も、こんなふうに何度も徹夜した。白組のラボで、蘭子さんに叱られながら。
けれど、あの頃の徹夜は、今とは違った。新しいものが生まれる直前の熱が、疲れを忘れさせてくれた。今は、生み出したものを奪われないために、泥沼の防衛戦をしている。
同じ白衣。同じコーヒー。同じ千夏。
なのに、こんなにも息苦しい。
「……蘭子さんから、連絡あった?」
マグカップへ視線を落としたまま、千夏が聞いてきた。
「うん」
「なんて答えた?」
「保留にした」
「そっか。私も」
顔を上げる。
「千夏はなんて誘われた?」
「お給料二割増し。分析チームの立ち上げから任せるって」
「いいじゃん。どうしてすぐ受けなかったの?」
「たぶん、由芽と同じ理由だよ」
千夏はマグカップを両手で包み、私を見た。
「研究に戻りたいけど、やっぱりそれは、あの研究棟の地下のラボがいい」
「……」
「白組のみんなであの場所に戻って、蘭子さんに怒鳴られながら、また実験を繰り返したいんだよね」
「うん、そう。私もそう」
口にした途端、記憶の中の地下ラボに、ぱっと明かりが灯る。
絶え間なく響く分析機器の駆動音。エタノールとコーヒーの入り交じった匂い。サンプル瓶で埋め尽くされた実験台。誰かの笑い声と、その全部を吹き飛ばす蘭子さんの怒鳴り声。
忙しくて、眠くて、毎日のように叱られていた。
それなのに、今になって思い出すと、あの場所にいた私たちは、どうしようもないくらい楽しそうだった。
ふと、千夏の目の下に浮かぶ薄い隈が目に入った。
千夏も同じように私の顔を見て、わずかに口元を緩める。
「もし、今ここに蘭子さんがいたら、二人とも怒られているね。無計画にやっているから、徹夜なんかすることになるんだって」
「そのあと、高い栄養ドリンクを机に叩きつけてくる」
「そうそう。『肌荒れるわよ!』って怒鳴りながら」
二人で、少しだけ笑った。
けれど、笑い声はすぐに途切れた。
白組が復活しても。
あの地下ラボへ戻れても。
そこに、蘭子さんはいない。
たぶん、千夏も同じことを考えていた。けれど、どちらも口にはしなかった。
今はまだ、それを言葉にしてしまうと、前へ進めなくなりそうだった。
千夏がマグカップに残ったコーヒーを飲み干す。
私も、椅子から立ち上がった。
「……戻ろうか」
「うん」
休憩は、七分で終わった。
* * *
残り、二日。
限界ぎりぎりの生活で、唯一、私たちを人間の側へ引き戻したのは、颯真の差し入れだった。
「夕食だ」
その夜、彼は三段重ねの巨大な保温弁当箱を抱えて現れた。
いつもの黒いスーツ。
いつもの無表情。
両手には、明らかに次期社長候補の標準装備ではない大容量弁当箱。
「今日は疲労回復を優先した。豚の生姜焼き、具沢山の豚汁、ほうれん草と胡麻の白和え。米は一人二百グラムだ」
「待ってました!」
私は、ほとんど反射で立ち上がった。
「食べる前に手を洗え」
「はい!」
「九条もだ」
「私も管理対象なんだ」
「この地下にいる人間が食中毒を起こせば、全員の作業が止まる」
休憩室のテーブルへ、次々と料理が広げられていく。
照りのある生姜焼き。大きめに切られた大根、人参、里芋、ごぼうが沈む豚汁。艶のある炊きたての白米。
エタノールと微かなオゾンの匂いに支配されていた地下へ、出汁と生姜と醤油の香りが、圧倒的な物量で侵攻してくる。
私の胃が、研究中とは思えない大音量で鳴った。
「由芽、今、お腹が返事したよ」
「生体反応でござい」
「三日前から、まともに食べてない人間の反応だ」
目の前へ豚汁が置かれた。
一口飲む。
「……生き返る」
昆布と鰹の出汁が、空洞になっていた体の隅々まで流れ込んでいく。
千夏も一口啜り、丸眼鏡の奥で目を見開いた。
「何これ。おいしすぎる。座馬さん、これ本当に全部、自分で作ったんですか?」
「ああ」
「吸血鬼なのに、小料理店をやれるほど料理が上手って本当なんだ」
「九条。誰から、その情報を?」
「そりゃあ」
二人の視線が、同時にこちらへ移る。
私は生姜焼きを口いっぱいに頬張り、会話不能を装った。
颯真は鼻を鳴らすと、資料の束を持ち直した。
「俺は上で、明日の面談資料をまとめる。食べ終わったら、最低でも四時間は寝ろ」
「四時間も!」
「由芽。今の発言が異常だと自覚した方がいい」
そう言い残し、颯真は休憩室を出て行った。
扉が閉まるってから三秒。
千夏が、トンッと肘で私の脇腹をつついた。
「ねえ、由芽」
「何」
「あんた、ザマスとつきあってんの?」
「ぶふっ!」
危うく、豚汁で鼻の奥を洗浄するところだった。
慌ててティッシュで口元を押さえる。
「変なこと、言わんといてください!」
「どこの方言だよ。でも、あんた、完全に胃袋、掴まれてるじゃん」
「それは否定できないが!」
「栄養状態から睡眠時間まで管理されてるし……。もしかして、血、吸われちゃった?」
「吸われてない、吸われてない」
私はパタパタと手を振る。
「違う違う。あれはねえ、オカンなのよ」
「オカン?」
「そう。口うるさいオカン。ザマスはザマスでも、スネちゃまとか言ってる方だった」
「へえ。それだけ?」
「うん、それだけ。胃袋は掴まれた。でも血は吸われてない」
「ふーん」
千夏は意味ありげに目を細めたものの、それ以上は追及せず、豚汁の大根を口へ運んだ。
張り詰め続けていた時間。
千夏とこんなくだらない話をしながら颯真の手料理を食べている間だけは、ほんの少し息ができた。
* * *
タイムリミットの前日の深夜。
会議まで残り、十時間。
地下ラボには、息を吸うだけで肺が重くなるような空気が漂っていた。
一週間分の努力が、机という机を埋め尽くしている。
膨大な測定データ。印刷した何十本もの論文。赤ペンで余白が消えるほど書き込んだ解析結果。そのどれもが、『ここが怪しい』ということは示している……。
けれど、『だから危険だ』『だから白組の完成処方そのものではない』と、玄蕃の求める『確かな根拠』には届いていない。
「……ごめん」
ふいに、千夏が、かすれた声で言った。
充血した目で画面を見たまま、指だけが力なくキーボードを離れる。
「ダメだった」
「千夏……」
「予測モデルのズレは、七か所。未実測のまま代替推定した物性値は、三つ。想定使用環境から落ちてる条件も見つけた」
いつも元気な千夏の声が、今は一週間分の疲労で震えていた。
「でも、全部、既存論文か国際的な評価手順の許容範囲内。条件設定にも手続き上の瑕疵はない。『より慎重な追加試験が望ましい』とは言える。でも、『上市を止めなければならない致命的な欠陥』とまでは言えない」
千夏の両手が、膝の上で拳になる。
「紙の上だけなら、本当に、きれいなんだよ。このプロトコル」
「そう……。そっか」
そう言った私の声も、ひどく弱かった。
「私の方も……ダメそう」
実験ノートを握りしめる。
最大の根拠になりそうな違いに絞るところまでは来た。
温度サイクル後の分離傾向と表面硬度の違いを示唆する摩擦係数。
すべての物性の違いの原因が、この二つに集約できるところまでは分かってきた。
欲しかったものは、目の前まで来ている気がする。
物性値が違う理由が何なのか。薄い膜一枚を隔てた向こうに、答えの輪郭まで見えている気さえする。
なのに、破れない。
「純白サンプルの方が、何か硬い構造で守られてる可能性は高い。白組とは違う方法で、アルフレッドを安定させる技術が使われている。でも、その『何か』を同定できない」
時間も比較用の対照データも足りないけれど、一番足りてないのは、私自身のアイディアだ。見えない技術を特定する発想力が不足している。
違うと感じたのは、私だ。
蘭子さんの無実を信じたのも、私だ。
なのに、その直感を、私はどうしても具体的な根拠につなげられない。
あと一歩。あと一つ、何かがあれば。
けれど、壁の時計の秒針は、私たちの事情など知らない顔で進み続けている。
ラボの入り口で腕を組んでいた颯真が、ゆっくりと口を開いた。
「つまり、玄蕃の主張の正当性の盾は、明日までに砕けそうにない、ということだな」
「颯真……ごめん」
彼に向かって私はゆっくりと頷いた。
「謝罪は不要だ」
表情を変えず颯真は首を振った。
「君たちは一週間、限界を超える仕事をしたのは明らかだ。届かなかったのは、それ以上に証明する内容が難しかったということだろう」
静かな声だった。私たちを慰めるための優しい嘘ではなく、心からそう思っているように聞こえた
でも、そのせいで、余計に苦しい。
「証拠がない以上、明日の会議で俺が政治的に動いても、玄蕃は押し切るだろう。しかし、それでも俺は、最後まで足掻くつもりだ」
低い声が、静まり返ったラボへ落ちる。
「会議では、九条が作成した資料を拠り所に、市場テストと安全性評価が不十分であるとして、上市延期を提案する。また、流出したとされるサンプルが白組のレシピによるものでないことも、改めて主張する。否決された場合に備え、議事録へ正式な反対意見も残す。品質保証部門にも、再度判断を求める」
「それで勝てる……?」
「勝算は、限りなく低い」
颯真は、険しい顔のまま頷いた。
「だが、ゼロではない限り、やる」
その言葉は、力強かった。
けれど、私には分かってしまったのだ。
颯真は、勝てると信じているから戦うのではない。
一週間、必死で走り続けた私たちの努力を、ここで無駄にしないために、最後まで戦おうとしているのだ。
勝算があるからではなく、私たちのために……。
そう思った時、胸の奥で、最後まですがっていた何かが静かに折れた。
――つまり、私たちは負けたのだ。
このまま『Blanche』の上市は承認され、半年後には発売される。
これまで私たちが守ってきた品質保証の基準では、安全だと断言できない製品が売り場へ並ぶ。そして毎朝、何も知らない誰かの肌へ塗られる。
そのとき私たちにできるのは、何も起きないことを、ただ祈ることだけだ。
そして、私と颯真は会社を追われる。
「千夏」
私は、親友の前へ立った。
「本当に、ありがとう。私のわがままに巻き込んで、ごめん。それでも来てくれて、七日間、ずっと一緒に戦ってくれて……本当に、ありがとう」
「由芽……」
それから、颯真へ向き直った。
「颯真も。私たちが戦える七日間を作ってくれて、最後まで諦めずにいてくれて……ありがとう」
口にするたび、これで終わりなのだと認めているようで、喉の奥が痛んだ。
それでも、言わなければならなかった。
私は二人に向かって、深く頭を下げた。
その時だった――。
白衣の胸ポケットの中で、何かが震えた。
――ブルルルルル。
深夜の静寂を引き裂く、異様に大きな振動音。
三人とも、同時に動きを止めた。
私は慌ててポケットへ手を突っ込み、スマートフォンを取り出す。
画面に表示されていたのは――新プロジェクト推進室の瀬戸さんの名前だった。
深夜のこんな時間に、キラキラ組から電話?
嫌な予感がしながら、私は通話ボタンを押す。
「はい、湊川です」
『湊川さん……!』
瀬戸さんの声は、聞いたことがないほど震えていた。
電話の向こうで、何人もの声が飛び交っている。
『責任者へ連絡した?』
『投稿はまだ消させないで、記録を――』
『救急相談には、もう――』
慌ただしい音に荒い呼吸。
ただ事ではない。
「何があったんですか」
『先行配布した、プロモーション用のサンプル……』
ドキリとする。電話を持つ指が冷たくなる。
『インフルエンサーの人から連絡が来て……』
「連絡?」
『最初は、一人だったの。でも、二人目、三人目って増えて……!』
千夏が椅子を蹴るように立ち上がった。
颯真も、こちらへ一歩近づく。
私は、無意識にスピーカーへ切り替えていた。
「何が起きたんですか」
『……届いたサンプル』
ラボの空気が、凍りついた。
『配布したサンプルから不具合が。塗ったらなんか変だったって。瓶を見たら、分離してたって』
「!」
その瞬間、私の頭をハンマーで殴られたような衝撃が走った。
「ふ、不具合?!」
そう。
現実が。
先に証明してしまったのだ。
私たちの仮説を。
千夏が、一週間、徹夜しても証明できなかったことを。
配布したサンプルで不具合を出すという、絶対にやってはいけない、最悪の形で!

